神を冒涜する罪

レビ記24章10-16節(旧201頁) マルコによる福音書3章20-30節(新66頁) 前置き 14世紀から15世紀にかけて、ヨーロッパには100年戦争という、イギリスとフランスとの大きい戦争がありました。その戦争でフランスを救った有名な英雄の中には、私たちがよく知っているジャンヌ・ダルクという女性もいました。しかし彼女は、自分の祖国を救ったにもかかわらず、神聖冒涜という濡れ衣を着せられ、火あぶり刑に処せられました。彼女の罪名は「邪悪な魔女であり、悪魔の声を聞き、王権と教会権を乱す神聖冒涜者」でした。しかし実は、当時フランスの政界と宗教界は彼女を利用して、必要がなくなると自分たちの利益のための生け贄として殺したというわけでした。無実の罪で殺された彼女は1920年に初めて、カトリック教会の聖人と認められ、晴れて無罪の身となりました。残念なのは、歴史上、ジャンヌ・ダルクのように、政治家や宗教家の利益のために、無実にもかかわらず神聖冒涜の罪で処刑されたケースが多かったということです。このように神聖冒涜は特定の集団の利益のために間違って用いられることが非常に多かったのです。人間の罪の性質は、神の神聖ささえも神の栄光ではなく、自分たちの必要のための道具として用いたのです。それでは聖書は、この神聖冒涜について、どのように語っているのでしょうか。果たして真の神聖冒涜とは何でしょうか。今日の新約の本文を通して、聖書が語る真の神聖冒涜について、考えてみましょう。 1.旧約に現われる神聖冒涜の事件。 400年間、エジプトの奴隷であったイスラエルは、神によって救われ、ついにエジプトの奴隷生活から逃れることができました。神は彼らを解放され、シナイ山に導いてくださいました。また、彼らに神の律法である「十戒」を与えられ、神と世を執り成す聖なる国民として打ち立ててくださいました。そういうわけで、イスラエルは自分たちの欲望と利益のために生きる存在ではなく、神の栄光のために生きる聖別された存在としての特権と義務を持つ、神の所有として生まれ変わりました。ここで特別なことは、神様がアブラハムの血統ではなく、神様への信仰を通してイスラエルを選び出してくださったということでした。「イスラエルの人々の間に、イスラエル人を母とし、エジプト人を父に持つ男がいた。」(10)神のお導きにつき従ってエジプトを立ち去った人々の中には、純血のアブラハムの子孫でない人たちもいましたが、その中にエジプト人の父を持つハーフもいたのです。 つまり、神はイスラエルという共同体を民族ではなく、神への信仰の有無で、ご規定なさったということです。 この点を通して、私たちは神が血統ではなく信仰をお測りになり、ご自分の民をお呼びになる方であることが分かります。相手が誰でも神を信じる存在なら、神の御目にはイスラエルであるということでしょう。ところで、ある日、エジプト人の父を持つある男が大きな過ちを犯してしまいました。それは神の御名を冒涜したことでした。「イスラエル人を母に持つこの男が主の御名を口にして冒瀆した。人々は彼をモーセのところに連行した。」(11)父がエジプト人であるにもかかわらず、イスラエルの一員として認められ、神の律法まで受けた彼でしたが、彼は十戒の第三の戒を破って神の御名を口にして冒涜したわけです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト20:7)もちろん、第3の戒に記してある「主の御名をみだりに唱える。」という言葉と、今日の本文の「主の御名を口にして冒涜する。」という言葉の原文は異なる単語でしょうが、広い意味としては第3の戒めに含まれることで、神の存在を否定し、その御心に逆らうことを意味します。結局、彼は神様に呪われ、石で打ち殺されました。このように、旧約時代には、すでに神の民に選ばれた存在さえも、神を冒涜すれば、赦されることが出来ない厳重な時代だったのです。 2.神聖を冒涜した律法学者たち。 ところで、今日の新約本文にも、このように神聖を冒涜する場面が見られます。「エルサレムから下って来た律法学者たちも、あの男はベルゼブルに取りつかれていると言い、また、悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると言っていた。」(22)まさにイスラエルの宗教指導者である律法学者たちが、貧しい民の面倒を見ておられるイエスを悪霊の手下と貶める出来事でした。律法学者たちは旧約聖書を研究し、民に聖書の御言葉を教える先生たちでしたが、聖書の知識とは別に、神様から遣わされたイエスの正体を全く見抜くことができず、イエスを中傷し、むしろ主の御業を否定して、呪いをかけていたのです。律法で常に大事にされている隣人への愛と神への愛を行っておられるイエスの御業を見ても、彼らは自分たちの既得権だけに目が眩み、律法を守りつつ働いておられたイエスを、ベルゼブルという悪魔の手下と貶めたわけです。イエス・キリストは、罪によって神から遠ざかっている罪人たちに悔い改めを促し、その悔い改めを通して神様と和解させてくださるために来られた救い主です。イエスが貧しい民を癒し、御言葉を教え、福音の宣教をしてくださった理由は、罪人を救おうとする神の御意志を成し遂げるためでした。つまり、イエスの御業が、すなわち神の御業だったということです。なのに、イスラエルの律法学者たちは、むしろイエスの御業を悪魔の仕業と扱き下ろすことで、律法で禁じられている神への神聖冒涜を犯してしまったのです。 