ローマ教会の使命、志免教会の使命。

出エジプト記 19章5-6節 (旧125頁) ローマの信徒への手紙15章14-21節(新295頁) 前置き 私たちは、ローマ書を通して人間の罪、神の御救い、救い主イエス、十字架、そしてキリスト者の生き方について総合的に触れることが出来ました。特にキリスト教の基礎的な教義をたっぷり含んでいるローマ書の言葉を通して、キリスト者として長く過ごしてきただけに、得てして、疎かになりやすい信仰の基礎について改めて学べる機会になったと思います。また、教義的な教えだけでなく、実生活での信仰の在り方についても考えてみる機会が得られました。先に聞いた14章の説教では、教会員が各々持っている信仰の強弱を認め合い、むしろお互いに理解し合い、紛争のないキリストの体なる共同体になることを勧めました。今日の15章では、パウロの教えを通して、そのような主の御導きの下にある、ローマ教会員が、また何を目標として生きていくべきかを教えてくれます。パウロは15章の言葉を通して、教会の最も重要な機能の中の一つである宣教と伝道について話し、イエスを伝え、宣教するキリスト者として生きていくことを促します。今日の言葉を通して伝道する教会、宣教する教会に関して分かち合う時間になることを願います。 1.模範的な共同体であるローマ教会。 私は、過去数回のローマの説教を通して、ローマ教会の中にさまざまな問題点があったと話しました。ユダヤ人と異邦人が一緒に教会を成していただけに、「異邦の神に捧げた供物を食べてもいいだろうか。ユダヤ式に安息日を守るべきか。」などの文化と民族の違いから生まれる問題。また、当時のキリスト教会を脅かしていたユダヤ教の偽りの教師たちによって起こる問題。ローマ皇帝の支配の下で真の王であるキリストへの信仰による殉教など。いろいろなことが、ローマ教会の信徒たちを脅かしていました。しかし、ローマ教会は、そのようなすべての難関を経て、さらに堅い信仰を養っていき、互いに心を合わせ、連帯を結び、健康な交わりを分かち合って、御言葉と祈りに力を尽くす教会を営んでいきました。彼らの王はキリストであり、ローマ帝国の武力と脅迫も彼らの信仰を破ることが出来ませんでした。それに対して、使徒パウロも、今日の本文を通して褒めています。 「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」(14) 私が志免教会に初めて訪問したのは、一昨年の11月でした。今や志免教会が一番気楽な教会ですが、当時は相当緊張していたと覚えています。 「説教がまずくて、皆さんががっかりなさったら、どうしよう?日本語が上手く話せなくて会話が順調じゃなければ、どうしようか?」との心配もしました。しかし、志免教会は、今までに経験したどの教会より暖かかったです。お互いに愛し、気配り、祈り、助け合うことを喜ぶ愛の教会でした。コロナにより教会が閉じても、皆さんが祈りで教会に仕え、遠くからも一つになることを望み、礼拝が不可能なことを残念に思う教会でした。それだけではなく、御言葉への熱望と礼拝への愛で、一度も経験したことのない外国人の牧師を大胆に招き、民族を問わず一緒に歩み、真の神の共同体であることを証明してきました。我が教会は本当にローマ教会のように模範的な教会だと思います。おそらくパウロが生き返って来れば、志免教会をも、このように褒めるでしょう。 「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」(14) 2.神がご自分の民を召された理由。 このように当時のローマ教会は、まるで私たち志免教会のように暖かくて、信仰によって一つになった、本当に素晴らしい教会だったようです。ところが、パウロはそれだけに満足していませんでした。もちろん、パウロもローマ教会の素晴らしさに感心し、彼らに褒め言葉を言いました。しかし、彼はさらに一歩進んで、ローマ教会が追い求めるべき在り方について語ろうとしました。 「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。 」(15-16)私たちは、この言葉の中で「キリスト・イエスに仕える者。」「神の福音のために祭司の役を務める。」「異邦人が、神に喜ばれる供え物となる。」という三つの表現に注目する必要があります。神はエジプトの奴隷だったイスラエルを十の災いとシナイ山での律法を通して、神の民として召されました。その時、主はイスラエルにこう言われました。 「世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:5-6) 神はイスラエルの民をエジプトの奴隷から救ってくださり、自分の民とされました。そして彼らに神の律法をも与えてくださいました。その理由は、単に彼らを民族と国家を成して、豊かに生きさせるためだけではありませんでした。神は彼らを他の民族に神を伝える祭司の民族として生きさせるためにお召しになったのです。また、使徒ペトロは、この出エジプト記の言葉を引用して、このように言いました。 「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」(ペトロⅠ2:9)つまり、神が旧約のイスラエル、そして新約の教会をお召しになった理由は、彼らを神の祭司として生きさせるためでした。そのために私たちは、主に救われ、神の民となったのであり、そのような私たちは、信仰が生まれた、その日から、この世を去る、その日まで、神の祭司として生きる義務を持っているのです。