安息日論争

申命記5章12-15節(旧289頁)マルコによる福音書2章23-28節(新64頁) 前置き 前回のマルコ福音書の説教では断食について話しました。断食とは、自ら飲食を断ち、肉体の欲望を抑え、罪を悔い改め、自分のことを省みるための行為でした。旧約では年に一度、贖罪日に断食を行うことで自らを反省し悔い改めたようです。(レビ記23:27)また、時間が経ち、断食は貧しい隣人を助けるという意味も持つようになりました。(イザヤ58:6)しかし、このように断食が持つ立派な精神は、イエスの時代に至っては偽善的な宗教儀式に変質してしまったようです。(マ6:16)イエスはそうした偽善としての断食を強く拒否されました。 私たちは、前回の説教で、この断食という代表的な宗教儀式を例に挙げ、偽善的な宗教行為に陥らず、神への信仰と隣人への愛とを持って生きるべきだと学びました。こんにちの私たちには宗教儀式としての断食を行う機会はあまりありません。しかし、私たちは依然として、礼拝、献金、祈りなど、宗教儀式の中で生きています。 イエス様が偽善的な宗教行為としての断食を拒否されたように、私たちも、また信仰生活が偽善的な宗教儀式にならないように注意しなければなりません。私たちは、ひたすら神と隣人への愛を示す手立てとして、宗教儀式を追い求めて生きるべきでしょう。 1.安息日についての論争が起こった理由。 「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 ファリサイ派の人々がイエスに、御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのかと言った。 」(23-24)ある安息日に、イエスと弟子たちが麦畑を通っていました。 彼らは道をつけるために(直訳ギリシャ語)、穂を摘みました。それを見たファリサイ派の人々が抗議しました。「どうして安息日にしてはならないことをするのか。」彼らはなぜ抗議したのでしょうか。もしかして、イエスと弟子たちが麦畑を荒らすことを糾弾するつもりだったのでしょうか? これと同様の本文がマタイによる福音書にも出て来ていますが、「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。」(マ12:1)と表現されています。 旧約聖書の申命記23:25には、これに関する規定があります。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」つまり、イエスと弟子たちが道を作りながら麦の穂を摘んで食べたのは、犯罪行為ではなく、社会的に許された合法的なやり方でした。ところが、ファリサイ派の人々は彼らの行為を見て、「安息日にしてはならないこと」だと叱ったのです。弟子たちの行為は不法じゃなかったのに、なぜファリサイ派の人々は彼らを非難したのでしょうか? その理由は、イエスと弟子たちが昔の人の言い伝えを破っていると考えたからです。この昔の人の言い伝えとは、モーゼ五書を解説した『ミシュナー』という解説書を意味するのですが、有名なラビたちが残した記録でした。このミシュナーにはモーゼ五書ほどの権威は無く、その中にはラビたちの個人的な主張も含まれていて、神の御言葉だとは言えない書でした。しかし、ユダヤ人は、それを聖書に次ぐものと重要に扱い、それを中心に数多くの規定を作り出しました。その中には安息日に関する解説もありましたが、例えば「安息日に働いてはならない。だから、旅をして800M以上歩くことを禁止。人が壁の下敷きになっても石の退かすことを禁止。隣の牛が穴に落ちても救うことを禁止。」などのように、とんでもないことが安息日の禁止規定となっていたそうです。宗教的に重要な安息日を守るためには、他人への奉仕や愛の行為はやめるしかないと思ったわけです。もともと旧約に記された安息日の労働禁止は、自分の欲望、娯楽のために働いてはならないという意味だったのに、昔の人たちは、それを極端に誤解したわけでした。それで、ファリサイ派の人々は弟子たちが安息日に麦畑の穂を摘んだことを労働だと見なし、昔の人の言い伝えを破っていると主張したわけです。 2.神が安息日を制定された理由 イエスのお働きを補助していた弟子たちは、おそらく食事を済ます時間さえなかったでしょう。そんな彼らが、お腹を満たすために麦畑の穂を摘んだことは、もしかしたら生きるための最小限の行為だったのかもしれません。しかし、ファリサイ派の人々は彼らの事情には関心がありませんでした。 彼らは昔の人たちが残した歪んだ言い伝えを用いて、イエスと弟子たちを責めることにだけ関心があったのです。神は、なぜイスラエルに「安息日を守ってこれを聖別せよ。」