カインとアベルの祭祀

創世記4章1-15節 (旧5頁) ローマの信徒への手紙12章1節(新291頁) 前置き 初めの人は、神のようになるという蛇の誘惑を自ら受け入れ、善悪を知る木の実を食べ、自分も神のようになろうとしました。しかし、人は決して神のようになることが出来ませんでした。むしろ、人は神に対する反逆の罪によって、永遠の命を奪われて死ぬしかない存在となりました。人は神のようになることは出来ませんでしたが、一つ残ったものがありました。それは善と悪を知る知識のことです。「善と悪を知る。」ということは、神の固有の権限である判断を、人もするようになったということです。しかし、これは、人にとって決して良い結果ではありません。人はしょっちゅう揺らぐ存在であるため、その判断が正しくなるわけが、絶対にないからです。正しい判断が出来なくなった人は、それから他人に害を及ぼし、殺し、壊し、戦争する存在となってしまいました。結局、人は自ら善と悪が区別できるという夢想に捕らわれ、自然に罪を犯し、不義の存在となってしまいました。このような人の不義は代を重ねれば重ねるほど、人を罪に縛っておく足かせのようになりました。今日は創世記4章の言葉を通して、罪が、どのように人を神と隣人から遠ざけて、神への礼拝を失敗させるのかについてお話したいと思います。 1.神様が目を留められる祭祀。 エジプトから脱出してカナンに入ったイスラエル民族は、神の恵みによってカナンの地を征服し、神に土地を与えられました。神はそのカナンの地で、ご自分がイスラエルの王になられ、周辺国に神を伝える祭司の国として、イスラエルを導こうとされました。しかし、しばらくして、イスラエルは神に王を求め始めました。預言者サムエルは、イスラエルの真の王は、神だと彼らを説得しましたが、人間の王を求める彼らの要求は止みませんでした。結局、神はイスラエルに王を立ててくださいました。彼はサウル王でした。しかし、サウルは神に聞き従う王ではありませんでした。最初は神を畏れ、イスラエルを立派に治めるように見えましたが、結局、彼は神に従わない王になりました。神の御言葉に逆らい、むしろ自分勝手にイスラエルを導いたサウル王に、サムエルが現れ、このような話しをしました。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物や生け贄であろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことは生け贄にまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル15:22)結局、神に不従順で一貫していたサウルは悲惨な最期を迎えてしまいました。 神は王様でいらっしゃいます。そして、神は王への従順の意味として祭祀をお受けになる方です。しかし、人間はいつも自分が判断することを正しいと思い、自分に従おうとする性質を持っています。このような人間の自らの判断は、神の御判断を守らないようにさせ、時には歪めさせます。結局、このような自分の判断により、人間は神の言葉に聞かないようになり、神に不従順の罪を犯すことになります。今日の本文に登場するカインとアベルの話も、そのような祭祀が持つ本当の意味への誤解から始まる物語です。「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかった。」(創世記4 :3-5)カインとアベルは、最初の人であるアダムとエヴァの息子でした。カインは農業を営んでいる人であり、アベルは牧畜を営んでいる人でした。ある日、彼らは両方、神に献げ物を捧げました。カインは自分が収穫した穀物を持って神にささげ、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って捧げました。しかし、神はアベルの生け贄のみをお受けになり、カインの献げ物は拒否なさいました。 なぜ、神はアベルのものだけを受け入れられ、カインのものはお拒みになったのでしょうか?これに対して、約100年前のドイツの神学者たちの何人かは、神は農夫より羊飼いの方がお好きでいらっしゃるかもしれないという面白い解釈を主張する人もいました。皆さんはいかがでしょうか?果たして神は、本当に菜食より肉食の方をお好みになる方なのでしょうか?旧約聖書の出エジプト記には、このような語句があります。 「初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜である牛や羊の初子が雄であるならば、すべて別にしなければならない。」(出エジプト34:19)(この言葉では、家畜についてのみ、記されていますが、実は最初のものは、全部、神のものであるという意味として書かれた箇所です。)カインとアベルの出来事が出エジプト記よりも、はるかに前のことではありますが、ここからアベルの生け贄は受けられ、カインの献げ物は受けられなかったことのヒントが得られると思います。二人の祭祀の違いは何だったのでしょ?カインは自分の土地の実りを持って、神に捧げましたが、アベルは初子を持って、神に捧げました。皆、神に祭祀をささげたのに、果たして何が問題だったのでしょうか?ここには旧約聖書の言語であるヘブライ語の文法的な問題がかかっていますが、複雑ですので、省略して簡単に申し上げます。 カインは自分が献げ物を捧げたいと思ったときに、自分の収穫物の中で、手にしたいずれかを持って来て、神に捧げました。彼の心の中に神への丁寧な心はなかったのです。上辺だけの礼拝をしたということです。しかし、アベルは違いました。日本語の聖書では示されていませんが、アベルの礼拝は定期的で、丁寧でした。アベルは繰り返して神に生け贄をささげ、生け贄として、初めて生まれた家畜の初子を選別して、神に捧げました。彼の祭祀には神への愛と献身が染み込んでいたのです。カインは他人が祭祀をするから自分もどうしようもなく祭祀をするふりしたのです。しかし、アベルは自分のすべての努力と苦労をかけて、繰り返して神にい礼拝したのです。おそらく、アダムは神を祭る方法を2人に教えてくれたでしょう。しかし、カインは、そのような教えを聞き流し、適当に行なったのでしょう。しかし、アベルは愛と心と魂を尽くして、神に生け贄を捧げたのです。これがカインとアベルとの違いでした。神は高くて華麗なものを望んでおられません。神は真実な心を望んでおられる方です。