主の約束を待ちなさい。

創世記16章1~16節(旧20頁)ヘブライ人への手紙10章36節(新414頁) 前置き 先々週の創世記の説教では、人間の信仰と神の約束についてお話しました。私たちは、その説教を通して、人間の真の信仰とは「神から与えられた約束」という前提から、初めて始まると学びました。私たちは、キリスト者として生きていきつつ、信仰の重要性について、絶えず、聞き学びます。信仰がなければ神を喜ばせることが出来ず、信仰がなければ、キリスト者ではないと学んできました。しかし、私たちは、この信仰という言葉だけに集中したあまり、もっと大切なことを忘れてしまう時もあります。まさに、この信仰の主体が誰なのかということです。聖書は新旧約を問わず、人間の行いではなく、信仰によって救われると語っています。しかし、それは単に「信じる」という人間が中心となった、また別の行為を意味するものではありません。真の信仰とは、「私の心の欲望が叶うだろう。」ということを信じるのではなく、「神様が私たちに与えられた約束通りになるだろう。」ということを信じることです。 「私の願いを信じるのではなく、神の御言葉の約束を信じること」これが、先々週の創世記説教で分かち合った内容でした。今日は、その神の約束を信じるということについて創世記16章を通して、再び話してみたいと思います。 1.繰り返されるアブラハムの失敗。 創世記で、アブラハムの生涯を取り扱う箇所は、創世記11章29節から25章7節まで、非常に長い紙面を割いています。このようなアブラハムの長い物語を説教しつつ、一つ、悩みが生じてきました。それは、アブラハムの信仰にある頻繁な浮き沈みのことでした。アブラハムは信仰の失敗と回復を創世記の読み手に繰り返し見せてきました。おそらく読み手は、彼の生涯を眺めながら、繰り返される失敗と回復に疲れを感じるかもしれません。そして、それらを説教する人も、アブラハムの不安定な信仰の故に、ある時はアブラハムの信仰の回復を、またある時はアブラハムの信仰の失敗を説教して、特に違いの無い説教を、一週間おきに繰り返すことになるでしょう。これは説教者の立場では、本当に困ることだと思います。ところが、この失敗と回復が繰り返されるアブラハムの生涯は、全く無意味なばかりなのでしょうか。私は、このようなアブラハムの信仰の浮き沈みが、ただアブラハムだけの問題ではないと思いました。現在を生きていく私たちの生活は、果たして、いかがでしょうか?私たちは、アブラハムに勝る存在でしょうか?我々はアブラハムの浮き沈みを介して、自分の信仰の現状を鑑みなければなりません。私たちは、時には信仰が強くなったり、また時には信仰の弱さを経験したりします。つまり、私たち自身にも信仰の浮き沈みがあるということでしょう。ひょっとしたら、聖書は浮き沈みが繰り返されるアブラハムの生涯を通して、むしろ、それを眺めている私たちに、自分の信仰を顧みることを訴えているのかもしれません。 今日の物語(16章)は、アブラハムが神に出会ってから、10年後の出来事です。つまり、創世記15章の主とアブラハムとの契約から、かなり時間が経っている状況だったのです。しかし、神の約束とは違って、アブラハムには、未だに子供がいませんでした。 「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(創世記15:4)10年前、神は、アブラハムに何よりも感激的な相続人の約束をくださいました。しかし、その約束は10年が経った今でも、全く成就されておらず、アブラハムを焦(じ)らしているだけでした。アブラハムが住んでいた古代中東の社会で、相続人がいないというのは「彼は神々に呪われた。あるいは、彼には権威がない。」などと、人々に嘲笑を受けるべき、大きな欠陥だったからです。現代では子供がいなくても、そんなに大きな問題とされないと思いますが、当時に相続人がいないというのは、社会的な欠格事由となるほどの深刻な事柄だったのです。そして、それは、アブラハムの妻サラにも、同じく心配事になりました。息子がいないサラは、アブラハムよりも、さらに大きな嘲笑を受ける立場だったからです。つまり、相続人が生まれてはじめて、アブラハムとサラは、自分たちの社会的な地位と権威を認められるのでした。なので、彼らは自分なりのやり方で相続人を設けるために工夫し、計画を立てました。それは二人目の妻(原文ではサラと同等、側女ではない。)を迎えることでした。しかし、これは、むしろ家庭内の争いと、神のご計画に反する騒動をもたらす種になってしまいました。これにより、アブラハムは再び信仰の失敗を経験してしまいます。 2.アブラハムの失敗がもたらした種子。 「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。 サライはアブラムに言った。主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷の所に入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。アブラムは、サライの願いを聞き入れた。」