という律法を与えられたのでしょうか? 安息日を宗教的な日と定め、人間を束縛し、神様に礼拝だけさせるために造られたのでしょうか? 旧約本文の申命記の十戒はこのように語っています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記5:15)神は、かつてエジプトの奴隷として生きていたイスラエルに、真の自由をくださるために安息日を制定されました。神は強い者が弱い者を弾圧し、自分の欲望を満たしていたエジプトの間違った文化を打ち破り、弱い者をも人間らしく生きさせられるために安息日をくださったのです。 つまり、神がイスラエルを尊く思われ、安息日をくださったという意味です。古代社会において弱い者には人権がありませんでした。彼らは家畜や品物のような存在でした。強い者が命じると死ぬしかなく、差別は当然のことでした。古代中東社会で安息というのは神々、王族、祭司だけの特権であり、弱い者たちは彼らの特権のために死ぬほど仕えなければならない存在に過ぎなかったのです。そのような社会で神は弱い者たちにも安息という特権をくださるために安息日を造られたわけです。 弱い者を王のように扱ってくださったという意味です。 「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」(申命記5:14)それは、単にイスラエルにだけ適用されることではなく、家畜、異民族、よそ者にも同じことでした。このように安息日は神の支配の下にある、すべての存在に許された自由と平和の日でした。それなのに、ファリサイ派の人々は、人よりも宗教儀式に目がくらみ、人を憐れまず、罪に定めるだけでした。 3.安息日は人のためにある。 「イエスは言われた。ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(2:25-26)イエスは安息日に弟子たちが麦の穂を摘んだことを咎めるファリサイ派の人々に、イスラエルの代表的な王、ダビデを挙げて仰いました。サムエル記Ⅰ21章で、ダビデが自分を殺そうとしていたサウル王を避けて逃げる際に、幕屋の供えのパンを食べたことを取り上げられたのです。「このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない。それは神聖なものだからである。」(レビ記24:9)幕屋の供えのパンは、神様と民の契約を象徴する聖なる物であり、誰もが食べられる物ではありませんでした。 聖なる祭司だけが、聖なる場所で食べられる聖別された物だったのです。 しかし、神様に選ばれたダビデは、それを食べて何の罰も受けませんでした。 神様が彼を王として用いられるために守ってくださったからです。 つまり、神にとって、当時のダビデは供えのパンよりも大切な存在だったということでしょう。   もちろん、律法は大事なものです。ダビデと供えのパンの出来事は特別なケースです。ダビデのように絶体絶命の状況でない限り、律法は必ず守るべきです。それでは、弟子たちを咎めるファリサイ派の人々に反論なさったイエスは、律法を無視されたわけでしょうか? 違います。イエスは律法と安息日の存在理由を誰よりも、よく知っておられました。それは、人を人間らしく生きさせるためでした。「イエスは言われた。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイ22:37-40)主はご自分が神の子で、ダビデのような偉い人だから安息日なんて破っても良いという趣旨でダビデを取り上げられたわけではありません。 安息日も律法も大事ですが、そのすべてが人のためのものだから、たとえ安息日だと言っても、人の苦しみと悲しみを顧み、助けなければならないということを教えくださるためでした。御父は、イエスを通して、主を信じるすべての人をご自分の子とされます。当時のユダヤ人の社会、法則、慣習のように、人を歯車のように軽んじるのではなく、一人一人を神の子として愛し、重んじておられるのです。 しかし、ユダヤ社会は旧態依然として、人の生命よりも社会、法則、慣習をより大事にしました。そしてそれは神の御心とは相反するものでした。 だからイエスはこれを問題視されたのです。 締め括り 私たちは先週の大信仰問答を通して、人の在り方について学びました。それは神を知り、崇め、一緒に生きることでした。ところで、イエスは神様との関係に劣らないほど、隣人との関係をも大事にされました。すなわち、イエスは律法を通して、神への愛はもちろん、隣人への愛までも学ぶことをお望みになったわけです。今日の本文の、ファリサイ派の人々は、そんな主の御心が分からなかったのです。 