人間の悲惨さ。

創世記12章10〜20節 (旧 16 頁) ローマの信徒への手紙7章21〜25節 (新 283 頁) 前置き 神は如何なる正しさも無かったアブラハムを、神の主権的なお選びを通して、ご自分の民としてお召しくださいました。そして、それからアブラハムを大きな国民になさり、彼らを通して、この世を祝福してくださるとお告げになりました。以後、神の約束は成し遂げられ、イスラエルという民族が打ち立てられ、最終的には、そのイスラエルを通して、世界を救うイエス・キリストが来られるようになりました。しかし、その道筋には、数多くの試行錯誤と紆余曲折もあったのです。もちろん神様に力が足りなくて、試行錯誤や紆余曲折があったわけではありません」。神に召された人々の失敗により、そのようなことが起こってしまったわけです。神に召されても、人間は依然として力不足の存在であり、罪のゆえに苦しむ存在です。人間から完全に罪の影響が消える日は、キリストが再臨なさる終わりの日であるため、その日が来るまで、私たちはやむを得ず、罪の影響下に生きなければならなりません。これが人間が持つ最高の悲惨さです。今日はアブラハムの物語を通して、人間の悲惨さについて分かち合い、神がその惨めさの中で、どのように人間を導かれるかを話してみたいと思います。 1.アブラハムという人が持つ意義。 私の知り合いの牧師が旧約学の博士号取得のために、エルサレムで何年間か滞在したことがあります。彼から聞いた逸話ですが、その人の現地の知人の中に警察官がいたそうです。ある日、その警察官が儀礼的な検問のために車を止めさせたようですが、車の中には、友達4人が乗っていたそうです。ところで、その4人の名前がす​​べてイブライム、すなわちアブラハムだったという話でした。日本の名前で例えてみると、運転席の男は佐藤アブラハム、助手席は田中アブラハム、運転席の後部座席には、鈴木アブラハム、助手席の後部座席には高橋アブラハムが座っていたわけです。皆がアブラハムという同じ名前の友達だったのです。そればかりか、全世界的にもアブラハムという名前は多いです。それだけにアブラハムという人の存在は重んじられていると思います。このようにアブラハムは、ただの聖書のエキストラに過ぎない存在ではありません。アブラハムは、神にも、人間にも非常に重要に扱われる存在です。なぜアブラハムはこのように重要な位置を占める存在となったのでしょうか? 創世記1章から11章までは、アダム以後、人間の罪と罪人たち、そして、その間に弱くても生き長らえてきた正しい人の系図について取り上げています。しかし、本格的な救いの歴史は、まだ現れていない状況でした。ところが、このアブラハムを中心として、今まで薄ぼんやりとだけ見えていた、救いの歴史が一層顕著に展開しはじめました。神は、アダムが堕落した後、彼の子孫が生き残ることが出来るように、彼らを見捨てられず、常に彼らと共にいてくださいました。特に、彼らの中でアブラハムの祖先であった、アダムの三男、セトの子孫は神の特別なお守りの中に生きてきました。これは彼らを介して、メシアを遣わそうとなさった、神のご計画によるものでした。そして、神は、その計画をアブラハムを通して、初めて明確に成し遂げていかれました。これは、このアブラハムという人の息子と孫によって、確立される国民、すなわち、イスラエルを通して人間を救う救い主が来ることになっていたからです。それほどアブラハムは、罪人の歴史の中で、本格的に正しい人の歴史を立てていく記念碑的な人です。そういうわけで、聖書は、このアブラハムを信仰の父と呼ぶのです。 2.アブラハムという罪人。 しかし、このように偉大なアブラハムも、創世記では、たまに残念な姿を見せます。今日の本文は、そのようなアブラハムのがっかりな姿の一つです。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」(創12:10)まず、彼は神に伺わずに、エジプトに下って行きました。古代にあって、飢饉というのは、現代の私たちが感じる旱魃や、大雨などとは比較できないほどの、危険なものでした。飢饉に遭ったら、すぐに死んでしまうとの認識でした。アブラハムがウルを離れた理由も、この飢饉によることだったと推定されるほど、飢饉は人間の生命を脅かすものだったのです。このように飢饉を恐れる古代人たちの姿については、十分に理解できる部分だと思います。しかし、アブラハムが見落としたことがありました。それは神の存在でした。アブラハムがウルで、神を知らないうちに飢饉を経験したとすれば、今回の飢饉との違いは、アブラハムの傍らに神がおられたということです。かつて神は彼を祝福の源にすると祝福なさいました。これはすなわち、神がアブラハムと共におられるという約束でもあったのです。しかし、聖書を読めば、アブラハムは、神に何の要求も質問もしなかったということが分かります。結局、彼は、ただ自分の判断に従って、神を無視し、カナンを去ってしまったということでしょう。 ここで、もう一つの問題は、アブラハムがエジプトに下ったということです。旧約聖書で、エジプトといえば、比喩的に人間の罪と堕落を象徴したりします。つまり、アブラハムは、自分の判断に基づいて、神が定めてくださった場所を離れて、罪と堕落の人間の場所に行ってしまったということです。このように神に伺わず、自分の判断に従ってエジプトに行ってしまったアブラハムの罪は、以来、まるでドミノのように連鎖反応を引き起こし始めます。 「エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。」