ここでちょっと、今日の新約本文に登場するベルゼブルとは、どんな存在なのでしょうか? ベルゼブルとは、古代のカナンで崇拝されていた男神であるバアルに由来します。バアルは「支配者、主、王」という意味ですが、長い間カナンの最高の神とされていました。その後、バアルという名称は「高い所の主」という意味の「ベルゼブル」に変わっていたのです。おそらく古代のカナンの人々が雨と雷の神であったバアルを高い所に住む神と信じ、「高い所の主」と呼ぶようになったでしょう。ところで、ユダヤ人は、このベルゼブルをベエルゼブブと変えて呼んだそうです。「ベエルゼブブ」は、ベルゼブルに似た発音ですが、その意味は全く違うものでした。ハエの王をという意味を持っているからです。おそらく、イスラエルの神を真の神だと信じていたユダヤ人が、異教徒の神であったベルゼブルをからかい、「つまらないハエの王」と呼んだことに由来したと思います。しかし、ハエの王という滑稽なあだ名とは別に、ユダヤ人にとってベルゼブルは、あらゆる悪霊を支配する強力な悪魔であり、神の正反対にある邪悪な存在とされていました。このようにイスラエルの神から遣わされたイエスをベルゼブルの手下と考えたというのは、神様の御業を悪魔の仕業と見なしていたことに等しい深刻な問題でした。それだけに、当時のイスラエルの宗教指導者たちは、神の御業と悪魔の仕業も、見分けがつかないほど、霊的に堕落していたのでした。その堕落は、知らないいちに神聖冒涜の罪をもたらしました。 3.神聖冒涜にもかかわらず。 しかし、今日の旧約本文とは異なり、律法学者たちは何の呪いも受けていませんでした。「イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。どうして、サタンがサタンを追い出せよう。サタンが内輪揉めして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」(23、26)むしろ、イエスは律法学者たちに、悪魔が悪魔を追い出すことはなく、そうすれば、むしろ悪魔の力が弱まるだけだと教えてくださいました。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(27)また、イエスは、ご自身がそのベルゼブルのような悪魔たちを縛り上げられる強い方であることを比喩を用いて、教えてくださいました。つまり、イエスは悪魔ではなく、むしろ悪魔を裁く全能者であることを教えてくださったのです。 そして、イエスはご自分のことを貶めるのが、いかに深刻な神聖冒涜なのか、教えてくださいました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)聖霊は人々に、イエスの救いと愛を信じさせてくださる存在です。しかし、律法学者たちは自分たちの罪によって、イエスを信じることができず、むしろ呪いをかけてしまいました。それは聖霊の御業を妨げる神聖冒涜にあたる罪でした。しかし、主は彼らを呪われ、罰されるより、彼らを赦してくださることを望んでおられました。 律法学者たちが神聖を冒涜する罪を犯しましたが、新約本文と旧約本文の間には大きな違いがありました。旧約本文にも新約本文にも神聖冒涜が見つかりますが、旧約のエジプト人の息子は殺され、新約の律法学者たちは生き残りました。それは、なぜでしょうか?  それはイエスの存在によってでした。イエスは呪い、殺すために来られた方ではありません。むしろ救い、生かすために来られた方なのです。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(28、29)今日のこの言葉は、主が律法学者たちに呪いをかけられるように見えますが、この言葉には、もっと深い意味があります。すでに28節で、どんな罪や冒涜の言葉が赦されると言われた主が、29節では、赦せない罪もあると仰るのにはぶつかり合いがあるからです。したがって、29節の言葉は、罪の根本的な原因を赦さないという意味として受け止めるべきだと思います。なので、私は28、29節の言葉を、このようにも読めると思います。「律法学者たちよ、お前たちの罪と冒涜は赦される。しかし、君らを罪に導き、イエスを信じられないようにする悪霊、すなわち聖霊を冒涜する存在たちは必ず裁きを受ける。」 つまり、イエスはご自分を呪い、冒涜した律法学者たちの罪までも赦してくださったということです。そして、その裏面にある、より根本的な悪への裁きをお告げになったのです。これがイエスの存在理由です。罪人を赦され、罪の源をお裁きになることです。 締め括り 新約聖書が語る神聖冒涜とは、「イエスを信じず、拒否すること」です。そういう意味として、我々が生きているこの世は、神聖を冒涜する世界です。日増しにイエスを信じるのが難しい世の中になりつつあります。会社では日曜日に仕事をさせ、学校では日曜日に部活などをさせます。世の中の文化はキリスト教の信仰をつまらないものだと言い募ります。世の風潮は霊的な関心より、肉的な関心により集中させています。結局、イエスを信じにくくしているのです。このような神聖冒涜の世の中で、神はそれでも変わることなくイエスを信じる者を探しておられます。終わりの日、イエス・キリストは、必ずこの神聖を冒涜する世を裁かれるでしょう。そして、この堕落した世界の支配者である悪魔たちをお裁きになるでしょう。また、イエスのもとへ進み、信じ、聞き従う者たちを救われ、報いてくださるでしょう。このような世の中で、我々はどのように生きていくべきでしょうか? ご自分のことを呪い、冒涜した律法学者たちさえ、お赦しくださったイエスを仰ぎ見、より一層、キリストへの堅い信仰を持って生きることを願います。また、本文の律法学者たちのような、世の人々を悔い改めへと導く私たちになることを願います。神聖冒涜の世の中で神聖を尊重し、イエスへの信仰を貫いていく志免教会になることを願います。

