洗礼と試練とをお受けになったイエス。(1)

詩編2編7-9節 (旧835頁)マルコによる福音書1章9-13節(新61頁) 前置き ローマ帝国の激しい迫害により、甚だしい試練に苦しんでいた初期キリスト者たちには絶対的な慰めが必要でした。迫害のために苦しんでいる神の民に、彼らを罪からお救いになり、永遠の命を約束なさったキリストが、迫害の中でも、相変わらず彼らと一緒におられることを思い出させる必要があったのです。そういうわけで記された本が、まさにマルコ書なのです。そのため、マルコ書は、4つの福音書の中でも最も簡潔かつ力強くイエス・キリストと彼の御業について述べています。私たちは苦難に遭った時、神はあの高い天の上で楽にしておられ、地上の私たちは苦難の中に瀕していると考えがちだと思います。世の中には、依然として不条理があふれ、善人より悪人が頭を擡げているかのような印象を受けやすいからです。しかし、マルコ書は絶えず私たちと一緒におられるイエス・キリストを証しし、主が苦難の中で私たちと共におられるということを訴えています。今日はマルコ書の、その二つ目の話を通して、罪人のために謙虚さと愛とをもって犠牲になってくださるイエス・キリストと、彼が受けられた洗礼について話してみたいと思います。 1.荒野の意味。 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)神は旧約の預言者イザヤを通して、神のメシアが臨むという啓示を与えてくださいました。神はイザヤの預言を通して、そのメシアが来る前に、神の民が荒れ野で、あのメシアの道を整え、彼の到来に備えることを命じられたのです。そのため、イスラエルの民は、荒れ野に特別な印象を持っていました。ローマ帝国の弾圧とイスラエル社会の不条理に苦しんでいた、貧しいイスラエルの民衆は、荒れ野の主の道を通して臨まれる神のメシアと、その支配を待ち望んでいました。荒れ野はイスラエルの民にとって希望の所でした。荒れ野からメシアが来られれば、苦しんでいるイスラエルを救ってくださり、神の国をうち立ててくださるはずだったからです。なので、荒れ野はイスラエルの民衆にとって、神の御裁きの象徴であり、解放の象徴でもありました。そんな荒れ野に洗礼者ヨハネと呼ばれる預言者が登場したという噂は、まるで「荒れ野で叫ぶ者の声」が現れたことと同様な一大事でした。洗礼者ヨハネの登場は、間もなくメシアが臨まれるという希望の前触れだったからです。 そういうわけで、メシアの到来を待ち望んでいたイスラエルの民衆は、洗礼者ヨハネのいる荒野に来て、洗礼を進んで受けました。洗礼者ヨハネの後から来られるメシアに大きな希望をかけて、待ち望んでいたからです。彼らはメシアが来られると不条理に満ちたイスラエルは新たになり、自分たちの苦痛も終わるだろうと信じていました。彼らはメシアが来られれば、暴政を事とする邪悪な王が追い出され、財力と権力しか知らない大祭司たちは罰せられ、見せ掛けばかりの知識人たちも誤りを問い詰められると思いました。とりわけ、神の強い力によって、ローマ帝国が没落、イスラエルの地に神の国が到来し、自分たちが、あんなにも待っていた解放が成し遂げられると信じていたのです。 「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」(詩篇2:9)まるで有名なメシア詩である詩篇2篇のように、世の悪い権力が、恐ろしい裁きを受けるだろうと信じていたのです。それだけに荒れ野は、イスラエルの民衆にあって特別な所であり、そこで悔い改めの洗礼を授けるヨハネは解放の象徴的な人物でした。そして、その荒れ野から来られるメシアは、この世を揺るがす存在でした。 2.洗礼を受けられたイエス。 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」(9)そんなある日、一人の青年が洗礼者ヨハネのところに来ました。彼はナザレの若い大工でした。彼はあまりにも素朴な姿でした。しかし、彼はあの荒れ野からのメシアでした。そのためか、メシアを待ち望んでいた人々は、彼がメシアであることを見分けられませんでした。それにも関わらず、洗礼者ヨハネは彼がメシアであることを一目で気付きました。その青年はイエスでした。今日のマルコ書の本文には出て来ませんが、マタイ書では洗礼者ヨハネの反応が出てきます。 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタイ3:14)神のメシアが自分の目の前に来て、受洗を請うた(こうた)のです。 400年以上を待ち望んでいたメシア、何よりも輝いて強力でなければならない神のメシアが、突然素朴な姿で現れたものです。洗礼者ヨハネは、罪人に聖霊と火の洗礼をお授けになるはずのメシアに、むしろ洗礼を授けることになり、少なからず戸惑いを感じました。しかも、罪人である自分に洗礼を請うているメシアです。迷っている彼にメシアはこう話しました。 「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです。」(マタイ3:15) イエスは全能なる神であり、荒れ野からのメシアであり、全世界の主である方でいらっしゃるのに、なぜ一介の人間である洗礼者ヨハネに洗礼を受けることを望んでおられたのでしょうか?そして、なぜイエスは、神の権能を持っておられたにも拘わらず、荒れ野の主の道で凱旋将軍の姿ではなく、素朴なナザレの大工の姿で来られたのでしょうか?メシアに関する有名な記録であるイザヤ53章には、メシアについて、このように記されています。 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」(53:2)私たちは、この箇所を通して、当初からメシアという存在が、軍事力による征服者や武力を伴う解放者ではないことが分かります。ひょっとしたら、荒れ野での主の道は、メシアの凱旋道路ではなかったかも知れません。イエスは強力な支配者ではなく、素朴な大工の姿で来られ、ヨハネの洗礼を受け、罪人を救うための公生涯をお始めになりました。しかし、人間の考えとは異なり、それでも、父なる神様は、その姿にとても満足なさったかのように言われました。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(11) 洗礼とは、罪への死と清さを意味する儀式です。今日もバプテスト教派では、水の中に沈む洗礼を行なっていますが、イエス様当時の洗礼も水の中に完全に沈んで出る形でした。罪人が水の中に入る行為は、罪に対して完全に死ぬことを意味することであり、水から出る行為は義に対して蘇ることを意味します。これは出エジプト記に出てくる紅海を渡る出来事に由来したもので、パウロは洗礼についてこのように話しています。 「わたしたちの先祖は皆…海を通り抜け、 皆…海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた。」(コリント第一10:1-2から)パウロはイスラエルが紅海を渡る出来事が、罪のエジプトから抜け出し、救いのカナンに入る清めの礼であると理解しました。つまり、洗礼は罪を洗う清めの礼の意味を持っているという意味です。だから、洗礼はひとえに罪人だけが受ける儀式なのです。ところが素朴な姿のメシアが、突然現れ、洗礼者ヨハネに洗礼を求めたのです。イスラエルの民衆も、洗礼者ヨハネも、白馬に乗った強力な王のようなメシアを待っていたのかもしれません。しかし、荒れ野のメシアは全く別の姿で現れ、しかも罪人が受けるべき洗礼を受けたのです。これは、人々が期待していたメシアの姿とは、あまりにも異なる失望すべき様子ではなかったのでしょうか。そのような理由なのか、時間が流れ、洗礼者ヨハネは、イエスにこのような質問をします。 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタイ11:2-3) 3.仕えるために来られたメシア。 イスラエルの民衆が念願していた荒れ野からのメシア、イエスは、征服者の姿ではなく、素朴な大工の姿で来られました。そして、この地上での御働きをお始めになる前に、罪人と共に洗礼を受けられました。これは、すべての人々が予想していたメシアの姿とは、全く違うものでした。神でいらっしゃるイエスは、自らみすぼらしい人間の立場に降りられました。罪のない神様でしたが、罪人の立場に進んで行かれたのです。そして、その全てのことは「正しいこと」を成し遂げるためでした。ローマ書を説教したとき、このような言葉がありました。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ10:4)イエス様が自ら罪人の立場に御降りになり、水で洗礼を御受けになった理由は、御自分を信じる者たちに神の義を与えてくださるために、イエス様が律法の目標になるためでした。ただの人間としては決して達成できない、律法の目標をイエス様が人間の立場にこられ、代わりに成し遂げてくださいました。イエスは罪のない神様でいらっしゃるので、罪を贖う権限があり、同時に人間でいらっしゃるので、その罪を代わりに背負うことも御出来になる方です。したがって、今日の本文に出てくるイエスが受けられた洗礼は、イエスが世のすべての罪人の代表者になると共に、すべての人間の弱さを代わりに背負う崇高な自己否定を意味するものです。 このような自己否定が、メシア、イエス・キリストの最大の特徴です。人々は強力なメシアを願っていたかも知れません。洗礼者ヨハネも自分に洗礼を授けてくださる強力なメシアを望んでいたかも知れません。ひょっとしたら、私たちもメシア・イエスが、強い力を持って、この世を御裁きになることを願っているかも知れません。しかし、初めて来られたイエスは、罪人への裁きではなく、罪人への赦しを持って来られました。主は自ら十字架での死に進み、罪人であるこの世の誰も達成することが出来なかった贖いと恵みをくださるために、強力な征服者ではなく、苦難のしもべとして来られたのです。イエスが受けられた洗礼は、ご自分が無慈悲な審判者になるためではなく、むしろ、無慈悲な裁きを受ける者になるための象徴的な出来事です。ここに今日のマルコ書の説教の主題が含まれています。いくら、強力な者が来て、世界を裁くと言っても、人々に罪の影響が残っている限り、世界は再び堕落してしまいます。罪の影響がはっきり解決されなければ、世界は、しばらくは清くなっても、間もなく罪によって汚されるはずだからです。したがって、真の救いは、罪の解決から始まります。罪が、その力を失うときに初めて、世界は本当に変わることが出来るからです。イエス・キリストは、素朴で低い姿で来られました。そして、自ら罪人に代わって、苦しみを受けるメシアとして来られました。イエスが洗礼を御受けになった理由は、独りで強力な審判者になるためではなく、一緒に罪から逃れるための、民と共におられる救い主であることを証しするためでした。 締め括り。 日本でキリスト教会は全人口の0.5%にも至らない微々たる規模の共同体です。どこから見ても、日本社会に大きな影響は及ぼせない存在です。そのため、為政者が靖国神社などを参拝したり、信教の自由に反する政策を広げたりするたびに、どんなにキリスト教系から声明を出しても、目立つ反応はありませんでした。そのたびに、教会の誰かはイエスが再臨なさって、この国を支配なさり、イエス・キリストの父なる神のみに仕える国になることを夢見るかもしれません。私たちは、そのように強力なキリストを願っているかも知れません。しかし、神はいつも人間の考えとは異なる方法で働かれる方です。神はむしろ微々たる力でも、日本の教会が一つになって、神の愛と福音を伝え、少しずつ、この国を変えて行くことを、より望んでおられるのではないでしょうか。まだ、神を信じていない99.5%以上の日本の人々を愛しておられる神様は、0.5%の教会を通して、日本社会に神の愛を伝え、残酷な裁きではなく、暖かい救いを伝えるのを願っておられると思います。罪人が受ける洗礼を、共に受けられたメシア、イエス・キリストは、今日も日本の人々のための代表者になられ、裁きではなく、救いを与えることを願っておられる方です。ご自分は無垢な方にも拘わらず、喜んで洗礼を受けられ、罪人の立場に降りられたイエスを覚え、この日本社会のために私たちの教会が何をしていくべきか考えてみる1週間になること望みます。

