主はアルファであり、オメガである。

イザヤ書 44章6-8節 (旧1133頁) / ヨハネの黙示録 1章3-8節(新452頁) 今日は2019年の最後の聖日礼拝です。2019年には色々な出来事がありました。そのたびに私達は心配の中で生きなければなりませんでした。それにもかかわらず、すべての教会員がお互いに愛し合い、謙虚に教会に仕えました。確かに恐ろしいことも沢山ありましたが、それでも、喜びの中で今年の終わりを迎えています。今まで私たちを守ってくださり、共に歩んでくださった神様に感謝と賛美をお捧げいたします。このすべての恵みが神から来たことを信じます。 1.苦難の中でも、神の御言葉が共にあります。 ヨハネの黙示録は確かに解釈が難しい聖書の一つです。殆どの言葉が象徴的に記されており、それが何を意味するのかは牧師にも難しいほどです。しかし、黙示録の中心的な内容はとても簡単です。『この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。』(黙示録1:3)神の言葉を知ろうとする者、その言葉を守ろうとする者は、幸いな者、つまり神に祝福を受けるという意味です。ここでの祝福とは、お金持ちになったり、名誉を得たりすることとは、違う祝福です。これは、神様に選ばれ、神のお守りと愛を受けて生きていく霊的な祝福を意味します。神の民が主の言葉に聞き従い、その御言葉通り生きるとき、神はその民を守ってくださるのです。 ヨハネの黙示録が記録された時期は、西暦.95年頃です。当時、ローマの皇帝はドミティアヌスでした。彼は有名な独裁者でした。暴政をしきながら、自分を主であり、神であると呼ばせた者です。ただイエス・キリストだけを主と、また神として認め、仕えたキリスト者たちを残虐に殺した者です。その時、苦難を受けたキリスト者に慰めと希望を与えるために使徒ヨハネを通してくださった言葉が、まさにこの黙示録であります。イエス・キリストが復活され、父なる神様の右に座し、助け主、聖霊もキリスト者と共におられましたが、キリスト者は依然として迫害と軽蔑から自由ではありませんでした。むしろ神を深く信じれば信じるほどキリスト者は、さらに苦しくて辛い生活をしなければなりませんでした。大勢の人々が信仰を告白したため、円形闘技場で剣闘士や獅子に引き裂かれ死ななければなりませんでした。しかし、キリスト者は、主の御言葉に頼り、そのような世に立ち向かって生きました。主の御言葉は死と恐怖を圧倒する力を持っていたからです。 私たちがこの世に生まれ、生きていく間、肉体を持っている間、苦難はいつも私たちと共にあります。時々大きな罪を犯さなかったにも拘わらず、神の呪いのような苦難を経験したり、真面目に生きて来たにも拘わらず、大きな事故に遭ったりすることもあります。時には他の人を苦しめて、自分自身だけのために生きる人々が、より豊かに生きることもあります。理不尽なことが盛んであり、世の中に不法が蔓延っています。しかし、今日、聖書を通して主は言われました。 『記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。』現在の状況と、世の理不尽への心配と不安に挫折するより、それにも拘わらず、変わらない神の言葉を守り、主を信頼する者は幸いです。永遠にあるような不条理の終わりには、神様の恐ろしい裁きがあるからです。その時は、すぐ到来します。終わりの日、悪は裁かれますが、キリスト者は生の中で感じたすべての苦難と辛さを、神様に報いていただくでしょう。私たちは、その日が来るまで、信仰を守って生きていくでしょう。神の言葉が私たちの中にあり、常に力と勇気と希望を与えるからです。 2.恵みと平安の神が私たちを導いてくださいます。 新しい一年を考えると、期待されると共に恐れが生じることもあります。来年の今ごろ、私はどのように生きているか?果たして来年の今頃、私はこの地上にいるか?韓国では、こんな言葉があります。 『来る順番はあるけれど、行く順番はない。』 たぶん、日本にも類語があると思います。明日、何が起こるか、一週間の間に何が起こるか、到底分からない人生の漠然さを言う慣用語です。明日、急に神様が私たちを召されれば、私たちは、主の御前に行かなければなりません。私たちが、一日一日を生きていくことは、私たちの生命力が強いからではありません。神様が毎日毎日、私たちの命の延長を許してくださるからです。果たして来年のクリスマス、私はどのようになっているでしょうか?生きてはいるでしょうか?死を考えると、本当に怖いです。もちろん、神のみもとに行くという信仰はありますが、残された人々の悲しみがさらに恐ろしいからです。 12月15日、事故当時、私の車は10メートルくらい押され、車はだめになってしまいました。その日は、皆さんに心配かけないように冗談で『車が衝突する際に一番先に思い起こされたのが、修理費の心配でした。』と言いましたが、実際には『ああ、これが事故か?このまま死ぬのか?』という思いでした。もし私が神様に召されれば、どうなるでしょうか?志免教会は再び無牧教会に立ち戻り、昨年結婚した妻は、寡婦になり、両親は悲しみで一日一日を過ごすでしょう。皆さんも悲しい心でお過ごしになるでしょう。しかし、神様はまだ私を召されませんでした。幸いなことに、事故は膝の打撲傷で終わり、他には僅かな痛みは残っていますが、ほとんど治ってきているようです。当日は事故現場から教会まで歩いて戻り、冗談まで話すことが出来ましたので、神様にどれだけ感謝すべきでしょうか。私はまだ日本で果たすべき使命が残っているので、神様が私を生かしてくださったと思います。 神は主から頂いた使命を果たさせるために、ご自分の民を生かしてくださり、一日一日を導いてくださいます。ですので、私たちは一歩一歩を導かれる神の愛と恵みに感謝せざるを得ません。黙示録が記された時代、多くのキリスト者は死んで行きましたが、それにも拘わらず、主の教会は生き残って迫害と苦難とを逞しく乗り越えて福音を宣べ伝えました。神様は苦難の中でも恵みと平安を持って、主の教会を導いてくださったのです。『今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。』(黙示録1:4-5)この世は恐ろしい所です。しかし、私たちは使命を達成することが出来るように命を保たせてくださる主と共に輝かしい勝利を収めることが出来ます。永遠におられる父なる神様と、完全数、七つとして表現された完全な聖霊と、世の王たちを治めるイエス・キリストが私たちを見捨てられず、永遠に一緒に歩んでくださるからです。 3.神はアルファであり、オメガであるからです。 なぜ、キリスト者が苦難の中に、また死の中に生きていくときにも、神は私たちの命を守り、最後まで生き残らせ、使命を果たすことが出来るように導いてくださるでしょうか?それは、主がアルファであり、オメガであるからです。つまり、主は万物の始まりであり、すべてのものの最後であられるからです。 『神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。私はアルファであり、オメガである。』(黙示録1:8)ギリシャ語で『初め』という言葉、『アルケー』は『開始』という意味と同時に『起源、根本』という意味をも持っています。ですので、ギリシャ語に翻訳された旧約聖書の創世記1章1節では『初め』を『アルケー』と記しています。また、ギリシャ語で『終わり』という言葉は、『テロス』と言いますが、これは『終わり』という意味と同時に、『すべての目標を完成する。』という意味をも持っています。つまり、アルファとオメガという言葉は、創造から終末までを意味するものであり、創造と終末が持っている永遠さと無限さの主が神様であることを古代ギリシャ風に示したものです。 聖書はこれを旧約でも強調しています。 『イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。』(イザヤ44章6節)イザヤ書は1-39章、40-55章、56 -66章の三つの部分に分けられています。三つは記録された時期が、それぞれ異なります。特に40-55章の部分は偶像崇拝、悪行などにより神に捨てられ、バビロンに捕えられたイスラエル民族が、神様によって70年ぶりに解き放され、神様に再び機会を頂いた時、宣言された希望の託宣です。当時、バビロンは強い国でしたが、さらに強力なペルシャに滅ぼされました。しかし、あの強力なペルシャさえ、神の御手に操られました。 『ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。 』 (歴代誌下36:23) 天地万物の始まりと終わりである神は、どんな強力な存在でも逆らうことが出来ない偉大な方です。巨大なペルシャの皇帝キュロスさえも、神のご命令の前では、取るに足らない被造物に過ぎませんでした。神は王の中の王であり、神の中の神でいらっしゃるからです。ところで、この大いなる神は今日の御言葉で、イエス・キリストを通して小さくて力のない民を選ばれ、罪から解き放し、彼らを王として、父である神に仕える祭司として生きさせてくださると約束されました。これは大いなる神が小さな民をお選びくださり、彼らのアルファとオメガになられ、最後まで一緒におられるという意味です。キリスト者が出会う苦難と死は、キリスト者自らの力では勝つことの出来ない恐ろしい存在です。しかし、その苦難と死さえも、神の御手の中にあることを信じれば、我々はそれらをもう恐れる必要がないでしょう。むしろ私たちが苦難と死の間にいても、主はその苦難と死の道で、私たちと共におられるからです。 締め括り 今年の終わりが近づいています。今年、本当にたくさんの出来事がありました。しかし、私たちは無事に年末を迎えることが出来ました。このことについて考えてみると、神の恵みではなかったことが何かあっただろうかと、感謝せざるを得ません。我らの心配と不安の中で一緒にいてくださった主が私たちを助けてくださり、無事な終わりを許してくださいました。もちろん、まだ我々の中に未解決の苦難と心配が残っているかも知れません。しかし、アルファであり、オメガである主は、依然として皆さんの苦難と心配の中におられます。 『私は、あなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。』(ヨハネ14:18)イエスは明らかに私たちを孤児のようには捨てておかないと約束されました。この約束は、私たちが神に召される、その日まで続くものでしょう。今年の終わりを迎え、今まで私たちをお助けくださった神に感謝しましょう。そして、2020年、新しい年も、共にいてくださる主を喜びましょう。年越しも健康に過ごされ、来年も幸せな夢を抱いて、神様と一緒に歩いていきましょう。皆さんに父なる神、主イエス・キリスト、聖霊の愛と平安が常に共にあることを祈り願います。