彼らはただ、知識と宗教儀式だけを大切にし、自分たちと違う隣人を軽んじ、それを主の御心だと理解しました。そのようなファリサイ派の人々に向かって、イエスは厳重に宣言されました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(27-28)イエスはご自分のことを人の子と言われました。イエスが自らを人の子と呼ばれたのは、神であるご自分が人々の間に共におられることを強調する意味だったと思います。それほど、神は人を愛しておられるのです。新約の時代に安息日というのは、主日だけではありません。主イエスと共に生きるすべての日が安息日であり、主日なのです。したがって、私たちは日曜日の宗教儀式に閉じ籠って、他人を罪に定めず、どうすれば彼らをもっと愛し、共に生きていけるのかと悩みつつ生きるべきでしょう。安息日の主であるイエス様が、私たちにそのような人生を促しておられるからです。

主こそ民を顧みられる神

創世記16章1-16節(旧20頁)エフェソの信徒への手紙1章17-19節(新353頁) 前置き 神に召され、カナンに来たアブラハム夫婦には10年が経っても子供がいませんでした。神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(15:4)と約束されましたが、その約束は、成し遂げられる気配が見えませんでした。結局、アブラハムの妻サラは、神の御心ではなく、自分の判断に従ってアブラハムに一つ提案をしました。それは自分の女奴隷のハガルを二番目の妻にして相続人を設けようとの話でした。しかし、話しはサラの考えとは違う方向に流れていきました。 ハガルは結婚して身ごもると、自分の女主人であるサラを軽んじたからです。これによってサラは心を傷つけられ、ハガルはサラに憎まれ、アブラハムはハガルを見捨ててしまいました。これにより私たちは、神の約束を待ち望まなかった、アブラハムとサラがもたらした悪い結果を目撃することになりました。その結果は思いもよらなかった人間関係と家庭の破綻でした。神はいつも聖書を通して私たちに約束をくださいます。そして、その約束が叶うまで待つことを望んでおられます。創世記16章は神の約束を待ち望むことがどれだけ重要か、神の約束を無視した人間の態度が、どんな結果をもたらすのかを示してくれます。今日はもう一度、創世記16章について話してみたいと思います。今回は、アブラハムとサラではなく ハガルの立場から探ってみましょう。アブラハムとサラを通して神の約束への待望の大事さを学びましたが、ハガルを通しては何を教えてもらえるでしょうか? 1.高慢になってしまったハガル。 創世記16章の出来事が起こった主な理由は、アブラハムとサラの不信仰によるものでした。神は明らかに相続人の約束をくださいましたが、アブラハムとサラは、それを待たず自分たちの判断通りに振舞い、神の約束を無視したわけです。しかし、ハガルにも16章の出来事への少なからぬ責任がありました。それはハガルの高慢でした。「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」(4)当時、ハガルはエジプトから連れてきたサラの女奴隷に過ぎない身分でした。なのに、どうして妊娠と同時に女主人であるサラを軽んじることが出来たのでしょうか。その理由は当時の社会相にありました。 現代にも女性の人権は男性に比べて劣悪な方ではないかと思いますが、アブラハム当時の社会では女性の人権は、はるかに劣悪でした。 女性は男性の財産の一部と見なされ、夫や息子のいない女性は家畜や品物のような扱いを受けるしかありませんでした。このような社会で女性が一人の人格として尊重されるためには、夫と相続人が必要でした。 ところで、ハガルにいきなり夫が出来、また、女主人にはいない相続人を身ごもったのですから、どれほど鼻高々となったことでしょうか。ハガルは、自分が女主人を蹴落としてアブラハムの正妻になったと思ったのでしょう。 急に身分が上昇したと思ったハガルは奴隷という自分の地位を忘れ去り、高ぶってしまったわけでした。 アブラハムとサラが神の約束を待ち望まず、間違った決定を下したとしても、もしハガルが自分の立場を弁えて謙遜に行なっていたら、16章の出来事は起こらなかったかもしれません。むしろ二番目の妻としてサラに認められ、アブラハムにも愛されたかもしれません。 ですが、鼻高々となってしまったハガルは、自分の高慢によってアブラハムとサラから追い出されてしまいました。 創世記16章はハガルに対して一度もサラと同等に扱っていません。 ヘブライ語原文では側女ではなく妻として一度言及していますが、当時の文化に照らしても、聖書の文脈に照らしても、ハガルは明らかにサラより低い地位にある存在でした。 