(16:1-2)当時、アブラハムとサラの出身地であるウル地域では、妻が不妊だったら、二人目の妻を迎えて、相続人を出産する場合が珍しくなかったと言われます。そして、二人目の妻は代理母ではなく、一夫多妻制による正式な妻でした。なので、新共同訳の側女という表現は、原文のイメージと多少ずれる点があります。(日本と文化が違う)1番目の妻は2番目の妻より、大きい権威を持っており、2番目の妻が子供を産めば、共同の子供として育てました。なので、サラは自分の文化の仕来りに従って、二人目の妻をアブラハムに提案し、アブラハムはそれを受け入れたわけです。しかし、ここには一つの問題点がありました。 「主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷の所に入ってください。」サラは、神が自分を通して、子供をくださらないだろうという、全く根拠のない自分の独断的な判断に従って、神のご意志を勝手に解釈してしまったことでした。実際に、神はアブラハムの体を通して子供を授けると約束してくださいましたが、その子がサラの子なのか、他人の子なのかについては、明らかにしておられませんでした。しかし、神は「サラではなく、他人を通して生ませる。」とも教えておられませんでした。まだ何も決まっておらず、神の約束は依然として有効だったのです。なのに、アブラハムとサラは、自分なりの熱心さで、身勝手に振舞ってしまったわけです。彼らの思いでは、その熱心が正当だったのかも知れませんが、神への信仰においては、神のご意志を限定しようとした、もう一つの信仰の失敗となってしまったということでした。 「神はアブラハムを通して相続人を授けると仰ったが、その子が、必ずしも、サラを通して生まれるだろうとは言われなかった。とにかくアブラハムの子供が生まれれば良いじゃないか?」という考えが、彼らにあったわけでしょう。結局、アブラハムはサラの女奴隷ハガルを妻に迎え、しばらくして、身ごもりました。サラは自分の女奴隷が身ごもったので、ウル式にその子を通して、子無しの汚名返上を図っていたかも知れません。しかし、その結果は別の方向に進みました。 「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」(4)予想とは違って、ハガルはサラを軽んじたからです。ここで私たちが知っておくべきことは、ハガルはウルではなく、エジプト出身者だったということです。学者たちは、このエジプト人ハガルが、アブラハムが飢饉を避けるために行ったエジプトから出てくる時、連れてきた奴隷であると見なしています。なので、結婚への文化的な概念自体が異なっていたということです。おそらくサラはハガルの子であるが、その子を通して自分の権威が保たれるだろうとの、ウル的な思いを持っていたはずでしょう。しかし、エジプト人ハガルの思いは、それとは、また違う点があったようです。結局、アブラハムとサラは、神の約束の実現のためという口実で独断的な判断を下したあげく、また、新しい問題を作ってしまいました。神はサラの子イサクを通して、アブラハムの子孫を受け継がせる計画を持っておられましたが、彼らの独断的な判断は、神の御業を妨げ、家庭の争いと共に、イシュマエルという計画されていない息子まで生ませてしまったのです。 3.信仰において待ち望みが大事な理由。 このような状況で、サラは自分がハガルをアブラハムに与えたにもかかわらず、奴隷ハガルを虐め、夫アブラハムを責めました。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」(5)すると、アブラハムは無責任に、ハガルを放り投げてしまいます。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(6)最終的に、ハガルは、アブラハムの無関心とサラの虐めで、苦しさのあまり逃げてしまいました。しかし、神は彼女を見捨てられず、御使いを送ってくださり、荒れ野の泉のほとりまで逃げた彼女に出会って、ハガルと彼女の息子のための約束をくださいました。 「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」(9-10)、結局、ハガルは、神の御言葉に服従し、アブラハムとサラのもとに戻っていき、彼らに従順に仕え、一緒に暮らしました。そして、息子のイシュマエルを産んだのです。神はアブラハムとサラに与えられた約束のように、ハガルにも、その子孫を祝福し、栄えさせるとの約束をくださって、この出来事を一段落させられました。 今日の出来事は、神の約束への待ち望み、つまり忍耐の不在から起こりました。その始まりは、創世記12章のアブラハムが飢饉を避けてエジプトに行ったことから始まります。神がアブラハムに「祝福の源にする。」という、同道の約束をくださったにも関わらず、アブラハムは自分の判断でエジプトに下り、その時、連れてきたハガルによって、今日の出来事が起こったわけです。(全てがハガルのせいではないが、要らない出来事が生じてしまった。)15章で、神は必ずアブラハムを通して相続人をくださると仰いましたが、その約束には、基本的に妻サラを通して生まれる子供への約束だったはずでしょう。