主の弟子。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁)マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 去るマルコによる福音書の説教では、神の子について分かちあいました。イエス様の時代、神の子という表現が持っていた意味は、信仰や宗教に限った意味ではありませんでした。当時、神の子という表現はローマの皇帝を指していて、非常に政治的で社会的な意味を持つ言葉でした。これを通して、私たちは神の子と呼ばれたイエスが、ただ静的な信仰の領域にだけ限られた方ではなく、ローマ皇帝の権威を超越した、社会を変革し、世の中を変える実践的で動的な存在だったということが分かりました。私たちは神の子イエスを信じる存在です。これは、ただ私たちが、私たちの救い、平和だけに関心を持つのではなく、この世の政治的な理不尽や社会的な問題にも、もっと関心を持って、祈りと実践によって、生きていかなければならないという役割を持っているという意味です。イエス・キリストは21世紀にも、神の子としておられる方です。この主の民として召された私たちは、政治、社会、経済すべての領域において関心を持ち、正しく生きていくべき存在だということが前回の説教の筋書きでした。今日は、前回の説教に引き続き、この神の子イエスがお呼び出しになった弟子という存在について考えてみたいと思います。 1. 山-神がお働きを始められる場所。 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。」(マルコ3:13)聖書での山という表現には「未来への備え、神のご臨在、神の権能」などの意味があると言われます。聖書に登場するすべての山について、このように解釈することは無理でしょうが、特別な出来事があった山は、このように解釈する場合が多いです。我々は、このような意味を、本日の旧約聖書の本文を通して見ることができます。エジプト帝国の暴政によって、奴隷のように生きていたイスラエル民族は、神の強力な権能である10の災いによって、自由な存在となりました。しかし、この自由は、身勝手に生きてもいいという放縦の意味ではなく、神の民となるという責任と義務を求められる責任のある自由でした。このような真の自由を与えるために、神はイスラエルに旧約の律法をくださったのです。その時イスラエルの指導者モーセはシナイ山という神聖な場所で、この律法を受けたのです。「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。」(出19:3) 神に律法を頂いたイスラエルは、単なる神の奴隷ではなく、身分の変化を受けたものでした。「もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出19:5-6)つまり、山で神に出会ったイスラエルは奴隷の民族から祭司の民族として、新しく立つことになったのです。 今日の新約の本文は、このようなシナイ山での出来事に非常に似ています。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:13-15)マルコによる福音書でのイエスは、1章と2章で何人かの弟子たちをお呼び出しになりましたが、彼らに宣教をさせたり、悪霊を追い出す権能を与えたりはしませんでした。癒しと宣教と教えとは、おもにイエスご自身が行われ、弟子たちは静かに、その後に従うイメージだったのです。しかし、主イエスは山に登って公に弟子たちを呼び寄せられ、また、彼らに権能を与えられて、イエスの御業に参加できる機会をくださったのです。マタイによる福音書にも弟子をお召しになる場面が登場しますが、その時、主はこのように言われます。「行って、天の国は近づいたと宣べ伝えなさい。 病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:7-8)主は、今まで受動的なイメージだった弟子たちを能動的な存在と変えられ、主の力を分け与えてくださいました。 そして、ご自分が行なっていた御業である「癒し、教え、宣教」の権限を与えてくださったのです。シナイ山でイスラエルをお召しになった神が、奴隷だったイスラエルを祭司の王国、聖なる国民、すなわち礼拝者として新しく呼んでくださったように、イエスも山に登って主の人々を呼んでくださり、ご自分のように癒して、教えて、宣教する弟子として新しく立ててくださったわけです。 2.誰がイエスの弟子なのか? このようにシナイ山の神と、山の上のイエスは非常に似ています。旧約の神がイスラエルの民を通して新しい御業をご計画なさったように、新約のイエスもご自分の弟子たちを呼び寄せられ、旧約とは区別される新しい御業をご計画なさったのです。それでは、果たして、誰がイエスの弟子になれるのでしょうか? 今日の新約本文には、このような言葉があります。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると」(13)主は、主がお望みになる者を呼び寄せられ、ご自分の弟子にされました。この世のすべての人が神の弟子になることができるわけではありません。主の弟子になるということは、主の呼びかけに応じた者にのみ可能なことです。イスラエル民族がシナイ山で、神の民に選ばれたことは、神が即興で行われたことではありませんでした。「お前ら、せっかく自由の身になったのだから私の民になれ。」との意味ではなかったということです。