7節から登場する主の御使いも、ハガルをはっきりサラの奴隷だと呼んでいます。「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。」(箴言16:18)、新旧約を問わず、聖書は常に謙遜であることを命じます。 人は人生を通していつも浮き沈みを繰り返します。 名誉、財物、権勢を得る時があれば、そのすべてを失う時もあります。人は神ではないからです。したがって、人はいつも移り変わる自分の立場を認め、力があろうが無かろうが、神の御前でへりくだってあるべきです。高慢な者は必ず倒れるからです。確かにアブラハムとサラの不信心が今日の物語の発端です。ですが、その出来事の本当の理由は、ハガルの高慢からだったと言っても過言ではないでしょう。 2.無関心と排除を経験するハガル。 アブラハムは、サラとハガルとの葛藤を見て、無責任な姿勢で一貫しました。「サライはアブラムに言った。私が不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたの懐に与えたのは私なのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、私を軽んじるようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように。アブラムはサライに答えた。あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(15:5-6)アブラハム当時の遊牧民文化における一夫多妻制は一般的なものでした。その理由は多くの子供を得るためでした。当時は今のように工場やスーパーマーケットは無い時代でしたので、すべてを自給自足しなければなりませんでした。そのため、将来の労働力となる子供が多いことは祝福とされました。「若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。」(詩篇127:3-5)そのため、一夫多妻制にも関わらず、円滑な出産と家庭の平和のため、本妻ほどではありませんでしたが、二番目の妻、三番目の妻たちも、ある程度尊重されていたそうです。ですが、アブラハムはハガルを尊重せず、あまりにも簡単に見捨ててしまいました。 当時、ハガルが感じた裏切られた気持ちと絶望は、どれほど大きかったでしょうか。 世の中の誰も自分の味方ではないと思ったはずでしょう。 結局、ハガルはエジプトに立ち帰ろうとしました。もちろん本文にはエジプトに帰ろうとしたという話はありません。 ただ、ハガルが「荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとり」(7)にいたと言うだけです。さて、ここでシュル街道という場所が登場しますが、これは出エジプト記にも登場しています。「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を3日の間進んだが、水を得なかった。」(出エジプト記15:22)シュルとはエジプトからカナンに向かう途中にある荒れ野地域なのです。 つまり、カナン地域に住んでいたハガルは、自分の故郷エジプトへ帰る途中、シュルという地域に留まっていたわけです。 旧約聖書におけるエジプトという表現は、地域としてのエジプト、国家としてのエジプトという意味と共に、象徴的に「偶像崇拝」「圧制」「罪」「不従順」などの否定的な概念として、よく使われる表現です。つまり、ハガルは象徴的に神の民の座を離れ、神に逆らう偶像の地に戻ろうとしていたとも解釈できるでしょう。ハガルは自分の高慢によってサラに過ちを犯しましたが、その結果は夫の無関心、共同体からの排除でした。高慢になったハガルの罪は明らかな間違いです。しかし、アブラハムとサラの無関心と排除は、ハガルという人をさらに大きな罪の道に追い立てる、もう一つの間違いだったのです。このように、高慢と無関心、そして排除は、罪に罪を加える、より大きな問題を生むだけです。無関心と排除では何事も解決できません。 3.人間の問題を解決してくださる神。 しかし、神は無責任なアブラハムとは違いました。10年間アブラハムに現われなかったかのように描かれた神が、むしろアブラハムとサラから排除されたハガルには現れられたからです。主人公にも現れない神が、脇役を助けてくださるために現れたわけです。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです。」「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」(8-9)神はハガルに、彼女がやるべきことを教えてくださいました。