(創12:12-13)恣意的な判断でエジプトに行ったアブラハムを待っていたのは、現地人の警戒だったのであり、アブラハムは生き残るために、いざとなったら自分の妻を捨てようとする非倫理的な罪の心を持っていたのです。 「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。 アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。」(創12:14-16)生き残るために妻を他人に渡したアブラハムは、その対価として、ファラオと同盟を結び、また、多くの財産を得ました。それでも聖書にはアブラハムが悔い改めたという言葉が、たった一言もありません。妻を諦めて、安全と富を得たというのは、まさに彼が神に頼らず、自分の意志で生きようとする人だったという意味ではないでしょうか? 結局、神はサライのことで、エジプトに恐ろしい病気を下されました。ファラオは、この災いにより、サライがアブラハムの妹ではなく、妻であることを知るようになりました。エジプトが罪と堕落の象徴として言われるところだったとしても、そこに住む人たちも、結局は、私たちのような普通の人でした。日韓感情によって、両国のイメージが、互いに良くなくても、日韓のすべての人が、そのような悪人ではないように、エジプトの人たちも、家族や職場と生活がある普通の人だったわけです。アブラハムは、自分の命を守るために、エジプトの人々にも恐ろしい病気という大変な迷惑をかけてしまったのです。まとめてみましょう。アブラハムは神に伺わないことで神を無視し、自分の判断に従い、エジプトに行ってしまいました。エジプトでは、生き残るために、自分の一人だけの妻を妹だと騙し、他人に渡して安全と富を保障されました。自分の嘘のゆえに、エジプトの多くの人々をひどい目に遭わせました。また、今日の言葉には出て来ませんが、不正で増やしたエジプトからの財産のゆえに、甥のロトとの関係が悪化し、彼を滅ぼされるべき、罪の町であったソドムとゴモラに行かせてしまいました。そのため、最終的にロトの家庭が破壊される結果をもたらしました。 3.人間の悲惨さ。 人が神に召されたからといって、自動的に正しい人になるわけではありません。 2020年の統計で、全世界で21億人のクリスチャンがいると言われます。これは現存人類の33%に達する数字です。しかし、すべてのクリスチャンが本当に神の御前で正しく生きているのでしょうか?毎週、説教する牧師だと言って、皆、正しく生きていると断言することはできません。毎週、教会堂に出席していると言っても、神様に認められていると勝手には言えないでしょう。アブラハムのような偉大な信仰の人物でも、結局、罪のために、今日の本文のような出来事を起こしてしまいました。こういうのが人間の悲惨さです。人がいくら自分の思いで、これは正しいと考えても、その結果が人間の考えとは正反対に出たりすることがしばしばあります。 「罪に落ちたというのは、どういうことですか?-それは人間が神の律法を破り、神から与えられた自由を乱用して、かえって、真の自由を失ってしまい、欲望と不従順との奴隷となってしまったことです。」日本キリスト教会の大信仰問答、人間編45問では、人間が堕落の罪によって、神に与えられた真の自由を守れず、かえって、その自由の乱用により、罪の奴隷となってしまったと教えています。 ひょっとしたら、アブラハムは飢饉のため、神に伺ってみようとの思いも持てずに、取り急ぎ、今まで通りに自分の決定に従い、エジプトに行ったのかもしれません。しかし、神のいない自由を乱用した結果、神を無視することになり、妻を裏切り、正しくない富を得、他人に災いを起こす、悪い結果をもたらしました。これがまさにアブラハムを通して表現された信者に潜んでいる悲惨な罪なのです。これはただ、アブラハムのみの事柄ではないでしょう。私たちも人生の中で神の御心とは関係ない、自分の思いに捉われて、勝手に行なってしまった後、悔い改めた経験があるでしょう。今日の新約本文で使徒パウロはこう言いました。 「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。内なる人としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」(ローマ7:21-23)私たちがキリストを信じ、聖書を読み、切に祈り、信仰生活をしても、罪は相変わらず、私たちの中に残っています。そして、その罪は連鎖反応を起こし、私たちの人生を惨めに作ります。私たちは、自分の中に、このような悲惨さが、依然として残っていることを謙虚に受け止め、自分の弱さを認めなければなりません。そして、そこからキリストに依り頼み、悔い改めるべきです。自分の罪と弱さと惨めさを認め、神に求める人に神は避ける道をくださるからです。 締め括り 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)神は、後にアブラハムを再びカナンに導かれ、彼に生きる道を与えてくださいました。アブラハムは罪を犯しましたが、神はお赦しをもって、彼のすべてを回復させてくださり、再び神の御前に生きさせてくださいました。私たちキリスト者も、もともと罪と悲惨さから自由ではありませんが、神はキリストを通して、そのような私たちが、その罪と悲惨さに勝ち抜く力を与えてくださいます。あの偉大なアブラハムも罪のゆえに躓きました。自分の妻を売り、他人を苦しめる罪を犯したのです。ましてや、我々は罪から自由なのでしょうか?そうではないでしょう。しかし、神は私たちが、そのような生活の中で勝ち抜くことができるよう、キリストを通して一緒に歩んでくださいます。人間は悲惨な存在です。しかし、その悲惨さをキリストは知っておられ、そのために聖霊を通して、一緒にいてくださるのです。今日の言葉を通して、私たちを罪と悲惨さに見捨てられず、導いてくださる神を仰ぎ見ることを願います。