天から地上へ、教会から隣人へ。

詩編73編23-25節 (旧908頁) / ヨハネによる福音書 6章37-40節(新175頁) メリークリスマス!主イエス・キリストの父なる神様を賛美します。今日は主イエスの御降誕を記念するクリスマス礼拝です。クリスマスを迎え、皆さまのご家庭と日々の生活の上に神様の深い愛と恵みが豊かに溢れますようにお祈りいたします。皆さん、クリスマスの意味とは何か?お考えになったことがありますか?クリスマス、おそらく、キリストと繋がりがあると感じられませんか?ひょっとして、そう思われたなら、正解です。ギリシャ語、キリストから出たクリスに、ラテン語のミサがマスとなり、一つになった表現がこのクリスマスなんです。私は特に、ミサの方が気になりました。ミサ、良く聴いたことのある言葉ではないでしょうか?ミサは、カトリック教会で、感謝の祭事、感謝の礼拝という意味として使われる言葉です。ミサには、もう一つの意味があります。言語学的な意味として、英語のミッション(宣教)と語源が同じです。両方ラテン語のミッシオから来ましたが。ミッシオとは英語のミッションと同じく、宣教という意味の言葉です。 これらを総合して考えれば、感謝と宣教がクリスマスの主な意味だと言えるでしょう。一つ目に、クリスマスとは主イエスへの感謝を捧げる日です。何のための感謝でしょうか?私達を救ってくださった主の宣教への感謝でしょう。そして、二つ目に、神様に頂いた宣教の使命、この世に遣わされた私達、教会が持っている宣教の使命への感謝でもあるでしょう。クリスマスは感謝の日です。救い主、主イエスと神様への感謝、救い主の手と足として、遣わされた我らの宣教の使命への感謝の日です。このクリスマスが主の宣教、我らの宣教を誓う素晴らしい一日になることを願います。今日は感謝の心を込め、主の宣教、そして我らの宣教について話してみたいと思います。 天から、地上へ。 主イエスは天から地に来られました。聖書に於ける天とは、粕屋郡の美しい青空を意味することもありますが、人の手が触れる事が出来ない無限と永遠との神の力を示す表現でもあります。人間が認識している全ての物事、時間、空間、宇宙すらも、神様の永遠に比べれば、たった一つの点に過ぎない、小さな被造物でしょう。永遠とは、私達が生きていく、この世を超越するものです。ところで、この永遠を造り、司る御方が、主イエスの父、神様であると聖書は証言しています。 一方、地というのは、今私達が踏んでいる福岡の地という意味もありますけれど、さらに深く考えると、喜び、微笑み、生、怒り、涙、争い、死など、人間の喜怒哀楽のあるすべての所だとも、言えるでしょう。人が永遠に生きることが出来ないように、この地というのも永遠な存在ではありません。この地は、時間、空間、宇宙のような被造物に属しているからです。永遠ではない地、いつか終わらざるを得ない地、この地は真冬のように寒くて冷たい所です。この地の果てには死が潜んでいるからです。さて、昔のある冬の日、永遠の神様が人間になって無限の天から、この寒い地に降って来られる奇跡が起きました。 なぜ、永遠の神様が、限りある人間となり、この喜怒哀楽の地にいらっしゃったのでしょうか?ヨハネによる福音書では、このように記されています。『主をお遣わしになった方の御心を行うためである。』。では、神様の御心とはいったい何でしょうか?これを人間の言葉に直すと、お願いに言い替える事が出来ると思います。では、全能の父なる神様にも、願いがあるという意味でしょうか?はい、神様にも願いがあります。それは、御子を見て、信じる者が、皆、永遠の命を得ることであり、主がその人を終わりの日に復活させることです。主イエス・キリストは終わりの日に御父から、与えられた人々をご自身が復活させると仰ったのです。主はその人々に永遠の命を与えられるお方であるからです。 それでは、永遠の命とは何でしょうか?死なず、限りなく生きること?はい、その通りです。ですが、もう一つの意味があります。それは永遠の神様と共に生きることです。ヘブライ人への手紙は、人は肉体的には一度死ぬことが決まっていると話しています。でも、主イエスによって、神様に選ばれた人は、この地上でも神様と共に生き、神様の愛を感じ、お助けと御恵みを頂きながら、過ごすことが出来ます。このような人は、死んでも神様が備えてくださった天の国で、永遠に生きる事が出来ます。 永遠の命を得るというのは、こういうことです。永遠の神が共におられる地上での生活。単に地上で、何とか辛うじて生き残り、死んでから、パラダイスに入り、幸せに生きることではありません。毎日の疲れ切った人生、いくら、友達がいても、結局一人ぼっちの寂しい人生、明日の悩みで、寝付かれない人生。このような悲劇に満ちた人生に永遠の神様から、遣わされた主イエスが、ほかの誰かでなく、あなたと私を探しにお出でになったということです。聖書は主イエスが共にいる所を神の国、天国であると言いました。クリスマスの主イエス・キリストは私達にこの神の国を与えてくださるために生まれたのです。なぜならば、主イエスの父なる神様が、主を通してあなたのことを愛し、あなたと共に、この世から永遠に歩んで行かれることを切に望んでおられるからです。 教会から隣人へ。 ですが、きっとある人は私達に、このように尋ねるかもしれません。神様が私のことを愛し、探しに来られたですって? 信じられない!ならば、今、神様はどこにいるの?全然、見えないよ。地上で神様と一緒に生きるなんて嘘でしょう?今の生活もヘトヘトで、体も心も疲れすぎているのに、神の国って、いったい、どこにあるっていうの? そうですね。神様は目に見えませんね。神の国というのは、いくら手を伸ばしてみても、触れられませんね。永遠の命が約束されたからと言って、死が無くなるはずもないですね。神様は見えないし、天の国も感じられないし、永遠の命は嘘みたいだし。もしかして、神様は嘘つきではないでしょうか? 『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』マタイによる福音書を読むと、イエス様は5000人の群衆に食べさせる前、弟子たちに『あなた達が食べ物を彼らに上げなさい』と仰いました。弟子達は、誰1人としてイエスの命令を果たせませんでした。彼らには、始めから、そんな力なんてありませんでした。しかし、彼らは少なくとも大麦のパン五つと2匹の魚だけを得ることは出来ました。しかも、それは幼い少年の物だったのです。このわずかな食べ物を通して、主イエスは男だけでも、5000人が満腹するほどまで、食べさせてくださいました。女性と子供まで、数えれば、凡そ2万をも上回る人数が食べたと予想が出来ます。聖書にはその後、食べた残りが12籠にいっぱいになったと記されています。その日は食べ物が途方もなく足りない状況でしたが、誰も思いつかなかった方法によって、主は偉大な奇跡を見せてくださったのです。 確かに神様は人の目に見えません。しかも、神の国を肌で感じる事も、 たやすくないです。ですが、この地上には、目に見える主イエスの身体、教会があります。この日本に日本キリスト教会が、九州に九州中会が、粕屋郡に志免教会があります。神様は目に見えませんが、主の教会は目にはっきり見えます。なぜ、今、私が何度も教会が目に見えると話しているのでしょうか?それは、目に見えない神様が、目に見える教会を通して、お働きになるからです。主イエスはこの教会を今も変わらず、ご自身の体として守っておられます。神から遣わされ、貧しい人、病んでいる人、死んだ人を助けてくださった主イエスは、今、ご自分の教会が主イエスのように隣の人々を助けることを望んでおられます。 私達、教会はイエス様のように、偉大な奇跡を施す力はありません。けれども、弟子達が命令に従って何とか動いたように、私達も小さなことから試みる事は出来ます。隣の一人暮らしのお年寄りの方々の面倒を見ることから、正しくない政治家に抗議をすること、心の病んでいる人々を慰めること、理不尽な社会に小さな声であっても、警告することなどの行いは出来ます。私達、教会は主イエスの手足、口、体であるからです。主イエスが仰った通り、『私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること。』復活は、明らかにイエス・キリストに限ったお働きです。でも、人を失わないように働くことは主の体、教会に委ねられた役割です。その時、隣人は、私達を通して、主イエスを見、信じ、主のもとに来て、永遠の命を得ることが出来るでしょう! ルカによる福音書の17章21節に、こういう言葉があります。『ここにある、あそこにあると言える物ではない。実は神の国はあなた方の間にあるのだ。』聖書は神の国と同じ意味として、天の国という言葉を使っています。永遠の天の国はもう、私達の間にあります。主イエス・キリストが、2000年前、お出でになった時、天の国も共に来たからです。教会は既に天の国の中にあります。いや、教会こそが天の国の一部です。一部でなければなりません。傷付いて、倒れている弱い者、隣人を癒し、助ける天の国の民が、この主の教会、私達です。主イエスが、この地上にお出でになった結果は実に、私達教会員の手足の働きにあります。地上での神の国を実現していく主人公は、正に私達、教会員です。主から、救われた私達を通して、主イエスは、今日も人を生かしてくださいます。永遠の主、父なる神様の御心、神のお願いを主イエスの体である私達教会が成し遂げられるように仕えて行きましょう。そこに、この世への主イエスの救いと御父の神の国があります。 締め括り 今日の説教の前置きではクリスマスの意味について考えてみました。クリスマスは主への感謝の日であり、その感謝の理由は主が神の宣教のために生まれたということと、その主の宣教によって、選ばれた私達にも宣教の使命が与えられたということでした。クリスマスは、この世の救いのために父なる神様から、遣わされた主イエスの降臨を記念し、喜び、そして、私達が主に遣わされ、神様と隣人を愛し、仕える大事な意味を持つ日です。今の日本のクリスマス文化は如何ですか?世のクリスマスと、私達、教会のクリスマスは何が違うのか、考えてみることが出来れば幸いです。主イエスの手と足と口になり、遣わされる志免教会になりますようにお祈りいたします。今度のクリスマスは、主イエスの救いへの感謝と、主の宣教を受け継ぐ伝道のクリスマスになることを切に望みます。

あなたの神、主を愛しなさい。

李相珌(イサンピル) 牧師 申命記6章4-5、マルコによる福音書12章28-31 前置き 今日、わたしたちが読みました本文である申命記 6 章4節 5 節は非常によく知らされております御言葉であります。この御言葉は神様を信じるすべての人々にとって一番大事な御言葉の一つであります。この御言葉を通して神様に対する私たちの愛をもう一度点検して見たいと思います。 本論 申命記はモーセが荒野の生活をおえてカナアンに入っていこうとするイスラエルの民に与える神様の戒めの御言葉であります。その御言葉の中でも今日の本文が一番核心的な御 言葉であると言われるほど、イスラエル民族だけではなく、神様を信じるすべての人々が 深く黙想しなければならない御言葉であります。 本文は「聞け」と言う御言葉から始まります。これは聞いてくださいと言う言葉では ありません。「聞け」という命令であります。単純に聞こえる通りに聞くという意味では ないのであります。これは注意を集中して耳を傾けてきくという意味であります。そして 聞いた御言葉を心に刻むことであります。では、モーセがイスラエルの民に心に刻みなさ いといわれたこの御言葉はどんな内容でしょうか。 そこには核心的な内容が二つあります。一つは、神、主は唯一の主であるということで あります。もう一つは、神、主を愛しなさいということであります。私たちが信じる神様 は唯一の神様であります。唯一という意味はいくつの中の一つという相対的な意味ではあ りません。これは絶対的な唯一という意味であります。私たちの神様はいくつの神々の中 の神ではなく唯一無二の神様であります。人間たちはこの世の中に生きる時に自分のために多様な神々を作っていきます。たとえ ば自然から神々を作ることもあります。自分の前に広がる広大な自然を見た時、また、そ の力を経験した時にそれらに恐れを感じそれらを神にして仕えて行こうとします。つまり、それら作られたものに神性を与えて、それを神として崇めるのであります。 しかし、私たちの神様はそれらの神々とまったく違う神様であります。つまり、神々は 作られたものであるが、私たちが信じる神様はあってあるお方であります。存在そのもの であります。時間の概念と空間の概念がなかった時にも神様は存在していたのであります。その神様がこの世を創造されました。その創造はすでに存在していた物質からの創造では なく、無から有を創造されました。時間と空間も存在しなかったその時に神様はそこにお られ、この世を創造られました。その神様がまさに私たちの神様、主であられます。また、4節の御言葉に強調されているのは主であります。ヘブライ語でヤハウェ、英語 ではエホバであります。4節を元文からもうしますともっと明確にこうなっております。 「主は我らの神、主は唯一の神」つまり、主を 2 回連続で語ることによってそれを特別に 強調していることであります。では、なぜモ-セは主を強調しようとしたのでしょうか。 結論からもうしますと実はこの文章から言えるのは、強い主権的イメージの神様よりは 信実な主である神様が強調されているのであります。 主はイスラエルの民との契約のもとで、エジプトから導きだし、そして、40 年の荒野 を導いてこられました。その荒野の時代において、主は常に信実であられました。それを モ-セは身をもって経験したのであります。だから、モ-セが主と告白する時そこには信 実という意味が強調され含まれているのであります。さらに、主との契約は 進行中であ ります。その契約というものは一体何でしょうか。それはエジプトの圧制の中であった ヘブライ人をエジプトから導き出し、乳と蜜の流れるカナアンに導き入れるという契約で あります。だから、モーセは主とのその契約をすこしも疑わないことを強調しているので あります。さらに、モーセは唯一の主を強調しながら「あなたの神、主を愛しなさい」と 命じます。モーセが語ろうとしていた最も重要な核心はまさにここにあります。 人は誰でも 自分が愛しているものを 一番大事にします。それを すべての物事の 判断の基準にします。自分がやりたいことがあっても、愛する人に 少しでも不便を か…