神は彼女の行方を知らずに「お前はどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねられたわけではありません。これは情報を得るための質問ではなく、ハガルが冷静に現実を認識し、覚醒することを促す婉曲な表現なのです。言い換えれば「ハガル、君は誰なのか?君はアブラハムの妻となったが、相変わらずサラに仕える者だ。それは私の意志である。だから、サラのもとに帰って服従しなさい。」すなわち、神はハガルに主の御心を教えてくださり、彼女の高慢さを取り除き、罪の道に陥らないように助けてくださるために、彼女を訪ねて来られたのです。 また、神は不安を抱えているハガルを慰められるために、希望の約束を与えてくださいました。「私は、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。」(10-11)、神はハガルを祝福し、彼女の赴くべき方向を正しく示してくださいました。神は高慢と罪によって完全に崩れるところだったハガルを憐れんでくださり、彼女が新たなる人生を送れるように配慮してくださったのです。「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)ですと言った。それは、彼女が、神が私を顧みられた後もなお、私はここで見続けていたではないかと言ったからである。 そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。」(13-14)ハガルは自分を虐げた女主人サラや自分を捨てたアブラハムとは違って、自分を認め、今後の人生と息子を守ると約束してくださった神の愛を感じるようになりました。ハガルはエジプトからの奴隷であり、共同体に見捨てられた存在でありましたが、むしろ、この出来事を通じて万軍の主に出会うことになりました。そして彼女は自分のことを大切にしてくださる神への信仰を持ってアブラハムのところに帰ることになりました。人間たちの罪による葛藤と問題の中で、神は赦しと愛と希望をもって問題を解決してくださいました。葛藤と暴力は、問題を解決することができません。ひとえに、神によるお赦しと愛と希望だけが世の中の問題を解決できるものです。 締め括り 神に出会い、自分の位置を悟ったハガルは、神が自分に出会ってくださった場所をベエル・ラハイ・ロイ、すなわち「私を顧みられる生ける神の泉」と名づけ、その方との出会いを記念しました。神は創世記16章の主人公であるアブラハムとサラだけを大事になさる方ではありません。神は異邦の女ハガルという脇役にも、喜んで出会い、導いてくださる神です。神は彼女も同様に愛し給うた方なのです。 神はいくら小さな者であっても神に出会うことを望んでおられる方なのです。16章の葛藤の中で傷ついて絶望したハガルは悟らせてくださる神に出会い、その方への真の信仰を持つことになりました。パウロはエフェソ書を通じて、こう語りました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エフェソ1:17-19)今日も、神はキリストを通じて、民が神の御心を悟ることを望んでおられます。神がハガルに出会って信仰をくださり、彼女を顧みられたように、私たちのことをも顧みてくださり、キリストによる深い信仰を願っておられます。その方への信頼と信仰を持っていつも神の中で生きる志免教会になることを祈ります。

断食の本義。

イザヤ書58章3-11節(旧1156頁)マルコによる福音書2章18-20節(新64頁) イエスは表面的にユダヤ人でした。 民族的な背景だけでなく、宗教的な背景もユダヤ人だったわけです。 現代のキリスト者が誤解しやすいことの一つは、キリスト教をイエスが打ち立てたと信じることです。 しかしイエスはキリスト教という宗教を造られた方ではありません。 イエスはあくまでもユダヤ人としてユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教の内部者でした. キリスト教はユダヤ教と分かれてから、イエスの弟子であった使徒の教えを中心に興りました。人々はイエスがユダヤ人のラビの一人だと思いました。というのは、イエスもユダヤ人としてユダヤ人の宗教儀式を行う義務を持っておられたという意味でしょう。だから、イエスは主な活動地域であったガリラヤを去り、ユダヤ教の祭りのためにエルサレムに行かれたわけです。 しかし、だからといってイエスが何も考えずに、習慣的にユダヤ教の宗教儀式を従ったわけではありません。主はユダヤ教を離脱してはおられませんでしたが、ユダヤ教の固着化した、間違った教えは拒否されました。