啓示をくだされる神さま。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁) マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 前回の創世記の説教では、寄留者を歓待したアブラハムの物語を通じて、聖書が語る「寄留者への持て成し」の真の意味について話してみました。聖書によると、神は時々寄留者の姿で、我々の前に現れる方であり、その寄留者を通じて、我々に御言葉をくださる方でいらっしゃいました。前回の説教では、その寄留者という存在が、私たちの周りの弱い者や私たちの最も嫌な人である場合もあると話しました。新約聖書マタイによる福音書25章でイエス様は、このように仰せになりました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」私たちが本当に主を愛し、信じる人なら、私たちは、どのような姿で現れるか分からない主への歓待のために常に備えて生きなければなりません。そして、その備えとは、私たちの隣人に対する愛と嫌な人への赦しから、初めて証明されるものです。正しい人アブラハムが前回の本文を通じて見せた寄留者への歓待は、まさにこのような成熟した信仰を表すものです。自分より他人を優れた者とする信仰、他人を赦し、愛する信仰、そういう寄留者を歓待する成熟した信仰を通して、神はアブラハムを祝福してくださったように、ご自分の民を祝福してくださるでしょう。 1. 祝福の啓示をくだされる神様。 アブラハムが招いた寄留者たち、すなわち神の御使いたちは、アブラハムの持て成しを受けて、ソドムに足を運ぼうとしました。その時、神は御使いたちの口を通じて、アブラハムに言われました。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(17-18)前回の説教で私は、「旧約聖書に登場する神の御使いたちは、神に全権を委ねられた、神に代わる存在である。」とお話ししました。彼らが天使だったのか、人だったのか、聖書からははっきり分かりませんが、神が彼らに主の御言葉による権威をお委ねになったのは明らかです。彼らがアブラハムに言い伝えた言葉は、「アブラハムは神の特別な人だから、神は隠すことなく仰せになる。」ということでした。 この言葉の神学的な意味は神がアブラハムに啓示してくださるということです。「いと高き神が人が理解できる方法で御言葉をくださること」を神学用語で「啓示」と言います。神の御言葉は人間が自力で理解することが出来ない高次元的なものです。しかし、神は神に選ばれた者たちが聞き取れる形で御言葉を与えてくださいますが、それがまさに啓示なのです。つまり、神は寄留者たちの口を通じて、アブラハムだけが聞くことができる大事な啓示を与えてくださったということです。 その啓示の内容は二つでした。 一つは祝福の啓示であり、もう一つは裁きの啓示でした。特に祝福の啓示はアブラハムと、その子孫への祝福についてのものでした。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(18-19)かつて、アブラハムをご自分の民としてお呼びくださり、契約を結んでくださった神様でしたが、その後24年の間、神様は、時にはまるで答えてくださらない方であるかのように、時には存在しておられない方であるかのように、ご自分のことを隠され、アブラハムの信仰をお試みになりました。しかし、その御試みはアブラハムを苦しめるための試練ではありませんでした。それはアブラハムの信仰を鍛え、成長させる神の愛でした。神様は「主の道を守り、主に従って正義を行うよう」彼をお選びになり、成長させられたのです。その信仰の試練を乗り切ったアブラハムは、寄留者への歓待を通じて、自分の成長した信仰を、確実に神様にお示しすることが出来たのです。その結果、神は信仰的に成長したアブラハムに、アブラハムと子孫が強い国民となり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入るだろうと祝福の啓示を与えてくださったわけです。 確かに神様は、ご自分の民を愛してくださる方です。しかし、神様はその民を甘やかす方ではありません。愛しておられるから、試練をくださるのです。「可愛い子には旅をさせよ。」という諺があるように、神はアブラハムを愛しておられるから、お試みになり、試練をお許しになったわけです。そして、その試練の結果は祝福の啓示とともに、実際にその啓示が代々続き、成し遂げられることでした。アブラハムの息子イサク、孫ヤコブ、その息子エジプトの総理ヨセフ、モーセ、ダビデ、そしてイエス·キリストに至るまで、神の啓示は代々成し遂げられていきました。実際、ヨセフ、モーセ、ダビデは民を泥沼から救い出し、主イエスは完全な御救いを成し遂げられる救い主でした。そして、アブラハムにくださった、その啓示のように、アブラハムの霊的な子孫である主の教会は、神の御言葉と約束、すなわち「主の道を守り、主に従って正義を行うキリスト」の御言葉の上に立ち、今でも受け継がれているのです。 2.裁きの啓示をくだされる神様。 