大祭司の祈り。

民数記6章24-26節 (旧221頁) / ヨハネによる福音書 17章1-26節(新202頁) 前置き ヨハネによる福音書13章から16章までは、イエス・キリストが十字架で死ぬことを準備されながら、弟子たちにお別れの説教をされる部分です。イエスはお別れの説教を始める前に、弟子たちの足を洗ってくださり、晩餐を施してくださり、彼らを慰めてくださいました。そして、弟子たちが神様のものであることを力強く認めてくださいました。また、弟子たちを捨てて置かれず、助け主、聖霊を通して、この世の終わりまで共におられることを教えてくださいました。そして、そのお別れの説教を確証でもするかのように、17章では、父なる神様に切に祈ってくださいました。私たちは、過去数ヶ月間、ヨハネによる福音書の言葉を通して、弱い者を見守ってくださる主、死者を生き返らせる主、罪人のために代わりに死ぬことを予告されるイエス・キリストに会うことが出来ました。今、イエス・キリストは、そのような公生涯とお別れの説教を終え、それを父なる神に告白するお祈りを通して、その教えを実践すると誓っておられるのです。 多くの人々にヨハネによる福音書、第17章は大祭司の祈りと呼ばれます。祈っておられるイエス・キリストを通して、いと高き所におられる栄光の神様と、最も低いところの罪の中に生きている人間の間に立ち、人間を守り、神の怒りを静める祈りを通して、旧約の神と民の仲を和解させる大祭司の姿がオーバーラップされるからです。特に主は3つの部分に分かれている17章のお祈りを通して、1-5節イエスご自身のための祈り、6-19弟子たちのための祈り、20-26全人類のための祈りを神様に捧げておられます。今日は本文の言葉を通して、イエス・キリストが私たちを如何に愛しておられるのか、キリストが私たちにとって、どのような存在なのかを話してみたいと思います。 1.イエス・キリスト、ご自身のための祈り。 イエスは民と人類のために祈る前に、まずご自分のためにお祈りになりました。愛の主が、なぜ先に他人ではなく自分のために祈られたでしょうか?今日の本文では、イエスが神様に、ご自分に栄光を求める場面が出てきます。私たちは、ここでの栄光を誤解してはいけません。これは、自分の欲望を満たし、肉体の必要を求める意味としての栄光ではありません。ヨハネによる福音書に出てくる主の栄光とは、華やかな力や誉れではありません。イエス・キリストは、なぜ人間になって、この世に来られたのでしょう?それは、正に罪人のためにご自分の命を捧げるためでした。栄光を意味するギリシャ語のドケオーは『誰かが、本当に自分らしい状態』という意味です。罪人のためにご自分を犠牲にするために、生まれたイエス・キリストの栄光は、罪人のために犠牲になること、まさに十字架での死でした。栄光という言葉のイメージとは違って、あまりにも過酷で、屈辱的な苦難がキリストの栄光だったのです。 ところで、イエスは世界が造られる前に、すでにその栄光を持っておられたようです。『父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしが御もとで持っていた、あの栄光を。』(ヨハネ17:5)ここで、私たちは、御父が創造の前から民を罪から救うために、御子の犠牲を既に準備しておられたということが分かります。父なる神様が罪人のために御子イエスを死へと導かれたことが御父の栄光であり、御子イエスが十字架で罪人のために死ぬことが御子の栄光であるという意味です。したがって聖霊の栄光は、その御子イエスが死んで罪人を救えるように助けてくださることでした。結局、三位一体なる神の栄光というのは、自らを犠牲にする苦しみと悲しみの栄光であります。そのような神の苦痛を伴う栄光の結果は、罪人への赦しと死からの復活でした。旧約聖書での神は、ご自分の栄光を誰にも与えられない方でした。神が痛みを伴う栄光をキリストに許されたというのは、キリストこそが、神だという意味であり、神ご自身だけが罪人への赦しを施される方だという証拠です。 イエス・キリストは、今日、このような栄光という名の苦難に勝ち抜くために神に祈られたのです。 『あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。』(ヨハネ17:2)この苦難の終わりで、イエス・キリストは信じる者に与えられる永遠の命をくださるために、見える世界と見えない世界を治める真の王として復活されるでしょう。父なる神は、ご自分の死によって栄光を輝かせた、主イエスを復活させ、主イエスの栄光を完成されるでしょう。それにより、父なる神と聖霊も主イエスによって栄光を受けるものであり、最終的にこれは神を信じる、全ての民にも栄光となるでしょう。イエス・キリストのご自身のための祈りは、御父、御子、聖霊、そして神の民すべてに、輝かしい栄光を抱かせる十字架の死を誠実に行うためのイエス・キリストの切なる望みから始まるものでした。 2.弟子たちのための祈り 日本語辞書で弟子という言葉を引いてみると、『先生に教えを受ける人。』と記載されていました。教えを受けるということは、教育を意味します。教育とは、心と体の知識を得るための、すなわち知るために行う行為です。弟子はまさに『知るために。』先生に従う人です。また、聖書に戻りましょう。それでは、イエスの弟子は果たして何を知るべきでしょうか? 『永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』(ヨハネ17:3)使徒ヨハネは真の神とイエス・キリストを知るべきだと語っています。ところで、その知ることを通して何を得ることが出来るでしょうか?まさに永遠の命を得ることが出来ます。イエス・キリストの御教えを受けた者は、神様とは何方なのか?イエス・キリストとは誰なのかを、確実に分かるようになります。そして、それを知ることの結果は、永遠の命を得るということです。これはキリストの弟子たちだけが得ることが出来る神の恵みです。だから、真剣に神とイエスを知りたがっている人は、使徒ペトロやヨハネのような当時の弟子ではなくても、誰もがキリストの弟子になることが出来ます。したがって、今、志免教会で神を知っている私達、知ろうとしている私たちは皆、既にイエスの弟子です。 ヨハネ17:3での『知ること』というのは、単純な知識のことではありません。この『知ること』という言葉は、聖書の中では、夫婦関係に使われる言葉です。夫婦が他人は、絶対知らない深いところまでお互いに知り、それによって信頼するように、イエス・キリストを通して密接に神との関係を結び、信頼するのが、まさに神を知るということです。そのような神を知る知識、すなわち神とキリストとの関係を通して神を知るようになり、信頼するようになることによって、弟子たちは、神様が与えてくださる永遠の命に進むことが出来るのです。したがって、『神を知ること』とは、すなわち『神を信頼する。神を信じている。』という言葉に言い換えることが出来ます。永遠の命とは、唯一の真の神であられる神様と、神のお遣わしになった者、イエス・キリストを信じることです。 そういうわけで、イエス様は2番目に弟子たちが神を知ること、すなわち彼らの信仰のために祈られたのです。『わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。』(ヨハネ17:8)主は、キリストに御言葉を教えて頂き神様とイエス・キリストが誰なのかを知り、信じるようになった弟子たちを、神様が最後まで守ってくださることを祈り願われたのです。『わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。』(ヨハネ17:11)イエス・キリストを通して神を信じるようになった弟子たちを守ってくださることと、三位一体なる神様が一つになるように、弟子たちもお互いに一つになって、真の神とイエスへの信仰をしっかり守っていくことが出来るように、主イエスは弟子たちのために祈ってくださったのです。 3.全人類のための祈り。 また、主は、単に今、神の中にいる人々だけのためではなく、すべての人類のためにも祈ってくださいました。『父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。』(ヨハネ17:21)イエスは、排他的な御方ではありません。主を信じていない人は、皆、地獄に投げられ、主を信じる人だけに哀れみを施される方ではありません。この世界のすべての人々が主を知り、神を信じることが、主の夢だといっても過言ではないほど、イエス・キリストは主を信じていない人たちをも愛しておられます。『神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。』(テモテ一2:4) なぜなら、世界のすべての人々は、イエスを信じることが出来る潜在性を持つ存在だからです。神がここに座っている私たちをお選びくださらなかったら、我々のうちの誰がキリスト者になることが出来たでしょうか?神様が私たちに信仰を与えてくださったため、私たちがイエスを信じるようになり、そのイエスを信じることによって、三位一体の神を知ることが出来るようになったことを忘れてはならないでしょう。主は、世界のすべての人々がイエスを信じることを願っておられます。そして、イエス・キリストの中で、お互いに愛し合い、神の御前に来ることを懇願しておられます。神の御心は信者と未信者を問わず、イエス・キリストを通して全ての人々に開かれています。主は今日も彼らのために教会の頭となり、教会を通して伝えられた福音を聞いて、彼らが主に立ち返ることを望んでおられます。主はこのように十字架を目の前に置いて、ご自分の犠牲のために、弟子たちの信仰のために、人類が福音によって神に出てくることのために祈ってくださいました。罪人に生まれた人間には、到底出来ない祈りを大祭司であるイエス・キリストご自身がしてくださったのです。 締め括り 今日の旧約本文には大祭司アロンが神様の代わりに神の祝福をイスラエルの民に伝える場面が出てきます。 『主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。』(民数記6:24 26)大祭司イエスは、私たちに代わって神様にお祈りを捧げられました。神と人間の両方の間を執り成す大祭司は、神の祝福を民に伝え、民の祈りを神に伝える非常に重要な存在であります。神様はアーロンを用いられたように、イエス・キリストを通して私たちに祝福をくださり、私たちを守られ、私たちに恵みを与えられ、私たちに平安を賜ることを望んでおられます。そのような神の御心をイエス・キリストが、予め見抜かれ、神様の御心が成し遂げられるように祈られたのです。また、民からの願いや祈りも主イエスを通して、神様に捧げられるでしょう。 イエス・キリストのご降臨を記念するアドベントの期間です。イエスが何のために来られたのか、今日の言葉を通して、もう一度考え、神と民を繋げてくださる大祭司イエス・キリストの愛を覚えて過ごしましょう。私たちが、キリストを通して神と一つになる時、キリストを通して神を正しく知り、信じる時、神様の祝福と恵みは、さらに明るく輝くでしょう。イエス・キリストのお祈りが、今日も大祭司の祈りとして、私たちの中にあることを信じて行きましょう。今日も主は、私たちの大祭司になって、今日のお祈りのように、私たちを守ってくださるでしょう。神の栄光が輝くアドベントの期間、私たちのために、全人類のために祈ってくださる主を覚えつつ、この主イエスを私たちの隣人や家族に伝えて生きていきましょう。主の愛に満ちる一週間になることを祈り願います。