洪水Ⅱ‐世の希望、神の箱舟 。

聖書 創世記7章1-16節 (旧9頁) ローマの信徒への手紙8章19-22節(新284頁) 前置き 神が世界を造られた理由は、被造物に崇められるためでした。神は被造世界を造り、神に象った人間をも造って、その被造世界を支配させ、被造物に対する人間の導きを通して、被造物に礼拝される世界を望んでおられたのです。被造物の中で人間が重要な理由は、まさに、この世界を神に導かれ、崇めさせる祭司の役割を持っていたからです。しかし残念なことに、祭司として創造された、その人間の堕落のため、この世に罪が侵してくるようになり、世界は罪の影響下に置かれることになってしまいました。そのような人間の罪は神の御前に、さらに大きい不義をもたらし、最終的には神を崇めるために造られた、この世界は、罪によって堕落してしまいました。人間の堕落が、この世界の堕落につながったというわけです。結局、ノアの時に至って、神は堕落した、この世を水でお裁きになることを決断なさいました。しかし、神は、そのような堕落した世界の中でも、神に従っていたノアを哀れんでくださり、彼を通して再び機会を許してくださいました。そのために与えられたのが、ノアの箱舟です。今日はこの箱舟が、今の私たちにとって、どのような意味を持つのか、話してみたいと思います。 1.義人を救ってくださる神。 先々週の創世記の説教では、ノアが神にどのような評価を受けたのかを知ることが出来ました。 「ノアは主の好意を得た。」(6:8)私たちは、ノアがどのような人生を送ってきたのか、詳細には知ることが出来ません。彼の仕事、思想、信仰などについて、聖書は詳しく述べていません。しかし、ノアという名前を通して、彼の人生を間接的に推し量ることは出来ると思います。旧約聖書は、多くの場合、登場人物の名前をもって、その人の性格や生き方について説明したりするからです。 「ノア」の語源は、「ヌアフ」というヘブライ語ですが、その意味は「慰める。休ませる。」などの意味を持っています。 「レメクは、主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろうと言って、その子をノア(慰め)と名付けた。」(5:29)ノアの父レメクはノアを儲けた時、ノアが自分の慰めになるだろうと告白しました。また、 6:9では、このノアを義人と称しています。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」日本語の聖書で、「神に従う人」と翻訳されている部分は、原文では「義人」と記録されています。ノアは隣人にだけでなく、人間の罪によって、心を痛めておられた神にも、神に従うことを通して慰めになっていたでしょう。 「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」(6:22)ノアは、おそらく、自分の名前のように隣人を愛し、慰め、罪に満ちた世に対抗して、神に聞き従う義人だったはずでしょう。 神に従い、隣人を慰めたノアは、すべての生命が滅びる状況にもかかわらず、神に好意を得た唯一の人でした。そして、聖書は、そのような好意を得たノアが義人であり、無垢な人であったと証ししています。私たちは、義人という言葉を頻繁に使います。日本では「義人」という言葉を日常生活で、そのまま使うかどうか分かりませんが、明らかにそれに相応する「善良な人、正義の人」などの単語があるでしょう。聖書でも「義人」について少なからず言及されています。それでは、この義人は一体どんな人なのでしょうか?今日の説教ではっきり分かるのは、聖書で語られる「義人」は、単に「正義の人や、善良な人」だけを意味するものではないということです。聖書が語る「義人」とは、神の御心に従って、従順する人です。ノアは「神を愛し、隣人を愛する。」という、神の御心に完全に従い、神の前で無垢な者でした。そのため、彼は神に義人だと認められて、神の好意を得たのでしょう。とにかく、確かなことは、神に義と認められた彼に与えられた報いは、世界の何ものも避ることが出来ない洪水の裁きから避けられる恵み、つまり箱舟を得たということでした。神は全世界を滅ぼそうと決断なさったにも拘わらず、一人の義人、ノアを大切に扱ってくださり、生き残る手立てをくださいました。まさに今日の箱舟のことです。 2.義人に委ねられた被造物の救い。 ところで、今日の本文によると、神に義と認められた人が、たった、ノア一人であったにも拘わらず、神はノアだけでなく、他の存在をも救ってくださったということが分かります。 「雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、 まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。 彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、 命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。 」(12-15)神はノアだけでなく、ノアの家族、また、すべての動物をも、それぞれに救ってくださいました。特に動物に関しては清い動物も清くない動物も連れ、彼らさえも救ってくださいました。神に義と認められた1人によって、彼の家族だけでなく、聖俗を問わず、すべての肉なるものが、神から与えられた箱舟に乗られたのです。何年前か、「ノア – 約束の舟」というハリウッド映画がありました。内容は聖書に基づきましたが、 世俗映画だったので、神学的な価値は非常に低いと思いますが、それでも、記憶に残る場面がありました。蛇たちが集まってきて、箱舟に乗る場面でした。聖書の代表的な清くない動物である蛇さえ、箱舟に乗る場面は、かなり深い印象を残しました。ノアという義人のために、不正な動物さえ、救いを得ることを見て、私たちは、この義人という存在が持っている重要性が、どれだけ大きなものか再び感じることが出来るでしょう。 義人は自分一人だけ、幸せに生きる者ではありません。義人は、自分だけでなく、他者にも、神の救いの影響を与える大事な存在です。創世記の他の箇所で、神に義と認められたアブラハムに神はこう言われました。 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し…地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(12:2-3)神はアブラハムと契約を結ばれ、イサク、ヤコブ、ダビデなどを通じて義人の系図を引き継がせてくださり、最も完全な義人であるイエス・キリストをお許しくださいました。そして、そのイエス・キリストを通して、罪の影響を断ち切られる大いなる御業を行なってくださいました。このように、神は義人を通して、呪いに満ちた、この世に祝福を与えてくださる方です。義人が特別だからではなく、神が、その義人を特別に用いられるからです。(イエスはただの義人ではなく、神そのもの。)神は初めにアダムと結ばれた、被造物の支配という失敗した契約を、別の義人を通して継続なさる方です。神はアダムの失敗のため、罪で汚された世界を裁かれつつ、別の義人であるノアに新しい世界を任せ、御自分の御業を成し遂げられました。私たちが生きている、今の時代にも、神は義人を通して御自分の業を続けていかれる方です。したがって、義人として召されたキリスト者は、常に自分を用いて御働きになる神への信仰を持って、常に神の御心を弁え、へりくだって生きるべきでしょう。ノアを通して、家族と動物たちが救われたように、キリストを通して義人に認められた私たちは、私たちの家族や隣人、この世界の被造物に仕えていくべきでしょう。神は義人を通して被造世界の救いを果たしていかれる方だからです。 3.世の希望、神の箱舟。 改革派教会では、この箱舟を教会のモデルとして扱ったりします。改革派神学によれば、神は義人ノアをお召しになったように、完全な義人であるキリストをお立てになり、彼を通して、この世の新しい箱舟である教会を造られました。イエス・キリストだけが、真の義人であり、彼を信じる人々は、罪の赦しを受け、義と認められ、神の箱舟である教会に属されます。いつか神が世をお裁きになる終わりの日が来るまで、新しい箱舟である教会は、キリストを中心として、世に神の祝福を伝えていくのです。キリスト者は、この教会に属する救われた者です。教会という箱舟に乗り込んだキリスト者は主の福音を宣べ伝え、祈りと御言葉に努め、神の御裁きとキリストの再臨を待ち望んで生きる存在です。しかし、我々はこのような伝統的な改革派神学のみに留まって満足すべきでしょうか。私たちは、ノアの家族だけが船に乗られたわけではないということを確かめる必要があります。神は聖俗を問わず、動物、つまりノアの家族以外の存在をも箱舟に乗らせてくださいました。そして、ノアと一緒に再び世界で生きていくことを許されました。この話は、現代を生きている私たちにどのような教えを与えてるのでしょうか?神の箱舟はノアだけでなく、全ての被造物のためにも与えられたということでしょう。 箱舟の話はこのようにも適用できると思います。まずは、環境的な側面からです。今年、全世界はコロナをはじめ、様々な災いを経験しました。特にその中に産業化による災いが多かったそうです。今年の地球の温度は18世紀より1.1度も上がったそうです。そのため豪雨、猛暑、山火事などが起こったりしました。それは過去のキリスト教の間違った認識によって自然を征服の対象だと思っていた欧米諸国の誤った自然認識が、世界中に広がった結果ではないかと思います。こんな状況下で、我が教会は、自然と環境を愛し、面倒を見、守るべきです。次は、社会的な側面からですが、産業革命を通して、素早く発展した国々は、自国の利益のために他国を侵略しました。また、各国内でも、富裕層が貧困層を苦しめる理不尽が生じ始めました。そのような過去の歴史が国々や人々同師の隔たりをもたらし、依然として世界のあちこちでは、国々と人々の間の傷が残っています。教会は、このような傷を癒し、平和に満ちた世界を作っていく義務を持っています。比喩的な話ですが、自分だけが箱舟に乗っていると思っていた欧米キリスト教の誤った教えのため、「他者は箱舟に乗れなかったと見なし、他者を征服し、弾圧しようとする傾向」が蔓延るようになったのではないでしょうか。ノアだけでなく、他の被造物にも該当される神の救いと箱舟の意味を誤って理解し、教えた教会の過ちの結果が、こんなに大きな問題点をもたらしたのではないかと思います。 箱舟はノアだけのために与えられたものではありません。義人ノアは神の祝福を他の被造物とも分け持つ義務を持っていました。自分の大切な家族だけでなく、他の被造物をも神の救いに招く義務を持っていたわけです。人間を含む、世界のすべての被造物は、神の所有です。神は義人を愛しておられますが、他の被造物をも大切になさる方です。キリストを通して義人として召されたキリスト者は、そのような神の御心に倣い、神と隣人はもちろん、被造世界にも仕える使命を持っています。神がノアに与えてくださった箱舟は義人を通して世界を祝福なさる、神の愛を象徴するものです。新しい箱舟と呼ばれる教会も同様です。教会は自分の利益だけを企んではいけません。隣人、自然、社会等、あらゆる場で、神の救いが伝わるように、仕え、愛して生きるのが教会の在り方ではないでしょうか。洪水によって、すべての肉なるものが裁きを受けましたが、箱舟の中にあった被造物は再び命を続けることが出来ました。キリストの体なる教会は、この時代の箱舟として、被造物を神の御救いへ導く希望にならなければなりません。神はすべての被造物に祝福を与えるために、神の箱舟、つまり教会を許されたのです。 締め括り 「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(8:19,21)人間の罪のゆえに、被造物も罪の支配に置かれています。被造物の待ち望むことは、神の子たち、すなわち主の教会を通して、神の子らの栄光に輝く自由を得ることです。神は、この時代の箱舟である教会に天地万物を罪の影響から解放させる使命を与えてくださいました。ノアだけのための箱舟ではなく、他者と被造世界のための箱舟でもあることを覚え、この時代の箱舟である教会の役割をもう一度考えてみる機会になることを願います。私たちは、キリストによって義と認められた義人の集まりです。私たちには義人としての役割が託されています。隣人を愛すると共に、自然と社会の隅々まで関心を持って祈り、仕える志免教会になることを願います。私たち志免教会を通して、志免と須恵そして、福岡に神の祝福が臨まれるように祈ります。神の恵みに満ちる一週間になることをお祈りします。

