啓示をくだされる神さま。

出エジプト記19章3-6節(旧124頁) マルコによる福音書3章13-19節(新65頁) 前置き 前回の創世記の説教では、寄留者を歓待したアブラハムの物語を通じて、聖書が語る「寄留者への持て成し」の真の意味について話してみました。聖書によると、神は時々寄留者の姿で、我々の前に現れる方であり、その寄留者を通じて、我々に御言葉をくださる方でいらっしゃいました。前回の説教では、その寄留者という存在が、私たちの周りの弱い者や私たちの最も嫌な人である場合もあると話しました。新約聖書マタイによる福音書25章でイエス様は、このように仰せになりました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」私たちが本当に主を愛し、信じる人なら、私たちは、どのような姿で現れるか分からない主への歓待のために常に備えて生きなければなりません。そして、その備えとは、私たちの隣人に対する愛と嫌な人への赦しから、初めて証明されるものです。正しい人アブラハムが前回の本文を通じて見せた寄留者への歓待は、まさにこのような成熟した信仰を表すものです。自分より他人を優れた者とする信仰、他人を赦し、愛する信仰、そういう寄留者を歓待する成熟した信仰を通して、神はアブラハムを祝福してくださったように、ご自分の民を祝福してくださるでしょう。 1. 祝福の啓示をくだされる神様。 アブラハムが招いた寄留者たち、すなわち神の御使いたちは、アブラハムの持て成しを受けて、ソドムに足を運ぼうとしました。その時、神は御使いたちの口を通じて、アブラハムに言われました。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」(17-18)前回の説教で私は、「旧約聖書に登場する神の御使いたちは、神に全権を委ねられた、神に代わる存在である。」とお話ししました。彼らが天使だったのか、人だったのか、聖書からははっきり分かりませんが、神が彼らに主の御言葉による権威をお委ねになったのは明らかです。彼らがアブラハムに言い伝えた言葉は、「アブラハムは神の特別な人だから、神は隠すことなく仰せになる。」ということでした。 この言葉の神学的な意味は神がアブラハムに啓示してくださるということです。「いと高き神が人が理解できる方法で御言葉をくださること」を神学用語で「啓示」と言います。神の御言葉は人間が自力で理解することが出来ない高次元的なものです。しかし、神は神に選ばれた者たちが聞き取れる形で御言葉を与えてくださいますが、それがまさに啓示なのです。つまり、神は寄留者たちの口を通じて、アブラハムだけが聞くことができる大事な啓示を与えてくださったということです。 その啓示の内容は二つでした。 一つは祝福の啓示であり、もう一つは裁きの啓示でした。特に祝福の啓示はアブラハムと、その子孫への祝福についてのものでした。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(18-19)かつて、アブラハムをご自分の民としてお呼びくださり、契約を結んでくださった神様でしたが、その後24年の間、神様は、時にはまるで答えてくださらない方であるかのように、時には存在しておられない方であるかのように、ご自分のことを隠され、アブラハムの信仰をお試みになりました。しかし、その御試みはアブラハムを苦しめるための試練ではありませんでした。それはアブラハムの信仰を鍛え、成長させる神の愛でした。神様は「主の道を守り、主に従って正義を行うよう」彼をお選びになり、成長させられたのです。その信仰の試練を乗り切ったアブラハムは、寄留者への歓待を通じて、自分の成長した信仰を、確実に神様にお示しすることが出来たのです。その結果、神は信仰的に成長したアブラハムに、アブラハムと子孫が強い国民となり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入るだろうと祝福の啓示を与えてくださったわけです。 確かに神様は、ご自分の民を愛してくださる方です。しかし、神様はその民を甘やかす方ではありません。愛しておられるから、試練をくださるのです。「可愛い子には旅をさせよ。」という諺があるように、神はアブラハムを愛しておられるから、お試みになり、試練をお許しになったわけです。そして、その試練の結果は祝福の啓示とともに、実際にその啓示が代々続き、成し遂げられることでした。アブラハムの息子イサク、孫ヤコブ、その息子エジプトの総理ヨセフ、モーセ、ダビデ、そしてイエス·キリストに至るまで、神の啓示は代々成し遂げられていきました。実際、ヨセフ、モーセ、ダビデは民を泥沼から救い出し、主イエスは完全な御救いを成し遂げられる救い主でした。そして、アブラハムにくださった、その啓示のように、アブラハムの霊的な子孫である主の教会は、神の御言葉と約束、すなわち「主の道を守り、主に従って正義を行うキリスト」の御言葉の上に立ち、今でも受け継がれているのです。 2.裁きの啓示をくだされる神様。 ところで、神は裁きの啓示もくださいました。それは罪に満ちたソドムに対する恐ろしい審判の予告でした。