主は既に世に勝っておられる。

民数記14章9節 (旧235頁) ヨハネによる福音書 16章25-33節(新201頁) 前置き 今日はアドベントの1番目の主日です。今から約3週間後は神の子イエスが天の玉座を捨てられ、この地上に来られて、人の子としてお生まれになるクリスマスです。イエスはなぜ、この世に来られたのでしょうか?まさにこの罪深い世に生きているご自分の民、すなわちイエスを信じる者を救ってくださるためです。そのために主は私たちの代わりに死んでくださり、我々はイエス・キリストを通して救われました。アドベントは私たちのために喜んで死に、復活された主イエスのご生誕を記念する期間です。この期間を通して、私たちは主のご生誕と死について深く感謝し、思い入れるべきでしょう。 人々は、自分の死後に備えて、残される者たちに遺言を残します。遺言を通して、残された者たちが自分の遺志を受け継いで、この世に自分がもはや居なくなっても、代わりに自分の人生を引き継いでくれると願うからです。今日の本文は、民に与えてくださる、イエス様のご遺言です。「私はあなたがたから離れる。しかし、私は永遠にあなたがたと一緒にいる。私によって私の父があなたがたの父となる。私を通して私がいなくても、助け主、聖霊が、あなたがたの内におられる。」という遺言を通して、主を信じる者たちに平和と勇気を与えてくださいます。今日の御言葉は、今、この時代に生きていく私たちにも有効な言葉です。今、主イエスは、私たちの目に見える形ではおられません。しかし、主はご遺言のように、御父と聖霊を通して今日も私たちと一緒におられます。 1.神様を完全に信じることが出来ない人間の弱い信仰。 哲学では、生まれたばかりの人を自然人と言います。自然人とは、如何なる思想、文化にも影響を受けない、自然そのままの人のことです。自然人は割と良い語感を持っていると思いますが、信仰的には物足りない状態だと思います。まだ、神を知らない状態であるからです。誰も生まれる前から信仰を持つことは出来ません。今、キリストを信じている私たちも、初めは自然人でした。神様がそのような私たちをお選びくださり、信仰を与えてくださったのです。つまり、たとえ、今私達がキリスト者だと言っても、我々は元々自然人でした。そして、今も私たちの本能の中には自然人としての性質が残っています。私たちが神を信じ始めて、その信仰が深まるまで、多くの疑いや挫折を経験したことにはそのような理由があったのです。自然人として生まれた人間は本能的に、神を信じない存在です。神を知らずに生まれたからです。たとえ、信じると言っても100%信じることは不可能に近いと思います。自然人としての本能が残っているからです。本能的に神を100%信じることが出来ない人間。ですから、人間は生まれつき罪人なのです。 今日、イエス様はご自分を通して主の民が御父に愛され、助け主である聖霊も、民の生の中で常に共におられることを教えてくださいました。主イエスを通して人間が天の御父の赦しを得るものであり、その神の聖霊が人間を永遠に守ってくださることを教えてくださったのです。なぜ主はこのような遺言を残されたのでしょうか?イエス様が十字架で死に、復活され、昇天された後、地上に残される人々に自然人が持つ恐れと不信仰を乗り越える勇気と平和をくださるためでした。自然人として生まれ、ユダヤ人として生きて、キリストを通して信仰を得るようになった弟子たちが現実に屈せず、大胆にキリスト者として生きていくことが出来るように助けてくださるためでした。イエス・キリストによって、三位一体なる神が弟子たちと共に歩んでくださることを教えてくださるためだったのです。 しかし、残念ながら、イエス様が苦しみを受けるとき、主の弟子たちは恐怖によって、みんな逃げてしまいました。彼らの信仰があまりにも弱かったからです。もともと自然人として生まれた人間は、ある事実の証拠が目の前で消えると、その事実への信念を撤回したりします。人間は目に見えるまま、信じて生きようとする傾向が強いからです。民数記の10人の偵察者たちも、同じでした。神様がエジプトを滅ぼされ、エジプトの荒れ野を通過させ、カナンの入口まで無事に自分たちを連れて来られたことにも拘わらず、目に見えない神、触れることが出来ない神を信頼しませんでした。むしろ彼らは目に見えるカナンの先住民をそれ以上に恐れていたのです。結局、イスラエルの民は、神への不信仰によって罰せられ、40年という長い間を荒れ野で過ごすことになりました。このような人間の本能のような弱さのため、人間は神様への完全無欠な信仰を守りがたい存在です。多分私たちもそうかも知れません。表面的には、イエスを信じていますが、迫害と苦難が来たとき、信仰を諦めるかも知れません。人間は、このような弱い信仰を持って生きていく存在であるからです。 2.民の弱い信仰を守ってくださる神。 しかし、絶対変わらない事実があります。そのような人間の弱さと神との間には何ら関係がないということです。人間の弱さは、人間の弱さであるだけで、私たちが信じる神様の弱さではないということです。民数記の民がカナンの先住民を恐れていたとき、主はヨシュアとカレブの口を通して、今日の言葉をくださいました。 『主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。』(民数記14:9)いくら人間が畏れに震えていても、神にとって、カナンの先住民は、ただイスラエルの餌食のような存在でした。そして主はいつまでも民と共におられると約束されました。神の民が、どんなに弱くても、神は民の弱さに影響を受けない方です。むしろ民が神の強さに影響を受けるだけです。 なぜなら、神はいつも変わらず、どんなことがあっても揺れたり屈したりしない方だからです。今日の新約の本文でも、イエス様は言われました。『あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。』(ヨハネ16:32)イエス様は、人間は弱いので、主を捨てることを既に知っておられました。むしろ、イエス様は、ただ、変わらない神様だけを信じられました。人は変わっても、神は変わらない方であるからです。人は弱くても、神は強い方であるからです。イエス・キリストは、その神を信じ、苦難を克服し、ご自分のお務めを果たされました。神はこのイエス・キリストを通して主を信じる民にも揺るがない信仰を許してくださいます。私たちが信じる神様はこのように強くて、変わらない方です。 したがって、私たちの信仰が弱くなり、底を打つようなときも、私たちの信仰を守ってくださる神様だけは、絶対に変わらないことを信じましょう。どんなに私たちの信仰が弱まってきても、神だけはその信仰をしっかりと掴んでおられることを信じていましょう。私たちの信仰の状態とは関係なく、神様が私たちの信仰を守っておられるからです。私たちの信仰の弱さとは関係なく、私たちの信仰を守ってくださる、強い神を信頼することこそ、私たちの真の信仰なのです。人間は神を信じているにも拘わらず、時々失敗を経験します。意外と主の言葉に従って過ごしていない時が少なくないのです。しかし、たとえ、そのような失敗があっても、私たちの信仰を掴んでおられる主を信頼し、主の言葉に聞き従って、生きていきましょう。主が絶対変わらない神様として、私たちの内におられ、私たちの信仰を守ってくださるからです。主が世に勝っておられると仰った理由は、まさにこのためです。人間は弱く、世に屈し、信仰が弱まるかも知れませんが、神であるイエス・キリストは父なる神と聖霊を通して変わらず、堅固な信仰の保護者となり、民の信仰を守り、保たせてくださるからです。 3.すでに世に勝っておられる主。 したがって、私たちは、自分の信仰で世に勝つのではありません。この世の圧力や変化にも、変わらない神だけがこの世に勝つことが出来ます。私たちは、ひたすら神様の御守りのもとでのみ、世に勝つことが出来るのです。私たちが失敗して、世に屈する際にも、神様はその世に常に勝利しておられます。勝利者、神様は弱い私たちを助け起こしてくださいます。『わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。』(ヨハネ16:28)イエス・キリストは、このように世から何の影響も受けない神様だけを信じておられたのです。それによって、主イエスは、世からの恐怖を乗り越え、御父から与えられた使命を果たすことが出来ました。空中の勢力を持つ者、悪い霊に治められている、この世がいくら吠え哮る獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回り、身悶えしていても、神様はただ嘲られるだけで、何の影響も受けられないのです。世はただ、神の手のひらの上で蠢いている小さな虫のような存在です。 このように世に勝たれた主の中で生きていく私たちは、この世を恐れる必要がありません。もちろん、この世に生きていく時、迫害を受け、殺され、嫌われることは覚悟しなければならないでしょう。この世が神を憎み、神に属している私たちは、依然として弱いからです。しかし、聖書は強く語っています。『体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』(マタイ10:28)この世は、確かに恐ろしい存在でしょう。しかし、我々の最後を決める方は、この世ではなく、神様なんです。この世は、私たちの肉体は殺すことが出来るかも知れませんが、私たちの魂まで殺すことは出来ません。肉体も魂も裁かれる方は、神お一人だけだからです。世に勝たれた神は、世が犯せない、高い所におられる方です。 イエス・キリストはこのように遥かに高い所にいる神の玉座を私たちに引き下ろしてくださる方です。世があえて触れることが出来ない勝利の神様を私たちの内に招かれる方です。『今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。』(ヨハネ16:24)神様から来られたイエス・キリストは、ご自分の御名をかけて、神と人との間に繋がりを結んでくださいました。それを通して自然人として生まれ、罪の中に彷徨っている弱い民が御父の子供として覚醒し、自分の信仰を持つことが出来るようにしてくださいました。自分の力だけでは信仰が守れない弱い民のために、助け主、聖霊という信仰の先生をも遣わしてくださいました。それによって、イエス・キリストはご自分の勝利を民も享受出来るようにしてくださいました。強力な主の勝利を弱い民も分かち合えるように導いてくださったのです。 締め括り 復活して昇天されたイエスは、ご自分の民を孤児と寡婦のように見捨てられず、最後まで責任を負ってくださる方です。そしてこの世から勝ち取った勝利をその民にも分けてくださいます。この世は、主を憎んでいます。そして、神を信じる民も嫌っています。世はいつも神の民を脅かしています。しかし、世に勝たれたイエスは変わらず、自分の民を愛しておられます。また、民にもご自分の中で、世に勝って行けるように平和と勇気とを与えてくださいます。今日の言葉は、今の時代を生きていく私たちにも有効な主の遺言です。今、主イエスは、私たちの目に見えません。しかし、主は今日も私たちと一緒におられます。ご自分の御名を通して、神の子どもと呼ばれるアイデンティティと助け主、聖霊による力を与えておられます。私たちは、このイエス・キリストを通した三位一体の神と繋がり、今後も世に勝利するでしょう。イエス・キリストが私たちを守り、父なる神様が私たちを愛し、聖霊なる神様が私たちを導いてくださるからです。