神を知る知識。

イザヤ書1章11- 17節 (旧1061頁)マルコによる福音書1章21-28節(新62頁) 前置き 今日の新約の本文は、一ヶ月前に分かち合ったイエスがカファルナウムの会堂で悪霊を追い出された本文と同じ箇所です。しかし、前の説教で取り上げなかった話しがあり、今日は異なる視点から本文をもう一度探ってみたいと思います。私は一ヶ月前の説教で悪魔の性質について話しました。神の御心に逆らって、自分自身が神のようになろうとするのが、悪魔の代表的な性質であるとお話しました。アダムとエヴァが神を裏切った理由も、自分が神のようになるためであり、バベルの人々が罪を犯してバベルの塔を建てた理由も、自分たちが神の御座に上って行こうとする理由からでした。そして、私たちが生きていくこの世界も、自分が神のようになり、他者を踏みつけ、さらに高いところに上がろうとする、悪魔の性質に似ている所であると説教しました。このような世の中で、キリストの体なる教会、すなわち、キリスト者は、神の御座を奪おうとする悪魔の性質に対抗して、唯一の神のみに仕え、主の御心にふさわしい生活をしなければならないというのが、この前の説教の主題でした。今日は本文が持っているもう一つの部分について考え、私たちが貫くべき在り方について、分かち合いたいと思います。 1.天使と悪魔。 古代ヘブライの、ある文献の中に、このような文章があるそうです。 「神の御心に従う人がすなわち天使であり、神に逆らう人がすなわち悪魔である。」これは善いことをすれば天使となり、悪いことをすれば悪魔となるという、単純な話ではないでしょう。また、霊的存在としての天使と悪魔への知識だけにとどまる意味でもないと思います。おそらく、この文章の本当の意味は、神の御言葉に対する人間の心構えに従って、人間が善良な存在になることも、邪悪な存在になることも出来るという意味でしょう。イランとインドの地域にはゾロアスター教という宗教があります。有名な哲学者ニーチェの著書である「ツァラトゥストラはこう語った。」のツァラトゥストラが、まさにこのゾロアスターです。ゾロアスター教は、そのゾロアスターという人が打ち立てた宗教なのです。この宗教は天国と地獄、天使と悪魔などを認める教義を持っていました。ところで、この宗教はヘレニズム時代に西洋に渡っていき、ギリシャやローマの文化に影響を与え、インドの方にも渡っていき、ヒンドゥー教や仏教に影響を及ぼしたそうです。そんな影響で、旧約聖書では、あまり示されなかった天国と地獄、天使と悪魔に関する概念が、ヘレニズム文化の影響を受けた新約聖書には、より顕著に現れていると言われます。 東アジア地域に住んでいる私たちは、大なり小なり、このゾロアスター教の影響を受けた仏教文化圏で生きてきました。また、キリスト教の教義でも、そのような影響を少なからず見つけることができます。もちろん、天国と地獄、天使と悪魔は存在すると信じています。彼らの存在を認める新約は、神に与えられた御言葉であり、旧約でもそのような概念が全く無いわけではないからです。しかし、我々は天国と地獄、天使と悪魔を、漠然と私たちが住んでいる現実と懸け離れたものとして受け入れてはならないでしょう。むしろ、旧約を記録した、古代ヘブライ人の視点から、天使と悪魔について考えて見るべきだと思います。もし、神の御言葉を聞くだけで、実践の無い、ただ頭の中の知識としてのみ、受け入れるだけならば、我々は結局、神に従わない悪魔のような人と評価されてしまうかも知れません。反対に私たちが神の言葉を情熱を尽くして信じ、実践するなら、私たちは神に天使のような存在として褒められるでしょう。私たちに「信仰によってキリストに救われた。」という信仰があるなら、私たちはそのキリストに救われた者が持つべき在り方にふさわしい存在として、神に聞き従う人、善を行う人、天使のような人として生きていくべきでしょう。 2.悪魔も持っている神への知識、しかし。 イエスがシモン・ペトロとアンドレ、ヤコブとヨハネを召された後、ある安息日に、主は彼らの町であったカファルナウムの会堂に入って行かれました。むかしバビロンによってエルサレムの神殿が崩れた後、ユダヤ人たちは、神殿の不在による民族の信仰の堕落を挽回するために、町々に会堂を設置し、それを中心に信仰と社会を導いていこうとしました。以後、新しい神殿が再び建てられましたが、会堂を中心とする彼らの生き方は変わりませんでした。つまり、会堂はまるで今の教会堂と役場の両面性を持つ場所だったということです。当時、ラビなら誰でも会堂で聖書の説き明かしを行うことが出来ました。ラビの一人と見なされていたイエス様も、会堂で解き明かしされるためにお入りになったのです。ところで、そこに汚れた霊に取りつかれた男がいたのです。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(23-24)大勢の人々が主の御言葉を聞いて、「権威ある者のようなお教え」に驚いていた時、イエスが神の聖者であることを最初に見抜いたのは、普通の人ではなく、この悪霊に取り付かれた者でした。 一部の人々は、この言葉を読んで、こう考えることもあるでしょう。 「さすが、主は偉大なお方だ。悪魔たちも、イエスがどなたなのか、きちんと知っているのだ。