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」(20-21)神様はアブラハムに祝福の啓示を与えてくださったとは反対に、ソドムの人々のことに対しては残酷な裁きの啓示を下されました。なぜ、神様はアブラハムへの祝福の啓示をくだされるや否や、裁きの啓示をくだされたのでしょうか? それは神への信仰を持って生きていたアブラハムと、神に逆らう人生を生きていたソドムの人々を明らかに対比するためでした。次の説教ではソドムとゴモラについて、もっと詳細に分かち合う予定ですが、そこの人たちは深刻な罪人たちでした。「ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(19:4-5)、彼らはアブラハムを離れてソドムに着いた神からの寄留者たちを歓待せず、乱暴に扱おうとしました。彼らが、どのような乱暴なことを犯したのかは、次の説教で詳しくお話ししましょう。明らかなのは、彼らの行為がアブラハムとは正反対の、寄留者への脅威だったということでした。 「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(19)先に神は、この言葉を通じて、なぜアブラハムをお呼びになり、試練を通して成長させ、神の祝福の民にしてくださったのかを教えてくださいました。それはアブラハムを「主に従って正義を行う」人にしてくださるためでした。それが神の民が持つべき在り方だったからです。ここで言う「主に従う。」という表現はヘブライ語で「チェダカ」と言いすが、「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」という意味だそうです。また「正義を行う。」という言葉は、ヘブライ語で「ミシュパート」と言いますが、「神の民として守るべき律法的な正しさ。」という意味だそうです。神様はアブラハムと、その子孫を「全ての人間が守るべき普遍的な正しさ。」と「神の民として守るべき律法的な正しさ。」を守りつつ生きる、真の正しい人にさせるためにアブラハムをお選びになり、試練を与えられ、養ってくださったのです。そして、そのような生き方の最も基本的な姿勢は、隣人への接し方に現れるのです。ところが、ソドムの人たちには、そうしたチェダカとミシュパートが欠けている状態でした。彼らは自分たちの力を信じ、余所者を蔑んで、生きていたわけです。つまり、彼らには神様に認められるべき、正しさがなかったということです。 神様が御使いたちを遣わして、ソドムを滅亡させようとなさった理由は、このような彼らの悪をお裁きになるためでした。ところで、問題はアブラハムの甥ロトが、そこに住んでいるということでした。確かに啓示される神様は、ご自分の民に祝福の言葉をくださる方です。しかし、神は罪に満ちて悔い改めずに生きる人々へ裁きと呪いの言葉をもくださる方です。そして、その呪いと裁きの啓示は、世の中に生きている主の民、つまり教会を通じてくださるのです。神はアブラハムにソドムへの裁きの啓示をくださることで、ソドムに住んでいる甥ロトのために祈らせてくださいました。そのため、アブラハムは22-33節に出てくる繰り返される懇請で、神様がソドムを許してくださることを願ったのです。神様がこの日本に主の教会を立ててくださった理由も、それと同じです。日本の民族が正義ではなく悪を行なって生きていけば、神は必ずこの国をお裁きになるでしょう。このお裁きからは米国も、中国も、韓国も自由ではありません。終わりの日に、すべての存在が神に裁かれるのが決まっているからです。しかし、神は愛する日本の教会を通じて、日本の民族と社会に神の警告を伝えることを望んでおられます。日本キリスト大会が政府の政策に時々抗議状を送る理由も、そういう意味があるからです。それがまさに私たちが伝道をしなければならない大事な理由なのです。 締め括り 啓示に関する話は、今日の新約の本文からも見つかります。イエス様はしるしと奇跡を見ても悔い改めない、ガリラヤのいくつかの町を責められつつ、このように仰いました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11:25)神は、いつも聖書を通して祝福と裁きの啓示をくださる方です。そして神に仕える、主の民は、その祝福と裁きの啓示を聞くことが出来る特権を持っています。聖書は神の愛と祝福だけを語ってはいません。神の裁きと呪いをも語っているのです。だから自分の好きな箇所だけを読んで、勝手に聖書を誤解してはいけません。神の祝福と裁きはコインの両面のように、いつも共存するものです。賢い親は、適切な褒め言葉と戒めを通して、子どもを育てます。そのように神も愛と裁きを通して、この世を治めておられるのです。主イエスは、このような神の啓示を我々に与えてくださり、祝福を極大化し、裁きを最小化してくださるために来られた方です。今日、アブラハムの物語を通じて、私たちは神の啓示について知ることが出来ました。私たちは、主に愛される民として、神の啓示が持つ二つの面を覚え、主の御言葉に従って生きるべきでしょう。神の啓示を大事にし、主に喜ばれる志免教会になることを願います。