(文脈上)しかし、アブラハムとサラは、自分たちの判断により、その約束を歪曲し、最終的には、ハガルとの結婚により、家庭の争いと約束されていない子供が生まれるという悲劇につながりました。ヘブライ人への手紙には、このような言葉があります。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)神の約束を信じるということは、人の目に、その見通しが立たなくても、その約束をくださった神の御心を根拠にし、成就されるだろうと信じることです。自分の考えとは違っても、すぐに道が開けてこなくても、その約束を与えられた方の完全さに頼って、その約束を信じ込むことです。約束の達成という甘い結果ではなく、その結果を成し遂げられる神の御業という過程を信じることです。そういうわけで、神を信じると自負する者に、必ず求められるのは待ち望みと忍耐なのです。神の御考えと人間の予想は、全く違うからです。忍耐のない信仰は、人間の欲望に過ぎず、その欲望の終わりは、今日の物語のように破綻になるだけです。 締め括り 「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ10:36)私たちは、信仰生活をしつつ、どんなに祈っても叶わない経験をしたりします。子供のために切に祈ったのに子供が不良学生になったとか、ビジネスの上で切に祈ったのに不渡りになったとか、人間関係のために切に祈ったのに、むしろ人間関係がさらに悪くなったとかなどの場合もあります。それらの場合、応えてくださらない神に失望し、信仰が揺らいでしまう時もあるでしょう。そして祈りを止めてしまうこともあります。まだ、神の時ではないのに、自分の忍耐不足のため、諦めてしまうのです。もちろん、最後まで叶わない願いもありますが、その願いへの答えは、神様に属する事柄なのです。我々は自分自身ではなく、祈りを聞かれる神の立場から考えてみる必要があります。自分の祈りが叶うのが、自分の欲求を満たすことなのか、神の御心を待ち望むことなのか、振り返る必要があるでしょう。聞いてくださる方は神様です。聞いてくださるという意味は叶えてくださる方も神様であるという意味でしょう。神が望まれる時、神が望まれること、神が望まれる計画などを、聖書の言葉を通して黙想しつつ、それに応じて待ち望み、忍耐する必要があります。そして、「そうではなくとも」というダニエル書の御言葉のように決定の主導権を神様にささげる信仰を持って神様のお働きを待ち望むべきです。信仰は忍耐との戦いです。そして、その忍耐を持って神の御心を待ち望むのが、真の信仰なのです。忍耐ある信仰者になっていきましょう。そして、私が願う時ではなく、神が成し遂げてくださる時を待ち望みつつ、主を信頼していきましょう。

イエスの価値観。

箴言5章21節 (旧997頁) マルコによる福音書2章13〜17節 (新64頁) イエスが人となって、この地に来られた時、イスラエルは霊的な無秩序の故に苦しんでいる状況でした。もちろんローマ帝国による行政的な統治と、ユダヤ教による宗教的な儀式があったので、目に見える社会的な秩序は、ある程度、その形をなしていたと思います。しかし、目に見えない霊的な状況は、そうではありませんでした。強い者によって弱い者たちが踏みにじられ、苦しめられる時代、正義が不義に覆われ、不条理が蔓延っている、霊的な無秩序の時代、つまり、神の摂理を恐れず、人間が身勝手に神の秩序を崩す暗闇の時代だったのです。そんな無秩序の時代に、この地に来られたイエスは、神でいらっしゃるご自分が直接民に仕え、民を愛されることによって、崩れた霊的な秩序を正して行かれました。前回のマルコ福音書の説教では、そのイエスの御業が「癒し、宣教、教え」だったと申し上げました。イエスは、そのお働きを通して、霊的に無秩序となったイスラエルに秩序を与えてくださいました。主は秩序の神様です。「神と隣人を愛しなさい。」という、律法に記された神の御言葉が、その秩序の根幹となるのです。イエスは十字架につけられ、死ぬまでに、この神の秩序を回復させるために奮闘されました。そして、その主の御業は、今日も主の教会である私たちを通して、変わることなく求められています。今日の説教では、主のそのみ心、すなわちイエスの価値観について話してみたいと思います。 1.皆に嫌われる徴税人、マタイ。 貧しいガリラヤの民を癒し、宣教し、御言葉を教えてくださったイエスは、また、癒しと教えが必要な民を訪れるために、旅路に就かれました。その中でガリラヤ湖のほとりに着かれたイエスは、そこでも民のために教えてくださいました。ところで、説教を終えたイエスの目に一人の男が入ってきました。 「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 」(14)イエスに呼び出された人は、民から税金を収める徴税人でしたが、その名前はレビでした。普通、聖書で徴税人といえば、マタイやザアカイを思い浮かべがちですが、このレビという人は、果たして誰でしょうか?その答えはマタイによる福音書で見つけることが出来ます。 