ところで、神は裁きの啓示もくださいました。それは罪に満ちたソドムに対する恐ろしい審判の予告でした。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」(20-21)神様はアブラハムに祝福の啓示を与えてくださったとは反対に、ソドムの人々のことに対しては残酷な裁きの啓示を下されました。なぜ、神様はアブラハムへの祝福の啓示をくだされるや否や、裁きの啓示をくだされたのでしょうか? それは神への信仰を持って生きていたアブラハムと、神に逆らう人生を生きていたソドムの人々を明らかに対比するためでした。次の説教ではソドムとゴモラについて、もっと詳細に分かち合う予定ですが、そこの人たちは深刻な罪人たちでした。「ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(19:4-5)、彼らはアブラハムを離れてソドムに着いた神からの寄留者たちを歓待せず、乱暴に扱おうとしました。彼らが、どのような乱暴なことを犯したのかは、次の説教で詳しくお話ししましょう。明らかなのは、彼らの行為がアブラハムとは正反対の、寄留者への脅威だったということでした。 「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(19)先に神は、この言葉を通じて、なぜアブラハムをお呼びになり、試練を通して成長させ、神の祝福の民にしてくださったのかを教えてくださいました。それはアブラハムを「主に従って正義を行う」人にしてくださるためでした。それが神の民が持つべき在り方だったからです。ここで言う「主に従う。」という表現はヘブライ語で「チェダカ」と言いすが、「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」という意味だそうです。また「正義を行う。」という言葉は、ヘブライ語で「ミシュパート」と言いますが、「神の民として守るべき律法的な正しさ。」という意味だそうです。神様はアブラハムと、その子孫を「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」と「神の民として守るべき律法的な正しさ。」を守りつつ生きる、真の正しい人にさせるためにアブラハムをお選びになり、試練を与えられ、養ってくださったのです。そして、そのような生き方の最も基本的な姿勢は、隣人への接し方に現れるのです。ところが、ソドムの人たちには、そうしたチェダカとミシュパートが欠けている状態でした。彼らは自分たちの力を信じ、余所者を蔑んで、生きていたわけです。つまり、彼らには神様に認められるべき、正しさがなかったということです。 神様が御使いたちを遣わして、ソドムを滅亡させようとなさった理由は、このような彼らの悪をお裁きになるためでした。ところで、問題はアブラハムの甥ロトが、そこに住んでいるということでした。確かに啓示される神様は、ご自分の民に祝福の言葉をくださる方です。しかし、神は罪に満ちて悔い改めずに生きる人々へ裁きと呪いの言葉をもくださる方です。そして、その呪いと裁きの啓示は、世の中に生きている主の民、つまり教会を通じてくださるのです。神はアブラハムにソドムへの裁きの啓示をくださることで、ソドムに住んでいる甥ロトのために祈らせてくださいました。そのため、アブラハムは22-33節に出てくる繰り返される懇請で、神様がソドムを許してくださることを願ったのです。神様がこの日本に主の教会を立ててくださった理由も、それと同じです。日本の民族が正義ではなく悪を行なって生きていけば、神は必ずこの国をお裁きになるでしょう。このお裁きからは米国も、中国も、韓国も自由ではありません。終わりの日に、すべての存在が神に裁かれるのが決まっているからです。しかし、神は愛する日本の教会を通じて、日本の民族と社会に神の警告を伝えることを望んでおられます。日本キリスト大会が政府の政策に時々抗議状を送る理由も、そういう意味があるからです。それがまさに私たちが伝道をしなければならない大事な理由なのです。 締め括り 啓示に関する話は、今日の新約の本文からも見つかります。イエス様はしるしと奇跡を見ても悔い改めない、ガリラヤのいくつかの町を責められつつ、このように仰いました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11:25)神は、いつも聖書を通して祝福と裁きの啓示をくださる方です。そして神に仕える、主の民は、その祝福と裁きの啓示を聞くことが出来る特権を持っています。聖書は神の愛と祝福だけを語ってはいません。神の裁きと呪いをも語っているのです。だから自分の好きな箇所だけを読んで、勝手に聖書を誤解してはいけません。神の祝福と裁きはコインの両面のように、いつも共存するものです。賢い親は、適切な褒め言葉と戒めを通して、子どもを育てます。そのように神も愛と裁きを通して、この世を治めておられるのです。主イエスは、このような神の啓示を我々に与えてくださり、祝福を極大化し、裁きを最小化してくださるために来られた方です。今日、アブラハムの物語を通じて、私たちは神の啓示について知ることが出来ました。私たちは、主に愛される民として、神の啓示が持つ二つの面を覚え、主の御言葉に従って生きるべきでしょう。神の啓示を大事にし、主に喜ばれる志免教会になることを願います。

