殺す王、生かす王Ⅰ

箴言14章32節(旧1009頁)           マルコによる福音書6章14-29節(新71頁) 前置き 今日の本文はヘロデの暴政と洗礼者ヨハネの死に関する物語です。ところで、この物語はマルコによる福音書6章の構成に必ずしも必要な話ではありません。「12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」(12,13,30)このように14-29節がなくても話は自然につながります。なのに、なぜマルコによる福音書の著者はわざわざ洗礼者ヨハネとヘロデの話を付け加えたのでしょうか? 6章7節でイエスは12人の弟子たちを呼び寄せ、伝道の旅に送り出されました。その後、弟子たちが戻ってきてイエスに報告し、福音を聞いた数多くの群衆が押し寄せました。主は福音を聞いて寄り集まる貧しい群衆のために五つのパンと二匹の魚をもって5000人を食べさせました。この世に福音を宣べ伝えられるイエスは、真の王として、民を呼び寄せ、仕えてくださる方です。五つのパンと二匹の魚の奇跡は、このようなイエスが真の救い主であり、王であることを示す象徴的なしるしです。本文はヘロデという暴政をしく邪悪な王を、イエスという正しい王に対照させることで、イエスという存在の偉大さを極大化する一種の文学的な装置なのです。私たちはイエスとヘロデという二人の王を通して、イエスがどのような方なのかをより深く悟ることになるでしょう。 1.邪悪な王ヘロデ·アンティパス まずは、本文に登場するヘロデについて探ってみましょう。(別紙参照)ヘロデの家系は非常に複雑です。ヘロデは聖書を読む時に、とても紛らわしい名前です。マタイによる福音書でイエスのご誕生の時にもヘロデが登場していますが、イエスの昇天後の使徒言行録にもヘロデが登場しています。予想しておられると思いますが、彼らは同一人物ではなく、祖父から孫につながる同名異人たちです。つまりヘロデとは王朝の名称なのです。マタイによる福音書でイエスを殺すために幼児殺害を命令したヘロデは、ヘロデ大王と呼ばれる人です。(偉大な王という意味ではなく、区別のための名称)ヘロデ大王はイスラエルの血統ではありませんでした。彼は創世記のイサクの長男エサウの子孫であるエドム(イドマヤ)民族出身で、母側もイスラエルの血統ではありませんでした。ですが、ローマ皇帝との人脈により、異邦人であるにもかかわらずユダヤの王に任命されたわけでした。ヘロデ大王には10人の妻がいましたが、みんな政略結婚でした。今日の本文に登場するヘロデは、彼の4番目の妻マルタケから生まれたヘロデ·アンティパスです。この人は洗礼者ヨハネだけでなく、イエスも処刑した暴君です。洗礼者ヨハネが、このヘロデ·アンティパスと、その妻ヘロディアを叱った理由は、ヘロデ·アンティパスが腹違いの兄弟であるフィリッポスから妻ヘロディアを寝取り、彼女と再婚したからでした。 「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に恵まれることはない。」(レビ記20:21)律法は兄弟の妻を欲しがることを罪に定めています。ところで、なぜヘロデ•アンティパスは彼女を欲しがったのでしょうか? ヘロディアの祖母マリアムネ(Ⅰ)はヘロデ大王の2番目の妻で、ユダヤ族の正統性をつなぐハスモン王族(新旧約中間時代に打ち立てられたダビデ王朝と別の王朝)でした。ユダヤ人はヘロデ家を嫌っていましたが、彼らが異邦出身の王朝だったからです。そこで、ヘロデ•アンティパスは正統性を獲得するために、ユダヤ族出身の王族の女を求め、マリアムネ(Ⅰ)の孫娘であり、異母兄弟の妻であったヘロディアを寝取ったわけでした。そういう非律法的な背景の故に、洗礼者ヨハネはヘロデ•アンティパスとヘロディアを叱ったのです。「そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」(19-20)ヘロデ•アンティパスは残酷な王でしたが、それでも予言者である洗礼者ヨハネだけは恐れていました。しかし、彼を恨んでいた妻ヘロディアの計略により、結局ヨハネを殺してしまいます。世の中はそういうものです。いくら、予言者が主の言葉を述べ伝えても、結局は自分の考え、富と誉のために、その言葉を無視し、軽んじてしまいます。そういうわけで、歴史上、正しい言葉を宣べ伝えた数多くの人々が殉教することで一生を終えなければなりませんでした。 2.「殺す王の世」 ここで驚愕に耐えないことは、ヘロディアの有様です。歴史の記録は、ヘロデ•アンティパスが腹違いの兄弟フィリッポスの妻ヘロディアを寝取ったと記録されていますが、実はヘロディアも元夫よりも権力を持っていたヘロデ•アンティパスの妻として生きることを望んでいたようです。「ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと」(21)ヘロデ大王は権力への執着の故に跡継ぎを定めずに死んだと言われます。そのため、ローマ帝国は彼の死後、イスラエルの地を分割し、彼の息子たちに分け与えて支配させました。ヘロデ•アンティパスは、その中でもガリラヤ地域を支配しましたが、エルサレムのあるユダヤ地域に比べて貧しい地域でした。しかし、ヘロデ•アンティパスはローマ帝国の将校たち(千人隊長、1000人の兵士たちを率いる将校。)や、高官たちと手を組み、自分の欲望を満たすだけに精一杯でした。そのため、貧しい民は後回しにされていたのです。なぜガリラヤの群衆が、イエスを熱狂的に探し、ついて回ったのか、なぜイエスがガリラヤの人たちを中心にお働きになったのかを考えてみれば、ヘロデ•アンティパスがどれほど民を配慮せず、自分の私利私欲だけを満たしまくっていたのかが、すぐに分かってきます。