福音の初め。

イザヤ書40章3-5節 (旧1123頁) マルコによる福音書1章1-8節(新61 頁) 前置き 今週からはマルコの福音書をもって新約の御言葉を学んでいこうと思います。新約聖書には、4つの福音書があります。その中でも、マルコの福音書は、最も簡潔な文体と主題で、イエス・キリストの福音を急進的に伝える書です。そのため、古代のキリスト教の指導者たちは、マルコの福音書を獅子(ライオン)の福音書と呼んだそうです。まるで勇ましい獅子のように、力強く福音とイエスについて証言する聖書だからです。 4つの福音書は、それぞれの特徴を持っており、各福音書は、イエスについて、いくつかの側面から説明しています。マタイは、アブラハムの子孫、ユダヤの王であるイエスを、ルカは人間イエスの生涯を順々に、ヨハネはイエスが、ただの人間ではなく、神そのものであるという観点から述べています。しかし、マルコは、そのすべての視点を省略して、最も重要な福音の真理である「イエスは救い主である。」を宣言することによって始まります。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」今から数ヶ月間、私たちは、この強力な福音の書について学んでいきます。マルコの福音書の説教を通して、神様の豊かな御恵みと御教えに触れることを切に望みます。 1.マルコの福音書はどのような書か? マルコ書は、福音書の中で一番最初に記されたものです。あの有名なローマ帝国の暴君、ネロが皇帝だった西暦64年に、帝国の首都ローマでは大きな火災がありました。火災はローマの3分の2を灰燼に帰し、甚大な被害をもたらしました。ローマ市民の心は怒りに沸き立って、物狂いネロがローマに火をつけたという噂が流れ始めました。政治的なリスクの中に置かれたネロは、市民の怒りを鎮めるために、当時の新興宗教であったキリスト教徒が放火したというデマを飛ばしました。キリスト教は神と隣人を愛し、イエスを伝える善良な共同体でしたが、そのようなデマにより、一瞬にして邪教の烙印を押されてしまいました。そのため、ローマ帝国の内部ではキリスト者への迫害が始まりました。そして、その邪教という汚名と迫害は200年以上の長い間、キリスト教についてまわりました。イエスを信じているという理由だけで信徒たちは闘技場で猛獣の餌にされ、信仰を保つためには、命をかけなければならない、恐ろしい時代を送らなければなりませんでした。キリスト者は生きるために身を隠したり、時には疲れて信仰を捨てたりしました。彼らはただ、キリストへの信仰を告白しただけだったのに、その報いはあまりにも残酷だったのです。 彼らは自然に、こんな問いをするようになりました。 「神様、どこにおられるのですか?」「イエスよ、あなたはどなたですか?」信徒たちの信仰が弱まり、神とキリストへの信仰が崩れていった時、主の民には希望が必要でした。神の子が一緒におられることを、もう一度悟らせなければなりませんでした。マルコ書は、そのような絶体絶命の時、絶望の中に陥れられている信者のために記録された書です。死の恐怖の前で神を探している者らに、すべてを投げ出したいと思う者らに希望と慰めを与えるために、マルコの福音書は記録されたのです。そのため、マルコ書は西暦65年から70年の間に記録されたそうです。マルコ書の頭部には、華麗な述語はありません。むしろ、信仰の源、イエスについて簡潔かつ率直に伝えているだけです。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」このマルコ書は今日を生きている我々にとって、どのような意味を持っているのでしょう?日本という特有の文化、キリスト教の伝道が、あまりにも難しい環境、あの有名な小説家、遠藤周作の小説「沈黙」に書かれているように、「まるでキリスト教という木を根から腐らせる沼」と言われる日本でも、マルコ書は諦めずにそして変わることなく、主イエスの福音を宣言しています。 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」主は今日もマルコ書の言葉を通して、神が依然として日本の教会を愛しておられ、その御子はちっともに変わらずに私たちの間におられることを証言しているのです。 2.神の使者、洗礼者ヨハネ。 1節で、御子イエス・キリストの御健在を宣言したマルコ書は、すぐに旧約聖書の啓示を紹介します。 「預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(2-3)マルコ書は、これが旧約聖書の有名な預言者であるイザヤの書での記録だと証言していますが、実際に、この部分はイザヤ書だけでなく、 旧約聖書の最後の預言者であるマラキの言葉が合わせられた部分です。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(イザヤ40:3)「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」(マラキ3:1)マルコはこの二つの文章を引用し、神の子イエスが、すでに古くから準備され、旧約を通して預言された神のメシアであり、彼が臨む前に、ある使者を遣わして、その道筋を準備させると証言しているのです。マルコ書はその使者が洗礼者ヨハネであり、彼の登場の後、真のメシアであるイエスが来られることを告白しています。使者の登場は、即ちメシアの登場を意味するものだからです。だから、マルコは神の子イエスの福音の宣言の後、すぐに洗礼者ヨハネを登場させます。つまり、救い主の到来が迫ってきたということです。 ところで、イエス当時、「神の使者」というものには、どのような意味があったのでしょうか?これを探ってみるためには、過去の歴史を振り返ってみる必要があります。洗礼者ヨハネが来る約600年前、不従順と偶像崇拝で綴られていたイスラエル民族は、結局、神の厳重な裁きを受けて、バビロン帝国に滅ぼされました。神殿は崩れ、民は捕囚となって異邦の地に連行されました。時が流れ、神はイスラエルを哀れんでくださり、捕囚の身から解き放たせ、再び故郷に帰還させてくださいました。イスラエルは指導者ネヘミヤとエズラを通じ、過去の罪を悔い改め、新たに生まれ変わることを約束しました。しかし、その情熱は長続きしませんでした。彼らは依然として神を信頼しておらず、また、神に従わない愚かな過ちを犯してしまったのです。その時、神様は預言者マラキを遣わされ、旧約聖書の最後の言葉をくださいました。 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に子の心を父に向けさせる。」そして、400年以上の間に、神は啓示をお止めになりました。神の時をお待ちになり、沈黙なさったのです。神の啓示が消えた時代に、イスラエル民は、ペルシャ、ギリシャ、いくつかの戦争、ローマ帝国の支配を経験し、イスラエルの神ではなく、邪悪な権力に支配されなければなりませんでした。 神の言葉が消えた世界で、イスラエル民族は苦しみを体験しなければなりませんでした。彼らは再び神が共におられることを待ち望みました。民が苦しみの下にいる時、異民族の悪人が彼らの王になって暴政を敷き、祭司たちは祭礼ではなく、権力と富に興味を持ちました。民を教える学者たちは、自分の知識をもって民を蔑みました。徴税人のような売国奴はローマ帝国の側に立って、同胞の血を絞りました。あちこちで強盗が暴れ、イスラエルの過激団体は、ローマ軍との衝突し、社会の雰囲気は荒れに荒れていたのです。イスラエルは、まるで牧者を失った羊の群れように飢え、彷徨いました。そんな彼らにとって、唯一の希望は400年前、神が残された御言葉でした。 「神は預言者マラキの啓示のように、主の使者をお遣わしになるだろう。彼が来ると、やがてメシアがお臨みになり、必ず我らを解放してくださるだろう。」イスラエルの民が、洗礼者ヨハネを歓迎した理由は、このためです。神の使者、洗礼者ヨハネが来れば、もうすぐメシアが来られるはずだったからです。マルコはそんな理由で、洗礼者ヨハネを他の福音書に比べ、いきなり登場させます。洗礼者ヨハネの登場は、即ち神のメシアの登場を意味するものだったからです。 3.イエス・キリストの福音の初め。 イエス・キリストの到来は、希望のない所に希望が、神の支配のない所に神の支配が、御言葉のない所に御言葉が、慰めのない所に慰めが戻ってくるのを意味します。過去に罪のために神から見捨てられ、忘れられた者らが、神の御前に召し出され、神は父になり、見捨てられた者らは子供となる、新しい時代の始まりを意味するのです。イエス・キリストの到来は、神と人間の関係を根本的に新たに確立する空前絶後の新しい歴史の始まりです。イエスはこのようなグッドニュース、即ち福音の初めになる御方です。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(イザヤ40:3,5)神の使者が先立って来、主の道を備える際に、神はメシアを通してご自分の民に来られ、主の栄光をお現わしくださり、すべての肉なる者が、共にその栄光を見るように導いてくださるでしょう。イエスを通して、人間は一緒に共におられる神の栄光を悟ることになるのでしょう。それは古代帝国に支配されていたイスラエルが、ネロの迫害にうめき声を吐いていた初代キリスト教会が、切実に求めていた主の恵みなのです。今、その恵みはキリストの福音を通して、主を追い求めている、すべての者に許されています。マルコは、そのような神の恵みが、ただイエス・キリストを通してのみ、行われることを強く証言することにより、既に来ておられるイエス・キリストに私達の希望を置くことを促しています。 神の使者として、先立って遣わされた洗礼者ヨハネは、すぐに到来するメシアについて証言し始めました。 「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:7-8)イエス・キリストは、権能の主です。彼は私たちと一緒におられ、私たちを神のもとへ導かれる方です。彼は私たちの希望なのです。しかし、主につき従うためには、主の福音と力を認めるべきです。過去、イスラエルが犯した不従順の罪を捨てなければなりません。主への堅い信仰が必要です。そのために私達は自分の中にある罪を主イエスの御前に置き、常に御赦しの恵みを求めるべきです。 今日の最後の節では、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授け、主イエスは聖霊で洗礼をお授けになると記されています。聖書で水は死あるいは清さを意味します。その二つは全く違う異質のイメージを持っていますが、罪に対しては共通点を持ちます。死者は罪を犯しません。死者は罪に対して清いです。水の洗礼は罪に対して死ぬことを意味します。洗礼者ヨハネは主の到来の前に,まるで罪に対して死んだ者のように罪を捨て、来たる主を待ち望もうという意味で水の洗礼を授けたのです。しかし、主が来られると、単なる罪への死を越えて、義とされた者として蘇り、主と共に歩むことが出来る聖霊の洗礼をお授けくださいます。主イエスを通して、私たちに来られる聖霊は、私たちの中に清い心を造り、私たちを義の道にお導きくださいます。今日の洗礼者ヨハネの物語は、私たちを、そのような悔い改めの場に招きます。そして、福音の初めであり、福音の源である主に私たちを進ませます。私たちの間におられる主イエスを期待し、自分の罪を悔い改め、主の聖霊のお導きを求めていきましょう。私たちを神に導かれる主に、私たちの罪を悔い改めることによって、主の福音に答えて行きましょう。 締め括り 私は時々自分自身にがっかりしたりします。幼い頃から聞かせてもらったイエスの話、神学を勉強しながら、常に接してきたイエスの話、あまりにもたびたび取り上げてきたイエスの話ですので、感謝をもって反応することが出来ない時が少なからずあるからです。しかし、このイエスの福音は絶対に軽んじられてはならない大事なものです。神様は、はるかな昔から、計り知れない長い時間を通して、このイエスを準備され、時をお待ちになり、私たちに与えてくださいました。旧約聖書の民と預言者たちが、命をかけてまで、切に待ち望んだ神のメシアが、このイエス・キリストなのです。この大事な方が、我らのために来られるという予告が、福音が持っている掛け替えのない価値なのです。マルコの福音書を説教しながら、そのイエスの福音を再び心に留める私たちになることを願います。主の共同体である志免教会がマルコ書を通して、その福音に敏感に反応する共同体になることを祈ります。福音の主が我らと共にお歩みになることを願います。

説教 「洪水Ⅰ‐信仰による箱舟。」

創世記6章1-8節 (旧8頁) ヘブライ人への手紙11章6-7節(新414頁) 信仰による箱舟。 先々週の創世記の説教では、アダムの系図を通して、アダムの息子たちであるカインとセトの子孫を比べて話してみました。神を疎かに扱ったカインの子孫と、神を慕っていたアベルの信仰を受け継いだセトの子孫の、互いに対比される生き方について分かち合いました。また、私たち自身は、そのカインとセトの子孫の生き方の中で、どっちの方に近い生活をしているのか、反省する必要があるとも話しました。私たちは、カインの子孫に近く生きているのでしょうか?それとも、セトの子孫に近く生きているのでしょうか?常に自分のことを弁えて生きるべきだと思います。今日は、神が人間の不義をどのように考えておられるのか、また、それに対して、どのような結論を下されたのか、ノアの洪水物語を通して、取り上げてみたいと思います。今日の言葉を通して、罪への警戒心を持って、神に喜ばれ、神の御心に聞き従う志免教会になることを願います。 1.不義の力。 「地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(創世記6:1-2)創世記6章は多少昔話、あるいは伝説のような形式で始まります。神の子らと人の娘たちという表現で始まるからです。歴史的に、この語句には、多くの解釈がついてきました。神の子らが天使を意味するという解釈もあり、地の王たちを意味するという解釈もありました。改革派神学では、神の子らは「神を信じる者」であり、人の娘たちは「神を信じない者」との解釈もありました。諸々の解釈が存在しますが、重要なことは神の子らと人の娘たちが出会い、一つになったとき、神は心を痛められ、裁きを決断なさったということです。 「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」(3)1-3節の言葉を通して、神の子らにしろ、人の娘たちにしろ、両方の存在の遭遇は、善をもたらすどころか、さらに大きな罪をもたらしてしまったということが分かります。 これは「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。」(2)との言葉から、その手掛かりを得ることが出来ます。神の子らは人の娘たちの美しさを見て、自分が欲しい女を妻としました。ここでの「美しい」という言葉はヘブライ語で「トブ」と言います。これは「良い。」という意味ですが、ここでは「自分の目に良い。」という意味で使われます。しばらく、エデンの園に背景を移してみましょう。アダムの妻、エバが「善悪の知識の実」を見たとき、ヘビに惑わされ、「いかにもおいしそうで、目を引き付ける」と感じました。ここでも、ヘブライ語「トブ」が遣わされています。善悪の実を禁じられた神の御言葉とは別に、自分の目には、その木の実が良いものと感じられたわけです。つまり、今日の本文の神の子らも、エバが犯した罪を同様に犯していたのではないでしょうか?神の御言葉とは関係なく、自分の意志に従うこと、神の御命令よりも、自分の考えが優先される罪を犯したということです。神の子らは、アダムとエバ、そしてカインの子孫のように、神を無視する罪を再び犯してしまったのです。 神は人間が罪を乗り越えていくことを望んでおられたかも知れません。しかし、かつてのカインのため、その希望は破れてしまいました。もし改革派神学の解釈のように、神の子らは、セトの子孫、すなわち信じる者であり、人の娘たちは、カインの子孫、すなわち未信者であれば、最終的にはセトの子孫もカインの子孫のように、神の御前で罪を犯してしまったとの意味として解釈されます。結局、人間は信者にせよ、未信者にせよ、皆が罪人であり、神に失望感だけを抱かせる存在だということです。だから、主を信じる神の民さえも、絶対に罪から自由になることは出来ません。すべての人が罪の影響下にあるという意味です。それは残念ながら現代を生きている私たちにも当たる事柄です。人間の不義は、こんなにも強いものです。 「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12)実に使徒パウロの言葉のように、世の中に本当の義人はなく、皆が悪に向かって走っていく不義の者ばかりです。神の洪水は、このような理由に基づいたものです。神は義に満ちた世界をお望みになりましたが、皆が不義に向かって生きていたからです。 2.神のご堪忍にも終わりがある。 詳しくは説明しませんでしたが、創世記5章はアダムの子孫の系図です。4章はカインの系図であり、5章はアダムの子孫の中でも、セトの系図なのです。聖書に記されているアダムの創造当時を初年とすれば、洪水は1656年後の時点で発生します。(ホームページのお知らせメニューの20200927週報での画像をご参考ください。)これが本当の1656年なのか、象徴的な年数なのかは分かりませんが、大事なのはアダムの犯罪後から、長い長い歳月が流れてきたということは分かります。聖書にはセトの子孫が罪を犯したという直接的な言及はありません。むしろ主の御名を呼び始めたエノシュ、神と共に歩んだエノクのように義人もいました。しかし、我々が見逃してはならないのは、5章の系図に出てくる者らだけが、セトの子孫ではないということです。おそらく系図には、長男の名前だけが記されているのでしょう。つまり、セトの子孫の中にも、多くの人々がいて、彼らの中にも、罪を犯す者がいたと考える必要があるということです。ひょっとしたら系図に登場する人たちも罪を犯したかもしれません。しかし、神はノアの時代まで1000年以上の長い歳月をご堪忍くださいました。罪人が闊歩する時代にも、神は忍耐され、正しい者を探しておられたのです。神が罪人をお扱いになる方法は、まさにご堪忍なのです。神はすぐにお裁きにならず、常に忍耐なさることによって罪人を御覧になる方なのです。 しかし、それでも、神は盲目的に永遠に忍耐する方ではありません。 「主は言われた。わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。こうして、人の一生は百二十年となった。」(3)人の不義のために、御心を痛められた神は彼らから、聖霊を取り上げようとなさいました。アダムとエバが初めて犯罪した以来、多くの罪人が罪を犯してきましたが、神は絶えず忍耐して来られました。いつも彼らが悔い改めて戻って来るのをお待ちくださいました。しかし、決して人間が罪から立ち返ることはありませんでした。結局、神は彼らの限界をご確認なさることになりました。「神の霊が人の中に永久にとどまらない。」という意味は、これ以上、神がご堪忍なさらないということを意味する表現です。結局、神が罪に満ちた、この世を裁こうとご英断を下されたという意味です。懺悔のない人間の姿、創り主のご意志に逆らう人間の本質、神はそのような人間を滅ぼされ、すべてを新しく始めようとなさったのです。「人は肉にすぎないのだから。」という御言葉が、それを証言してくれます。 我らは知らず知らずに「肉にすぎない。」という語句を見ながら、霊は善、肉は悪という極端な思いを持つ恐れがあります。ですが、そのような見方は聖書に適う解釈ではありません。神は創造を終えて、被造物を御覧になり、極めて善かったと仰いました。つまり、霊も肉も神の被造物であるだけに創造の善を秘めているからです。ただ、それらは人間の罪によって歪んでいるだけです。3章で言う「人は肉にすぎないのだから。」とは、もうこれ以上、御霊が宿っていない存在、決して自分で正しくなる可能性のない、明らかな限界を持つ存在という意味として受け入れるべきだと思います。このように罪によって肉にすぎないようになった人間を見て神は心を痛められたのです。 「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(5-6)実際に、神は全能者でいらっしゃいますので、心を痛めることも、後悔もされない方です。すべてのことを知っておられるので、人間の堕落をすでに予見しておられるからです。それにもかかわらず、聖書にあえて神が後悔なさった、心を痛めたと記されている理由は何でしょうか?これは神が人間の罪に対して、どれだけ真剣に考えておられるのか、人間に知らせるためではないでしょうか?神は人間の罪に敏感に反応する方でいらっしゃいます。結局、神はこのような人間の罪を御覧になり、裁きを決定なさいます。神の長い長いご堪忍が終わることになったのです。 3.ノアの信仰を通して救いをお許しくださった神。 しかし、神は、そんな罪の中でも、義人がいれば、避ける道を備えてくださる方です。神は義人のいるところに恵みを与えてくださる方です。お手元の別紙の画像を見ていただくと(ホームページのお知らせメニューの20200927週報での画像をご参考ください。)、セトの系図の神の民が全部死ぬ時まで、神は忍耐され、裁きを留保してくださったことが分かります。ノアの父レメクが死に、祖父メトシェラが死去してから、初めて神は洪水の裁きを下されました。セトの系図に出てくる子孫が全く罪を犯さなかったのか、あるいは罪を犯したのか、聖書では知ることが出来ませんが、少なくとも、神は彼らを義人と見なしてくださったのです。そして、彼ら皆が亡くなった時、初めて神はノアの家族だけを残し、世界をお裁きになりました。 「ノアは主の好意を得た。」(8)人間の罪によって世界が堕落し、神が心を痛めるようになったとしても、神は御自分が正しいと認める者に好意を施してくださる方です。しかし、彼らが完全無欠だから好意を保たせてくださるわけではありません。神が彼らをお選びくださり、義と認めてくださったから保たせてくださるのです。聖書はこの好意を恵みと言います。恵みは、神のみから来る主のお贈り物です。 今日の新約本文はノアについてこう述べています。 「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブライ11:7)旧約では出てきませんが、神がノアに好意を施された理由が、ノアの中にあった信仰に基づくことが分かります。堕落した世の中を生きるノアでしたが、それでも神の愛と御導きを信じた、その信仰が神がノアを選び、好意を示してくださる理由になったのです。ノアの信仰は、神に与えられた120年の間、神の御言葉に聞き従い、巨大な箱舟を造ったことを通して垣間見ることが出来るでしょう。 「正しい者は信仰によって生きる。」という言葉のように、ノアは信仰によって義人と認められ、生き残ったのです。世界は依然として罪に満ちています。人間による悪、罪、戦争などが絶えず起こっています。しかし、神はこの混乱な時代にもノアのような信仰者を探しておられます。神はその信仰のある義人を通して、世界をお救いくださるのでしょう。ここで一つ、私たちの大きな慰めがあります。そのような義人が今、私たちの間に、すでに来ておられるということです。神から遣わされた真の義人。まさにイエス・キリストのことです。ノアは不完全な者だったにも拘わらず、神への信仰によって義人と認められました。しかし、私たちの間におられるイエス・キリストは、神そのものであり、信仰と義の源であられます。そして、私たちは、このイエスを信じる群れです。私たちはキリストを信じる信仰によって、義人と認められ、完全無欠な神の恵みのもとにいるのです。 締め括り イエス・キリストは、この時代のノアです。我々は相変わらず罪を持っていますが、そのイエスの恵みによって義人と見なされます。主は箱舟のような主の教会を立てられ、救われる者を探しておられます。イエス・キリストが頭となる私達の教会は、この時代に主が許された箱舟です。そして、私たちは、イエス・キリストと共に、その箱舟に乗り込んだ主の家族なのです。だから、私たちもまた、そのイエス・キリストの心に倣い、信仰の外にいる者らに救いの主を伝えるべきでしょう。堕落したこの世でも義人を探し、長くご堪忍なさる神を仰ぎ見ましょう。やがて世は神の恐ろしい裁きを受けるでしょう。しかし、キリストに救われた群れは、神の国に入るでしょう。その日を待ち望み、キリストの救いと恵みを伝えて生きてまいりましょう。主の恵みが志免教会にありますように祈ります。