主の弟子。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁)マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 去るマルコによる福音書の説教では、神の子について分かちあいました。イエス様の時代、神の子という表現が持っていた意味は、信仰や宗教に限った意味ではありませんでした。当時、神の子という表現はローマの皇帝を指していて、非常に政治的で社会的な意味を持つ言葉でした。これを通して、私たちは神の子と呼ばれたイエスが、ただ静的な信仰の領域にだけ限られた方ではなく、ローマ皇帝の権威を超越した、社会を変革し、世の中を変える実践的で動的な存在だったということが分かりました。私たちは神の子イエスを信じる存在です。これは、ただ私たちが、私たちの救い、平和だけに関心を持つのではなく、この世の政治的な理不尽や社会的な問題にも、もっと関心を持って、祈りと実践によって、生きていかなければならないという役割を持っているという意味です。イエス・キリストは21世紀にも、神の子としておられる方です。この主の民として召された私たちは、政治、社会、経済すべての領域において関心を持ち、正しく生きていくべき存在だということが前回の説教の筋書きでした。今日は、前回の説教に引き続き、この神の子イエスがお呼び出しになった弟子という存在について考えてみたいと思います。 1. 山-神がお働きを始められる場所。 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。」(マルコ3:13)聖書での山という表現には「未来への備え、神のご臨在、神の権能」などの意味があると言われます。聖書に登場するすべての山について、このように解釈することは無理でしょうが、特別な出来事があった山は、このように解釈する場合が多いです。我々は、このような意味を、本日の旧約聖書の本文を通して見ることができます。エジプト帝国の暴政によって、奴隷のように生きていたイスラエル民族は、神の強力な権能である10の災いによって、自由な存在となりました。しかし、この自由は、身勝手に生きてもいいという放縦の意味ではなく、神の民となるという責任と義務を求められる責任のある自由でした。このような真の自由を与えるために、神はイスラエルに旧約の律法をくださったのです。その時イスラエルの指導者モーセはシナイ山という神聖な場所で、この律法を受けたのです。「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。」(出19:3) 神に律法を頂いたイスラエルは、単なる神の奴隷ではなく、身分の変化を受けたものでした。「もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出19:5-6)つまり、山で神に出会ったイスラエルは奴隷の民族から祭司の民族として、新しく立つことになったのです。 今日の新約の本文は、このようなシナイ山での出来事に非常に似ています。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:13-15)マルコによる福音書でのイエスは、1章と2章で何人かの弟子たちをお呼び出しになりましたが、彼らに宣教をさせたり、悪霊を追い出す権能を与えたりはしませんでした。癒しと宣教と教えとは、おもにイエスご自身が行われ、弟子たちは静かに、その後に従うイメージだったのです。しかし、主イエスは山に登って公に弟子たちを呼び寄せられ、また、彼らに権能を与えられて、イエスの御業に参加できる機会をくださったのです。マタイによる福音書にも弟子をお召しになる場面が登場しますが、その時、主はこのように言われます。「行って、天の国は近づいたと宣べ伝えなさい。 病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:7-8)主は、今まで受動的なイメージだった弟子たちを能動的な存在と変えられ、主の力を分け与えてくださいました。 そして、ご自分が行なっていた御業である「癒し、教え、宣教」の権限を与えてくださったのです。シナイ山でイスラエルをお召しになった神が、奴隷だったイスラエルを祭司の王国、聖なる国民、すなわち礼拝者として新しく呼んでくださったように、イエスも山に登って主の人々を呼んでくださり、ご自分のように癒して、教えて、宣教する弟子として新しく立ててくださったわけです。 2.誰がイエスの弟子なのか? このようにシナイ山の神と、山の上のイエスは非常に似ています。旧約の神がイスラエルの民を通して新しい御業をご計画なさったように、新約のイエスもご自分の弟子たちを呼び寄せられ、旧約とは区別される新しい御業をご計画なさったのです。それでは、果たして、誰がイエスの弟子になれるのでしょうか? 今日の新約本文には、このような言葉があります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると」(13)主は、主がお望みになる者を呼び寄せられ、ご自分の弟子にされました。この世のすべての人が神の弟子になることができるわけではありません。主の弟子になるということは、主の呼びかけに応じた者にのみ可能なことです。イスラエル民族がシナイ山で、神の民に選ばれたことは、神が即興で行われたことではありませんでした。「お前ら、せっかく自由の身になったのだから私の民になれ。」との意味ではなかったということです。