華やかさと真面目さの間で。

サムエル記下 6章1-15節 (旧488頁) / 使徒言行録 5章29節(新222頁) 11月の初め、韓国の釜山で、年ごとに催される花火大会があります。釜山告白教会のある広安里という海水浴場で行ないますが、その周辺は路上に人が多すぎて通り抜けられないほど、大混雑になってしまいます。どれだけ盛大なのかというと、天気が良い日は対馬北部の海岸からでも花火が見えるほどです。この大会に参加するために、日本からも多くの方々が見に行くそうです。人々は大会当日に良い席を占めるために午前から急いで動きだします。広安里の見晴らしの良いカフェは一年前から予約が決まっており、借りる費用も1万-3万円を上回るとか聞いています。広安里花火大会は一晩で一時間くらいの短い行事ですが、5億円以上の大金を火薬の準備に払うと言われます。一時間に5億円、想像も出来ない程の大金でしょう。 場所を移して、米国カリフォルニア州に行ってみましょう。リバモアという都市の消防署には110年以上も使われている電球があるそうです。それは、少なくとも明治40年以前に作られたものです。この電球は、これまで3回の停電を除き、ずっと使われていることになります。この素朴な電球は、わざわざ訪ねるほどの大したものではありませんが、まだ、その寿命を保ち、その消防署の片隅で相変わらず、光を照らしているようです。そのためいつからか地域の名物になったといいます。皆さんは1時間の華やかな5億円の花火と110年の小さな電球のうちで、どっちの方がお好きでしょうか?派手な火薬の寿命は僅か5分も超えないでしょう?リバモアの電球は非常に古くて、安い物でしたが、それでも110年以上、変わらず一堂を照らしてきました。本当に人のために大切に用いられた火はどちらでしょうか?しばらく楽しんで消えてしまう空の花火と長い間、消防署を明るく照らし、消防士たちと一緒に働いてきた小さな電球。皆さんはどっちの方が、より大切に感じられますか?私たちは、このような華やかさと真面目さの中での、選択の岐路に立つことがあります。 1.この世のやり方を憎まれる神様。 今日、私たちは本文を通して華やかさに憧れる人々と派手ではありませんでしたが変わらない一人の人を見ることが出来ます。イスラエルの王となり、周辺国との戦争で連戦連勝していたダビデ王。彼の統治により、イスラエルの民は自信満々となりました。イスラエルを強い国に成長させたダビデ王は、数十年前にペリシテとの戦争で奪われて、やっと取り戻した神の箱、すなわち契約の箱が聖なる幕屋ではなく、他の場所に保管されていることを悲しく思い、自分の王宮に移そうとしました。ダビデは精鋭兵士3万と一緒に神の箱が保管されていたアビナダブという人の家に行きました。ダビデは神の箱を受け取って派手な新しい車に載せました。ダビデは凱旋将軍のように神の箱とともにエルサレムに向かいました。その行列は非常に華やかでした。様々な楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルが奏でられました。民は歓声を上げました。武器を持っている兵士たちと、数え切れないほどの人々が、神の箱を迎えました。これを見て、ダビデは調子に乗っていたことでしょう。長い間、幕屋ではなく、別の場所にあった神の箱を華やかな行列で、さらに素晴らしい自分の宮殿に運んで行くのですから、どれほど胸がいっぱいになったことでしょうか?神様もきっと、このパレードを喜ばれると考えたことでしょう。ところが、その時、思いも寄らない出来事が起こりました。 エルサレムに行く途中、牛のよろめきにより、神の箱が倒れないようにと、神の箱の方に手を伸ばし、押さえたウザが神に罰せられ、即死した出来事でした。瞬く間にパレードは、水を打ったように静まり返りました。その時、ダビデは何か間違っていると気づきました。彼は思いがけない状況に怒りました。ダビデは一体なぜ、腹が立ったのでしょうか?その怒りは神様への怒りでしょうか?それとも、ウザあるいは自分への怒りでしょうか?ここで使われているヘブライ語の動詞は『腹が立つ。怒る。』という意味の他に『気が揉める。気が焦る。』という意味としても使える表現です。怒ったというよりは、気が揉めるに近い意味だと思っても構わないでしょう。なぜなら次の節では、ダビデが神様への『畏れ』を感じたからです。一体何が間違ってたんでしょうか?ウザはただ、その箱を守ろうとしていただけなのに、なぜ、神はそのように厳しく罰を与えられたんでしょうか? 『ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。』(ヨシュア3:14)神と民の契約の言葉、掟の板が入っていた神の箱は、車で運べるものではありません。必ず、聖なる祭具は祭司たちが肩に担いで運ばなければならないと旧約聖書は証言しています。民数記によると、ケハトの子孫の祭司だけが運ぶことが出来ると定まっています。神様が、その移動方法をそのようにお定めになったからです。正直、人間がしたければ、神の箱は、車でも運ぶことが出来るでしょう。しかし、可能なことと絶対的なことは異なります。神様は御言葉を通して、ご自分の契約の箱を絶対にケハトの子孫の祭司が担って運ぶように指定されました。ケハトの子孫でも、祭司でもなかったウザが死んだことには、そういう理由があったのです。ダビデは、派手な車とパレードは準備しましたが、基本的な神の御言葉への理解が足りませんでした。神様が望まれたことは、華やかな行事ではなく、神の御言葉に忠実に聞き従うことでした。初めは良い意志で神の箱を移そうとしたダビデでしたが、彼の無知のゆえに、結局、ウザは不幸にも死んでしまいました。神様は主の御言葉に心を向けず、見えを張ったやり方を好んでいたイスラエルにお怒りになったのです。 2.世の方式とは違う神の方式。 自分のやり方に問題があると気づくことになったダビデは、その足でオベド・エドムの家に神の箱をしばらく置いておこうとしました。歴代誌上を読んでみると、オベド・エドムが幕屋の門衛であることが分かります。 『祭司たちシェバンヤ、ヨシャファト、ネタンエル、アマサイ、ゼカルヤ、ベナヤ、エリエゼルは、神の箱の前でラッパを鳴らした。オベド・エドムとエヒヤも門衛として神の箱を守った。』(歴代誌上15:24)門衛とは、そんなに派手な役割ではありません。聖なる幕屋の門を守ったり、開けたり閉めたりする人だったでしょう。一生をその幕屋のために奉仕する者だったでしょう。王、大祭司、預言者のような者に比べれば、その影響力が大きい人ではなかったでしょう。しかし、門衛は一生変わらず神の幕屋の門を守る務めでした。認めてくれる人がいなくても、神から与えられた務めを黙々と行う者でした。誰かに認められなくても、オベド・エドムは、ダビデとは違って、神様が定めた通り契約の箱を守ったんでしょう。『あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは私の神の家の門口に立っているのを選びます。』(詩編84:11) 神の箱がオベド・エドムの家に行った後、三ヶ月が経ったある日、誰かがダビデに『神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる。』と告げました。ダビデはその時やっと、神様が前の過ちを赦してくださったと考え、律法に記されているようにケハトの子孫の祭司たちに契約の箱を移させました。『アロンとその子らが、宿営の移動に当たって、聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後、ケハトの子らが来て運搬に取りかかる。』(民数記4:15)いくら名望のあるアーロン家の祭司であっても、聖なる箱を移すことは不可能でした。ただケハト家の祭司だけが、それを遂行することが出来ました。神の御命令だからです。ようやくダビデは華やかな姿を捨てて、律法に記された方式で、純粋な礼拝者の姿で契約の箱を迎えることが出来ました。神様はそのように改めたダビデの方式を認めてくださいました。神様は、御言葉を無視したダビデと3万人の華やかな兵士たちより、黙々と静かに自分の任務を果たしたオベド・エドムを喜んで祝福されました。神様はダビデがオベド・エドムを通して学び、神の言葉に聞き従うことを望まれたのです。 世の多くの人々は、基本を忠実に守らず、自分に相応しくない欲を張ったりします。他人の前で体面を保つために、他人に強がりを言うために、大切なことを忘れ、派手なものに心を奪われたりします。みすぼらしいものは強く拒み、華々しいものに憧れたりします。ある人達は抜きん出た学力により、他人とは違う特別な利益を享受したいという欲望があるでしょう。ある人達には既得権者になって、他人を抑えたいという野望もあるでしょう。教会にも、そのような例はあります。日本の教会の信者たちの中で、米国や韓国の大きな教会を経験した一部の人々は、メガチャーチを望んだあげく、日本の教会を小さいと無視する場合もあるそうです。このように目に見える華やかさだけを追い求める思いが人を可笑しくして行きます。しかし、神様は常に表に見える派手なものより、人と教会の心をご覧になる方です。神様は派手で大きなことよりは、小さくても、正しいことを、もっと愛される方です。 『主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」』(サムエル記上16:7) 3.イエスを通して見られる神のご関心。 聖書は、神がどのような人を愛しておられるのか、主イエスの生涯を通して詳しく示しています。再臨の日、イエスは王の王として、被造物があえて触れることが出来ない権威と力を持って再び来られる方です。しかし、イエスが初めて来られた際は、わざわざ大工の息子として、しかも、飼い葉桶に来られました。彼は公生涯の始めに神ご自身として、華やかに悪魔の3度の試練に勝つことが出来ましたが、神の御心に従い、真面目に御言葉に頼って退けられました。 『イエスは言われた。狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』(マタイ8:20)彼は神殿や王宮ではなく、むしろ決まったお住まいもなく、民を助けてくださりながら、生活されました。高慢な皇帝と総督など数多くの権力者ではなく、救いを切に望んでいる徴税人や娼婦などの罪人の友達となってくださいました。イエスのご関心は権力者、義人ではなく、弱い者や罪人を招くことにありました。力を持っておられるにも拘わらず、その権力を使わず、おとなしく従って十字架につけられたのです。 『神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。』(ローマ14:17)飲み食いというのは物理的な満足、肉的なやり方を意味します。使徒パウロは神様の方式によって治められている神の国が、どのように成されているのかを説明しました。神様の方式は、物理的、肉的な満足にとどまりません。イエス・キリストはこの言葉のように、神の方式を自ら実践されたのです。イエスは肉的な華やかさより、神が望んでおられるご自分の役割に真面目さをもって取り組まれました。そして、神の御心に聞き従い、十字架でみすぼらしく死んでくださいました。『だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。』(使徒言行録2:36)華やかさを捨てて、真面目に神の御言葉に従ったイエス・キリストは、神の御手によって主キリストとなり、この世界のすべてのものを治める王の王になりました。神のご関心は大きくて派手なところにありません。神のご関心は小さくても真面目で正しいところにあります。非常に小さな神のご命令でも、神の言葉に従おうとする人に神の愛と関心があります。 締め括り 意気揚々として神の命令も正しく守らず、鼻が高くなった帝王ダビデになるより、誰にも認められなくても黙々と命令に従った幕屋の門衛オベド・エドムになりたいと思います。今日のこの言葉を通して、私たちも自分についてもう一度、省みましょう。私たちは、ダビデに近いでしょうか?それとも、オベド・エドムに近いでしょうか?私達はどちらを追い求めて、この世を生きていますか?ただ派手な人生ですか?派手ではないけれど、神のご命令に聞き従う真面目な人生ですか?今日、神様が私たちに望んでおられるのは、果たして、どれでしょうか?安らかさと華やかさを追求している、この時代、この世に生きていく私たちは、世の華やかさにより、神様の小さなお声を聞き逃して生きているのではないでしょうか?華やかで良い物に覆われ、神の御心とは何かについて忘れて生きるよりは、不便であるにも関わらず、神の言葉に真面目に耳を傾ける志免教会になってまいりましょう。この言葉を通して神様の御心をもう一度、顧みることができますように祈り願います。