彼の妻ヘロディアも、民への愛はなく、夫との享楽に陥り、罪と義も弁えられない愚かな女だったと思われます。 このようなヘロディアの愚かさは神に遣わされた預言者である洗礼者ヨハネを殺すことで、その極みを示しています。「早速、少女は大急ぎで王のところに行き、今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございますと願った。」(25)神の御言葉を拝聴するより、自分の欲望をもっと追求したヘロディアは娘を通して夫の歓心を買い、その代償として洗礼者ヨハネの死を求めました(22-25)。このようなヘロデ•アンティパスとヘロディア夫婦の仕業を見ることで、当時のガリラヤの民が、どれほど邪悪な指導者に晒されていたのかを推測してみることが出来ます。世の権力者たちは自分の力を保たせるために、いかなる不当なことも平気で犯してしまいます。ヘロデ夫婦は自分の権力のために神の預言者を無残に殺しました。歴史上、そういう場合は数え切れないほど多いです。ローマ皇帝は帝国の維持のために植民地を暴圧で治めました。19世紀、列強の指導者たちは自らの利益のために他国に侵入し、植民地化して略奪しました。アメリカの指導者たちは戦争の勝利のために核兵器を弄んだのでした。このように権力を持つ者は、結局自分の罪の性質によって最悪の結果をもたらしがちです。それが、罪を持っている人間の本性なのです。もし、我々に権力があったらそう変わってしまうかも知れません。キリストの道を備え、神の御言葉を宣べ伝えるために、この世に遣わされた旧約最後の予言者、洗礼者ヨハネは、このような権力者の悪によって殺されたのです。 3.キリストが来られた理由。 「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。そのほかにも、彼はエリヤだと言う人もいれば、昔の預言者のような預言者だと言う人もいた。 ところが、ヘロデはこれを聞いて、わたしが首をはねた、あのヨハネが、生き返ったのだと言った。」(14-16)そのためか、イエスの奇跡の噂は、ヘロデとヘロディアに恐ろしく迫ってきました。自分たちが殺した洗礼者ヨハネが生き返って、神の裁きをもたらすかもしれないと思ったからです。当時のユダヤには「死者の復活」という信仰があったと言われます。イスラエル民族は、数百年にかけて大国に攻められ、滅び、絶えず思い煩い、惨めな植民地生活をし、ヘロデのような邪悪な王の暴政の下で暮らしてきました。このように、この世での苦しみに悩まされた彼らは現世での希望を失い、死後に神が最も理想的な姿で復活させてくださるという復活信仰を信じるようになったのでした。おそらく、その復活に関する話しを聞いたことのあるはずの、ヘロデがイエスのご活躍の噂を聞いて、復活した洗礼者ヨハネと勘違いし、神のお裁きがもたらされるかと恐れたわけでしょう。本当に洗礼者ヨハネが復活したわけではありませんが、ヘロデ•アンティパスがイエスの噂を聞いて感じた恐怖には、ある程度意味があるでしょう。イエスがこの世を裁かれる聖なる審判者であることは間違いなく事実だからです。 洗礼者ヨハネの死は、本当に残念なことでした。正しい人の惨めな死だったからです。しかし、彼の死は、逆説的にもキリストによる新しい世への門を開け放つ記念碑的な出来事でした。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28)邪悪な王ヘロデ夫婦は自分の欲望のために洗礼者ヨハネを殺しましたが、彼の死は旧約を終わらせ、新約を始めさせる有意義な死でした。彼は偉大な預言者でしたが、キリストによって成し遂げられる神の国においては最も小さな者でした。ここでの神の国(御国)とは、キリストに治められる世を意味し(死後の世界だけでなくキリストに治められるすべての物事)、そして、その神の国を生きる者とはイエスを信じ、神の救いを得た主の民を意味します。つまり、新約時代の教会を意味するのです。洗礼者ヨハネは、最も偉大な旧約最後の予言者でしたが、彼はイエスを信じる我々より小さな者と評価されました。キリストが来られた理由は、この世の邪悪な王を裁き、ご自分が世を治める正しい王になられるためです。そして主に治められる新約の民を、旧約の最後の預言者である洗礼者ヨハネよりも、偉大にさせてくださるためです。私たち自らでは自覚できないでしょうが、神は明らかに私たちを洗礼者ヨハネよりも偉大な主の民として認めてくださったというわけです。 締め括り 今日の本文を通して、私たちはこの世がヘロデとヘロディアのような邪悪な権力によって支配されていることを改めて教えてもらいました。そして、正しい人がそのような悪人によって殺される場合があることも考えさせられました。しかし、主キリストは、そのすべての悪人をお裁きになる真の王として、必ずこの世に再び来られるでしょう。いや、主はすでに聖霊によって導かれている教会を通して、この世を生きる民たちと一緒におられます。教会は常にこの世の邪悪な権力を見張り、キリストのお裁きを警告するべき見張り番として、この世に存在する共同体です。世の邪悪な権力とイエスの正しい裁きの間で、私たちの教会はどのような生き方をとって生きるべきでしょうか。戦前、旧日本キリスト教会の先達は帝国主義に屈服し、偶像崇拝を犯して主を裏切ってしまいました。日本のプロテスタント教会に、偶像崇拝反対のための殉教者が一人もいないことは、悲しいことでしょう。しかし、戦後の新日本キリスト教会は過去の過ちを悔い改め、信仰の死守のために徹底して生きています。私たちも生涯を通して、真の王イエスへの信仰を固く守って生きていきましょう。「神に逆らう者は災いのときに退けられる。神に従う人は死のときにも避けどころを得る。」(箴言14:32)今日の旧約の言葉のように、キリストによって死の時にも希望を得る誠実な民になることを心から望みます。