わたしの福音。

詩編33編8-15節 (旧863頁) ローマの信徒への手紙16章25-27節(新298頁) 前置き 今日は長い長いローマ書の最後の説教を分かち合う時間です。気軽に始めたローマ書の説教でしたが、説教し続けながら本当に難しい聖書だと考えることになりました。漠然と頭だけで知っている知識を、整理して説教に作ることが、どれだけ難しいのかに気付き、お粗末な自分の知識に反省する時間になりました。今度、機会が許されれば、より分かりやすくて深い説教が出来るように頑張りたいと思います。私たちは過去数ヶ月間のローマ書の説教を通して、私たちに訴えかけられる神の心を学ぶことが出来たと思います。人間の罪と、その破壊力に対する知識、それでも人間への変わらない神の御愛、その人間のために独り子を送って自らを犠牲になさった計画、そして、その独り子を通して、私たちに教えてくださった御救い、神様と共に生きる方法等。多くの部分において、私たちに福音の悟りが与えられる機会だったと思います。これからも皆さんが個人的にローマ書を読まれる時、一緒に分かち合った説教が役に立つことを望んでおります。今後もローマ書を黙想しつつ、私たちを愛しておられる、その神の恵みに感謝する生活を営んでいくことを願います。 1.私の福音 今日の本文は、ローマ書の掉尾を飾る部分です。パウロは、自分がなぜローマ書を書いたのか、この最後の文章を通じ、ローマ教会の信徒たちに話しているのです。 「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」 今日の本文で、パウロは福音に対して他の誰かの福音ではなくて、自分の福音、即ち私の福音だと語っています。福音は、この地上のものではありません。福音は人間への神のメッセージです。また、この福音はキリストのみを通して届くものです。福音とは、神がイエスというメシアを通して、この地上に自由と救いの恵みをくださることを伝える良いお知らせなのです。したがって、人間から福音が出てくることはなく、ただ神のみに基づくものです。誰かが自ら「私を通してのみ福音が臨む。」と言うならば、彼は偽者であり、異端であるでしょう。ところで、誰よりも、その福音の価値をよく理解しているパウロが、なぜ「わたしの福音」という言葉を使っていたのでしょうか?皆さんもすでに理解しておられると思いますが、これは、福音が自分から出てきたという意味ではなく、その福音が自分にとって非常に重要な価値であることを積極的に表す告白です。自分の人生の全てをかけて、世の人々に伝えても全く惜しくない、自分の大切な価値が、まさにこのキリストの福音であるという意味です。 「わたしの福音」それは、キリストの福音へのパウロの堅い信仰告白だったのです。 パウロは、ユダヤ民族の若い人材でした。彼は当時の有名なラビであるガマリエルの弟子であり、キリキア州タルソス生まれのローマ市民権者でもありました。今で言うとハーバード大学で、世界的な教授の下で修学し、米国の市民権まで持っている前途有望な青年だと表現できるでしょう。英語は流暢で、高級日本語をも使いこなす自国の文化や宗教への優れた知識を兼ね備えた、日本の素晴らしい人材。パウロがそのような人だったということです。そんな彼が自国と宗教を愛する心で、イエス異端の手下を処断するために、奮然と立ち上がりました。自分の民族に向けた彼の情熱は、純粋で熱かったのです。そんなある日、深い愛国心と信仰をもってイエス異端を捕まえるために出た旅で、パウロは自分の人生が変わる不思議な経験をしました。 「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、’サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか’と呼びかける声を聞いた。」(使徒9:3-4)神と民族を愛していた青年パウロは、イエス異端を捕まえるために出た旅で、自分がそんなにも嫌悪していたイエスに出会ったのです。 「主よ、あなたはどなたですかと言うと、答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5) 嘘つき、異端、呪われた者と思っていたイエスが現れ、パウロの知識と信念を揺さ振りました。一瞬にして、この有望なユダヤ人青年の心の中に驚くべき変化が起こりました。彼が幼い頃から学んできた神の御言葉、ご自分の民への神の愛が持つ本当の意味、人間の堕落以来、絶えず繋がってきた神の深い御心を悟り始めました。神が長い長い旧約聖書をくださった理由、預言者たちが迫害と苦難の中でも、そんなに主の御言葉を宣べ伝えた理由、ユダヤ民族が存在する本当の理由。神に遣わされて世界を救うメシアが、自分があんなに嫌悪していたイエスだということを認識することになったのです。パウロは、その時初めて、神の福音が何なのかに気付きました。 「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。」(25-26)キリストの福音は、とっくの昔から世界のすべての民族に示そうとしておられた神の御計画でした。そして、それはキリストを通して、この世のすべての異邦の民族が聞き従うべき御救いと恵みの御命令でもありました。 その日、パウロはキリストに出会って、自分の魂と体、全身で神の福音を悟りました。福音は知識だけで理解するものではありません。福音とは、神の御心が人の心の中で生き生きと働くものです。聖書の御言葉に詳しいのも、その教義をよく理解しているのも重要です。(そのために教師がいるわけでしょう。) しかし、そのすべてを知っているとしても、その中に隠れている神の心を知らなければ、それは殻に過ぎないのでしょう。(それは教師ではなく、神様のみが教えてくださるのでしょう。)教会で知識を通して学んだ神の御心に私たちの心を従わせ、その神の御心に従順に生きていくこと。その神の御心を隣人に伝えること。それこそが、私たちが追い求めるべき福音、キリストを通して私たちに託されている福音なのです。今、この福音は誰の福音なのでしょうか?それは今、私たちの福音となっているのでしょうか?単に預言者と使徒たちの福音ではないでしょうか?本当に私たちの人生の中で、私たちの人生を変え、隣人に良い影響を与えることが出来る、真の私たちの人生の原動力となっているのでしょうか?私たちは、今日の言葉に出てくる「私の福音」という言葉を疎かにしてはならないと思います。福音はもっぱら「私の福音」にならなければなりません。何ものとも変えることの出来ない、私の人生の原動力であるキリストの福音。その福音に示されている神の愛と恵みが、私の福音として私たちの中で熱く燃え上がることを願います。 2.イエス・キリストの福音。 しかし、「私の福音」というのは私のものではありません。私たちが追求している福音というのは、あくまでもイエス・キリストのみに基づくものです。「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります…その計画は…信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」(16:25-26から)私たちを強め、従順に導き、神の御心に従わせる、この福音というのは、ひたすらキリスト・イエスによってのみ生ずるものです。(ここでのキリストについての宣教とはギリシャ語であるケリュグマの翻訳、キリストによるキリストについての宣言を意味する。) これは、福音の力がキリストから出るということを意味します。上半期懇談会では、我々の力不足を身にしみるほど感じました。 「牧師を招聘するのは良い。ところが、今後安定した経済的支援は可能だろうか?これから数年後に志免教会はどうなるのだろうか?」あまりにも伝道が難しい日本という土壌で、その中でも小さな群れである志免教会を眺めながら、私たちはあまりにも現実的な壁に直面しなければなりませんでした。しかし、皆さん、それにも拘わらず福音は変わりません。福音の源でいらっしゃる主が変わることは、決して無いからです。聖書は一度も数字で、規模の大きさで、教会の在り方を求めたことがありません。聖書に出てくる数値や規模は、神の民の集まりを意味するものであって、その大きさを重要視するものではありません。 むしろ神様は神様に希望を置いて従う一人の真の信仰者をさらに喜ばれるのです。 大事なのは、イエス・キリストが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:18-19)と言われたということではないでしょうか?また、パウロはこう語りました。 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(テモテⅡ4:2)福音は「私のもの」である前にキリストによるものです。キリストは教会の大きさと規模に関係なく、御自分を担保に福音を伝えることを命じられました。大事なのはキリストの福音を伝えることです。なぜなら、福音の真の所有者であるイエス御自身が福音に対して責任を負ってくださるからです。歴史上に多くの教会が浮沈を繰り返してきました。ヨーロッパの多くの教会が酒場となり、中東の初代教会があった街には、モスクが建てられています。しかし、主の教会は、別の場所で別の方式で健在です。主の教会は、目に見える建物や団体ではありません。主の教会は、キリストの福音を告白する目に見えない巨大な、主の民の集まりなのです。これは神学的に非可視的教会、宇宙的教会と呼ばれています。したがって、主はその巨大な教会を通して絶えずに福音を伝えて行かれるでしょう。私たちは、そのイエスに従い、現状に絶望するよりは、折が良くても悪くても福音を伝えるべきでしょう。それこそが福音に対する私たちの在り方ではないでしょうか?だから、他の事柄は主にお委ねいたしましょう。 少し長めですが、今日の旧約本文を再びお読みいたします。 「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩篇33:8-15)今日の説教を準備しながら、私はこの詩編の言葉がしみじみと心に届きました。教会の存亡と将来について心配している私たちに、これ以上完全な説教があるでしょうか?恐れ戦くべき立場は、私たちではなく、教会の外の世です。教会が世に判断されるのではなく、神が世をご判断なさるのです。主の企てはとこしえに立ち、主を神とする民は幸いになるでしょう。したがって、目の前の状況に恐れず、イエスの福音の力を信じてまいりましょう。 「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(27)キリストは、神に栄光を帰すために、御自分の福音を成し遂げて行かれるでしょう。 締め括り 今日は「私の福音」即ち「キリストの福音」についてお話しました。キリストの福音は決して変わりません。主を通して全世界は神の前でおののき、ひれ伏すことでしょう。その主が私たちの主であり、その主を通して私たちは赦され、御前に正しいとされるでしょう。その救いと恵みの良いお知らせが、まさに私たちの福音なのです。主は世の終わりまで、永遠に共におられると私たちに約束なさいました。イエスは終わりの日、万物を裁き、神に栄光をお帰しになるのでしょう。ですので、イエス・キリストを信じて、恐怖を振り払っていきましょう。神はキリストを通して、私たちを主の栄光に導いてくださるのです。福音の主であられるイエス・キリストの恵みが、皆さんの上に豊かにあることを願います。