ならば、私たちも、彼らに負けるわけにはいかない。よりいっそう主を熱心に信じ、聞き従おう!」ですが、当時の文化の背景であったヘレニズムの観点から見れば、その悪霊に取り付かれた人が叫んだ「あなたは神の聖なる者だ。」という言葉は、単に造り主、唯一の神への畏敬の念を持つ服従の意味としての叫びではありませんでした。これは、古代ギリシャの神殿で行われていた「神を呼び出す行為」と似ているものだったのです。彼らはイエス・キリストを自分の救い主、この世界の支配者として受け入れて告白したわけではなく、「偉大なゼウスよ、神聖なる神々よ。」のように異邦の祭礼的な表現として、イエスを呼んだのです。彼らはイエスを聖なる者と言いましたが、彼らの行為は、そのイエスに仕える者の姿ではありませんでした。人に取り付いて、彼らを苦しめ、傷付ける邪悪な仕業をしていただけです。彼らはイエスに滅ぼされないことだけを願って恐れていたのです。私たちが、いくら教会で「主を信じます。神を愛しています。主は聖なる方です。」と告白しても、それが実践のない、ただの口先だけの叫びにすぎなければ、結局、私たちも本文の悪魔が持っていた神への間違った知識と、そんなに違いが無いのかも知れません。神を知る知識は、言葉だけで示されるものではありません。キリストの民にふさわしい生き方がなければ、それはただ、神に認められない、無意味な知識で終わってしまうでしょう。 3.神を知る知識 – 関係と実践。 旧約聖書には、「ヤダ」というヘブライ語の表現があります。これは日本語で「知る」、「理解する」と翻訳できます。ところで、この「ヤダ」が意味する「知る」という意味は、頭だけで知るという意味ではありません。旧約聖書で「ヤダ」を用いて表現した非常に印象深い箇所があります。創世記18章の話です。三人の神の使いがソドムとゴモラを滅ぼそうと行く途中、アブラハムがその使いたちに会って食事を持て成しました。その時、神様が彼らを手厚くもてなしたアブラハムにこう言われました。 「わたしがアブラハムを選んだのは、彼をとおして息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創世記18:19)この言葉に「わたしがアブラハムを選んだ。」という表現が出てきますが、ここで「選んだ。」という言葉が「ヤダ」を翻訳した表現です。神はアブラハムを非常に信頼なさり、その人を通して素晴らしい御業を成し遂げようという意味で彼を「ヤダ」つまり、お知りになったという意味です。私たちが神を知ることは、まず神様が私たちを知ってくださり、私たちに神への知識を与えてくださったことを意味します。そして、その知識は、単に「知っている」という意味を超える「神との密接な関係」を意味するのです。つまり、神を知るということは、神とキリスト者の間に主従関係を結び、主のご意志に服従し、信頼するという意味です。 今日の新約本文の悪霊も、イエスを知ってはいました。主が神の独り子であることも、偉大な審判者であることも知っていたのです。しかし、イエスへの彼の知識は、関係という意味での知識ではありませんでした。ただ頭で知るだけのものでした。イエスの御言葉に聞き従う意志も、心もなく、イエスが命じられた「自分の体のように隣人を愛しなさい。」という言葉のような、他人への配慮と愛もありませんでした。神への彼の知識は、ただ知っていることだけにとどまるものだったのです。異邦の偶像崇拝者が生きてもいない神々に自分の欲望のために意味のない祈りをすることと同じように、悪魔が理解していたイエスは、主としてのイエスではなく、ただ自分と関係のない存在への認識であるだけだったのです。私たちは、神をどのように理解しているでしょうか?また、神をどのように知っているでしょうか?ただ、祈りと礼拝とを捧げれば、祝福してくださる神という意味だけで信じているのではないでしょう?人が神への正しい知識を持っているならば、それは神との関係、つまり、生活での実践を通して示されるべきです。会堂で悪霊に取り付かれた者と周りの人々を苦しめていた悪魔のような行為をしながら、ただ、頭の知識だけで、神を知っていると思うなら、神はその知識を否定なさるかも知れません。そして「私はあなたを決して知らない。」と言われるかも知れません。私たちは、今日の本文を通して、どのように神を知り、理解しているのかを顧みるべきでしょう。私たちは、神を知っていますか?そうであれば、私たちの生き方は、どのような方向に進むべきでしょうか? 締め括り 「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、わたしの庭を踏み荒らす者よ。洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」旧約のイスラエルの民は、神への誤った理解を持っていました。異邦の偶像のように、ただ多くの供物と祭礼を捧げれば、神が祝福してくださるだろうと思ったのです。しかし、神は、ご自分の民が生け贄を捧げるより、神の民らしく生きることをお望みになりました。頭の知識だけで、従順に聞き従う行為なしに生きることは、神の御前に大きな罪になります。私たちの生活の中で必ず、神への知識に相応する実践が必要です。確かに私達の救いはイエスの御救いにかかっています。ひとえにイエスへの信仰だけが我々を救いに導きます。しかし、善い行いを無視して、救いだけを追い求めて生きているのなら、私たちは自分の信仰が正しいかどうか省みるべきだと思います。イエスをまともに知っている者は、神を愛され、隣人を愛されたイエスに倣って生きようとする意志を持って生きるからです。人は誰でも天使のようにも、悪魔のようにもなることができます。神を知る正しい知識を持って、キリストの民として神と隣人を愛し、キリスト者らしい人生を生きていきましょう。神の祝福は、このような知識の実践のある生活にあるからです。