迫 害

エレミヤ書 15章15節 (旧1206頁) ヨハネによる福音書 15章18-27節(新199頁) 日本の自然はとても美しいと思います。私が世界のあちこちに旅行した結果、アジアでは日本が最も美しい自然を持っていました。私はその中でも、糟屋郡の景色が一番好きです。ボタ山から佐谷に至る志免と須恵の風景、教会の庭で楽しむ星空、若杉山の森と青空、米の山の天辺で眺める玄界灘(げんかいなだ)の夕焼け、何一つも美しくないものはありませんでした。私たちは、このようにあまりにも美しい日本で生きています。しかし、この美しい日本は、実際には戦場であります。目に見えない霊的な戦いが絶えない戦場なのです。神様を知る少数の人々が、神様を知らない空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊と激しく戦っている、恐ろしい戦場であります。しかし、普通の人々は、それを知りません。ひたすらイエス・キリストを信じ、彼を通して神様を知っている私たち、キリスト者だけが、この美しい日本という戦場で苦闘して生きているのです。 神様は千年を一日のように、一日を千年のように、生きておられる方です。千年が一日のような方ですので、百年も生きない人間は、神様の御業を見ることが出来ません。だから、神という存在は全くないと言い、神の存在自体を否定したりします。そのような人間は、自分の力では神を知ることも、見ることも出来ません。そういうわけで、人間は自分らの思想、民族、理念だけが正しいと思いつつ、生きていきます。空中に勢力を持つ者、悪魔はそのような人間の思想、民族、理念を用い、分裂させ、苦しみをもたらします。そのような悪魔に支配されている、この世で、神様を知ることも、見ることも出来ない人たちと一緒に生きていくキリスト者は、必然的に迫害を受けることになっています。彼らとは違う価値観を持って生きていくからです。今日は、イエスを信じる私たちが絶対に避けることが出来ない生き方、迫害を受ける生について皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。 1.主の御言葉に従う人は迫害を受ける。 旧約聖書に登場する人物の中で、迫害を受けた者として一番有名な人は多分、エレミヤでしょう。神は生まれる前から彼を選ばれ、彼に預言者としての人生を命じられました。しかし、エレミヤはマイナーな祭司の家柄出身でしたので、彼の社会的な影響力は非常に微々たるものでした。そして当時のイスラエルの民は非常に堕落していましたので、主の御言葉に背く一方でした。彼が宣べ伝えたメッセージは、常に人々に退けられました。エレミヤは自分の故郷でさえ、憎まれた人であり、神の御言葉を宣言する際すら、酷い迫害を受けなければなりませんでした。エレミヤは神様に正式に召され、神のご命令に聞き従い、『イスラエルの民が悔い改めなければ、神の罰によって滅ぼされる。』と絶えず伝えました。しかし、皆、彼の警告を無視する一方でした。結局、エレミヤは、自分の国と民族が滅ぼされることを悲しみと涙で目撃しなければなりませんでした。そのためか、ある人はエレミヤを涙の預言者と呼んだりします。 『主の名を口にすまい、もう、その名によって語るまいと思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。』(エレミヤ20:9)神様がエレミヤに与えられた使命は、むしろ、彼にとって呪いのような苦しみとなりました。いくら伝えても変わらないイスラエルの民を見て、エレミヤは数多くの虚しさと悲しみを感じたでしょう。しかし、その後も、イスラエルは全く変わらなかったのです。しかし、神の命令は厳重で、エレミヤの使命の炎は消えませんでした。『エレミヤが、民のすべての者に語るように主に命じられたことを語り終えると、祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕らえて言った。あなたは死刑に処せられねばならない。』(エレミヤ26:8)彼はその使命に従い、神の言葉を加減なしに伝えたのに、むしろ民は彼を殺そうとしました。 神はエレミヤに、常に正しい御言葉を伝えさせました。民が悔い改めて神に戻ってくるように絶えず伝えさせたのです。しかし、民は自分勝手に振舞い、自分たちの耳に聞きやすい言葉だけを聞こうとしました。そのため、偽預言者たちが偽りの予言を伝え、民を誘惑し、人々は彼らの言葉を好んで聞きました。神様の言葉をそのまま伝えたエレミヤは、むしろ、そのような人々によって甚だしい迫害を受けなければなりませんでした。彼は毎日泣き、苦しみ、悲しみました。正しい道を告げ知らせたエレミヤでしたが、彼に戻ってきたのは、批判と憎しみだけでした。なぜ善良で誠実なエレミヤは迫害を受けたのでしょうか?その理由は、まさに神の御言葉を、ありのままに宣べ伝えたからです。 イスラエルの民が神の言葉より、自分たちの耳に楽しい言葉だけを聞こうとしたため、神の言葉に従おうとしたエレミヤは、激しい迫害と苦しみに生きなければならなかったということです。 2.真剣に主に従おうとするなら迫害は避けられない。 『歴史は繰り返される。』という言葉があります。聖書でも、そのような例を見つけることができます。エレミヤが伝えた警告の言葉に背く一方だったイスラエルは、最終的に滅びました。ユダ王国のゼデキヤ王はバビロンに捕えられ、拷問されて両眼を失いました。王子たちも残酷に殺されました。彼は死ぬまで捕囚として生きなければなりませんでした。神様に聞き従わなかったイスラエルは、そのように滅ぼされたのです。約70年後、バビロンの捕囚から解き放され、再び故郷に帰ってきたイスラエルの民は、祭司エズラを中心とし、過去の罪を悔い改めて真面目に神様に仕えようと誓いました。ところが、数百年の時間が経ち、イエスの時代になると、過去、切に悔い改めたイスラエルの子孫が、しかもエレミヤを尊敬すると言う人々が、神から直接遣わされた者を、もう一度、激しく迫害します。まさにイエス・キリストのことです。 『世はわたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。』(ヨハネ7:7)迫害の理由はエレミヤと同じです。神の言葉に従い、間違ったことを間違っていると話されたのに、人々はその言葉のため、イエスを憎んだのです。主イエスが神の御言葉を加減無く、ありのままに伝えられたからです。 エレミヤとイエスの出来事を通して、私たちは、変わらない真理が分かります。『世の人々にありのままの神の言葉を伝えると憎しみ、すなわち迫害を受ける。』ということです。先ほど、申し上げましたが、この世界は空中に勢力を持つ者に支配されています。空中に勢力を持つ者とは、神様を憎んで反抗する悪魔と呼ばれる悪い霊を意味します。この邪悪な霊は、人間の思想、民族、理念を用い、分裂を起こし、苦しみをもたらします。ところで、そのような悪魔の支配による人間の悪行を、神の言葉を持って、間違っていると指摘すれば、この世は全力で神の言葉に跳ね返ります。その際、神様に属している人は、彼らに迫害を受けます。彼らが神様を憎んでいるから、イエス・キリストを憎んでいるからです。『あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。』(ヨハネ15:19) ヨハネは、イエス・キリストが肉となって来られた神の言葉であると語りました。いつか、私は説教を通して神の言葉、ロゴスの意味は、神の御心、意志、精神だと申し上げました。私は聖書が示している神の御心とは、『すべての人がイエスを信じて救われ、神に戻ってきて、神の下で皆がお互いに愛し合い、イエス・キリストの再臨の時まで、この世界から悪を取り除き、善を成し遂げること。』だと理解しております。神様が御言葉であるイエスを遣わされた理由は、そのイエス・キリストが、その神の御心を成し遂げるための親石となるからです。しかし、先にお話しましたように、神の言葉が、ありのままに伝わって世が変わると、空中の権力を持つ悪い霊が居場所を失ってしまいます。つまり、悪魔は自分たちが生き残るために、神様に正面から反発し、絶えず悪を行うということです。そして、その悪の中、イエスを通して神様に属している者たちを苦しめるのです。そこから来るのが、まさに迫害であります。空中の権力を持つ者と彼らに支配される世が、神様とイエスを憎んでいるので、そのイエスの体である教会と、その教会員も憎まれます。そういうわけで、キリスト者は迫害を避けることが出来ないのです。 3.迫害を恐れてはいけない! もし、私達が本当にイエス・キリストを正しく信じているなら、完全に神に属しているならば、私たちは必然的に迫害を受けつつ、生きていくしかありません。もし、周りの人々に、キリスト者としてのアイデンティティをも見せず、彼らに『キリスト者のあの人は、私たちとは何か違うところがある。』というような評価を全く受けられないほど、キリスト者としての在り方とは関わりのない生活をしているならば、私たちは、自分自身を一度、反省してみる必要があるでしょう。もし、迫害を恐れ、人々の目を恐れ、キリスト者であることを隠すなら、自分自身の評判のために教会を否定するなら、隣人の魂への憐みのために、キリストの福音を伝道しないならば、我々は、自分が本当にイエス・キリストに属しているのかどうか、真剣に省みるべきでしょう。キリスト者に対する迫害は、すでに定まっている事実であり、避けられない道であります。なぜならば、私たちは、この世が憎むイエスに属しているキリスト者だからです。 17世紀、徳川幕府の下で、多くのカトリック信者は迫害を受け、殺されました。キリストへの信仰を守るために、多くの信者が命を掛けました。イエスの顔が描かれている銅板を足で踏むことにより、自分の信仰を諦める踏み絵を拒否し、消えて行った大勢の信者の血が、今も九州のあちこちで叫んでいます。しかし、それとは違って、軍国主義の迫害を恐れ、教会を守るという口実で帝国に屈した日本のプロテスタント教会ではたった一人の殉教者も出さなかったそうです。むしろ、日本の教会は、朝鮮を始め、アジアの植民地の諸教会に神社参拝を強要し、その中で、朝鮮の教会も、その強要に屈して、一緒に神社参拝を行いました。日本キリスト教会は、後日、それを徹底的に反省し、謝罪しましたが、まだ日本にはそんな過去の罪を悔い改めていない教会が、たくさん残っています。また、韓国でも、その偶像崇拝の罪を悔い改めていない教会がたくさんあります。迫害を恐れていた旧日本のプロテスタント教会は日本カトリック教会の殉教の歴史に泥を塗ってしまいました。戦後、韓国の教会は神社参拝の歴史により、四分五裂してしまいました。私たちは、このような迫害に負ける歴史を二度と繰り返してはならないでしょう。 締め括り 『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。』(マタイ7:13-14)『人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。』(マタイ10:33)私たちが住んでいる美しい日本は霊的な戦場です。そのため、私たちはいつも迫害に晒されています。イエス・キリストは今日も御言葉を通して、キリスト者が受ける迫害について語っておられます。迫害の道は狭いです。しかし、命に至る道です。迫害を避ける道は広いです。しかし、その道は滅びの道です。今日の自分の安らぎために、イエス様が予告された迫害を避けようとする人は、それより恐ろしい神の裁きが待っていることを心に留める必要があります。ヨハネ10章には、『羊は飼い主の声を知っている。』と記されています。私たちが、イエスの守りの下で生きていく喜ばれる民になるためには、イエス様から得る安らぎの道だけではなく、イエスのために得る迫害の道をも進むべきでしょう。主の御言葉を知っているからです。なにとぞ、主の聖霊が私達と一緒におられ、イエスを主と信じている我々、志免教会に迫害に屈しない勇気と信仰をくださるように心から願い、祈ります。

助け主聖霊の予告。

詩編20編7-9節 ヨハネによる福音書14章15-21節 前置き キリスト教が他の宗教に比べて特別なところは、我々が信じる神という存在が、ただ崇拝されるだけで、かけ離れた存在ではなく、私たちと同じ立場で、私たちの弱さと痛みを一緒に背負っておられる方であるということです。もっと詳しく言うと、神と人間の仲介者、イエス・キリストが神側の代表であると同時に、人間側の代表でもあり、神と人間の間に堅固な架橋になってくださるということです。世界のどの宗教も、神と信者の間にそのような関係を結んでいません。神は誰よりも大いなる方、強い方でいらっしゃいますが、自分の子供である信徒たちのためには、自ら小さくなり、弱くなってくださる方であります。それにより口先だけの慰めと愛ではなく、ご自分の体で直接信徒たちの苦痛を背負ってくださる方であります。 もし、神がただ崇拝されることだけを求める存在だったら、神の息子、神ご自身であるイエス・キリストは十字架で死ななかったでしょう。キリスト教の特徴は、まさにそこにあります。キリストが私たちと共におられること、私たちの苦しみを知っておられること、そして私たちの弱さを知っておられること、これにより、私たちは神と繋げられ、もはや一人ではないようになること、私たちの痛みが癒されること、私たちが主によって強くなるということでしょう。主は今日も私たちを愛しておられ、喜んで私たちのために損害を甘受してくださる、私たちの家族、父、兄弟、助けてくださる方になってくださいます。それでは、主はどのような方法で、人間と一つになり、私たちの痛みを感じられ、私たちの助けになってくださるでしょうか? 1.聖霊を送って私たちと一つになってくださる主。 聖書で、聖霊は、しばしば油に例えられます。特に、使徒言行録では油注がれたという表現で、聖霊の臨在を示すこともあります。『ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。』(使徒言行録10:38)ここで『によって』として翻訳されたギリシャ語は、もともと、『何かを塗る。』という意味として使われる表現です。『聖霊と力が、まるで油のように主イエスに塗られた。』という意味でしょう。もちろん、聖霊は油ではありません。ここでの油は、神が旧約時代の王、祭司、預言者を選ばれる際に、行われた特定の行為に用いられた材料に基づいた言葉です。『油の壺を取って彼の頭に注いで言いなさい。主はこう言われる。わたしはあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王とすると。』(列王記下9:3) 先ほど読んだ言葉には、イスラエルの王だけが登場していますが、旧約聖書をよく読んでみると、王だけでなく、祭司、預言者まで、皆が神が命じられたように、油を注がれて、自分の役割を果たしたことが分かります。王、祭司、預言者はめいめい自分の場所で、神に代わって、神の統治を示す仕事をしていた者です。王は自分の権力と名誉のために働いていた者ではなく、真の王である神の統治を代理に行うメッセンジャーだったというわけです。祭司は神と民の間で民の代表となって、神に生け贄をささげた者でした。預言者は王と祭司、民に生きておられる神の厳重な言葉を伝える者でした。彼らが、その務めを上手く行う際に、神は民を惜しげもなく助けてくださり、油そそがれた者とその民に平安と幸福を許されたのです。  彼らが神に油注がれた理由は、自分のためではなく、民への神の統治を示すために、神と民のお交わりのために、神の御言葉を民に伝えるために、ひたすら神の手と足となるためでした。つまり、神は王、祭司、預言者のような油注がれた者たちの務めを通して民の中におられることを示され、油注がれた者たちは、自分らの務めを通して人々に神の臨在と統治を示したということです。その中で、神はご自分の民を祝福されたのです。民に聖霊が臨まれるということは、このような油注ぎと似ています。聖霊が民に臨まれるというのは、神ご自身の統治を現わし、民に崇められ、民に御言葉を伝えられることを意味します。つまり、聖霊が私たちの中にいらっしゃること、聖霊の臨在は民と一つになられ、その民を助けてくださる神の存在をリアルタイムで民に見せてくださり、祝福してくださることを意味するものです。 2.聖霊を通して主が我らの間に、我らが主の中に。 旧約の油注ぎは象徴性を持った行為です。神ご自身の僕に油を注いでくださることは、神の聖霊が彼に臨まれ、その僕が神の力を持って神の御働きをするようになるということです。あの有名なモーセも、ダビデも、士師も、最終的にイエス・キリストも油注ぎという象徴性を持つ聖霊の存在により、自分たちの務めをし、それを成し遂げたのです。そして、かれらを通して民は祝福を受けたのです。つまり、油注がれるということは、聖霊が神のメッセンジャーに強く臨まれ、豊かな神の力の中で、神の御業をするために選ばれること、そして、それを通して人々に神の祝福を流すことを意味するものです。 今日の旧約本文は油注がれた者への神のお助けについて、こう描いています。『今、わたしは知った、主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。』(詩篇20:7)詩篇20篇は、神が立てられた帝王、メシアが神のお助けのもと、勝利を勝ち取ることを褒め称える帝王詩であります。神はご自分が立てられた油注がれた者をお助けくださり、勝利を与えてくださるでしょう。これは新約まで繋がり、神から遣わされたキリスト、イエスに成し遂げられる予言でもあります。神のメッセンジャー、油注がれた者は、自分の力と考えに従っては、務めません。神の聖霊のお導きのもとで、神の御心に聞き従うことによって、自分に委ねられたことを行うだけです。そして、その行ないの中心には、聖霊の主権的なお助けがあります。 先週の説教を通して、我々は、イエス・キリストによって歴史の外におられる神を歴史の中で知ることになると学びました。その神と人間の間に入ってこられ、お互いを取り結んででくださったイエス・キリストは、神の油注がれた者であって、聖霊の臨在の中で働いておられる方です。このイエス様によって来られた聖霊を通して、私たちは神を悟るようになり、神の中にいるようになり、神の祝福を受けるようになります。また、このイエスを通して来られた聖霊によって父なる神は、私たちの間にとどまってくださいます。神とイエス・キリストから送られた、この聖霊は、イエス・キリストを通して、私たちの中にとどまってくださるようになり、まるで私たちが旧約の油注がれた者のように、神のメッセンジャーとして生きることができるように私たちを導いてくださいます。聖霊が私たちに臨まれたということは、もはや自分のために、私一人だけのために生きるのではなく、私たちの生活を通して神様の偉大な御業が行われるということを意味するものです。 3.聖霊の御働き。 『わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。』(ヨハネ14:16)旧約の王、祭司、預言者たちに注がれた油は、メシア、イエス・キリストにも注がれ、今ではそのイエス・キリストを通して、彼を信じる新約の信徒たちにも注がれています。今や油という象徴ではなく、本物の聖霊が私たちの内に臨んでおられるのです。これに対してイエスは、「イエス・キリスト、ご自身ではなく、別の助け主、聖霊が来られる。」と言われました。『この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。』(ヨハネ14:17)この聖霊は、誰にも臨まれる方ではありません。ただ、イエスを通して、イエスを信じる者だけに来られる方です。これは聖霊が歴史の外に戻り、玉座に行かれたイエスの霊として来られ、この世界の終わりまで、イエス・キリストを信じる者達に臨まれ、共に歩んで行かれることを意味します。 『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』(ヨハネ14:12)肉体を持ったイエスは、もはや私たちの隣におられなくなりましたけれども、そのイエスを通して助け主である聖霊が私たちの内に来られるようになったということです。イエス・キリストは肉体を持った方ですので、お疲れを感じ、痛みを感じる弱さを持っておられましたが、霊である聖霊は、それとは違います。聖霊はイエスの御心を持っていますが、肉体ではなく霊でいらっしゃいますので強力な神の力を持って、私たちの内にいらっしゃる方です。その聖霊が私たちの内に、イエスの心をくださり、イエスの力をくださり、イエスの手と足として、主の御業を代わりにさせてくださり、それより大きな業が出来るようにしてくださるのです。私たちの心に聖霊がおられますので、私達はイエスを信じるようになり、隣人のために善を行なうようになり、神を愛するようになり、神が感じられるようになるのです。 『わたしは、あなたがたを孤児にはして置かない。あなた方のところに戻って来る。』(ヨハネ12:18)イエスの代わりに、私たちの内におられる聖霊は、また御父の御心をも、私たちに教えてくださいます。私たちは、私たちの願いによってはこの世に生まれてはいません。ある人は、生まれてから今まで事欠くことなく、安らかに生きてきたかも知れません。しかし、ある人は肉体的にも、精神的にもあまりにも苦しく生きてきたかも知れません。時には死にたいほど絶望した時もあるでしょう。しかし、聖霊が私たちの内におられれば、その聖霊を通して御父の愛と慰めが私たちのところに来ます。この世の中に、私たちが一人ぼっちのように残されたと感じられる時、御父は私たちを息子よ!娘よ!と聖霊を通して呼び掛けてくださいます。私たちは、孤児ではありません。父なる神の御心を持っておられる聖霊が今も私たちの間に一緒におられるからです。 締め括り イエス・キリストはこのように聖霊という助け主が来られるということの予告を通して弟子たちを慰めてくださいました。これは、今の私達においては、すでに聖霊が私たちの内におられるということを意味します。実際に使徒言行録では、聖霊が臨在されたことを証言しています。旧約聖書の聖霊は、特別に選ばれた油注がれた者に許されましたが、しかし、今ではイエスを通して、イエスを信じるすべての人に許される方であります。今日も聖霊は、私たちがイエスを信じるように導いてくださり、御言葉が分かるように教えてくださり、神と隣人を愛するようにさせてくださり、私たちが福音を伝えることが出来るように助けてくださいます。 先週、私たちは『お互いに愛すること』を通して歴史の外におられる神に会えると学びました。聖霊も同じだと思います。私たちが『互いに愛し合うこと』によって、イエス・キリストの新しい戒めを守る時、その愛の中で聖霊はお働きになるでしょう。その愛の中で、父なる神の御心を示してくださり、その愛の中で、イエスの愛を示してくださり、その愛の中で、私たちが主の御業をすることが出来るよう助けてくださるでしょう。私たちの生活の中に聖霊がおられます。この聖霊を通して私たちは、今日も神の御業を代わりに行うことが出来ます。聖霊を通して私たちの内におられ、私たちを祝福してくださるイエスに頼ってまいりましょう。私たちは決して一人ではありません。いつまでも聖霊が私たちと一緒におられるからです。