そのお選びは、既にイスラエルが打ち立てられる前の、先祖アブラハムと結んだ契約の結果であり、そのアブラハムとの契約ですら、アダムとエヴァとの堕落にまで遡る、初めからの神の徹底したご計画に基づくものなのです。このように、神様に選ばれ、召されるということは、神の計画の中にいる者だけが得られる特権なのです。聖書はこれを神の摂理であり、経綸であると語っています。 だからといって、主に呼び寄せられた者たちが、みんな服従したり、弟子になったりするわけでもありません。ただ神の呼びかけに従順に応える者だけが、召された者になるのであり、弟子になれるのです。今日の本文には「彼らはそばに集まって来た。」(ギリシャ語 デロ、応じる。)という言葉があるからです。神はわがままな暴君ではありません。神はいつも人間の自由な意志を尊重して、人をお召しになる方なのです。神の呼びかけに応じない者たちまで、強制的に呼び出される方ではありません。我々人間は神にとって、操り人形ではなく、人格を持っている被造物だからです。主は伝道者たちの伝道を通して、聖書の御言葉を通して、牧師の説教を通して、毎日毎日、常に呼び掛けていらっしゃる方です。その主の呼びかけを聞いた者が、それに従順に応える時にはじめて、神様のお招きは完成するのです。これは、人間の選択の問題ではなく、神への服従の問題でしょう。そして、そのように召され、聞き従う者こそが、イエスの弟子に選ばれるのです。だから主のお選びと呼びかけに応じ、聞き従って、この場に集っている私たちが、まさに主イエスの弟子なのです。新約聖書の使徒だけが弟子ではなく、教会の牧師だけが弟子ではなく、長老や執事だけが弟子ではなく、主の御言葉を聞き、答え、主の御前に出てきた、すべての人々が、まさにイエス•キリストの弟子なのです。 3.今日も私たちを弟子として呼んでおられる主。 「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:14-15)主は12人の弟子を召され、彼らをご自分のそばに置いてくださいました。主が弟子をお呼びになった理由は、奴隷のように仕事ばかりさせるためではありません。主が彼らと同道し、愛してくださるためです。弟子として呼ばれた我々は今、我々の主でいらっしゃるイエスと共に生きています。決して私たちは独りではなく、私たちのすべてを守り、助けてくださる主と共にいるのです。また、主が弟子をお呼びになった理由は、宣教をさせるためです。ここで言う宣教とは、人を連れて来て礼拝の場に座らせるということだけを意味することではありません。もちろん、そのような行為も宣教でしょうが、ここでいう宣教とは、もっと根本的な意味、つまりイエスが救い主であること、神が真のお独りの神であることを、私たちの生活を通して伝えることなのです。我々がキリスト者であることを明らかにし、我々の生涯の中で、キリストの弟子として隣人に感動を与えることも宣教なのです。最後に、主が弟子をお呼びになった理由は、弟子たちを通して悪霊を追い出すためです。これは実際に悪霊を追い払うという意味もあるでしょうが、悪霊と表現される、この世の理不尽と悪の中で正義を追い求め、そのような正しい生き方を貫くという意味にも解釈できるでしょう。 このように、主は「主と同道する弟子」「キリストの救いと愛を宣べ伝える弟子」「世の悪や不条理に対抗する弟子」を立ち上がらせるために弟子をお呼び寄せになるのです。そして、歴史的にその弟子たちは、キリスト者と呼ばれてきました。聖書に12人の使徒たちという表現があるからといって、弟子が特別な人だと思ってはなりません。 12という数字は聖書の完全数として「全て」という意味をも持っているからです。したがって、今日、主を信じて教会を成す私たちは皆、主に愛される弟子です。皆さんと私が即ちイエスの弟子でなのです。だから、弟子という言葉に特別な意味をつけたり、私たちとは別の偉い人、牧師や伝道師のような神学を専攻した人などと考えたりしてはならないでしょう。最後に今日の言葉で、主イエスはおもにギリシャ語の現在形の動詞を使っておられます。弟子たちが主と一緒にいること、主に遣わされること、主に宣教させられること、悪霊を追い出すこと、すべてが現在形です。ギリシャ語で現在形が持つ文法的意味は、その文章を読む現在の読み手にも同じく有効であるということです。つまり、我々が今日の本文を読んでいる、ただいまの時点でも、主は弟子を呼ばれ、我々と一緒におられ、宣教させられ、この世を変えておられるということです。皆さん、忘れないようにしましょう。私たちは主の弟子です。そして我々の主イエス·キリストは今日も変わることなく、私たちに弟子としての生活を促していらっしゃいます。 締め括り 今日は3時から牧師就職式が持たれます。今日の就職式の式文には牧師の誓約と教会員の誓約が出て来ます。ところで、教会員の誓約が牧師の誓約より約2倍ほど長いです。そこで私はこれはただの牧師だけの就職式ではなく、牧師と教会員が一緒に就職する就職式ではないかと思いました。今日、主はこの志免教会という小さな山に私たちをお招きくださり、主の弟子としてお召しくださるでしょう。主が志免教会の教会員たちと牧師がイエスの共同体となり、主と共に歩んで福音を宣教し、正義を追い求めて生きることを望んでおられます。今日の御言葉を通じて、志免教会のみんなが、主イエスの弟子であることを、もう一度、心に留めていくことを願います。私たち志免教会を通じて神様が志免町に祝福を、私たちを通じて癒し、教え、宣教してくださることを願います。主の弟子である志免教会に神の大きな恵みが共にあることを信じます。

寄留者への歓待。