神のお召し。

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは、これまでの創世記の説教を通して、神の完全無欠な創造、人間の堕落、堕落後の人間の歩みについて学びました。それを通して、私たちが明確に分かるようになったのは、人間に明らかに罪の問題があるということ、神が人間を愛し、その人間の罪を解決することを望んでおられるということでした。そのような神の人間への愛は創世記12章のアブラハムの登場により、具体的に成し始められました。私たちは聖書で読む語句の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。特にアブラハムの孫であるヤコブが神と出会った後に、神はその名を変えてくださいましたが、まさにイスラエルという名前でした。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの精神を継承した共同体が、キリストの体なる教会であると証言しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して民が追求すべき精神である律法と、イエスによる全人類を救う福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神が選ばれた民を教会と、お名づけくださいました。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話ではなく、教会の話です。アブラハムに与えられた召しを通じ、私たちに託された召しとは何かについて、考えてみる時間になることを願います。 1.正しくない者をお召しくださる神様。 本格的に聖書の内容を取り上げる前に、テラとアブラハムが登場する昔話を分かち合いたいと思います。まずはヨベル書というユダヤ教の古代文献に出てきた話です。 「カルデヤのウルに父テラと一緒に木造偶像を作っていたアブラハムが父に質問しました。お父さん、木で作られた偶像は、息も命も無いのに、なぜ人々はそれに拝むんですか?するとテラが答えました。息子よ、私も知っている。しかし、我々が、この偶像が偽神だと言ったら、私たちは、この偶像を崇拝する者たちに狙われて殺されるだろう。だから知らないふりをしなさい。」次は、ミドラーシュというユダヤ教のモーセ五書の解説書に出てくる話です。 「父と偶像の商売をしているアブラハムは、命もない偶像を崇拝する人々を、全く理解することができませんでした。ある日、アブラハムは作業室の木の棒を持って小さい偶像をすべて叩き壊しました。そして、一番大きい偶像の手の上に、その木の棒を置きました。しばらくして、テラが戻って来た時、作業室はぐちゃぐちゃになっていました。それで、テラはアブラハムに問い詰めました。何だ!これ!お前の仕業か!するとアブラハムは言います。一番大きい偶像が小さい偶像らを妬んで、叩き潰しました。するとテラは真っ赤になった顔で叱りました。馬鹿野郎!とんでもないことを言うな。生きてもいない偶像が、これらを倒せるもんか!馬鹿にするな!」 ユダヤ人は、自分たちの先祖アブラハムが正しい人だと思いました。ヨベル書とミドラーシュの物語には、そのようなユダヤ人の心が込められていたのです。しかし、聖書のどこにも、アブラハムが自ら正しかったので、神に召されたという話はありません。むしろ、何の正しさもなかったアブラハムが、自分自身ではなく、ひとえに神を信じ込んだので、神に義と認められたと証ししています。結局、アブラハムも罪を持っている罪人に過ぎなかったということでしょう。アブラハムが住んでいたウルはメソポタミア文明の中心地のような町でした。ウルは多くの神​​々を信じる多神教社会であり、アブラハムはそこで偶像を作る偶像崇拝者だったのです。つまり、彼は自分自身が神を訪れて行ったわけではなく、神が彼にお訪れになり、選ばれて、神の民にしてくださったわけです。神はこのように、義のない者に義をお与えになり、ご自分で保証してくださる方です。そして、新約聖書の時代には、その役割がキリストに受け継がれました。クリスチャンは正しいから救われた存在ではありません。誰かを憎んだり、悪い心を持ったりします。しかし、神は信徒の行為ではなく、キリストのお執り成しを介して、ご自分の民をお受け入れくださいます。だから、神のお召しは、主イエスによる、無償の贈り物であることを忘れてはなりません。 2.主の民を、お先に知っておられる神様。 創世記には、神がアブラハムを「ハラン」から呼び出されたと記されています。聖書によると、ハランはアブラハムの死んだ兄弟の名前だったと言われます。テラの家族はウルに住んでいたが、なぜ当時の文明と文化の中心地であったウルを離れて、ハランに移ったのでしょうか?息子ハランの死を悲しんでいたテラが痛い記憶を振るい落とすために引っ越ししたわけでしょうか?あるいは、神がウルで、その家族に現れて、移住を命じられたのでしょうか?使徒言行録の7章でステファノの説教では、このように取り上げられています。 「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと言われました。」ステファノはテラの家族の移住が神のお召しによるものだというニュアンスで話しました。