二つの系図。

創世記 4章16-26節、5章28-29節 (旧6-7頁) エフェソの信徒への手紙4章22-24節(新357頁) 前置き 初めの人は、神に象った存在として生まれました。初めの人は、神のように義を求め、神と和やかで、共に歩み、神の御心を示す存在として生まれたのです。使徒パウロは、エフェソ書4章24節を通して、このように語っています。 「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」「新しい人を身に着ける。」という表現は、神が御計画なさった神に象られた、創造の時の人間像を回復せよという意味です。そして、その創造の時の人間像は「真理と正しさと清さ」を身に着けている義人を意味するものです。つまり、神に象ったということは、神様に由来する「真理と正しさと清さ」を持っている存在を意味します。ところで、この「真理と正しさと清さ」を破るものは人の罪です。初めにアダムが堕落して以来、今までに、神は「真理と正しさと清さ」を追い求める人を探して来られました。そして、今日の本文は、それを追求した者らと疎かにした者らの系図を示しています。今日は創世記4章に出て来る、神を追求する系図と神を求めていない系図について分かち合いたいと思います。 「私はどの系図に属する人なのか?」自分のことを省みながら、御言葉にあずかりたいと思います。 1.罪人をお捨てにならない神。 初めの人間、アダムは神のようになろうと、神との約束を破り、その結果、神から呪いを受けました。そのため、彼は神の御前から追い出されたのです。しかし、神は彼に怒りだけを発してはおられませんでした。彼が罪を犯したにもかかわらず、神はイチジクの葉でかろうじて体を覆っていた彼に皮の衣を着せてくださり、すぐに殺すことはなさ らず、代を継承する機会を与えてくださいました。確かに彼から永遠の命は御取りになりましたが、少なくとも彼の分身のような子供たちを儲ける余地は残してくださったのです。アダムはいつか死ぬのです。しかし、彼の子孫は、代を継いでアダムという先祖があったということを覚えるでしょう。愛の神は人間の滅びを望まれる方ではありません。アダムは、しばらくして、カインとアベルという二人の息子を儲けることになりました。成長したカインとアベルは、めいめい農業と牧畜を営み、エデンの周辺に住みつきました。神はアダムと同様、彼らをもお捨てになりませんでした。約束を壊し、神との関係が切れてしまったアダム、また、彼から生まれた息子たちでしたが、愛の神は、依然として彼らの人生の中に共におられたのです。 しかし、罪によって堕落した人は、神に完全な礼拝を捧げることができませんでした。アベルは純粋に信仰を守り、神の御心に相応しく生きようとする者でした。しかし、カインは神に完全な礼拝を捧げませんでした。同じ親から生まれ、一緒に神について学んだにも拘わらず、アベルは神を追い求めたのに対し、カインは神を疎かに扱ったのです。人の罪は人が完全に神に聞き従えないように、絶えず妨げるものです。ひょっとしたら、私達の中にもカインとアベルの生き方が存在しているかもしれません。時にはアベルのように完全な礼拝を夢見たりしますが、時には、カインのように神を疎かに扱ったりするという意味です。結局、カインはアベルへの憤りと妬みのため、一人だけの弟を殺してしまいました。人の罪の勢いが、神を追求する善い心を押さえ込んでしまったのです。このような出来事を通して、カインは、なおさら神から呪いを受けてしまいました。しかし、それでも、神はカインをお捨てになりませんでした。先々週の説教でも申し上げましたが、神はカインが「エデンの東」に落ち着くことを許されたのです。神はむしろカインが戻って来るのを望んでおられ、機会を与えてくださったのです。その証拠がまさに今日、登場するカインの系図なのです。たとい罪人だといっても、子孫を通してでも、彼らが戻ってくるのを望んでおられるのです。神は罪人に絶え間なく懺悔の機会を与えてくださいます。悔い改めて戻ってくることができるように、忍耐に忍耐を重ねられるのです。 2.なぜ神は罪人の存続を許しておられるのか? しかし、残念なことにカインの子孫が神に戻ってくるのは、今日の本文では現れていません。むしろ、カインの子孫レメクは自分の力を誇るために、小さな傷の報いとして、ある弱い男を無惨に殺す罪を犯しています。 「レメクは妻に言った。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。」(23)それなのに、レメクは自分の殺人が正当であると居直りをしています。それだけでなく、神の言葉を引用して、このように告げてもいます。 「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。」(24)自分が神より11倍も大きい罰を下すと威張っているのです。このカインの子孫は、カインの悪をそのまま受け継ぎ、隣人を翻弄し、神をまで嘲弄しました。アダムの反逆から生まれた小さな罪の種が、アダムから永遠の命を奪い、カインが神に正しい礼拝を捧げることを妨げ、弟を殺す悪を作り、カインの子孫レメクが、神を嘲笑する絶え間ない不義をもたらしました。神は常に罪人に悔い改めの機会をくださいますが、もし罪人がその罪を悔い改めなければ、その罪はさらに大きくなり、一層あくどい罪を犯すように導きます。実に、罪というものは延々と人間を悪に追い込む厄災なのです。 レメクは神を嘲笑しつつ、まるで自分が神よりも強力な存在でもあるかのように、自分を高ぶっていました。しかし、それでも神は彼を、直ちに裁いてはおられませんでした。むしろ、彼の子供である、ヤバル、ユバル、トバル・カインが経済、文化、技術を掌握し、世界の先端を主導するように放って置かれました。神はなぜレメクと、その子供たち、すなわち罪人カインの子孫を直ちに裁かれなかったのでしょうか?カインはヘブライ語で「儲ける。生む。」という意味です。アダムが罪を犯し、永遠の命を奪われたにも拘わらず、神は死に値するアダムに息子をくださり、跡を継げるように、新しい命を与えてくださいました。これは神が罪人を許されたという意味ではありません。ただ、彼らが罪から離れ、神に戻ってくることを願っておられたからです。つまり、罪人から一縷の望みでも探そうとなさったからです。神は人殺しではありません。神は殺す方ではなく、生かす方なのです。したがって、神様も罪人をつれなく処断なさるよりは、彼が悔い改める機会を与えようとなさるのです。しかし、神は強制的に人間を操ることはなさりません。いつも人間に機会を与えてくださいます。罪に従うか?神様の御赦しの機会に応じるかは人間次第です。神は、そのためにアダムに与えられた自由意志を堕落したアダムの子孫たちにも残されたのです。もちろん、周知の事実のように罪人の自発的な懺悔はありませんでした。だからこそ、罪人を悔い改めに導かれる主イエスの恵みが輝くのでしょう。しかし、罪人への神の愛は私たちに神の御心を教える大事なものだと思います。 私たちは、偶にはこのように問い掛けたりします。 「なぜ神は不義な者をじっと置かれておられるのだろうか。」私は、今日の話を通して、こう答えたいと思います。 「愛の神は、彼らにも戻って来られる機会を与えてくださるのだ。人は誰もが、いつか死ぬに決まっているので、神の御裁きは定まっているのです。人間の目には、鈍く見えても、神の裁きは休まず進められているのです。命が尽きる、その日まで神様が与えられる、赦しの機会を捕まえられなければ、最終的には人間は死で裁かれます。そして肉体の死の後は、神に永遠に捨てられる真の死があるのでしょう。今、世の中はレメクの子たちのように、経済、文化、技術に大きな価値を置いて、肉の財力、権力、誉れに執着しています。いやひょっとしたらイエスを信じると告白している私たちも、それに捕らえられているのかもしれません。しかし、それらは神に逆らうカインの子孫も得ることが出来るものです。むしろ、カインの子孫が、そのようなものを掌握しているといっても過言ではないでしょう。しかし、そのような派手なものに対比される神への悔い改めと従順は、みすぼらしく見えます。神はいつも罪人にチャンスを与えてくださいます。罪人はいつも、そのような分れ目を前にして生きていくのです。私たちは、この華麗な世の文化の反対側にある、悔い改めと従順に集中しなければならないキリスト者たちです。キリスト者は、カインの道から外れ、神が与えてくださる赦しの機会を追い求めるべき存在なのです。 3.二人のレメクの物語。 アダムを通して生まれたカインとアベル、人類はこの二人の性質に沿って分かれます。神を疎かにするカインのような者と、神を大切にするアベルのような者。しかし、アベルはカインに殺されました、そのため、神はアベルの代わりにセトという息子を与えてくださいました。セトという名前はヘブライ語で「保存する。得る。」という意味を持っています。セトがアベルに代わる息子だという意味でしょう。アベルの純粋な信仰が、このセトを通して受け繋がれたということです。 「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(25-26)26節にセトがエノシュを生んだ時、人は初めて神の御名を呼び始めたと記されています。 「神の御名を呼ぶ。」という意味は、ヘブライ語の慣用句で神を礼拝し始めたという意味です。神はセトを通して、アベルが求めていた神への愛と仕えを回復させられたのです。しかしどういうわけかセトの子孫は、カインの子孫のように華麗で力強い印象は与えていません。有名なエノクを除けば、皆いるのかいないのか分からないほどの存在感で系図に名前が載っているだけです。このように、聖書では時々、義人が悪人より劣っているように描かれる場合もあります。しかし、神は人間の強さより、弱さの中でも、神を待ち望む、その謙虚な心をより大事に、評価なさいますので、神にとってセトの子孫の、その弱さは大きな問題にはなりませんでした。 面白いことにセトの子孫、すなわちアベルの精神的な子孫の中にもレメクという人がいました。カインの子孫の中にも、セトの子孫にもレメクという同じ名の人がいたのです。 「メトシェラは187歳になったとき、レメクをもうけた。」(5:25)(今日の本文は長すぎて、5章の一部だけを読みましたが、なるべく帰宅後に創世記5章全体をお読みいただくことをお勧めします。)セトの子孫レメクは、あのノアの箱舟を造った有名な人物ノアの父なのです。しかし、彼はカインの子孫レメクとは違い、神の御名を呼ぶ人、すなわち礼拝者でした。 「彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノアと名付けた。」(5:29)彼は神の約束を信じていました。神が女の子孫がヘビの子孫を打ち砕くという約束の言葉を待ち望み、その子ノアを通して神の慰めを願ったのです。同じアダムの子孫で、同じレメクという名前でしたが、二人は全く別の眼差しを持って、神と世を見ていたのです。一人は自らが神よりも偉大な者だと思い上がって高慢に生き、他の一人は神様が自分のことを慰めてくださるという謙虚さをもって生きました。私たちもまた、このような高慢と謙虚の岐路に立っているのではないでしょうか。カインの子孫のように生きるべきか、それとも、セト即ちアベルの子孫のように生きるべきか、いつもそれは私たちに課題として与えられているのです。 締め括り 「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4: 22-24)使徒パウロは、今日の新約本文の言葉を通してキリスト者なら、罪人の時の生き方を捨て、キリストによって与えられる、新たな心を持って、神に象って作られた者らしく生きることを促しています。私たちは、カインの子孫とアベル、即ちセトの子孫の話を通して、古い人と新たにされた人の生き方について、考えてみることが出来ました。新約時代を生きている私たちは、神の義を完全に成し遂げられたイエス・キリストに力づけられて生きている存在です。イエスは私たちの罪の償いを完全に支払ってくださり、また聖霊を送ってくださり、神の御心に相応しいキリスト者としてお召しくださいました。このような私たちが、旧約時代のカインの子孫ように神を疎かにして生きるということは、イエス・キリストを裏切る人生になるでしょう?まだ、イエスが受肉されなかった時代のアベルとセトの子孫も、神の前で義人になるために、一生懸命に神に仕えていきました。まして、キリストの体である私たちは、なおさら真実に生きるべきではないでしょうか。イエスがいつも私たちの力になってくださるからです。私たちの生をアベル、即ちセトの子孫の生のようにしてまいりましょう。主に召される日まで、その生き方を貫く志免教会になることを願います。