「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9)これにより、我々は、収税所に座っていたレビという人が、イエスの弟子であり、マタイによる福音書の著者である使徒マタイであることが分かります。主の最初の弟子であるペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに加え、徴税人マタイをご自分の弟子になさるために呼ばれたわけでした。ところで、このレビ、つまりマタイは、なぜ浜辺の収税所にいたのでしょうか? まさに、イスラエルの漁師たちから税金を徴収するためでした。当時のイスラエルの徴税人は恨みと憎しみを一身に受ける歓迎されない存在でした。ローマ帝国は頻繁な戦争に対応するために多くの予算が必要な状況でした。そのため、各々の植民地の総督たちは、植民地の金持ちから前払いで高い税を取り上げました。そして、その代わりに彼らに税金を徴収する権限を与えたのです。それは、イスラエルでも同様に適用されました。先に申し上げましたように、当時のイスラエルは、神による秩序と正義が崩れた状況だったので、ローマ帝国に強制的に税金を納めさせられた金持ちは、ローマから与えられた徴税権を悪用して、貧しい同胞からあくどく税金を取り立てました。ローマが持っていった税金よりも、さらに高い税金を貧しい人々から奪ったわけです。旧約聖書が、あんなにも強調していた隣人愛が完全に崩れていたわけです。ところで、本文に出てくるイスラエルの徴税人は、まさにそのような金持ちのもとで働いていた者です。彼らは割当量を埋めるために、同胞から強制的に税金を取り立て、被害を受けたイスラエル人は、彼らをローマ帝国に同胞を売った売国奴のように考えました。なので、当時のイスラエル人は、このような徴税人を遊女や泥棒のように、「地の人」つまり、神の民ではない存在だと見做しました。そういうわけで徴税人は、人々に見捨てられた存在だったのです。 2.徴税人マタイを訪れて来られたイエス。 ところで、マタイは徴税人という自分の仕事に懐疑心を持っていたようです。主がマタイにお声を掛けられた時、すぐに起きて、主に従っていったからです。当時の徴税人は税金をきっちり徴税しようとすれば、民族に疎外され、税金をいい加減に取り立てようとすれば、権力者に責任を問われる立場でした。徴税人は、同胞からお金を横取りして豊かに暮らせる立場でしたが、彼らは果たして、本当に幸せだったのでしょうか?日本帝国時代に、こんな出来事がありました。 1890年に発布された教育勅語が東京の第一高等中学校で朗読された時、すべての人は、それに対し、腰を折って最敬礼をしました。しかし、教師の内村鑑三は、最敬礼をしませんでした。彼はキリスト者だったので、神格化された天皇を拝まなかったのです。しかし、当時の官憲は、その出来事によって彼と共に教会全体を非国民だと攻撃しました。(不敬事件)そのためか、その後、教会は自ら慎み、結局は帝国主義に屈してしまいました。国と民族からの疎外を恐れたからです。また、太平洋戦争の時、当時の朝鮮の教会は、帝国主義に屈し、進んで日本キリスト教団所属の朝鮮長老教団、そして朝鮮メソジスト教団を結成し、礼拝の前に宮城遥拝を行い、戦闘機制作のために教会の釣鐘まで取り外し、納めたのです。帝国の権力を恐れたからです。つまり、日本の教会も、韓国の教会も疎外と権力の前に跪き、屈した恥の歴史を共に持っているということです。この話と今日の本文の間に大きい関係があるかどうか分かりませんが、少なくとも、昔の日韓の教会も、徴税人マタイも、疎外と権力の間で彷徨っていたのではないでしょうか。マタイは、民族からの疎外と権力の脅威の前で、お金しか信じるものの無い孤独な者でした。 さて、そんな彼を遠慮なく呼び出す人が現れました。その人は、主イエスでした。 「見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」疎外と権力の間を彷徨っていたレビ・マタイは、すべてを捨てて、主と一緒に歩み始めました。 14節で「従った。」という意味のギリシャ語、「アコルルデオ」は、単に「後についていく。」という物理的な意味だけを示す言葉ではありません。「一緒にいる。」という意味の「ア」と「道、方向」を意味する「ケルリュドス」が合成された言葉です。つまり、この言葉は「イエス・キリストの道あるいは方向に同道する。」という、より深い意味を持つ言葉です。イエスは、民族と国家からの疎外、そして権力の要求の間で彷徨っている徴税人レビ・マタイを呼び出し、ご自分の道にお招きくださったのです。当代の最も嫌われる存在、当時の宗教指導教員をはじめ、すべてのイスラエル人に「地の民」、つまり神に見捨てられた存在、罪人であると呪われていたマタイに天から臨まれた真の神イエスが、進んで来てくださったのです。そして皆に嫌われる彼を拒むことなく、ご自分の民として受け入れてくださいました。 「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(15) 3.キリスト者に求められるイエスの価値観。 イエスに従ったマタイは、イエスと弟子たち、徴税人や他の罪人と呼ばれる人々を招き、食事を持て成しました。