ところがこのように見れば、創世記と使徒言行録の言葉に矛盾が生じるということが分かります。神がアブラハムをお召し出しになった場所が、創世記ではハランであり、使徒言行録ではウルであるからです。一体、神がアブラハムをお召しになった、正確な場所はどこなのでしょうか? 様々な解釈があるでしょうが、確かなことは、神はアブラハムがウルにいる時から、すでに彼をお選びになったということです。ひょっとしたら、アブラハムはウルで神に出会ったかも知れないし、あるいは、後にハランで出会った可能性もあります。しかし、明らかことは、アブラハムが神に出会う前に、神はすでにアブラハムを知っておられ、選んでくださったということです。おそらくステファノは、すでにお選びになった、その神の偉大さを示すために、ウルでアブラハムに現れたと言ったのかもしれません。聖書外的な話ですが、アブラハムが生きていた時代と推定されている、紀元前2000年ごろ、ウルには、強力な王国があったと言われます。人々はそれをウル第3王朝と呼びます。ところで、このウル第3王朝は、強力な国だったにも拘わらず、その歴史は100年強にしか至らかったと知られています。考古学者たちが、その理由を知るために研究をした結果、当時ウルの地層から強い塩分が発見されたそうです。数千年の農業の故に、土地が荒れてしまい、塩分が多くなって農業が難しくなり、それによって飢饉が生じたわけです。おそらくウル第3王朝は、そのような飢饉による国力の低下と異民族の侵略によって滅びてしまったかも知れません。その頃、全人口の4割くらいが故郷を捨てて、ハランなどの新しい場所に移っていったそうです。日本の状況に言い替えれば、割合的に九州地方の4倍の人口が他国に行ってしまったという意味です。 私たちは、テラの家族が、なぜウルを離れてしまったのか、なぜハランに定着したのか詳しくは知ることができません。上記のような歴史的な理由か、本当に神が現れて導かれたからか、聖書だけでは分かりません。しかし、重要な事実は、飢饉と移住、神のお召しを問わず、そのすべてが神のご計画の中にあったということです。神はすでにアダムとセト、ノア、セムを通じてアブラハムの人生をきちんきちんと準備なさいました。そして創世記12章に至って、最終的に神は彼の人生に介入なさいました。アブラハムは神を知りませんでしたが、神はこの世界の創造、人間の堕落、人類の興亡盛衰の中で、アブラハムという存在の登場を備えておられたのです。神のご計画は、私たちの考えとは全く異なる方法で近づいてきます。私たちが神を知るにも前に、神は、すでに私たちのことを知っておられ、私たちと出会う日を待ち望んでくださり、私たちに訪れて来られたのです。日本の1億3000万人の中で、たった1人である私に来てくださったわけです。それぞれ生きてきた人生も、記憶と経験も異なりますが、神は私たちの苦難の中と、喜びの中で、私たちとの出会いを準備なさり、神がお定めになった時に、私たちに来てくださいました。神は、私たちが生まれる前から私たちを知っておられました。その神が御子の血を通して、私たちを救い、お召しくださったのです。それだけにあなたは神にとって大切な存在なのです。 3.神に召された者たちの在り方。 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」神はアブラハムが祝福の源になると言われました。しかし、彼は長い間祝福どころか、心配の中で生きなければなりませんでした。神の計画により、召されたアブラハムでしたが、彼は後を継ぐ子供もなく、老いていく一方でした。彼は故郷のウルを離れなければならない困難を経験し、ハランでも辛うじて落ち着いたようなものでした。しかし、神は彼に現われて、自分のすべてを捨てて、神に従いなさいと命じられました。しかし、その結果は絶え間ない苦難の連続でした。神に付き従うということは、ただ幸せになるだけの道ではありません。 ローマ時代には「皇帝が上か、キリストが上か」という質問によって、16世紀の日本では踏み絵を拒否したというわけで、また植民地信徒たちの中には、主イエスを唱えて特高によって拷問を受け、死んだ人もいました。共産主義者たちがイエスを信じる人を残酷に銃殺した場合もあり、今も中東では、福音のためにイスラムの原理主義者たちに殺されるクリスチャンも存在しています。 ヘブライ書には、このような言葉があるほどです。 「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」(ヘブライ11 )数多くの聖書の人物たちは、もし神を知らなかったら経験しなくても構わない苦難を、神の民であった故に経験して生きました。それにもかかわらず、神は常に神の民を召しておられます。なぜならば、神はその民を通して、この世界に祝福をもたらされる方だからです。神はアブラハムがまだ神を知らなかった時から、彼を選ばれ、彼が世のための祝福の源となるように導いてくださいました。そして、その結果は、キリストの到来に繋がりました。神様が私たちを召される理由も、私たちを通して、祝福をくださるためです。私たちの口と生活を通して伝わる、主の福音を通して救われる者をお召しになるためです。ですから、私たちが神に召された者であれば、私たち自身がそれを認めて頷くことができれば、どのような苦難と迫害があっても、打ち勝つ強力な信仰を持って生きるべきです。そのような生き方に、神はきっと避ける道をくださり、満ち溢れた祝福をくださるでしょう。 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)キリストは、主のその苦難をご自分の栄光になさいました。