ローマ教会の使命、志免教会の使命。

出エジプト記 19章5-6節 (旧125頁) ローマの信徒への手紙15章14-21節(新295頁) 前置き 私たちは、ローマ書を通して人間の罪、神の御救い、救い主イエス、十字架、そしてキリスト者の生き方について総合的に触れることが出来ました。特にキリスト教の基礎的な教義をたっぷり含んでいるローマ書の言葉を通して、キリスト者として長く過ごしてきただけに、得てして、疎かになりやすい信仰の基礎について改めて学べる機会になったと思います。また、教義的な教えだけでなく、実生活での信仰の在り方についても考えてみる機会が得られました。先に聞いた14章の説教では、教会員が各々持っている信仰の強弱を認め合い、むしろお互いに理解し合い、紛争のないキリストの体なる共同体になることを勧めました。今日の15章では、パウロの教えを通して、そのような主の御導きの下にある、ローマ教会員が、また何を目標として生きていくべきかを教えてくれます。パウロは15章の言葉を通して、教会の最も重要な機能の中の一つである宣教と伝道について話し、イエスを伝え、宣教するキリスト者として生きていくことを促します。今日の言葉を通して伝道する教会、宣教する教会に関して分かち合う時間になることを願います。 1.模範的な共同体であるローマ教会。 私は、過去数回のローマの説教を通して、ローマ教会の中にさまざまな問題点があったと話しました。ユダヤ人と異邦人が一緒に教会を成していただけに、「異邦の神に捧げた供物を食べてもいいだろうか。ユダヤ式に安息日を守るべきか。」などの文化と民族の違いから生まれる問題。また、当時のキリスト教会を脅かしていたユダヤ教の偽りの教師たちによって起こる問題。ローマ皇帝の支配の下で真の王であるキリストへの信仰による殉教など。いろいろなことが、ローマ教会の信徒たちを脅かしていました。しかし、ローマ教会は、そのようなすべての難関を経て、さらに堅い信仰を養っていき、互いに心を合わせ、連帯を結び、健康な交わりを分かち合って、御言葉と祈りに力を尽くす教会を営んでいきました。彼らの王はキリストであり、ローマ帝国の武力と脅迫も彼らの信仰を破ることが出来ませんでした。それに対して、使徒パウロも、今日の本文を通して褒めています。 「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」(14) 私が志免教会に初めて訪問したのは、一昨年の11月でした。今や志免教会が一番気楽な教会ですが、当時は相当緊張していたと覚えています。 「説教がまずくて、皆さんががっかりなさったら、どうしよう?日本語が上手く話せなくて会話が順調じゃなければ、どうしようか?」との心配もしました。しかし、志免教会は、今までに経験したどの教会より暖かかったです。お互いに愛し、気配り、祈り、助け合うことを喜ぶ愛の教会でした。コロナにより教会が閉じても、皆さんが祈りで教会に仕え、遠くからも一つになることを望み、礼拝が不可能なことを残念に思う教会でした。それだけではなく、御言葉への熱望と礼拝への愛で、一度も経験したことのない外国人の牧師を大胆に招き、民族を問わず一緒に歩み、真の神の共同体であることを証明してきました。我が教会は本当にローマ教会のように模範的な教会だと思います。おそらくパウロが生き返って来れば、志免教会をも、このように褒めるでしょう。 「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」(14) 2.神がご自分の民を召された理由。 このように当時のローマ教会は、まるで私たち志免教会のように暖かくて、信仰によって一つになった、本当に素晴らしい教会だったようです。ところが、パウロはそれだけに満足していませんでした。もちろん、パウロもローマ教会の素晴らしさに感心し、彼らに褒め言葉を言いました。しかし、彼はさらに一歩進んで、ローマ教会が追い求めるべき在り方について語ろうとしました。 「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。 」(15-16)私たちは、この言葉の中で「キリスト・イエスに仕える者。」「神の福音のために祭司の役を務める。」「異邦人が、神に喜ばれる供え物となる。」という三つの表現に注目する必要があります。神はエジプトの奴隷だったイスラエルを十の災いとシナイ山での律法を通して、神の民として召されました。その時、主はイスラエルにこう言われました。 「世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:5-6) 神はイスラエルの民をエジプトの奴隷から救ってくださり、自分の民とされました。そして彼らに神の律法をも与えてくださいました。その理由は、単に彼らを民族と国家を成して、豊かに生きさせるためだけではありませんでした。神は彼らを他の民族に神を伝える祭司の民族として生きさせるためにお召しになったのです。また、使徒ペトロは、この出エジプト記の言葉を引用して、このように言いました。 「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」(ペトロⅠ2:9)つまり、神が旧約のイスラエル、そして新約の教会をお召しになった理由は、彼らを神の祭司として生きさせるためでした。そのために私たちは、主に救われ、神の民となったのであり、そのような私たちは、信仰が生まれた、その日から、この世を去る、その日まで、神の祭司として生きる義務を持っているのです。牧師だけが、神の祭司ではありません。イエスを信じる私たちは皆、神の祭司なのです。ならば、この祭司として生きる者たちの生き方はどうあるべきでしょうか? 私たちは、福音のための祭司の役に召されました。つまり、私たちはキリスト・イエスに仕える者として召されたということです。そして、このような私たちの使命は、まさに異邦人を聖なるもの(生け贄)として捧げることです。異邦人を聖なるものとして捧げるという意味は、私たちを通して神を知らない者が神を知るようになるということです。十字架で供え物となって死んだイエスの犠牲によって、イエスを信じるすべての者は、神のものとなりました。つまり、異邦人が神を知るようにすること、未信者が神のものとなること。まさに伝道と宣教を意味するものです。パウロは、模範的なローマ教会を褒めました。しかし、自分たちだけの共同体の中で、自分たちだけが喜んで、満足して生きることを望んではいませんでした。パウロは、模範的なローマ教会が、さらに神を知らない者に、イエス・キリストを伝え、彼らに福音を聞かせることを望んだのです。私たち志免教会は模範的な教会です。しかし、そこにとどまっていてはいけません。志免教会が本当に神の民であれば、宣教に力を尽くすべきです。「イエス・キリストは主であり、教会は神の民であり、神があなたを愛している。」という、その福音を励んで伝えるべきです。ローマ教会のような素晴らしい共同体である志免教会は、果たして宣教という使命の前で真の神の祭司として生きているのでしょうか? 3.日本という社会の中での志免教会。 日本で伝道をするということが、どれだけ難しいのかは、今も体験しています。天皇家が日本の守り主だと信じている日本人は、全人口の7割以上だそうです。すでに彼らに天皇家は宗教であります。日本で宗教人口は総人口の160%以上と言われています。つまり、日本人の大部分は複数の宗教を複合的に信じているということです。彼らにキリスト教はどう認識されているでしょうか?しかし、聖書は神お独りだけが、真の神であり、彼がお遣わしになったキリストだけが、真の救いをもたらす方だと教えています。従って、複数の宗教を信じている複合的な信仰は偽りの信仰なのです。唯一の神と神に遣わされたイエス・キリストを知ること、つまりイエスを信じることだけが真の信仰なのです。イエスを知らない人、神を知らない人に、唯一の三位一体なる神のみが、真の神であり、真の救いを持っている方だということを伝えなければなりません。神は私たちの教会にそれを使命として命じられました。私たちがイエスを伝えること、近所の人に福音を伝えることは、私たちの使命なのです。私たちは、この重要な使命の前で、どのように福音を、イエスを伝えて生きているのでしょうか? ミシオデイという言葉があります。 「神が手ずから宣教なさる。」というラテン語です。しかし、この言葉は「神が宣教なさるから、我々は宣教しなくても良い」という意味ではありません。頭であるキリストの手と足は誰でしょうか?まさに私たち教会です。神が聖霊を通して私たちの中に臨まれ、導かれることは事実です。しかし、神を伝え、宣教する手と足の役割は、私たち教会が持っているのです。私たちは伝道しなければなりません。私たちは伝えなければなりません。折が良くても悪くても、主イエスの愛と福音を宣べ伝えるべきです。 「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」(ローマ10:14-15)信じるためには、聞かなければなりません。聞かせるためには、伝えなければ、です。私たちには伝える使命があります。そして、その伝えることこそ、私たちが神に捧げる霊的な祭祀となるのでしょう。主の福音を近所の人に伝えましょう。特に信じないお子さんたちに主を話しましょう。恐らく聞きたがらないかも知れません。しかし、時間をかけて少しずつ、神を話しましょう。私にくださった主の愛を伝えてまいりましょう。聖霊が私たちの祈りと伝道に力を与えてくださると信じます。 締め括り パウロは高齢になったにも拘わらず、福音を伝えようとしました。「私はこのことを済ませてから、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。」(15:28)パウロはローマを経て、スペインまで行って福音を伝えることを望んでいました。当時、スペインは世界の端と呼ばれている所でした。パウロは人生の最期まで、イエスの言葉のように世界の果てまで福音を伝えようとしていたのです。日本の教会はただ若いとは言えないだろうと思います。多くの信徒が高齢になったシニアの多い教会です。しかし、神の御前では、皆、若者です。永遠を生きて来られた神、いや永遠という概念そのものを造られた神様の前で年齢は何の意味を持つでしょう。宣教は老若男女を問わず、キリスト者の在り方だという意味です。人を連れて来ることだけが宣教ではありません。とりあえずイエスを伝えましょう。主の恵みによって連れて来ることが許されれば、さらに感謝しましょう。私たちの伝道は我々の使命なのです。私たちの伝道が、私たちの祭祀としての仕事となります。キリスト者として伝道と宣教を心の負い目にしましょう。神はこのような私たちの負い目をご覧になり、私たちを憐れみ、助けてくださるでしょう。福音を伝える志免教会、神の祭司、キリストに仕える人として一週間を生きていきますように祈り願います。