そして、その真実は神に聞き従うことに基づくものです。カインとアベルがささげた祭祀の違いは、そこにありました。 2.祭祀と礼拝への反省。 旧約の祭祀と新約の礼拝の共通点は何でしょうか?従順と真実を持って捧げるということではないかと思います。イエス様もヨハネによる福音書のサマリヤの女に「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24)と仰いました。神の御心に聞き従わせる御霊によって、神の真理であるキリストに従って真実に神を礼拝しなさいという意味でしょう。しかし、カインの祭祀はそうではありませんでした。御言葉への従順のない祭祀であり、神への真実の欠けた礼拝でした。神はカインに、そのような従順と真実をお求めになったのです。神の拒絶は、カインへの拒絶ではありませんでした。カインの誤った礼拝方式を拒絶されただけです。カインが自ら省みて新たな気持ちで祭祀を捧げたら、神はきっと、彼の祭祀も受け入れてくださったはずです。しかし、カインは神の御前に悔い改めるどころか、拒否されたことにより、怒りに包まれました。 「カインは激しく怒って顔を伏せた。 主はカインに言われた。どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか」(創世記4:5-6) カインは懺悔するどころか、神に拒まれたため、憤り、正しく祭祀を捧げた弟アベルを殺してしまいました。自分の過ちに対する反省はちっともせず、神に褒められた弟を嫉妬して殺したわけです。真の礼拝をする者は、自らを省み、悔い改めるものです。自分の内面に罪による歪みはないのか?自ら振り返り、直すべき部分はないのか?いつも謙虚に自分のことに対して悩むようになります。他人のせいにせず、自分の過ちを咎めます。しかし、上辺だけ礼拝する者は、礼拝の場に出ることだけに満足します。 「今週は教会に出席して、礼拝に参加したので、宗教的な生活は達成した。」という考えで、何の反省も悩みもせず、一週間を過ごします。同時に、自分の誤りに鈍感で、他人を咎める傾向が少なくありません。礼拝に失敗したカインは悔い改めませんでした。むしろ、神が祭祀の仕方を教えてくださり、間違っている点を指摘してくださり、新たな機会を与えてくださったにも拘わらず、かえって怒りを発し、さらに一人だけの弟を殺してしまったのです。 「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(7)カインがアベルを殺す前に、神は、すでにこのような言葉でカインに教えてくれました。ここで「正しいのなら」という言葉の意味は何でしょうか?イエスの時代に、イスラエルと周辺地域の人々が読んでいた聖書は、当時の公用語であるアラム語で書かれている本でした。神学者たちは、この聖書をタルグム・オンケロスと言います。その聖書を解釈した当時の解釈本には「正しいのなら」という意味を「悔い改める。」という意味で解釈していたそうです。つまり、イエスの時代、当時の人々は創世記4章7節に記された「正しいのなら」という語句を「悔い改める「。」として理解していた可能性が高いということです。もし、カインが神に捧げた、失敗した祭祀を悔い改めて、自分の中から誤りを求めようとしていたなら、アベルが殺されることはなかったでしょう。カインは自分にではなく、他人に過ちを見つけようとしており、最終的には神の言葉にも不従順で、弟も殺してしまう、最悪の罪を犯してしまいました。それこそが失敗した祭祀だったのです。結局、カインは神への愛も、隣人への愛も、失敗した、礼拝の失敗者となってしまいました。 「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(12)、結局、カインは神に呪われ、追い出されてしまいました。不真実な礼拝の結果は、神に追い出されてしまう破綻につながります。しかし、神は、カインを憎んでおられたので、追い出されたわけではありません。 私たちは神様の愛を見落としてはいけません。「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」(15)カインは罪を犯し、神から追い出されましたが、神は彼を完全にはお見捨てになりませんでした。カインが生き残れる道を備えてくださり、彼が再び神に帰ってくることが出来るような機会を与えてくださいました。 「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」(16)今日の本文には、16節は出てきませんが、この短い16節で、私たちは、神の配慮を確かめることが出来ます。ヘブライ語で東は実際の東を意味する部分もありますが、「前」という意味をも持っています。神はカインが呪いを受けたにも拘わらず、エデンのすぐ前で生きる機会を与えてくださいました。彼が悔い改め、神の御前に来て正しい礼拝者として生きることを望んでおられたという意味でしょう。神はこのように、罪人をお哀れみくださり、新しい機会を与えてくださる方です。 締め括り カインは正しくない祭祀を捧げ、神に呪いを受けました。また、彼は悔い改めませんでしたので、神に赦される機会さえ、自ら捨ててしまいました。結局、カインは弟を無惨に殺してしまう殺人の罪まで犯しました。祭祀、すなわち、礼拝は、このように重要なものです。私たちの礼拝は、単に集会に参加することを意味することではありません。私たちの礼拝は、日常生活での神への真実な心と従順によって確定されるものです。これは、前に説教したローマ書12章1節の言葉とも通じる部分です。「 兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」そして、それを象徴的に目に見える形で、毎週行うのが、主日の礼拝なのです。今日カインとアベルの話を覚えながら、私たちの礼拝はどうあるべきか省みましょう。数十年の間、習慣的に礼拝に慣れて、日曜日に教会に出席するだけで満足していた時は無かったか顧みてみましょう?一週間の私たちの日常生活の中で、私たちは、どんな気持ちで日常の礼拝に取り組んでいるのでしょうか?カインがささげた虚しい礼拝ではなく、アベルがささげた、正しい礼拝を記憶し、私たちの生活の中でも、そのような礼拝を捧げることを望みます。一週間の生活の中で、真の礼拝を守っていく、私たち志免教会になりますように、祈り願います。