主は決して、善良な人、貧しい人たちとだけお交わりなさる方ではありません。罪人と後ろ指を指される者、すなわち裏切り者、不正な金持ち、売春する者、泥棒など、どんなに悪い人でも、彼らが神に心から悔い改め、隣人に謝り、主の御心に従うならば、主は喜んでお受け入れくださいます。そして、彼らと同席なさり、共にいてくださいます。イエス様が同席して一緒に食事をしてくださるというのは、その相手をもはや他人ではなく、家族や友人のように思ってくださるという意味です。これは、イエスを通して、私たちに示された御父の暖かい御旨ではないでしょうか?ところで、このように罪人たちを招いて赦してくださるイエスを責める者たちがいました。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言った。」(16)彼らはイスラエルの宗教指導者であったファリサイ派の律法学者でした。当時のイスラエルの宗教指導者、つまり財力も、名誉も、ある程度の権力もある者が、罪人たちと一緒におられる神を嘲弄したわけです。彼らは自ら自分自身を清いと信じていました。自分たちは「天の民」であり、神を知っていると高ぶっている者だったのです。しかし、彼らはいざイエスを目の前にすると、罪人と共におられる真の神様を見それてしまいました。 「イエスはこれを聞いて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)イエスは彼らに向かって、イエスが来られた理由を明確に教えてくださいました。 「私は罪人を招くために来たのだ。」イエスが持っておられた価値観は、罪人への裁きと呪いではありません。主はかえって罪人を裁きから救い、呪いから自由にするために来られたのです。罪人への救いと自由、これが本当のイエスの価値観です。前回の説教で、イエスが働かれた「癒し、宣教、教え」は、最終的に、この罪人を招くための手立てだったのです。主は罪人が主に帰ってくるのを切に望んでおられます。どんな罪人であっても、真の悔い改めと信仰があれば、主は誰でもお赦しくださり、お迎えくださる方です。むしろ、今日、登場した律法学者のように、神を信じていると言いながら、自分の無意味な信仰的なこだわりに閉じこもって、他人を憎み、処断してしまう優越感に満ちた者こそが、イエスの裁きと呪いを受けるでしょう。我々は、すでに神を信じるようになった存在です。そんな私たちが、追い求めるべき価値観はどっちでしょうか?赦しと愛のイエスの価値観、高慢と処断の律法学者の価値観。神は今日も私たちの目の前に、この二つの価値観を示され、選択を求めておられます。私たちが進むべき方向、つまり価値観はどちらでしょうか? 締め括り 「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」(箴言5:21)神は、世のすべての人々の人生を見下ろしておられる方です。私たちが、この世を生きていく際は、感じにくいかもしれませんが、終わりの日に私たちが主の御前に立つ時、神は私たちが生きてきた道に対して、ことごとくお問い掛けになるでしょう。私たちの道と方向はイエスと同じであるべきです。そして、イエスがおられるその道が、私たちの価値観になるべきです。人間は集まって社会を作り、その社会の中に法則を作り、その法則を通して世界を判断しようとします。そのため、社会に属している人間は口で、眼差しで、心で、人を社会的に殺すこともあります。聖書はそれを「罪」であると明らかに規定します。今日、登場した律法学者たちが、まさにそのような者でした。イエスが収税所のレビ・マタイを呼び出されず、律法学者たちのように彼を憎まれたら、彼は偉大な使徒となることが出来なかったでしょう。しかし、赦しと自由、そして、同行してくださった主イエスのおかげで、マタイは福音書を書き残すと同時に、偉大な使徒として生きていきました。私たちも主の価値観をよく学び、その中に生きていきましょう。主のように低いところに向かい、赦しと愛とを持って生きましょう。私たちが神の御前に立つ、その日、主はイエスの価値観に従って、生きてきた私たちを喜び、愛してくださるでしょう。

人の信仰と神の契約。

創世記15章1〜21節 (旧19頁)ヘブライ人への手紙11章8〜10節 (新415頁) 前置き キリスト者が持つべき、最も大切な価値の一つは、まさに信仰だと思います。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、信仰によって神に義と認められ、信仰の主であるキリストは人の信仰を見て、救ってくださいます。信仰がなければ、神を喜ばせることが出来ず、信仰がなければ、信徒と呼ばれません。私たちは信仰によって神を信じ、信仰によって祈り、信仰によってこの世を生きていく存在です。それだけに、信仰というのはキリスト教の根幹となる、最も重要なものです。しかし、人間は罪のある弱い存在であるため、その人間の信仰は、いつも不完全であります。聖書に登場する、多くの人物たちは、信仰を持っていたにも関わらず、その信仰を貫くことに失敗しました。そのため、神は、神ご自身が、その信仰の保証になってくださり、信徒の信仰を守り、保たせてくださる方なのです。