牧師だけが、神の祭司ではありません。イエスを信じる私たちは皆、神の祭司なのです。ならば、この祭司として生きる者たちの生き方はどうあるべきでしょうか? 私たちは、福音のための祭司の役に召されました。つまり、私たちはキリスト・イエスに仕える者として召されたということです。そして、このような私たちの使命は、まさに異邦人を聖なるもの(生け贄)として捧げることです。異邦人を聖なるものとして捧げるという意味は、私たちを通して神を知らない者が神を知るようになるということです。十字架で供え物となって死んだイエスの犠牲によって、イエスを信じるすべての者は、神のものとなりました。つまり、異邦人が神を知るようにすること、未信者が神のものとなること。まさに伝道と宣教を意味するものです。パウロは、模範的なローマ教会を褒めました。しかし、自分たちだけの共同体の中で、自分たちだけが喜んで、満足して生きることを望んではいませんでした。パウロは、模範的なローマ教会が、さらに神を知らない者に、イエス・キリストを伝え、彼らに福音を聞かせることを望んだのです。私たち志免教会は模範的な教会です。しかし、そこにとどまっていてはいけません。志免教会が本当に神の民であれば、宣教に力を尽くすべきです。「イエス・キリストは主であり、教会は神の民であり、神があなたを愛している。」という、その福音を励んで伝えるべきです。ローマ教会のような素晴らしい共同体である志免教会は、果たして宣教という使命の前で真の神の祭司として生きているのでしょうか? 3.日本という社会の中での志免教会。 日本で伝道をするということが、どれだけ難しいのかは、今も体験しています。天皇家が日本の守り主だと信じている日本人は、全人口の7割以上だそうです。すでに彼らに天皇家は宗教であります。日本で宗教人口は総人口の160%以上と言われています。つまり、日本人の大部分は複数の宗教を複合的に信じているということです。彼らにキリスト教はどう認識されているでしょうか?しかし、聖書は神お独りだけが、真の神であり、彼がお遣わしになったキリストだけが、真の救いをもたらす方だと教えています。従って、複数の宗教を信じている複合的な信仰は偽りの信仰なのです。唯一の神と神に遣わされたイエス・キリストを知ること、つまりイエスを信じることだけが真の信仰なのです。イエスを知らない人、神を知らない人に、唯一の三位一体なる神のみが、真の神であり、真の救いを持っている方だということを伝えなければなりません。神は私たちの教会にそれを使命として命じられました。私たちがイエスを伝えること、近所の人に福音を伝えることは、私たちの使命なのです。私たちは、この重要な使命の前で、どのように福音を、イエスを伝えて生きているのでしょうか? ミシオデイという言葉があります。 「神が手ずから宣教なさる。」というラテン語です。しかし、この言葉は「神が宣教なさるから、我々は宣教しなくても良い」という意味ではありません。頭であるキリストの手と足は誰でしょうか?まさに私たち教会です。神が聖霊を通して私たちの中に臨まれ、導かれることは事実です。しかし、神を伝え、宣教する手と足の役割は、私たち教会が持っているのです。私たちは伝道しなければなりません。私たちは伝えなければなりません。折が良くても悪くても、主イエスの愛と福音を宣べ伝えるべきです。 「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」(ローマ10:14-15)信じるためには、聞かなければなりません。聞かせるためには、伝えなければ、です。私たちには伝える使命があります。そして、その伝えることこそ、私たちが神に捧げる霊的な祭祀となるのでしょう。主の福音を近所の人に伝えましょう。特に信じないお子さんたちに主を話しましょう。恐らく聞きたがらないかも知れません。しかし、時間をかけて少しずつ、神を話しましょう。私にくださった主の愛を伝えてまいりましょう。聖霊が私たちの祈りと伝道に力を与えてくださると信じます。 締め括り パウロは高齢になったにも拘わらず、福音を伝えようとしました。「私はこのことを済ませてから、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。」(15:28)パウロはローマを経て、スペインまで行って福音を伝えることを望んでいました。当時、スペインは世界の端と呼ばれている所でした。パウロは人生の最期まで、イエスの言葉のように世界の果てまで福音を伝えようとしていたのです。日本の教会はただ若いとは言えないだろうと思います。多くの信徒が高齢になったシニアの多い教会です。しかし、神の御前では、皆、若者です。永遠を生きて来られた神、いや永遠という概念そのものを造られた神様の前で年齢は何の意味を持つでしょう。宣教は老若男女を問わず、キリスト者の在り方だという意味です。人を連れて来ることだけが宣教ではありません。とりあえずイエスを伝えましょう。主の恵みによって連れて来ることが許されれば、さらに感謝しましょう。私たちの伝道は我々の使命なのです。私たちの伝道が、私たちの祭祀としての仕事となります。キリスト者として伝道と宣教を心の負い目にしましょう。神はこのような私たちの負い目をご覧になり、私たちを憐れみ、助けてくださるでしょう。福音を伝える志免教会、神の祭司、キリストに仕える人として一週間を生きていきますように祈り願います。