そのお選びは、既にイスラエルが打ち立てられる前の、先祖アブラハムと結んだ契約の結果であり、そのアブラハムとの契約ですら、アダムとエヴァとの堕落にまで遡る、初めからの神の徹底したご計画に基づくものなのです。このように、神様に選ばれ、召されるということは、神の計画の中にいる者だけが得られる特権なのです。聖書はこれを神の摂理であり、経綸であると語っています。 だからといって、主に呼び寄せられた者たちが、みんな服従したり、弟子になったりするわけでもありません。ただ神の呼びかけに従順に応える者だけが、召された者になるのであり、弟子になれるのです。今日の本文には「彼らはそばに集まって来た。」(ギリシャ語 デロ、応じる。)という言葉があるからです。神はわがままな暴君ではありません。神はいつも人間の自由な意志を尊重して、人をお召しになる方なのです。神の呼びかけに応じない者たちまで、強制的に呼び出される方ではありません。我々人間は神にとって、操り人形ではなく、人格を持っている被造物だからです。主は伝道者たちの伝道を通して、聖書の御言葉を通して、牧師の説教を通して、毎日毎日、常に呼び掛けていらっしゃる方です。その主の呼びかけを聞いた者が、それに従順に応える時にはじめて、神様のお招きは完成するのです。これは、人間の選択の問題ではなく、神への服従の問題でしょう。そして、そのように召され、聞き従う者こそが、イエスの弟子に選ばれるのです。だから主のお選びと呼びかけに応じ、聞き従って、この場に集っている私たちが、まさに主イエスの弟子なのです。新約聖書の使徒だけが弟子ではなく、教会の牧師だけが弟子ではなく、長老や執事だけが弟子ではなく、主の御言葉を聞き、答え、主の御前に出てきた、すべての人々が、まさにイエス•キリストの弟子なのです。 3.今日も私たちを弟子として呼んでおられる主。 「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:14-15)主は12人の弟子を召され、彼らをご自分のそばに置いてくださいました。主が弟子をお呼びになった理由は、奴隷のように仕事ばかりさせるためではありません。主が彼らと同道し、愛してくださるためです。弟子として呼ばれた我々は今、我々の主でいらっしゃるイエスと共に生きています。決して私たちは独りではなく、私たちのすべてを守り、助けてくださる主と共にいるのです。また、主が弟子をお呼びになった理由は、宣教をさせるためです。ここで言う宣教とは、人を連れて来て礼拝の場に座らせるということだけを意味することではありません。もちろん、そのような行為も宣教でしょうが、ここでいう宣教とは、もっと根本的な意味、つまりイエスが救い主であること、神が真のお独りの神であることを、私たちの生活を通して伝えることなのです。我々がキリスト者であることを明らかにし、我々の生涯の中で、キリストの弟子として隣人に感動を与えることも宣教なのです。最後に、主が弟子をお呼びになった理由は、弟子たちを通して悪霊を追い出すためです。これは実際に悪霊を追い払うという意味もあるでしょうが、悪霊と表現される、この世の理不尽と悪の中で正義を追い求め、そのような正しい生き方を貫くという意味にも解釈できるでしょう。 このように、主は「主と同道する弟子」「キリストの救いと愛を宣べ伝える弟子」「世の悪や不条理に対抗する弟子」を立ち上がらせるために弟子をお呼び寄せになるのです。そして、歴史的にその弟子たちは、キリスト者と呼ばれてきました。聖書に12人の使徒たちという表現があるからといって、弟子が特別な人だと思ってはなりません。 12という数字は聖書の完全数として「全て」という意味をも持っているからです。したがって、今日、主を信じて教会を成す私たちは皆、主に愛される弟子です。皆さんと私が即ちイエスの弟子でなのです。だから、弟子という言葉に特別な意味をつけたり、私たちとは別の偉い人、牧師や伝道師のような神学を専攻した人などと考えたりしてはならないでしょう。最後に今日の言葉で、主イエスはおもにギリシャ語の現在形の動詞を使っておられます。弟子たちが主と一緒にいること、主に遣わされること、主に宣教させられること、悪霊を追い出すこと、すべてが現在形です。ギリシャ語で現在形が持つ文法的意味は、その文章を読む現在の読み手にも同じく有効であるということです。つまり、我々が今日の本文を読んでいる、ただいまの時点でも、主は弟子を呼ばれ、我々と一緒におられ、宣教させられ、この世を変えておられるということです。皆さん、忘れないようにしましょう。私たちは主の弟子です。そして我々の主イエス·キリストは今日も変わることなく、私たちに弟子としての生活を促していらっしゃいます。 締め括り 今日は3時から牧師就職式が持たれます。今日の就職式の式文には牧師の誓約と教会員の誓約が出て来ます。ところで、教会員の誓約が牧師の誓約より約2倍ほど長いです。そこで私はこれはただの牧師だけの就職式ではなく、牧師と教会員が一緒に就職する就職式ではないかと思いました。今日、主はこの志免教会という小さな山に私たちをお招きくださり、主の弟子としてお召しくださるでしょう。主が志免教会の教会員たちと牧師がイエスの共同体となり、主と共に歩んで福音を宣教し、正義を追い求めて生きることを望んでおられます。今日の御言葉を通じて、志免教会のみんなが、主イエスの弟子であることを、もう一度、心に留めていくことを願います。私たち志免教会を通じて神様が志免町に祝福を、私たちを通じて癒し、教え、宣教してくださることを願います。主の弟子である志免教会に神の大きな恵みが共にあることを信じます。