そして、主イエスは、苦難の十字架を栄光の十字架に変えられました。皆さん、今日は、少し心が重くなる説教をしました。しかし、「苦難なくして、栄光は果たせない。」という言葉もあるでしょう。私たちが、この世を生きていきながら、幸せと喜びだけを追い求める信仰生活をするなら、神が望んでおられる福音の前進は成し遂げられないでしょう。私たちの全生涯が苦難のみに満たされてはいけないでしょうが、それでも、私たちを召された父なる神、私たちを救われた主イエス・キリスト、私たちを導かれる聖霊と共に歩んで、他人に福音を伝える者として苦難を恐れず、生きて行きましょう。神の召しは苦難と栄光の二つの顔を持って来ます。そのような召しに忠実に適う時に、神は「忠実な良い僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ。」と褒めてくださると信じます。

初めであり、終わりである神様。

イザヤ書40章27-31節 (旧1125頁)ヨハネの黙示録22章12-13節(新479頁) 前置き 明けましておめでとうございます。いよいよ2021年の新しい年が明けました。今年も神の恵みの中で平和と喜びに満ちた一年になることを祈ります。皆さんは、今年、どのような願いを持っておられますが?私はコロナ禍が終結することに加えて、志免教会を通して働かれる神の御手を、皆さんと一緒に見ることを願います。その御手による御業が何なのかについては、今、私が詳細に言うのは難しいと思います。神がどのようなことをなさるかは、私も知ることが出来ないからです。ただし、私個人の願いは、どうか志免教会の周りの隣人が教会に向かって、心の扉をいっそう大きく開くこと、そして、皆さんのご家族の神を知らない方々、神との関係が遠ざかっている方々が、神の御前に来ることを通して、神が私たちの間に働いておられることを発見したいと思います。もちろん、そうでなくとも、神はすべての物事の主でいらっしゃり、ほめたたえられるべき神様です。しかし、少なくとも、これらの願いを持って、新しい一年を祈りを持って生きていきたいと思います。 2021年は、神の偉大さが志免教会の歩みの中で、そして、皆さんの生活の中で、明かるく輝くことを望みます。 1.初めであり、終わりである神様。 皆さんはヨハネの黙示録を好んでお読みになりますか?黙示録はかなり難しい本でしょう?黙示録は、その内容が難解で意味も不明確な部分が多くあるため、神学を専攻した人々にも、難しい聖書だと言われています。しかし、この難しい黙示録も、割と明確にテーマを持っています。私はそれが、まさに今日の新約本文の語句だと思います。 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(12-13)黙示録が、非常に難しい聖書であることは明らかですが、黙示録は、私たちの主であるイエスが、この世界を治めておられることと、いつの日か、この世界をことごとく御裁きになることと、それまで信仰を堅く守る者に報いてくださることについては、明確に語っています。」そういうわけで、黙示録の冒頭と末尾に「 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉が出て来るのです。これはキリストがすべての物事の主でいらっしゃることを強調するわけです。神は、最初から最後までを司られる方です。神によって、この世界が造られ、神によって私たちが生まれ、神によって私たちは、この教会堂に集って、すべての初めであり、終わりである神様を礼拝することが出来るのです。 先週の説教で、私は永遠という言葉についてお話しました。キリスト教にとって永遠とは、「神が最初から最後まで、全てを司ること。」であり、永遠の命とは、その「すべてを司る神と共に歩み、生きていくこと」だと話しました。今日の本文の「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉も、この永遠と深い関係を持っているのです。神様が最初から最後までの全てのことを司られ、すべてのものを治める永遠の御方でおられること、その方がお遣わしになったキリストが、その支配を自らなさっておられることを黙示録は力強く告白しているのです。過ぎし1年を振り返ってみると、全世界でコロナによって180万人が亡くなりました。米国と中国、日本と韓国が対立しました。北朝鮮は相変わらず、核兵器で世界を脅かしています。私たち人間の生活の中で、昨年の様々な問題は、命が脅かされるほどの恐ろしいことでした。いくら強力な権力者であっても、戦争と疫病の猛威の前では、手が付けられないからです。しかし、この全ての出来事はアルファであり、オメガである神様のご計画の中の、ほんの微かなことにすぎません。もちろん、戦争や疫病で人が死ぬことを神のご計画だとは言えないでしょう。もし、神が無分別な死をあおぎ立てる方であれば、彼はすでに神ではなく、悪魔であるでしょう。 すべてが神のご計画の中にあるということは、神が、この混乱した世界の中でも、神の御心に基づいて、世界を正しく導いていかれるという意味です。創造の時、初めの人間が犯した罪の結果は、この世の中に混乱をもたらすことでした。神が初めに造られた完全な世界は、人間の罪によって崩されました。対立も、戦争も、疫病も、そのような人間の罪の故に生まれた悪の副産物なのです。しかし、神はそのような混沌の世界の中でも、相変わらず、キリストを通して慰めと救いとを与えてくださる方です。 