創世記18章1-15節(旧23頁) マタイによる福音書25章31-46節(新50頁) 前置き 神の民として選ばれ、生まれ故郷、父の家を離れたアブラハムは、24年という長年を寄留者(旅人)として暮らさなければなりませんでした。しかし、土地と子孫を与えるという神の約束は、24年経っても果たされず、土地と子孫を得るためのアブラハムなりの努力も、何も成し遂げられず、無駄になってしまいました。75歳に神に召されたアブラハムは、まもなく100歳を目の前にする歳になってしまいました。しかし、老いたアブラハムが、すべてを諦めようとする時に、神は再び現れ、神の約束は依然として有効であると教えてくださいました。そして神は、その約束の証としてアブラハムの家の男たちに割礼を受けることを命じられました。契約と割礼のヘブライ語の表現が同じであることから、神との契約を永遠に覚えさせる神のご命令だったことが分かります。以上が今までのアブラハムに係わる筋書です。以後、神はご自分の御使いたちをアブラハムに遣わしてくださいました。今日の旧約本文は、その御使いたちとアブラハムの出会いについての物語です。私たちは今日の話を通じて、どんな教訓を得られるでしょうか?今日は寄留者を通して、訪れてくださる神について話してみたいと思います。 1.神様から遣わされた者たち。 カナン地域でアブラハムが生活していた主な場所は、現在のエルサレムから南側に30kmくらい離れているマムレ(ヘブロン)という所でした。神のご命令によってカナンに降ってきたアブラハムは、過去24年間のうちに、その地域の有名な者になっていました。彼は牧草地が足りなくて、甥と別れるほど、多くの家畜を飼っており、シンアル地域の王たちと戦って勝つほどの相当な戦力もを持っていました。神が契約してくださった土地がなくても、神が約束してくださった子供が生まれなくても、彼には現在持っている財産や権力だけで十分に意気揚々と生きることができる力がありました。そればかりか、ハガルを通して儲けた息子、イシュマエルもいましたので、相続人への心配も一安心できる状況でした。しかし、彼は相変らず神に仕えました。アブラハムは24年間、多くの失敗と試行錯誤を経験してきました。しかし、彼が偉大な信仰の父として、神に認められた理由は、自分の状況がどうであれ、彼が神の約束を覚え、信じたことにあるでしょう。私は創世記を説教して来つつ、何度もアブラハムが私たちと同じ、平凡で間違いと失敗の多い人だったと話しましたが、それでも、アブラハムが持っていた、このような神への信仰は現代を生きる私たちが、倣っていくべき良い信仰の手本になると思います。 もし、アブラハムが自分の財産と現在の状況に満足し、神の約束を軽んじ、神に仕えようとしなかったら、彼は今日の本文に現れた3人の御使いに出会うことが出来なかったはずでしょう。聖書には今日登場した3人の御使いが華麗な服を着ていたとか、多くのしもべを引き連れていたとかの話は記されていません。ただ、3人の人が彼に向かって立っていたと記してあるだけです。しかし、常に神の御言葉を待ち、神に仕えようとする心構えを持っていたアブラハムでしたので、その3人が訪れてきた時、彼らが神に遣わされた者だと気付き、すぐに彼らを迎え、持て成したのではないでしょうか? 過去のユダヤ人のラビたちは、この3人が神の天使だと信じていました。特に、ラシュというラビは、その3人が、ミカエル、ラファエル、ガブリエルという有名な天使たちだと思いました。この天使という言葉は、神のメッセンジャーという意味で、天使が現れるということは、神の御言葉が臨むこと、つまり神が直接お出でになることと同じくらいの権威がある意味だったと言われます。勿論、今日の本文を通しては、彼らが天使であるかどうかははっきり分かりません。しかし、少なくとも神の御言葉が彼らを通じて、アブラハムの所に来たということは、はっきり分かります。ところで、彼らはみすぼらしい旅人たちでした。神の尊い御言葉が通り過ぎる寄留者を通して届いたということでしょう。 2.神は寄留者の姿でお出でになる方。 聖書で寄留者とは、助けを求めている旅人、余所者として解釈される場合が多かったです。当時のメソポタミアやカナンの原住民は旅人たちを暖かく持て成したそうです。あの有名なハンムラビ法典にも、旅人への扱いについて記録されていると言われます。しかし、彼らが持て成した旅人は同じ民族や国に限る存在でした。外国人や旅人には手厚い持て成しをしなかったのが学界の定説です。彼らは何の利益にもならなかったからです。しかし、アブラハムは世の中の論理ではなく、神への奉仕の意味として3人の客を喜んで迎え、持て成しました。ところで、その客たちは、実際に神の御使いたちで、彼らは神の御言葉を持ってきたのです。我々はこれを通して、神は自ら現れる方でもありますが、通り過ぎる寄留者、余所者、弱者を通しても現れる方であるということが分かります。もし、アブラハムが彼らを迎える前に、カナン地域のどの種族から来た人なのか、どの家柄の人なのか、3人の身分を選り分けようとしたならば、彼は神からの大事な御使いたちを逃してしまったのかもしれません。しかし、アブラハムは当時のカナンで通用していた持て成しではなく、いつ神の御使いが来るか分からないという心構えで3人を招き、歓待したわけです。 今日の新約本文でイエスは、主が再臨なさって、この世をお裁きになる時のことについて教えてくださいました。主が天使たちを皆、従えて栄光に輝く座に着かれる時、正しい人たちをお呼びになり「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」と仰いました。