カインとアベルの祭祀

創世記4章1-15節 (旧5頁) ローマの信徒への手紙12章1節(新291頁) 前置き 初めの人は、神のようになるという蛇の誘惑を自ら受け入れ、善悪を知る木の実を食べ、自分も神のようになろうとしました。しかし、人は決して神のようになることが出来ませんでした。むしろ、人は神に対する反逆の罪によって、永遠の命を奪われて死ぬしかない存在となりました。人は神のようになることは出来ませんでしたが、一つ残ったものがありました。それは善と悪を知る知識のことです。「善と悪を知る。」ということは、神の固有の権限である判断を、人もするようになったということです。しかし、これは、人にとって決して良い結果ではありません。人はしょっちゅう揺らぐ存在であるため、その判断が正しくなるわけが、絶対にないからです。正しい判断が出来なくなった人は、それから他人に害を及ぼし、殺し、壊し、戦争する存在となってしまいました。結局、人は自ら善と悪が区別できるという夢想に捕らわれ、自然に罪を犯し、不義の存在となってしまいました。このような人の不義は代を重ねれば重ねるほど、人を罪に縛っておく足かせのようになりました。今日は創世記4章の言葉を通して、罪が、どのように人を神と隣人から遠ざけて、神への礼拝を失敗させるのかについてお話したいと思います。 1.神様が目を留められる祭祀。 エジプトから脱出してカナンに入ったイスラエル民族は、神の恵みによってカナンの地を征服し、神に土地を与えられました。神はそのカナンの地で、ご自分がイスラエルの王になられ、周辺国に神を伝える祭司の国として、イスラエルを導こうとされました。しかし、しばらくして、イスラエルは神に王を求め始めました。預言者サムエルは、イスラエルの真の王は、神だと彼らを説得しましたが、人間の王を求める彼らの要求は止みませんでした。結局、神はイスラエルに王を立ててくださいました。彼はサウル王でした。しかし、サウルは神に聞き従う王ではありませんでした。最初は神を畏れ、イスラエルを立派に治めるように見えましたが、結局、彼は神に従わない王になりました。神の御言葉に逆らい、むしろ自分勝手にイスラエルを導いたサウル王に、サムエルが現れ、このような話しをしました。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物や生け贄であろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことは生け贄にまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル15:22)結局、神に不従順で一貫していたサウルは悲惨な最期を迎えてしまいました。 神は王様でいらっしゃいます。そして、神は王への従順の意味として祭祀をお受けになる方です。しかし、人間はいつも自分が判断することを正しいと思い、自分に従おうとする性質を持っています。このような人間の自らの判断は、神の御判断を守らないようにさせ、時には歪めさせます。結局、このような自分の判断により、人間は神の言葉に聞かないようになり、神に不従順の罪を犯すことになります。今日の本文に登場するカインとアベルの話も、そのような祭祀が持つ本当の意味への誤解から始まる物語です。「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかった。」(創世記4 :3-5)カインとアベルは、最初の人であるアダムとエヴァの息子でした。カインは農業を営んでいる人であり、アベルは牧畜を営んでいる人でした。ある日、彼らは両方、神に献げ物を捧げました。カインは自分が収穫した穀物を持って神にささげ、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って捧げました。しかし、神はアベルの生け贄のみをお受けになり、カインの献げ物は拒否なさいました。 なぜ、神はアベルのものだけを受け入れられ、カインのものはお拒みになったのでしょうか?これに対して、約100年前のドイツの神学者たちの何人かは、神は農夫より羊飼いの方がお好きでいらっしゃるかもしれないという面白い解釈を主張する人もいました。皆さんはいかがでしょうか?果たして神は、本当に菜食より肉食の方をお好みになる方なのでしょうか?旧約聖書の出エジプト記には、このような語句があります。 「初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜である牛や羊の初子が雄であるならば、すべて別にしなければならない。」(出エジプト34:19)(この言葉では、家畜についてのみ、記されていますが、実は最初のものは、全部、神のものであるという意味として書かれた箇所です。)カインとアベルの出来事が出エジプト記よりも、はるかに前のことではありますが、ここからアベルの生け贄は受けられ、カインの献げ物は受けられなかったことのヒントが得られると思います。二人の祭祀の違いは何だったのでしょ?カインは自分の土地の実りを持って、神に捧げましたが、アベルは初子を持って、神に捧げました。皆、神に祭祀をささげたのに、果たして何が問題だったのでしょうか?ここには旧約聖書の言語であるヘブライ語の文法的な問題がかかっていますが、複雑ですので、省略して簡単に申し上げます。 カインは自分が献げ物を捧げたいと思ったときに、自分の収穫物の中で、手にしたいずれかを持って来て、神に捧げました。彼の心の中に神への丁寧な心はなかったのです。上辺だけの礼拝をしたということです。しかし、アベルは違いました。日本語の聖書では示されていませんが、アベルの礼拝は定期的で、丁寧でした。アベルは繰り返して神に生け贄をささげ、生け贄として、初めて生まれた家畜の初子を選別して、神に捧げました。彼の祭祀には神への愛と献身が染み込んでいたのです。カインは他人が祭祀をするから自分もどうしようもなく祭祀をするふりしたのです。しかし、アベルは自分のすべての努力と苦労をかけて、繰り返して神にい礼拝したのです。おそらく、アダムは神を祭る方法を2人に教えてくれたでしょう。しかし、カインは、そのような教えを聞き流し、適当に行なったのでしょう。しかし、アベルは愛と心と魂を尽くして、神に生け贄を捧げたのです。これがカインとアベルとの違いでした。神は高くて華麗なものを望んでおられません。神は真実な心を望んでおられる方です。そして、その真実は神に聞き従うことに基づくものです。カインとアベルがささげた祭祀の違いは、そこにありました。 2.祭祀と礼拝への反省。 旧約の祭祀と新約の礼拝の共通点は何でしょうか?従順と真実を持って捧げるということではないかと思います。イエス様もヨハネによる福音書のサマリヤの女に「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24)と仰いました。神の御心に聞き従わせる御霊によって、神の真理であるキリストに従って真実に神を礼拝しなさいという意味でしょう。しかし、カインの祭祀はそうではありませんでした。御言葉への従順のない祭祀であり、神への真実の欠けた礼拝でした。神はカインに、そのような従順と真実をお求めになったのです。神の拒絶は、カインへの拒絶ではありませんでした。カインの誤った礼拝方式を拒絶されただけです。カインが自ら省みて新たな気持ちで祭祀を捧げたら、神はきっと、彼の祭祀も受け入れてくださったはずです。しかし、カインは神の御前に悔い改めるどころか、拒否されたことにより、怒りに包まれました。 「カインは激しく怒って顔を伏せた。 主はカインに言われた。どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか」(創世記4:5-6) カインは懺悔するどころか、神に拒まれたため、憤り、正しく祭祀を捧げた弟アベルを殺してしまいました。自分の過ちに対する反省はちっともせず、神に褒められた弟を嫉妬して殺したわけです。真の礼拝をする者は、自らを省み、悔い改めるものです。自分の内面に罪による歪みはないのか?自ら振り返り、直すべき部分はないのか?いつも謙虚に自分のことに対して悩むようになります。他人のせいにせず、自分の過ちを咎めます。しかし、上辺だけ礼拝する者は、礼拝の場に出ることだけに満足します。 「今週は教会に出席して、礼拝に参加したので、宗教的な生活は達成した。」という考えで、何の反省も悩みもせず、一週間を過ごします。同時に、自分の誤りに鈍感で、他人を咎める傾向が少なくありません。礼拝に失敗したカインは悔い改めませんでした。むしろ、神が祭祀の仕方を教えてくださり、間違っている点を指摘してくださり、新たな機会を与えてくださったにも拘わらず、かえって怒りを発し、さらに一人だけの弟を殺してしまったのです。 「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(7)カインがアベルを殺す前に、神は、すでにこのような言葉でカインに教えてくれました。ここで「正しいのなら」という言葉の意味は何でしょうか?イエスの時代に、イスラエルと周辺地域の人々が読んでいた聖書は、当時の公用語であるアラム語で書かれている本でした。神学者たちは、この聖書をタルグム・オンケロスと言います。その聖書を解釈した当時の解釈本には「正しいのなら」という意味を「悔い改める。」という意味で解釈していたそうです。つまり、イエスの時代、当時の人々は創世記4章7節に記された「正しいのなら」という語句を「悔い改める「。」として理解していた可能性が高いということです。もし、カインが神に捧げた、失敗した祭祀を悔い改めて、自分の中から誤りを求めようとしていたなら、アベルが殺されることはなかったでしょう。カインは自分にではなく、他人に過ちを見つけようとしており、最終的には神の言葉にも不従順で、弟も殺してしまう、最悪の罪を犯してしまいました。それこそが失敗した祭祀だったのです。結局、カインは神への愛も、隣人への愛も、失敗した、礼拝の失敗者となってしまいました。 「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(12)、結局、カインは神に呪われ、追い出されてしまいました。不真実な礼拝の結果は、神に追い出されてしまう破綻につながります。しかし、神は、カインを憎んでおられたので、追い出されたわけではありません。 私たちは神様の愛を見落としてはいけません。「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」(15)カインは罪を犯し、神から追い出されましたが、神は彼を完全にはお見捨てになりませんでした。カインが生き残れる道を備えてくださり、彼が再び神に帰ってくることが出来るような機会を与えてくださいました。 「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」(16)今日の本文には、16節は出てきませんが、この短い16節で、私たちは、神の配慮を確かめることが出来ます。ヘブライ語で東は実際の東を意味する部分もありますが、「前」という意味をも持っています。神はカインが呪いを受けたにも拘わらず、エデンのすぐ前で生きる機会を与えてくださいました。彼が悔い改め、神の御前に来て正しい礼拝者として生きることを望んでおられたという意味でしょう。神はこのように、罪人をお哀れみくださり、新しい機会を与えてくださる方です。 締め括り カインは正しくない祭祀を捧げ、神に呪いを受けました。また、彼は悔い改めませんでしたので、神に赦される機会さえ、自ら捨ててしまいました。結局、カインは弟を無惨に殺してしまう殺人の罪まで犯しました。祭祀、すなわち、礼拝は、このように重要なものです。私たちの礼拝は、単に集会に参加することを意味することではありません。私たちの礼拝は、日常生活での神への真実な心と従順によって確定されるものです。これは、前に説教したローマ書12章1節の言葉とも通じる部分です。「 兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」そして、それを象徴的に目に見える形で、毎週行うのが、主日の礼拝なのです。今日カインとアベルの話を覚えながら、私たちの礼拝はどうあるべきか省みましょう。数十年の間、習慣的に礼拝に慣れて、日曜日に教会に出席するだけで満足していた時は無かったか顧みてみましょう?一週間の私たちの日常生活の中で、私たちは、どんな気持ちで日常の礼拝に取り組んでいるのでしょうか?カインがささげた虚しい礼拝ではなく、アベルがささげた、正しい礼拝を記憶し、私たちの生活の中でも、そのような礼拝を捧げることを望みます。一週間の生活の中で、真の礼拝を守っていく、私たち志免教会になりますように、祈り願います。

兄弟を裁いてはならない。―お互いに受け入れなさい。―

ローマの信徒への手紙14章1-12節 前置き ローマ書を通して、人間の堕落と神の愛、キリストによる御救いなど、キリスト教の教義への知識を幅広く教えたパウロは、後半に入っては、キリスト者の生きるべき生き方について勧めました。 12章ではキリスト者らしく、この世に倣わず、聖なる生ける生け贄となり、弁えのある生活をすることを勧め、13章では、国と団体の権威へのキリスト者の対応と在り方について述べました。今日の14章では教会の中での生活、とりわけ裁き、いわゆる、判断することについて語っています。前のローマ書2章の説教では、判断は神の固有の権限であり、正しい判断ができない人間は、判断を手控え、判断に謙虚さと慎重さを持つべきだと話しました。また、先週の創世記の説教では、神の固有の権限である判断することを貪った人間が、そのために堕落したとも話しました。判断は自分が正義であるという前提に基づいて始まることです。時々、教会内で信徒同士が自分の信念や判断により、相手を憎んだり、紛争が起こったりする場合があります。パウロはローマ教会の内部でも、このように判断による争いがあるのを知り、14章の言葉を通して判断に対する正しい知識と信徒同士の平和を望みました。今日は、その信徒の判断について話してみたいと思います。 1.ローマ教会の内部の争い。 まずは、ローマ教会があった1世紀のローマ地域の話を分かち合いたいと思います。ローマ教会では、ローマに住んでいるユダヤ人のキリスト者と、異邦人のキリスト者が共存していました。彼らは文化の違いと思想の違いを持っ​​ていましたが、イエス・キリストへの信仰を通して一つになり、教会を形成していました。しかし、当時は今のようにグローバル化された時代ではなかったため、同じ信仰と教会を持っているにもかかわらず、各々の思想の幅を狭めることは、非常に難しい問題でした。世の中がどんなにグローバル化された今でも、それぞれの思想と文化の距離を狭めることは依然として、そう簡単ではない問題です。隣国である日本と韓国の歴史観が異なることはもとより、米国と中国の世界観も全然異なります。東京都民と福岡県民の考え方も異なると思います。志免町民と須恵町民の考え方も異なるかもしれません。ましてや、2000年前の古代社会で、それぞれの思想や文化間にある隔たりは、今よりも遥かに狭めることが難しかったのでしょう。そのような条件の中で葛藤が生じるのは当然の結果だったのです。 ローマ教会の内部にも、そのような問題がありました。ローマ教会の問題については、大凡3つに分けて考えることが出来ます。1つ目は食べることに関する問題です。 「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」(2)当時ローマ帝国で流通してい肉は全量皇帝のための生け贄として使用された肉です。当時の皇帝は神のような存在と扱われており、その皇帝のための異邦宗教の供物としての意味が込められていた肉の中で、残ったものを市場で販売していたものです。神様のみを信じようと告白したキリスト者の中で、ある人々は、その生け贄に使用された肉は、偶像への供物なので、食べてはならないと思いました。しかし、あるキリスト者たちは、すべてのものが神によって創造され、神様以外の偶像は存在しない無力なものなので、肉を食べても問題なんかないと信じていました。それで、彼らは互いに持つ考え方の違いにより、互いに非難し、争うことになりました。 二つ目に、日の問題です。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(5)これは、初期キリスト教会でのユダヤ人の安息日とキリスト教の聖日への認識の違いから生まれた問題でした。ユダヤ出身者たちは、安息日は守るべきだと思いました。しかし、異邦人たちは、イエスが復活された日である聖日が、さらに大事だと思いました。結局、礼拝する日への認識の違いによって葛藤が生じたということです。当時の、ある教会では、葛藤を抑えるために安息日と聖日、すなわち土曜日と日曜日の両日に礼拝を守ったとの記録も残っているそうです。三つ目に、ローマ書では出て来ませんが、当時の教会で頭痛の種だったと言われる割礼の問題があります。ユダヤ人は割礼を必ず守らなければならないと考えていましたが、異邦人は、あえて割礼を守る必要があるのかと思いました。実際に、イエス・キリストが受肉を通して律法のすべてを完成された後に、割礼は、あえて、守る必要のない儀式となりました。しかし、一生をユダヤ教の伝統を守りながら、生きてきた人々にそのような伝統を無視することは簡単なことではありませんでした。また、ユダヤ教から来た律法の儀式を強いた偽の教師たちのために、そのような割礼の問題は、教会内に大きな傷をつけるほどの深刻な問題となりました。このように、ローマ教会の中で、異なる考え方が衝突し、教会を分裂させる重大な恐れが生じたのです。 2.本当に大事なこと。 これらの問題は、現代の日本に住んでいる私たちにはあまり重要ではない問題と思われるかもしれません。しかし、現代の教会でも類似の出来事が起こったりします。私は日本に来て、まだ教会内の葛藤や問題を見たことがありませんので、挙げる例え話がありません。なので、私が韓国の教会で働いて経験した話をさせて頂きたいと思います。韓国教会の一部の人は、早天祈り会を大事に守っています。また一部の人は、早天祈り会は行ってもいいし、行かなくても構わないと思っています。誰かは早天祈り会を大切に扱っていますが、誰かは必ずしも守る必要はないものとして扱います。ところで、さてある日、信者の二人が早天祈り会への異見のため、論争しました。そんなことで争う必要があるのかと思われるかも知れませんが、2人には大事な問題だったのです。別の例としては、一部の人はキリスト者は酒を飲んではいけないとし、一部の人は酒を飲んでも構わないとして論争が始まりました。聖書には飲んでも良いというニュアンスと飲んではいけないというニュアンスの両方があるからです。正直、早天祈り会も、飲酒の問題もキリスト教の根本を損ねるほどの重要な事柄ではありません。しかし、それぞれの信仰や信念では、それが重要な問題となることもあり、重要ではない問題となる可能性があります。しかし、問題は皆が自分の主張だけを考え、相手のことを無視したことから生まれたのです。 このように重要ではない教会の問題をギリシャ語で「アディアポラ」と言います。その意味は、「本質的ではない問題」という意味です。やっても良いし、やらなくても構わないこと、つまり、信仰に大きな影響のない非本質的なことを意味します。キリスト教で決して疎かにしてはならない本質的な問題には何があるでしょうか?イエス・キリストは救い主、すべての人は罪人、神が世界を創造されたこと等のように決して変えてはならない重要な教義があります。しかし、他宗教の生け贄を食べてもいいか?どの日に礼拝を捧げるべきなのか?酒とタバコを楽しんでもいいか?等は教義にするに恥ずかしいほど本質的ではない問題です。これらのアディアポラが非常に盛んに行われていた中世カトリックでは、針の先の上に天使が何人まで立つことが出来るのかというとんでもない質問が神学的な問題になったりしたそうです。何の意味もなく、心配する必要もない問題でした。しかし、司祭同士は真剣に論争をしていたという話しを聞き、爆笑した記憶があります。今日、パウロが話しているのは、まさにこれです。 「教会の内に多くの問題が存在するが、それでも教会は、神に召された貴い共同体である。したがって、本質的ではないことのために兄弟姉妹を憎んではいけない、むしろ容認し受け入れなさい。」 「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1)教会の内には、様々な人々が存在します。一部の人は、アディアポラを超える堅い信頼を、一部の人々は、アディアポラのために躓き、倒れてしまう弱い信仰を持っています。しかし、信仰の強い人にしろ、弱い人にしろ、彼らは皆主に愛される、神の子供なのです。したがって、信仰の強い人は、自分の知識や信念を持って強いて教えようとせず、信仰の弱い人を理解し、受け入れなければなりません。信仰の弱い人は、まだ自分が知らない信仰の考え方があるかも知れないと、謙虚に考える必要があります。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(8)私たち皆は、自分自身の判断と考え方ではなく、ただ、主の御心に従って生きていきます。自分の考えと信念に合致していない物事が、教会の中にあるかも知れません。しかし、自分の気持ちだけを主張する前に、教会と兄弟姉妹の状況を考えなければなりません。キリストは、そのような神の民の平和と調和のために十字架で死に、復活なさったのです。 「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(9) 私たちが自分の考えだけを貫くために兄弟と争い、憎み、判断すれば、そのすべてのことが、神様の御前で罪となります。そして終わりの日、神の前で、そのような判断の罪に対して厳重に裁かれるのでしょう。 「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(10)私たちは皆、お互いの状況を察し、必要のない紛争が生じないように、自分自身を抑えつけなければなりません。信仰の強い人は、信仰の弱い人たちのために配慮し、信仰の弱い人も、自分の考えに誤りがあることを認め、皆がお互いに理解し合い、受け入れるために力を尽くすべきでしょう。 「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」(13)、私たちに本当に大事なのは、私の信仰を持って他人を判断するのではなく、すべての弱さを理解し合い、お互いに受け入れ、愛することではないでしょうか? 締め括り 「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17)、神の国はどんなところでしょうか?おそらく、そこでは神の中で、皆が一つになり、憎しみも、争いも、妬みもない場所だと思います。また、この地上での生活とは違って、辛さも、惨めさも、悲しみも無い、常に喜びに満ちた所だと思います。そういう意味で、神の国は、私たちの生活の中にも、部分的に存在するということでしょう。皆がお互いに受け入れ合い、愛し合う所は、どこでも神の国になると言えるでしょう。今の世界は戦いに満ちています。日中韓が互いに警戒し、特に日韓は北朝鮮のミサイルを心配しています。日本国内でも与党と野党が政治的な異見で争いをしたりします。このように戦争で満ちている世界で、教会だけは、お互いに仕え合い、人を自分より優れた者と思い、尊重し、愛する生活を営んでいきたいと思います。この地上での神の国は、お互いの理解から始まります。そして、その理解は、キリストの愛に基づきます。人が嫌になったり、その人によって心の中に怒りが込み上げるときは、その人を愛して、彼のために死んで復活されたイエス・キリストを思い起こしましょう。そして、彼を理解し、愛するために祈りましょう。兄弟姉妹を憎まず愛して欲しいという、私たちの心と祈りの中で、神様は、義と平安と喜びで私たちを満たしてくださるでしょう。その時初めて、私たちは愛に満ち、地上での神の国を味わうことが出来るでしょう。愛に満ちて、誰も判断しない志免教会となり、この志免町に神の国を立てていく共同体になることを願います。神の恵みと平和を祈り願います。