「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(Ⅱペトロ3:8)現在、私たちの人生の中で起こる、すべての危機は、人間のみに適用されるものです。神様の立場においては、この世界の千年が、私たちがお茶を分かち合うほどの短い時間にすぎないかも知れません。つまり、この地の危機が神の危機になることは有り得ないということです。神は、その危機よりも大きい方であるからです。むしろ、神にとって、そのような微かな危機の中でも、人間をお覚えくださり、愛してくださる主の偉大さに感謝したいと思います。神がお造りになった、この世界が罪と悪の故に混乱しているけれども、神はいつか、この罪と悪を終わらせられることでしょう。その神を堅く信じ、世の危機に怯えず、神の偉大さに畏れおののく私たちになることを望みます。初めであり、終わりである神様が、この一年も私たちと共におられることを願います。 2.慰めと力を与えてくださる神様。 神は慰めてくださる方です。ヨハネの黙示録の審判者、神様は、神を憎み、逆らう者らに向かって裁きを下される方です。しかし、神を愛し、主の子供として生きようとする者には、喜んで父になってくださる方です。皆さんにとって父という存在は、どのような記憶として残っていますか?私は10歳になるまで、父がいませんでした。私が生まれる前に父は船舶事故によって亡くなったからです。そんななか10歳の冬ごろに、母の再婚を控え、今の父に出会いました。背が高く、声も太く、心が暖かいおじさんが、生まれてから一度も父がいなかった私に、父となってくれました。父がいなかったので、友達の前で父の話を持ち出すことが出来なかった私が、自然に父の話を持ち出すことになりました。それ以来30年間、私の父は私の一人だけの父となったのです。神もそのような方です。過去、肉体の父がどのような人であったかとは関係なく、父なる神様は、完全な愛と慰めと救いの父になってくださる方です。神がキリストを通して私たちをご自分の子供として召された理由は、私たちが天の父なる神様から愛と慰めと救いをいただくためだったのです。 今日の旧約本文は、神を捨て去って、罪と悪の道に進んでいたイスラエルの民が、神の御裁きを受け、バビロンの捕囚として連行された後、神によって解放され、故郷に帰ってくる時、記された慰めの言葉です。 70年間バビロンとペルシャの捕囚として生きてきて、神様が自分たちを憎んでおられると誤解していたイスラエルの民に、神は、愛の神であり、慰める方であり、力をくださる父であることを知らせるためにこの言葉が与えられたわけです。 「ヤコブよ、なぜ言うのか?イスラエルよ、なぜ断言するのか?わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。」(イザヤ40:27)神様がご自分の民に罰を与えられる理由は、彼らを滅ぼすためではありませんでした。神は、主の民が間違った道に行くときに、懲らしめを下されて、神に帰ってくるようになさる方です。親が愛する子供に戒めを与えるように、先生が大切に思う学生に罰を与えるように、神の民に与えられる苦難は、神の御裁きではなく、愛の懲らしめであるのです。神はご自分の民が幸せと喜びを持って、世を生きて行くことを願っておられる方です。しかし、幸せと喜びを口実に我が儘に生きることは望んでおられません。神はその民が信仰を堅く守り、隣人への愛を持って、主と一緒に同行する生活の中で真の幸せと喜びを見つけることを願っておられる方なのです。そのような生活を促すために、神は私たち、信徒に苦難を与えられるのです。 きっと2021年度も、コロナ禍は完全には終息しないと思います。一部の人々は、神が世界を御裁きになるために、コロナを下されたと言うでしょう。しかし、神が神の被造物である人類を呪われるためにコロナをくださったわけではないでしょう。神はこのような困難な状況を通して、人類が自ら反省し、顧みるためにコロナを与えられたかも知れません。教会も同様です。様々な困難な状況に直面している場合でも、神は私達を厳しく叱られるためではなく、私たち自身に悔い改めを促され、神様を仰ぎ見させるために困難な状況を許しておられるのだろうと信じています。神は今日も主の民を慰めてくださる方です。神は私たちを愛しておられる慰めの神様だからです。 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(28-31) 締め括り イスラエル王国があったパレスチナ地域には、イヌワシという大きい種のワシが生息していると言われます。翼を伸ばすと、2メートルに達し、体重も7キロに達するほどの大きい鷲です。この7キロもなるイヌワシが空に飛んで上がるためには、自分の翼の筋肉だけでは無理なようです。そのため、イヌワシは風を利用して空に飛んで上がるそうです。今日の旧約本文の言葉も、それに関連があると思います。神はワシを飛び上がらせる風のように、その民に力を与えてくださる方です。アルファとオメガ、初めと終わりであられる神様は、疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる方でいらっしゃいます。今年もこの神様に依り頼んで、一日一日を生きていく私たちになることを願います。私たちの目の前に暗闇と障壁が遮っていても、神様が与えられる聖霊の風に私たちの全てを委ね力強く生きていく志免教会になることを望みます。イエス・キリストを中心に一つになって、神と隣人を愛し、お互いのために祈り合い、慰め合う生き生きとした志免教会になってまいりましょう。主が喜びを持って、この一年も私たちと一緒に歩んでくださるでしょう。