歴史を超える神の恵み。

イザヤ55章6-9節 ヨハネによる福音書 13章31-35節 すべての人は、歴史の中に生きていきます。すべての生き物や物事には歴史が潜んでいます。庭の草一本にも、この志免教会にも、皆さんお一人お一人にも歴史があります。すべての個人の歴史が集まり、九州の歴史、日本の歴史、地球の歴史、最終的に1つの巨大な歴史が成り立ちます。先日、インターネットで『歴史とは、すべての科学の基である。』という言葉を見ました。誰の言葉かは分かりませんが、確かにそうだと思いました。私たちは、科学を考える際に、ロボット、宇宙船などを思い浮かべる傾向があります。しかし、科学という言葉は、より広い意味で『原因と結果が明らかな何か。』を意味します。数学、物理学、生物学のように一定の対象を客観的に研究するというのが科学なんです。なので科学は、主に人々の予測範囲の内で行われるものであります。だから、科学の基となる歴史というのも、原因と結果が明らかであると思います。つまり歴史というものも、結局ある程度、人間の予測の内にあるということです。 その反面、神様は歴史の外におられる方です。人々が同じ題名で一緒に祈っても、ある人は一日で祈りが叶う一方で、ある人は、10年間祈っても叶わない場合があります。また、人間が精一杯、神の御心を知ろうとしても全く知ることが出来ないこともあります。なぜなら神様は定められた予測の中に、つまり歴史の中におられる方ではないからです。いくら、全世界の70億の人口が頭を寄せ合って工夫をしても、主の深い御心を知ることは出来ません。なので、神様は、イザヤ書を通してこう言われます。『天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。』神様は歴史の外におられる方です。神のお考えを人間が知り抜くことは不可能です。ヨハネによる福音書の後半を飾る十字架の福音も同じです。歴史の外にありますので、人間が全く理解できない神秘的なものです。今日はこの歴史の外におられる神様が歴史の中に、イエスを遣わされ、何をなさったのかについて考えてみたいと思います。 1.人の手で触れることが出来ない全能の神様。 神様はこの世界を創造し、秩序をくださった方でいらっしゃいます。世界を創造された主は、この世界のすべてをご存知でいらっしゃる方です。彼はいつも世界の外から、全世界を一目で眺めておられる創り主であるからです。被造物は、歴史という領域の中で生きていますが、この歴史というのは、時間と空間によって構成されています。時間と空間を創造された神様は、歴史をも造られ、その中にすべての被造物を置かれました。ですので、被造物は、その時間と空間によって成り立つ歴史に逆らうことが出来ません。さらに、人間は歴史の外におられる全能の神様を知ることも出来ず、探すことも出来ません。偉大な神様は、時間と空間を超越する方、私達の畏れるべき方であります。 つまり、これは人間が先に神様を見つけることが決して出来ないということを意味します。人間の科学が発達して遠い宇宙に飛んで行っても、そこで神様を見出だすことは出来ません。人間が地球の中心部まで掘り下げて行っても、そこに神を見つけることは出来ません。人間の手の届くところは、時空の歴史の中だけに存在するからです。 『全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。』(ヨブ37:23)ですから、人は神様の御心を知ることが出来ません。個人的な話ですが、昨年の今頃、私は夜のお祈りをする際に神様に問い質したことがあります。私は当時、非常に怒っていました。 『神様!日本のキリスト教会は、欲張らず、政治との癒着もなく、誠実に神に信頼していると思います。なのに、なぜこのように牧師が足りないのですか?なぜ、このように未来が危うくならなければならないのですか?神様は、日本の教会のために何をしておられるんですか?あなたは本当に働いておられるんですか?』 私は、全く理解できませんでした。全能者と呼ばれる神様は、ご自分の民と共におられると聖書は常に証言しているのに、神様は、日本のキリスト教会のために、一体何をしておられるのか分かりませんでした。恥ずかしい話ですが、韓国ではカトリックとプロテスタントを含め、全人口の三割に近いかなりの人々が神を信じていますが、日本の教会と比べれば、政治、社会的な不条理が本当に多いと思います。それに比べて、日本の教会は、とても綺麗で真面目であると思います。それにも拘わらず、日本の教会を1%未満の小さな群れに放って置かれる理由が分かりませんでした。その翌日、聖書を読んでいる時、神様は御言葉を通して私にお答えくださいました。 『どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩』(イザヤ26:4)その日、私はやっと気づきました。 『私が考えている現実は、おそらく神様が考えておられる現実とは異なるかも知れないな。神のお考えは、私たちの考えとは全く違うだろうな』と。その御言葉をいただき、悔い改めた記憶があります 。 2.歴史の外で栄光を収められる神様。 今日の新約本文はエルサレムに入城されたイエス・キリストが亡くなる前に、弟子たちの足を洗ってくださり、一緒に聖晩餐を施される箇所の最後の場面であります。 3年間、一緒に生活した弟子の1人イスカリオテのユダがイエスを売り渡すために席を蹴っていく場面です。私達は、すでにイエスがご自分の民を救われるために、死ぬために来られた方であることを学んで知っています。イエス様が必ず十字架につけられるということ、そのためにユダが必ずイエスを裏切らなければならないということをも、よく知っています。しかし、私たちと違ってそれを知らなかった、当時の弟子たちにとって、イエスの死とユダの裏切りは、想像も出来ないほどの心苦しいことだったでしょう。たとえば、今、一緒に礼拝している志免教会員の一人が突然、立ち上がって外に出て、信仰を捨てれば、私たちの心はどうなるでしょうか?しかし、主は、すでにユダの裏切り、ご自分の犠牲をすべて知っておられました。 主はまるで、すべてをご存知であったように不思議なお話をなさいました。『ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。』(ヨハネ13:31)3年間、一緒にいた人が突然、走って出て行ったのに、しかもイエスを売り渡すために出て行ったのに、歴史の外の神様、全てを知っておられるイエス様は、なぜご自分が栄光を受けたと仰るのでしょうか?そして、なぜ、このイエス様によって、神様が栄光を受けられたと仰るのでしょうか?まず、栄光という言葉を取り上げてみましょう。私たちは、栄光という言葉を聞くとき、輝かしくて素敵な何かを思い浮かべたりします。もちろん栄光という言葉は、その意味をも持っています。しかし、別の意味も持っています。栄光とはギリシャ語で「ドクサ」と言いますが、この言葉は「ドケオー」に基づいた言葉です。 「ドケオー」は、『 – に見える。』 『- と思われる』という意味です。つまり、栄光というのは、その栄光の持ち主が – に見えるとき、 – と思われるとき、完全に輝けるという意味です。 神様が神様のお働きをされ、神らしく見えるとき、なので、神様が神様として思われる時、神の栄光は一番明るく輝くのです。すべてのことを計画される父なる神様の、そのご計画が成し遂げられた時、父なる神様の栄光は、光るのです。世の罪と罪責を解決するために、御父のご計画通り来られた御子が、罪と罪責を完全に解決するために十字架につけられ、ご自分の役割を果たされる時、御子の栄光は、明るく輝くでしょう。つまり、イエス様がイスカリオテのユダによって売られてしまったのは、人間の目には、惨めな最後のように見えましたが、神様とイエス様の目には、ご計画の達成として見えたということです。その計画によって行われたイエスの十字架の死は、人間には終わりでしたが、神様には終わりではなく、栄光の新しい歴史の始まりだったというわけです。そのすべては、人間が理解できない、神様の偉大なご計画でした。人間のための神様のご計画、イエスの死が、結局イエスの栄光となる逆説性、イエスの死によって御父の御心が成し遂げられ、神様の栄光が輝くようになったという逆説性、それは時空間の歴史の中に生きていく人間には絶対に理解できない、神の意義深い計画でした。 3.愛を通してご自分の民と会ってくださる愛の神。 『子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。わたしが行く所にあなたたちは来ることができないとユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 』(ヨハネ13:33)ユダの裏切り、イエスの死はややもすれば、すべてが終わるように見えたかも知れませんが、歴史の外から歴史を眺めておられる神様には、より大きな栄光と成功のための一歩前進でした。その一歩、十字架の死によって人間を救われたイエス様は、もはや貧しくて弱く見えた最初のイエスではなく、再臨される王の中の王として栄光を受けられることでしょう。そうすれば、彼は歴史の外に、神の玉座にある元の場所に戻って行かれ、世界を治められるでしょう。時空間を超越する全能の神になられるでしょう。その歴史の外に弟子たちは、出て行くことが出来ません。そこは神の場所だからです。その代わりに、イエス・キリストは歴史の外におられるご自身と歴史の中にいる弟子たちが交わることが出来る方法を教えてくださいました。それは正にお互いに愛しあうことなんです。 『あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)イエス・キリストは、十字架での死と復活の後、弟子たちが来ることが出来ない場所に行かれるでしょう。そこは時空間と歴史を超越した神様の場所であるからです。しかし、主はそこで弟子たちと新しい掟、愛を持って弟子たちとお交わりなさるでしょう。ここで、新しい掟とは何でしょうか?ギリシャ語には、二つの新しいという言葉があります。 「ネオス」と「カイノス」です。 「ネオス」は『ニュース』の語源ですが、順序的な新しさ、日本語では言葉通り『新しい』を意味するものです。「カイノス」は、過去から存在していたが、まだ実現できなかったものが、最終的に実現されて質的に更新するという、日本語では『新たな』に近い意味を持っている言葉です。そのため、Ⅱコリントでは『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』(Ⅱコリント5:17)とあります。過去からあったものが、何かによって新たになったという意味で使われます。もともと存在していたものが、イエス・キリストを通して、新たに更新されるという意味です。これが「カイノス」、新しいという意味です。 このように完全に新しくなった掟、主が与えられた新しい掟が、正に『イエス・キリストの中でお互いに愛すること』であります。新しい掟というのは過去からずっと続いてきた神様の掟、律法が更新されたということです。それが正に「互いに愛しあいなさい。」ということです。イエス・キリストを信じる主の弟子たちが、このような愛を持ってお互いに仕え、愛する時、主は主の弟子、教会とお交わりくださるのです。それによって世界はイエスの弟子たちを通して、歴史の外から世界を見ておられるイエスを、歴史の中でも見出すことが出来るようになります。『あのキリスト者、素晴らしくない?あの人を見てたら、イエス・キリストは本当に存在すると思うわ。』というように。イエス・キリストは神のご計画に聞き従って、十字架で自分を捧げました。そして、そのイエスを通して彼を信じる者は、神の赦しを受けました。歴史の外におられる神様は、そのようなイエスの死と罪の赦しを通して、歴史の中の神の子らを再び呼んでくださったのです。これが神様の栄光になりました。人間は歴史の中で、歴史の外におられる神を見ることが出来ません。しかしイエス・キリストから得た、互いに愛しあうという新しい掟を通して、人間は歴史の外におられる全能の神に会うことが出来るようになったのです。 歴史を超える神の恵み。 今日の旧約本文では『主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。』(イザヤ55:6)という言葉が出てきます。私たちが、主を尋ね求めるべき時はいつでしょうか?彼が私たちの近くにおられるうちはいつでしょうか?イエス・キリストが歴史の外から歴史を引き裂かれ、私たちにこられ、主の言葉を通して、私たちを召される時です。主の御言葉を通して福音が宣べ伝えられている、今です。私たちは、決して歴史の外におられる神様に行くことが出来ませんが、イエス・キリストが歴史を引き裂かれ、歴史に入って、私たちを召されるとき、私たちはそのイエスを通して神に会うことが出来ます。神のお考えは、私たちの考えとは異なります。ですから、私たちは、神の御心を到底理解できない時もあるでしょう。 しかし、神様は、イエス・キリストを通して、私たちが神様を知り、彼の御心を悟ることが出来る道を与えてくださいました。歴史を引き裂かれて、私たちに来られたイエス・キリストは、神様と人間をつなぐ唯一の架け橋になってくださいます。この日本で、地球でイエスを信じるということは、掛け替えのない祝福であります。誰が歴史の外におられる全能の神と繋がることが出来るでしょうか?私たちを神様につないでくださったイエス様を信頼し、最後まで神様を信頼してまいりましょう。そして、このイエスを志免と須恵に住んでいる近所の人々に伝えて生きて行きましょう。来たる一週間、神様を信頼して生きる志免教会になりますように祈り、願います。