イエスはユダヤ人が誤解している聖書の教えを、本来の意味どおり教えようとしましたが、それによって多くの誤解と葛藤の中に置かれるようになりました。 今日の本文に登場する断食も、それに纏わる話しの一つです。 主はこの断食についての教えを通じて、聖書の読み手に何を教えようとされたのでしょうか。 本文の言葉を通して、話してみたいと思います。 1.宗教の機能は何か? まず、ユダヤ教の断食について論じる前に、宗教というものについて考えてみたいと思います。皆さんのご存知のように、世の中には数多くの宗教があります。そして各宗教にはそれぞれの教義と生き方があります。多くの人は、この宗教を通じて、神を追求したり、祝福を求めたり、心の安らぎを得たりします。 何年か前にインドに行ったことがありますが。 当時、現地で非常に驚いたのはインドにヒンドゥー教の他にも数多くの宗教があったということでした。ヒンドゥー教をはじめ、仏教、ジャイナ教、イスラム教、シーク教、ゾロアスター教、キリスト教、その他に多くの宗教があったのですが、一説によるとユダヤ教まであるそうです。そのあと日本に来てみたら、それに劣らない多くの宗教がありました。 神道は宗教というより文化的な形として存在し、様々なスタイルの仏教、天理教、創価学会、その他の数多くの宗教団体が存在していました。インド、日本だけでなく、他の国々でも同様ではないかと思います。なぜ、世の中にはこんなにも多くの宗教があるのでしょうか。イギリスの小説家アラン・ド・ボトンは自分の著書「無神論者のための宗教」という本で二つの点を挙げて宗教が存在する理由について説明しました。 第一に「共同体意識を培うため」でした。 例えば、かつての神道は国体としての日本を支えるための強力な民族宗教でした。現代の日本人にとって神道がどのような意味を持つのかは、私の知識でははっきり分かりませんが、少なくとも太平洋戦争前までは、神道は日本という国家共同体の意識を高めるための宗教的機能を持っていたそうです。 このような影響は植民地でも見られますが。 韓国ソウルには朝鮮神宮という大きな神社があり、私の実家のある釜山にも大きな神社があったと言われます。 戦争の末期には南太平洋の小島にも鳥居があったと言われ、当時の日本にとって神道というのは共同体意識を培う非常に重要な意味を持っていたようです。第二に「守るべき価値を絶えず追求させるため」でした。 各宗教は独自の経典を持ち、それを繰り返して教えます。これはキリスト教も同じだと思います。 我々は、神の御言葉を繰り返し学び、それを教義化して習得します。 仏教にはお経があり、イスラムにはコーランがあります。このようにアラン・ド・ボトンは宗教の存在意味が一種の制度としての役割を持つところにあると考えました。これが一般論だとは言えませんが、かなり説得力のある主張ではないでしょうか?皆さんは宗教について、どのような理解を持っておられますか。 私たちは習慣的な礼拝、献金、祈り、集まりを通じて信仰的な義務を果たすと考えているのではないでしょうか。 ひょっとしたら、私たちも、このような共同体意識の養いと価値への追求という、宗教の制度的な機能の中にいるのではないでしょうか? 2.宗教行為としてのユダヤ教の断食 だからといって、宗教の制度的な機能が悪いとは言えないでしょう。 確かに、ある程度の制度的な機能がないと宗教は保たれないからです。 でも、それがあまりにも過剰になって副作用が生じると、それは重大な問題になってしまいます。 かつての神道は、国家共同体意識の養いという美名の下、他宗教の信徒にも神社参拝を強要し、特にその悪い影響は、日本や植民地のキリスト教に分裂という深刻な結果を残しています。 現在、韓国の長老派は約250の教派に分かれていますが、その最初の分裂の理由は神社参拝への悔い改めについての論争から生み出されました。 また、宗教的価値の追求ということにも問題があります。 日本の教会の中でも、信仰的な価値を追求する熱心な人たちが、比較的熱心でない人たちを批判し、対立することがあると聞いたことがあります。 私が所属していた韓国の教会では、礼拝に熱心に出席し、大金の献金をし、祈りをたくさんする人々が、そうではない人々を非難し、それから信徒の間に葛藤が生じる場合が多かったです。 このように、各宗教はその宗教が持っている、過度な宗教性のため、本質を見失ってしまう間違いを犯すこともあるのです。 今日の本文に記されている断食という宗教行為が、このような宗教性によって変わってしまった代表的なユダヤ教の儀式でした。 もともと断食とは「私が飢え、その飲食を他人に食べさせる。」という意味を持っていたそうです。 しかし、時間が経つにつれて断食は宗教的な熱心さの道具になってしまいました。 