すると、 正しい人たちが聞き返しました。「主よ、いつ我々がそうしたのでしょうか?」その時、主は「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」とお答えになりました。私たちは、この物語を通して、主が貧しい隣人や旅人の姿を持って、私たちの所に訪ねて来られる方であることが分かります。ひょっとしたら、今一緒に礼拝を捧げている兄弟姉妹が、実は我々の間におられる主であるかもしれません。志免教会のご近所さんたちがイエスであるかもしれません。私たちの一番嫌いな人が、私の前に来ておられる主であるかも知れません。私たちが彼らを遠ざけ、冷遇する時、もしかしたら、私たちは主を遠ざけ、冷遇しているのかもしれません。私たちの隣人愛は判官贔屓のようなものではありません。私たちの他者へ愛は、私たちの間におられる主イエスへの愛から湧き出るべきものなのです。誰が、どんな姿で主の代わりに私たちの前に立っているか分からないからです。 3.最も不要で、憎い者を愛せよ。 多少、政治的な話になるかと思いますが、日々関係が悪化している日韓関係を例に挙げてみましょう。日本は、韓国人にとって、他の国々では感じられない様々な感情を起こさせる国です。歴史的には深い遺憾があり、文化的には一番親しみのある、微妙な国なのです。つまり、愛憎の国なのです。日本人にとって韓国はどうでしょうか?日本人の中には激しく韓国を蔑む人もいますが、一方では身の置き所のないほどに韓国を重んじ、愛してくださる方もいます。同じく、韓国人の中にも日本を蔑む人がおり、日本を大事にし、重んじる人がいます。このような日韓関係の中で、日本と韓国の教会は、真の平和のために協力関係を大事にし、過去の悲劇を省み、新しい未来を作っていくために手を携えています。私も日本の教会に仕えようという確信を持って以来、日本への盲目的な遺憾を控え、中立性を持って愛と協力に進もうと心を込めて生きています。なぜでしょうか? それは、いくら憎い相手がいると言っても、彼らから神の存在を見つけ、彼らを愛するのがイエス・キリストの御教えだからです。私は日本という国を考える時に、ここにおられる皆様、ご近所の皆様の中におられる主イエスが思い起こされ、憎むことが出来ません。日韓の教会がお互いに心を一つにして、愛しあい、仕えあうべき理由は、相手の民族と国を愛しなければならない理由は、そのような愛と協力の中にキリストがおられるからです。だから、相手を憎むことは、その中におられるキリストを憎むことと等しいことなのです。 マスコミは、いつも相手の国を中傷します。「首相が、大統領が」から始め、相手を盲目的に絶対悪のように作ってしまいます。そして人々がそのような見方で付いて来るように煽り続けます。政治家たちがそれを願っているから、わざわざ忖度しているわけです。その結果、もし、戦争でも起きたら、死ぬのは為政者や政治家ではありません。私たちの子供、親戚が、そして私たち自身が死ぬのです。それは決して主の御心ではありません。主イエスは愛と和解を望んでおられます。だから、一度でもいいので相手の立場から考えてみるべきではないでしょうか? 両国とも神様でない以上、きっとそれぞれの過ちがあるはずでしょう。が、両方ともまるで、自分が神様のようになり、互いに中傷し合い、争い合うだけです。自分の民族と国だけを大事にすることは、イエスのお教えではありません。それは帝国主義なのです。アブラハムは国と民族を問わず、寄留者を丁寧に持て成しました。そして、その寄留者を通して神の祝福を受けました。また、神は寄留者の口を通じて、アブラハムとサラが、切に願っていた息子の誕生を預言してくださいました。そして、私たち皆が知っている通りにアブラハムとサラは信仰の父と母になりました。私たちに何の役にも立たないような人を私たちの中にいる寄留者として考えていきましょう。憎い人をイエスのように扱いましょう。兄弟姉妹と隣人を愛しましょう。そんな我々の人生をこそ、神は喜ばれるでしょう。寄留者への歓待と愛を通して、主の祝福が我々に臨むでしょう。 締め括り 今日の説教を準備しながら私の過去の人生を振り返ってみました。正直、まだ心の中に遺憾の念を持っている人たちが何人かいます。未だに赦し難い人がいます。しかし、神様は今日の言葉を通して、私に仰せになります。「まだ赦せないのか?」「彼らがイエスなら、私からの寄留者ならどうする?」結局、悔い改め、赦すしかないと思いました。皆さんはいかがでしょうか? まだ赦せない、憎い、無視したい人がいますか? イエスを信じること、神の民になることは、決してたやすいことではありません。憎い人を、役に立たないと思える人を、愛さなければならないからです。しかし、その度に主イエスのことを考えましょう。イエスは神と敵だった私たちを救ってくださるために、ご自分の血潮を流され、犠牲になってくださいました。何の益にもならない貧しい者たちをわざわざ捜し回ってくださいました。これは、今日の本文でアブラハムが行なった旅人を持て成した人生と一脈通じる生き方ではないでしょうか? 今日の言葉を通して、心から赦し、自分のように愛し、キリストに倣っていく機会になることを祈ります。そのような人生を生きる時にはじめて主は「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と誉めてくださるでしょう。また、信仰の父として認められたアブラハムのように、神の祝福があるでしょう。