人間の堕落と神の救い

前置き 神は天地創造を終えた後、御自分が造られた世界を御覧になり、極めて良かったと満足なさいました。とりわけ、その中で人間の創造は、すべての創造の画竜点睛のような、最も重要な出来事でした。人間が、そのすべての被造物を神に導く代表的な存在だったからです。神は、このような人間に全てのことを自由に選択する自由意志を与えられ、その自由意志をもって神に仕え、愛することをお望みになりました。神は、そのために人間が自由意志を正しく扱うか否かを判断する「善悪を知る木」を造り、人間に「その果実を絶対に食べてはいけない。」という厳重な命令を与えてくださいました。しかし、最初の人間は、神の、その命令を自分の自由意志で破り、その果実を取って食べてしまいました。神だけに仕えるために与えられた人間の自由意志が、人間自身の欲望に仕えるための自由意志となってしまったのです。人間は、そのように神の言葉に逆らってしまいました。それが、まさに人間の堕落なのです。その最初の人間のように、今日を生きる私たちの生活の中にも、常に犯罪と従順という、まるで善悪を知る木のような選択の分れ目が存在しています。先々週の説教では、このような善悪を知る木と私たちの生活の中で、まるで善悪を知る木のように存在している犯罪と従順の分れ目について分かち合いました。今日は創世記3章の残りの箇所を通して、堕落した人間と救われる神について語り合いたいと思います。 1.目が開けるということの意味。 エデンの園に現れた蛇は人間を惑わし、神が禁じられた善悪を知る木の実を食べさせました。ヘビは人間に「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(5)と言いました。人間は拒否することが出来るにもかかわらず、自分の意志で、その実を取って食べてしまいました。おそらく人間は「目が開け、神のようになる。」という言葉に魅力を感じたかもしれません。自分たちも神のように賛美と礼拝を受ける存在になるだろうと考えたのかもしれません。しかし、ここで「目が開ける。」という意味は、そんな意味ではありませんでした。それは「善悪を知るようになる」ということでした。善悪を知るということは、何かを「判断」するという意味です。今年の始めにローマ書を説教しながら、真の判断は神だけがお出来になるものだとお話しました。神は絶対者でいらっしゃいますので、何が善であるのか、何が悪であるのか正確な判断ができるとお話しました。それは、神様は歪みのない真実を知っておられるという意味だったのです。しかし、人間は絶対者ではないため、自分の考えや経験に頼って、何かを判断することになります。そして、その際に必ず歪みを伴います。人間は真実の前で状況や事情によって揺らぐ存在だからです。 自分で判断することになったというのは、神の言葉ではなく、自分の考えで世の中を眺めるようになったという意味です。つまり、人間は、もはや神を必要としなくなったということです。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(7)神は創造を終えて「それを見て極めて良かった。」と言われました。これは当時の人間が裸であっても、神の御前では自然な状態であったということです。創世記3章で言う裸とは、現代のような恥の象徴ではありませんでした。創造の純粋さと、神の前での正々堂々とした状態を意味するものでした。しかし、目が開け、自ら判断できるようになった人間は、神が良しとされたことを、自ら良くないと思ってしまいました。神の御判断を自分の判断で無視してしまったのです。結局、人間は、すぐ枯れて消えるイチジクの葉っぱを綴り合せて着ることにより、神の創造の摂理を無視し、自分たちの判断に従いました。このように、神のようになるために善悪の木の実を貪った人間は、自らを神のように考えようとする歪んだ判断力だけを持つことになってしまいました。そして、その結果、神の言葉に逆らう罪の性質を持つ存在に変わってしまいました。 2.罪の性質 人間の堕落後、神はエデンの園に現れ、人間をお呼びになりました。 「主なる神はアダムを呼ばれた。どこにいるのか。」(9)しかし、人間は、そのような神を避けて園の木の間に隠れてしまいました。ここでの、「呼ぶ。」という言葉は、「カラ」というヘブライ語の表現を翻訳したものです。これは「呼ぶ。言葉をかける。招待する。」などの意味を持っています。旧約聖書で、神は御自分の預言者たちを召し寄せるとき、この「カラ」という言葉を使いました。 「だれだれよ!お前は、どこにいるのか?」 その時、モーセとサムエル等の神の預言者たちは、「私はここにいます。」と答え、そのお召しを承りました。しかし、堕落した最初の人間は、神を避けて隠れてしまいました。ここで一つ目の罪の性質を見つけることが出来ます。罪は神と人間の間の招待と応答を断ち切ります。神の子供のような人間に、神を父と考えず、他人のように感じさせます。それによって当たり前に神の言葉の重要性を見落とさせ、その言葉に聞き従わないようにさせます。罪は神と人間を遠ざけ、関係の破壊をもたらします。預言者イザヤは、罪に対してこう言いました。 「お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:2) 神との関係が破れた人間に見られる二つ目の様子は、「アダムは答えた。あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(12)との言葉から見つけることが出来ます。堕落したアダムは、自分の罪に対して自ら悔い改める姿を見せず、むしろ「あなたが私に与えた女が」「女に与えられたので」のように弁明し、神と隣人を責めることになりました。堕落した人間は、何よりも自分自身のことを最も大切にする性質を持つようになりました。このような姿は、私たちの中にも残っていると思います。自分の過ちより、他人の過ちがさらに大きく見え、他人は傷を受けても、自分だけは傷つきたくない心を持ちがちです。そんな自己中心的な心と行為は、最終的に人と人との関係の破壊をもたらします。人間が自分の罪を悔い改めるために、神の御前でありのままに立つということは、これらの堕落した人間の姿に立ち向かい、「神と隣人に仕える」神様に喜ばれる人間像の回復なのです。 なおまた、三つ目の罪の性質は、罪が移るということです。 「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(6)もし、堕落した一人のみが罪を犯し、それで終わることなら、その結果として、一人だけが滅びるでしょう。しかし、罪には伝染する性質があり、一人だけが滅びることではありません。女は果実を取って食べ、その果実を男にも渡しました。実際に歴史上で指導者の罪が全国民を煽り立て、皆が罪の中に置かれるようになったという話は数え切れないほどあります。ガラテヤ5章9節には、このような言葉があります。 「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」これは神の真理に反する小さな誤りを犯せば、その小さな誤りが、ますます大きくなっていくことを警告する言葉です。パウロはそれを防ぐためには、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」という特段の措置まで述べています。人間の堕落後に生じた恐ろしい結果は、この罪が人間の生活の中のあちこちで働き出したということです。罪の伝染を覚えつつ、生活の小さな部分から罪を退ける生き方が必要ではないかと思います。罪はコロナウイルスよりも、恐ろしい魂の感染症だからです。 3.それでも人間をお見捨てにならない神の愛。 その日、神は男と女、そして蛇に将来のことについて仰いました。人間の堕落がもたらした最も大きな影響は、不滅の存在である人間が、必滅の存在に格下げされたということです。 「主なる神は、…アダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(24)、神は人間を永遠に生きる存在としてお造りになりましたが、神との約束を打ち破った人間は死ぬことで、その罪を償わなければならない存在となりました。神は命の主です。殺すために創造なさった方ではなく、生かすために創造なさった方なのです。しかし、人間は、自らその命の神を裏切り、離れてしまいました。命の道を捨て去った人間に残ったのは死ぬことに決まっていました。以降、アダムは939歳まで長生きしました。しかし、長生きしたからといって良いとは言えませんでした。 「千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」(詩篇90:4)どうせ、神の御目に939年は、まるで一晩にもならないような、短い時間に過ぎないからです。 いくら1000年が長いといっても、永遠とは比較できません。神に1000年は一日のような短い時間に過ぎないですが、永遠は神にとっても永遠の時間だからです。結局、人間は永遠から外れ、有限に生きる死の存在となってしまいました。  「神が生かす方であるならば、堕落した人間であっても、生き残らせればよかったのではないだろうか。」と問い掛ける人もいます。しかし、罪なく永遠に生きることと、罪を持って永遠に生きるということは雲泥の差だと思います。罪のない永遠の命は神と永遠に一緒にいることを意味しますが、罪のある永遠の命は、神に見捨てられたままに地獄のように永遠に生きることだからです。おそらく神が人間の死を許され、永遠の命の木を守られた理由も、堕落した人間を救うための意味深い御心ではなかったのでしょうか?神は堕落した人間のために、蛇に呪いを下され、人間の子孫を通して蛇をお裁きになると言われました。たとい堕落した人間であっても、神の御救いは、その堕落した人間への御憐れみから始まりました。神は決して人間を見捨てられずに、最後まで彼らを回復させるためにお働きになることでしょう。また、人間の回復のために、蛇と表現された罪に取り組みつつ、人間を導いて行かれるでしょう。私たちキリスト者は、そのような神の約束を信じ、その約束の結果がイエス・キリストであるということを信じつつ生きています。キリストが罪に勝利されたように、私たちも神の御意志に基づいて、堕落に立ち向かい、罪を打ち破り、神につき従う人生を生きるべきでしょう。 結論 「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(21)罪を犯し、神との関係が切れた人間はイチジクの葉っぱで、辛うじて自分らの恥を覆うしか出来ませんでした。しかし、イチジクの葉はすぐ枯れて消えてしまうはずでした。しかし、主は枯れたり、腐ったりすることのない皮の衣を作って人間の恥を隠してくださいました。そして、いつか蛇に惑わされて堕落した人間が、その蛇に勝利する日を約束してくださいました。神はそのように人間をお見捨てにならず、新しい道に導いてくださったのです。私たち人間は、罪と死の下にいる存在です。生まれた時から死に向かって生きる存在です。しかし、主はキリストをお遣わしくださり、私たちの罪を悟らせてくださり、その罪を解決する道をお示しくださる方でいらっしゃいます。自分の罪に対して自力で、何も出来ない、まるで「イチジクの葉っぱ」を着たような人間に、キリスト・イエスという永遠の罪の解決策をくださり、「皮の衣のような救いの服」を着せてくださる方です。創世記3章の言葉を通して、罪の中に生きていく私たちをお見捨てにならず、むしろ生きる道を教えてくださる神を覚えつつ生きてまいりましょう。自分の罪の前で自らのことを謙虚に弁え、避けるより認め、神の御助けを求める私たちになっていきましょう。神はそのような私たちにキリストを通じた御救いを持って喜んで答えてくださるでしょう。