ユダヤの宗教家たちは断食に代表される宗教儀式を通して、自身の宗教的な熱心さと水準を誇りとしました。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」(マタイ6:16)イエスが警告なさるほど、当時ユダヤ人たちは断食を誤用していたようです。 またユダヤ人には断食を通じて、自分たちの感情と信仰の欲望をも追い求めている姿があったようです。「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか。」 (ゼカリヤ7:5) バビロンによって滅ぼされたユダヤ人は、神様がまたユダヤ民族を解放させてくださるまで、約70年の間、神様の御心とは関係なく、ただ自分たちの心の慰め、感情的な欲望を満たすために、断食を誤用してきました。 ちなみに五月の断食とは、イスラエルが滅ぼされた月を記念するもので、七月の断食とは、イスラエル民族のある指導者の死を記念するもので、国や民族の悲しみを記念するものでした。 つまり、神様が、なぜユダヤ民族を滅ぼされたのか、その滅亡が持つ意味は何かに対しては、何の反省もしなかったということです。 彼らの断食は、神と何の係わりもないものでした。 それ故に、主はこのような自己中心的な宗教行為としての断食を咎められたわけです。 3. 断食(宗教行為)に対する神の御心。 古今東西を問わず、キリスト教の最大の問題点の一つは、信徒が自分の慰め、家族の幸せ、仕事の繁栄など、自分だけのために宗教儀式を行うということです。 もちろん、私たちの人生、神様の慰め、家族の幸せ、仕事の繁栄は大切なことです。 私はそれ自体を否定するつもりはありません。 私も皆様個人やご家族、職場などのために毎日祈っております。しかし、はっきり知っておくべきことは、それらは私たちの信仰の一部に過ぎないということです。私たちは、それらよりもっと大きい価値としての神様への信仰を持つべきです。イエスは貧しい隣人のために一緒に喜んで食べられ、悲しい隣人のために一緒に悲しみつつ飲まれました。イエスにとって大事なことは、イエスが目立つための宗教行為としての断食ではなく、神様が愛する貧しい者、悲しい者たちに喜びと慰めになる隣人としての生き方でした。イエスは、誰よりも熱心に祈り、誰よりも熱心にユダヤ人として生きました。 しかし、その祈りと宗教的な熱心さは、神の愛に乾いている隣人との同行として現れました。 イエスは決してご自分のための宗教行為に満足されませんでした。主はその宗教行為の結果として、神様の愛を伝えるメッセンジャーになることをもっと大事に思われたのです。…

復活のある人生。

ヨハネによる福音書11章25-26節(新189頁) 前置き 私たちは日常生活で復活という言葉をよく耳にします。 特に、ニュースや新聞では「○○選手の華麗なる復活」「XX特別法が復活した。」などの表現が、よく使われています。これを推し量ってみると、日常生活で使われている復活という表現は、新しい始まりや活動の再開などを示す時、よく使われていることが分かります。復活という表現の本来の意味は「死んだ人が蘇ること。」という意味なのですが、実際に死んだ人が蘇ることは現実では有り得ないので、こんにちの復活という表現は比喩的な意味ではないかと思います。ところが、依然として「死者が蘇る。」という意味として復活を使っているところがあります。まさにキリスト教です。 聖書はイエス・キリストが死んで3日後に復活し、この世を裁くために再臨なさる時に、イエスを信じるすべての者が、イエスのように復活を経験するだろうと証言しています。 そして、キリスト者たちはそれをイエスの約束だと信じています。 なので、復活はキリスト教の最も重要な教義の一つです。皆さんは復活をどう思っておられますか? 今日はキリスト教が語る復活、そして我々の生活の中での復活とは何かについて考えてみたいと思います。 1.死を治めるイエス·キリスト 新旧約聖書を問わず、私にとって最も印象深い語句の中の一つは「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている。」(ヘブライ9:27)という言葉でした。 人間は誰でも一度は死ななければならない存在であり、誰もが、その後に裁きを受けるに決まっているという、神の厳しい警告だと感じられたからです。 なぜ、人は生きるために生まれたのに、死ななければならないのでしょうか? 先日、志免教会墓地の逝去者名簿を見る機会がありました。 最も幼くして亡くなった方は1歳で、最も長生きなさった方は100歳でした。 一人は、とても幼い年で、また一人は100歳の超高齢まで生存されましたが、結局はお二人共、神の召しに応じなければなりませんでした。 