今日の本文では、その人間の信仰と信仰を守ってくださる神の契約についての話が語られています。私たちの信仰がいくら弱いといっても、神様はその小さな信仰を大切にし、守ってくださる方です。神は、どのように私たちの信仰を守ってくださるのでしょうか、そのことについて話してみたいと思います。 1.人の信仰が持つ限界。 神に選ばれたアブラハムは、主のご命令に応じて、生まれ故郷、父の家を離れて、新しい地に行くことになりました。今まで思いもよらなかった神の登場と、思いがけない命令であった「私が示す地に行け」という主の言葉は、アブラハムの信仰をテストする最初の難関でした。創世記では、アブラハムが神の命令を承って、躊躇ったり、拒んだりした話が出て来ないので、私たちは彼が当たり前に堅い信仰を持って、神のご命令に従ったと考えがちだと思います。しかし、私たちと同じ人間であった彼は本当に何の躊躇いも、心配もせず、主のご命令通りに旅立ったのでしょうか?今日の新約本文を通して、当時の彼の気持ちを推し量って見ることができると思います。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)人間が感じる最大の恐怖の一つは、将来が一寸先も見えず不透明であることだと思います。ヘブライ書ではアブラハムが信仰によって服従したと記されていますが、他人の評価であるヘブライ書の記録ではなく、アブラハム自身の気持ちはどうだったのでしょうか?神に召された当時、自分の生活基盤を捨て、未知の将来に向かって進ませられたアブラハムは、どのような気持ちを持っていたでしょうか?「行き先も知らずに出発した。」この短い言葉の中に、アブラハムが持っていた未来への不安が隠れていると思います。私たちは、誰もが計画を立てて生きていきます。今年の夏休みはどこに行けばいいだろうか?どんな仕事を持つべきだろうか?誰と結婚するべきだろうか?子供の名前はどうするべきだろうか?如何なる人生を営むべきだろうか?このように、小さい計画から、膨大な計画まで、私たちの人生は絶え間ない計画の連続です。 しかし、神はアブラハムに詳細な計画を教えてくださらず、ただ、行きなさいと言われただけでした。そのように将来が分からない状況で、アブラハムが不安を抱くのは当然の結果だったでしょう。飢饉を避けるためにエジプトに下ったこと、生き残るために妻を妹だと欺いたこと、財産のために甥と葛藤が起こったことなど、このようなすべての不信仰は、未知の将来への不安から生み出された出来事であるかもしれません。前回の説教でも、お話しましたが、そのような不信仰のために失敗を経験したアブラハムは、以後、再び神への信仰を持って、神を崇めようとしました。神は、そんなアブラハムに大きな戦いで勝利させてくださり、神の聖なる祭司であったメルキゼデクを送ってくださることによって、神がアブラハムと共におられることを証明してくださいました。しかし、アブラハムは、そのような経験があるにもかかわらず、再び信仰の揺らぎを示してしまいました。ロトと別れた後、神への礼拝の生活を通して信仰を守ってきたアブラハムが、再び現実の前で崩れてしまったわけです。 「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。アブラムは尋ねた。わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。…あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。家の僕が跡を継ぐことになっています。」(創世記15:1-3) 神が直接、アブラハムに現れ、「恐れるな。私がお前の盾であり、お前に報いる存在である。」と話してくださったのに、彼は神への信仰より、相続人がいない現実に飲み込まれ、絶望してしまいました。アブラハムの時代に相続人がいないというのは、将来の不在を意味する深刻なことだったからです。このように不安に震えるアブラハムでも確かに信仰を持っている人でした。しかし、アブラハムの信仰をもってしても、相続人不在の不安を解決することは出来ませんでした。信仰があっても、神を完全に信じられないのは、ひょっとしたら罪人が持つ限界であり、宿命であるかもしれません。だから、人間の信仰はいつも不安定なものなのです。私たちは、自分も知らないうちに、信仰という私たちの行為に重要性を置いたりします。 「私に信仰があるから、キリストに救われた。」あるいは「私に信仰があるから、神が私を導いてくださる。」等。自分が持っている、その信仰に価値を置いたりします。しかし、人間の信仰は、いつも自分の状況に反応して揺れてしまう、弱いものです。私たちがいくら力強く信仰を貫こうとしても、世の中はいつも私たちの信仰を放ってはおかないでしょう。したがって、我々は、自分の信仰に限界があることを認めるべきです。神が守ってくださらなければ、私たちの信仰はいつでも揺れたり、変わったりするはずだからです。私たちの信仰は、あくまでも神のお守りのもとにある際に完全になるものです。 2.信徒の信仰を堅く守ってくださる神の契約。 神に出会って以来、今日の本文の出来事まで、アブラハムはどんな信仰を持って、どのように生きてきたでしょうか? 