名簿を見ながら、人はいつかは死ななければならない運命なのかと、粛然となりました。 そして、皆が死後、神様に裁かれるんだと思い、畏れを感じました。 このように人間は、死の前で限りなく弱くなる存在です。 いつかは神に召され、死ななければならない存在なのに、なぜ人間はこの世での富や誉や権力のために、他者を苦しめ、互いに争い合い、傷つけて生きるのでしょうか? 人生というものの虚しさに改めて、どのように生きるべきだろうかと反省するようになりました。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書11:25-26)しかし、聖書は死を終わりだと見なしていません。 死後の復活も共に語っているからです。 今日の新約本文であるこの言葉は、ラザロという人が死んだ後、イエス様が彼を生き返らせる物語です。 死んで四日も経ち、臭いがするラザロは、完全に死んでいる状態でした。 しかし、イエスはそのラザロに「ラザロ、出て来なさい」と大声で呼ばれ、彼は蘇らせられました。 イエスはこの出来事を通して、人間の生と死が、神様に遣わされたイエスの権限のもとにあることを教えてくださいました。 人は誰もが、一度は死ななければならない存在です。 人間は、その摂理に逆らうことが出来ません。 しかし、聖書は語ります。 「復活であり、生命であるイエスのもとにいる者は、死んでも生きる。」イエス·キリストは死を打ち砕かれた存在です。 むしろ死は、イエスを信じる者にとっては人生の一部になるだけです。 なぜならば、イエスを信じる我々は終わりの日に、主によって復活させられるからです。 キリスト者にとって死とは、復活を待ち望む人生の一部なのです。 疲れた者が眠り、元気に起き上がるように、イエスのもとでの死は、栄光の復活を経験するための長い眠りに過ぎないものです。 2.復活のためのイエスの苦難 ここで、一つ考えてみるべきことがあります。 なぜ人間は死ぬことが定まっている存在になったのでしょうか。 聖書は、初めに神様が人を造られた時、人に神様と共に生きることが出来る永遠の生命を与えられたと語っています。 人は神の子として創造され、神はその人間を最も大切な子とされたわけです。 しかし、その人間は、自ら傲慢になり、いと高き神の御座を奪おうとする欲望によって、神を裏切り、背く存在となってしまいました。 聖書は、そのような人間の邪悪な振舞いから罪が生まれ、その罪によって神と人間が敵となったと話しています。 ところで、この罪が持つ致命的な問題は、その罪がもたらす呪いとして人間に死が訪れたということでした。 「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ書6:23)聖書は、この罪のため、すべての人が死の支配のもとで、死ぬしかない存在となったと証言しています。 つまり、人間が死ななければならない理由は、私たち人間に神様を敵とする罪が残っているからです。 罪とは、殺人、暴力、盗難等の強悪犯罪のみを意味するものではありません。 人間を創造した神を拒否し、神に逆らうすべての行為が罪なのです。 そういう意味で、神様に従わない存在が、殆どを占めるこの世は、罪の固まりと言っても過言ではないでしょう。 それにも関わらず、神様はこのような罪に満ちた、この世でも罪人を諦めずに神様と和解できる手立てを備えてくださいました。 その手立てとして遣わされた方が、まさにイエス·キリストです。 旧約聖書では、人が罪を贖われる手段として獣を屠り、その血で神に赦される方法を提示していますが、この方法の盲点は、自分の罪に気付くたびに、それを繰り返さなければならない、不完全性にありました。 つまり、一度だけの生け贄では完全な贖いが保たれないということでした。それ故に神は、たった一度の生け贄で過去、現在、未来のすべての罪を一気に贖える強力な生け贄を自ら備えてくださいましたが、それがまさにイエス・キリストの十字架での犠牲だったのです。キリストとは神の独り子が人間になって来られた救い主で、罪のない方でした。その方は罪人たちのために、代わって御自分の命を犠牲にして、その罪を贖ってくださいました。 イエス・キリストが苦しみを受けた理由は、神と人間を和解させる、この完璧な生け贄を捧げるためだったのです。 罪に汚された人間を愛した神様が、罪のないイエスに、そのすべての罪を擦り付け、罪人の代わりにイエスを犠牲にしたわけです。 また、神はご自分の死を通して、人間の罪の償いを完全に支払ったイエスを復活させることで、イエスを信じる者たちも、同じくイエスのように罪から自由な者として復活することを約束してくださいました。…