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:2)私は12章の言葉と今日の言葉を比較して、このように考えてみました。創世記12章の御言葉に従って旅立ったアブラハムは、自分を大いなる国民にし、名高くしてくださるという神の言葉を、神中心ではなく、自己中心的に解釈したのではないでしょうか。すぐに子供が生まれ、民族が打ち立てられ、自分と子孫が有名になるだろうと漠然と、自分勝手に思っていたのかもしれません。しかし、そのような自己中心的な信仰は崩れやすいものです。神のご意志に主導権を置くのではなく、自分の考えに主導権を置くので、計画がうまく行かず、事がすらすら進まない時、すぐに信仰が弱くなって、神を信頼せず、自分の判断に頼るようになるからです。今日の本文で、神は再びアブラハムの将来について約束し、契約を結んでくださいました。しかも今回は確かに相続人の話を取り上げて約束してくださいました。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。…天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:4-5) 今までのアブラハムは、自分の判断に主導権を置いて、生きてきたのかもしれません。しかし、今日の出来事以降のアブラハムは、自分ではなく、神のご判断に主導権を置くようになりました。漠然と考えてきた相続人への自分の考え、つまり、ロトを相続人にしようとした判断、僕エリエゼルを相続人にしようとした判断を捨て、アブラハムから生まれる子が相続人になるだろうという、神の御言葉に主導権を置いて、それを信じ込みました。その時やっと、アブラハムの信仰は初めて神に認められ、その信仰によってアブラハムは義とされたのです。揺れやすい自分の信仰と判断ではなく、揺るがない神の御心と判断を信じた時、アブラハムの信仰は、真の信仰と認められたわけです。真の信仰とは、まさにこのようなものです。いくら強い信仰を持って、熱心に信仰生活をしても、その信仰と判断の主体が自分自身であれば、私たちの信仰はいつも揺れ、失敗してしまう、無意味な信仰になります。しかし、何一つ上手くいかない状況下でも、自分のその現実に束縛されず、神の言葉に主導権を置いて、神の御心を信じ、付き従って行けば、私たちの信仰は、神によって認められ、守られるでしょう。 私たちが、神に主導権を置くべき理由は、主がアブラハムと子孫の信仰を守るために、偉大な契約を結んでくださったからです。 「主は言われた。三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。アブラムはそれらのものを、みな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。」(15:9-10)アブラハムが住んでいた古代中東では、大切な契約を結ぶ時、家畜や獣を真っ二つに切り裂いて置き、契約当事者、皆が一緒に、その死体の真ん中を歩いて行ったと言われます。残酷に見えるほどの、この行為には、「契約を破る者は半分に切り裂かれた獣のように惨めに死ぬだろう。」という意味が込められていたそうです。それだけに当時の契約というのは厳重なものでした。 「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(15:17)神はアブラハムに相続人をくださることと、導いてくださることなど、将来のための約束をされた後、ご自分が直接、切り裂かれた動物の間を通り過ぎてくださいました。しかし、アブラハムは、そこを通りませんでした。ただ、神様だけが、そこを通り過ぎられたのです。これは揺れやすい信仰を持つアブラハムではなく、移り変わりのない神お独りだけが通って行かれることを通して、人の信仰の大小とは関係なく、神ご自身がその契約を永遠に守ってくださることを保証なさったわけです。その契約により、神は揺れる人間の信仰ではなく、その信仰を堅く守られる神ご自身を保証とされたわけです。そして、変わらない神との契約により、主の民の弱い信仰は永遠に守られて認められたのです。 締め括り 「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで。 」(創世記15:18)アブラハムと契約を結ばれた神は、その子孫のために土地を与えると約束してくださり、神の契約が将来にも変わらないと確約してくださいました。このことは、今日の新約の本文を通しても、再び確認することができます。「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 」(11:9)神様が約束された契約は、その後、アブラハムの信仰の原動力となりました。アブラハムはその契約を信じ、子孫に伝えました。それにより、出エジプト後、イスラエルが生まれる根拠となり、以降、神の契約は、モーゼ、ダビデを通じ、イエスキリストを通して、今の私たちにまで至りました。そして、神は独り子イエス・キリストの犠牲によって、アブラハムと結んだ契約を守っておられます。神の永遠に変わらない、その契約は、キリストを通して永遠に守られるでしょう。私たちは、神との契約の中にある神の民です。神の契約は、民のために一方的に犠牲を払ってくださった愛の約束です。その約束は永遠に変わらないものであり、永遠に変わらない約束の故に、私たちの信仰は、いつも強く保たせられるでしょう。そして最後の日、私たちはその神の契約により、アブラハムの霊的な子孫として神の国の民として、神に受け入れられるでしょう。これらの神の契約を覚えて感謝しましょう。その契約によって、信仰を守られつつ、誠実な民として永遠に生きていきしょう。

新しい天と新しい地

福岡 東アジア平和センター長 黄南徳(ファン・ナムドク) 牧師 イザヤ書65章17〜25節 (旧1169頁)エフェソの人への手紙2章14〜16節 (新354頁) 今日、読んだイザヤ書65章は、イスラエルがバビロンから解放されて故国に戻った以降の状況を示しています。 バビロンを占領したペルシャの王、キュロスの勅令で、イスラエルの民は待ちわびていた解放を迎えました。故国に帰ってきた彼らは、神殿も建築し、すべてが本来の場所に戻ったような気がしました。 しかし、イスラエルの民は国を建て直すために努力しましたが、すべてが思ったとおりにうまくいったのではありませんでした。 例えば、対外的には当時の国際情勢が良くありませんでした。 ペルシャとギリシャの間で戦争が起き、イスラエルはまたペルシャに税金を納めなければならなかったため、経済的な困難がありました。イスラエル内部でも、サマリアとユダヤが対立していました。 一言でいうと、紀元前5世紀、イスラエルは国内外の困難に直面し、民衆は疲弊してしまっていました。 神殿建築も厳しいものでした。 その昔、ソロモン王国の時に建てた神殿を思えば、今彼らが建てようとしている神殿は小さく質素なものです。 だから、バビロンから解放されたからといって、すべてが順調によくなっていったわけではありません。 こんな困難な状況にいるイスラエルの民に向かってイザヤは言っています。 19節です。<わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。> この言葉によると、それまではエルサレムでは泣き声が多く、泣き叫ぶ声が多かったということです。 そして 20-21節の言葉を見ますと そこには、もはや若死にする者も 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。 百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。 彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。 この言葉は、多くの人が戦争で無念にも命を落とし、自分の家もなく、ブドウ園を作っても、人手に渡ることの多かった当時の社会像を物語っています。 本文の言葉に接する皆さんの中には、この様な状況が今日の私たちには当てはまらないと考える方もいるでしょう。 今は戦争もなく平穏な状態で、仮に幼くして亡くなる子がいるといってもそれはアフリカのような貧しい国で起きていることで、医学の発達した日本とは関係ない話だと思うかもしれません。 まして、日本は平均寿命が長い、高齢化社会となりました。 では、イザヤ書は私達には全く関係のないことでしょうか? 今日の現実はどうですか? 日本は早くから近代化の道を歩みました。 経済が発展してアジアで豊かな国になりました。もちろんアジアでは日本以外にシンガポール、台湾、韓国なども経済的に豊かな国と呼ばれています。しかし、このような資本主義諸国を見れば、経済が発展すればするほど、金持ちと貧しい人々との経済的格差が深刻になることがわかります。労働者達は低賃金で労働災害の危険にさらされたまま仕事をしています。農民たちは一年中農作業をしますが、多くの借金を負うことになっています。 前述のアジアで豊かな国々において、統計的に差はありますが、貧しい人々が苦しい生活を送っていることは共通しています。 特に貧しいアジアやアフリカ、南米など、いわゆる第3世界の民衆の生活がますます困難になっています。 イザヤ書に照らしてみると、 今日この世界にたった一人でも戦争や貧困で 不当に死ぬ子供と老人がいたら、一人でも自分がした労働の果実を得ることができず奪われる人がいたら、住む所のないホームレスがいたら、正義のためのイザヤの宣言を私たちはもう一度聞かなければなりません。 イザヤは厳しい時代状況の中で、「見よ, わたしは 新しい 天と 新しい 地を 創造する。初めからのことを思い 起こす者はない。それはだれの 心にも 上ることはない」という神様の言葉を宣言します。 新しい天と新しい地を創造する神、歴史の支配者である神、その神の正義と平和を、イスラエルの民に宣言しています。 絶望の中で希望を約束しています。 そうして明日に、そして未来に向かって立たせます。 2020年は全ての人にとって大変な時間でした。 私はコロナが初めて発症したとき、長くても3カ月くらいだろうと思っていました。 こんなに長い間人類が苦しむとは思いませんでした。…