必生即死、必死即生。

ダニエル書4章1-15節(旧1385頁) ヨハネによる福音書 12章20-26節(新192頁) 前置き 今日の説教の題は、日本ではあまり使っていない言葉だと思っています。「必生即死、生きようとする者は必ず死ぬものであり、必死即生、死のうとする者は必ず生きるものである。」という意味で、韓国では、頻繁に使われる漢字語です。世の中に死ぬために生まれる人はいないでしょう。寿命が尽きるまで、生きていく途中、神に召され、世を去ることは当たり前なことだと思いますが、世の誰も早く死のうと思う人はいないでしょう。しかし、時には人が死を覚悟する時もあると思います。戦時中に親が子供を守るために代わって死ぬこと、愛する友人や恋人を生かすために代わって命を投げ出すこと、あるいはイエス・キリストのように、罪人を愛し、救うために自ら十字架の道を選ぶことなどがそのような場合でしょう。 神の国で認められる高い価値の一つは、人が自分だけのために生きることではなく、他人も愛して生きることだと思います。自分だけのために生きていく人は、自分の利益のために他人を死に至らしめることもありますが、他人も愛して生きる人は、他人のために自分を犠牲にすることもあるからです。神様は自分だけのために他人を犠牲にする者を決して赦されない方であり、他人のために自分を犠牲にする人の犠牲を非常に大切にされる方であります。イエス・キリストの犠牲と愛によって建てられた神の国は、今日もキリストの体なる教会の、他者への愛と犠牲によって広げられていきます。自分だけのために生きようとする者は、神様に憎まれるでしょう。隣人のために犠牲を覚悟する者は、神に褒められるでしょう。なぜならば、主イエス・キリストが、そのような御教えと足跡を残されたからです。そのような犠牲と愛はヨハネによる福音書の12章以降に示されるイエス・キリストの十字架の死で、さらに明らかに現れるからです。 1.世に逆らうイエスの御教え。 ラザロを生き返らせたイエスの噂は、エルサレムとイスラエルを越えて遠い地域まで伝えられます。そのためか、今日の新約本文ではギリシア人たちがイエスに会うために来たと記されています。『ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。』(コリント1:22-24)哲学が発達し、知恵を追い求めていたギリシアの文化圏から、ギリシア人がイエスを訪ねてきたというのは、驚くべきことでした。イエス・キリストの福音、「主を信じる者は神様に赦される。主を信じる者は神様に永遠の命を与えられる。主を信じる者は死んでも生きる。」という話は、哲学的な思考を持っていたギリシア人には話にならない愚かな言葉だったからです。しかし、ラザロが生き返ったという噂を聞いた何人かのギリシア人は、哲学と知恵に対する自分らの常識を超えることが、イエス・キリストによって起きたことを悟り、イエス様を訪ねてきたのでしょう。 古代ギリシアの神々は、道徳的ではなく、人間のように罪を犯す存在として描かれました。つまり、完全性が期待できない存在でした。あの有名なゼウスは、他人の妻を寝取り、他の神々も互いに騙し合い、殺し合おうとしました。道徳的にも、能力的にも完璧ではないギリシアの神々には限りがありました。このような完全に失敗した神々への懐疑感により、ギリシアでは、神への探究が活発に起こり、そのような神への懐疑と反感によって、人間への研究が活発に起きたのです。そのため、ギリシアの文化では、神への盲目的な崇拝より、人間を研究する哲学が発達したというわけです。そんなギリシア人にとって、完全無欠なイスラエルの神認識は愚かなものでした。ところが、そのような愚かな神認識のイスラエルで誰かが人を蘇らせたという噂は、彼らに新鮮な衝撃として迫ってきたことでしょう。そういう理由で、ギリシア人は、イエスに会いに来たのかもしれません。 古代の神話で神々は、自分らだけのために、人間を使いました。人間の命は大事にしませんでした。神々は人間を愛さず、ただ用いただけです。しかし、イエス・キリストの父なる神様は、彼らと違いました。弱い者を愛しておられ、命を与えてくださる方でした。そのような神の御心は、イエス・キリストの一言を通して伝わりました。『自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。』(ヨハネ12:25)この言葉を実践でもするかのように、神は自らご自分の命を憎んでまで、人間を愛されました。そのため、神は、最愛の御子イエス・キリストを人間のために死なせたのです。古代の神々とは違い、人間を愛した神、その神の御子イエスはご自分の命を捧げて人間を愛されました。イエスの他者のための死は、自分だけを大切にする、この世の教えに逆らう革命でした。 2.神の力。 旧約聖書の時代は、戦争と帝国の歴史でした。エジプト、アッシリヤ、バビロン、ギリシア、ペルシア、ローマ等の帝国が軍事力で他の国を征服し、被害を負わせながら、自分らの領土を広げていった暴力と戦争の歴史でした。古代帝国は、自分たちが仕える神々が強ければ他の国との戦争に勝利し、その神々が弱ければ、他の国との戦争に敗北すると思いました。また、その神々の息子、あるいはその神々が人間になった者が皇帝だと思っていました。そのため、自分たちの神々と自国の強さを証明するために古代人は多くの戦争を起こし、領土を広げていこうとしたのです。今日、旧約聖書に登場するネブカドネツァルも、そのような皇帝の1人でした。ネブカドネツァルはバビロンの皇帝でした。彼は今のサウジアラビア、イラク一帯を支配していた強力な皇帝でした。 ところで、ある日、このネブカドネツァルが不思議な夢を見ることになります。彼の夢に、一本の大きな木が登場します。葉っぱは美しく茂り、実は豊かに実り、すべてを養うに足るほどの木でした。その木の陰に野の獣が宿り、枝には鳥が巣を作り、生き物はみな、この木によって食べ物を得ていました。しかし、空から聖なる見張りの天使が降って来て、『この木を切り倒し、枝を払い葉を散らし、実を落とせ。その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え。』(ダニエル4: 11)と叫んだのです。つまり、その大きな木が滅ぼされるという意味でした。ダニエルは、その木がネブカドネツァル、本人だと解釈し、高慢なネブカドネツァルが神様に裁かれると予告しました。一年後、ダニエルの解釈のように高慢な言動を発したネブカドネツァルは、神に裁かれ、彼の権威は瞬く間に潰れてしまいました。そして、数年後には、バビロン帝国自体がペルシアによって滅ぼされてしまいました。ダニエル書は、その強大な帝国バビロンと皇帝ネブカドネツァルに罰を与えられた神様の力について、こう語っています。『その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて何をするのかと言いうる者はだれもいない。』(ダニエル4:31-32) 預言者イザヤは、人間について『草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。』(イザヤ40:7)と話しました。人間の力がいくら強くても、その力は永遠ではありません。そして、その権威は神様のご判断とご処分に従って、たやすく壊れてしまいます。だから、この世のすべては神の御前で謙虚であるべきです。しかし、まだ、世の国は、自分の栄光のために、弱い国を踏みにじり、弱い国の血を用いて、自国を大きくしようとしています。世の人々の中にも、そんな動きがあると思います。自分の利益のために、弱者の物を奪い、自分の権力、名誉、富を大きくしようとする人が多いと思います。しかし、このような高慢な国と人間に、神様は威圧するように言われます。『他国、他人を軽蔑し、困らせる高ぶる者よ、私にとってお前は無に等しい。天の軍勢をも、地に住む者をも、私は私の旨のままに裁く。私の手を押さえて何をするのかと言いうる者は誰もいない。』神様は誰よりも大いなる方、強力な方であります。世の誰も神様の御心を妨げることは、決して出来ないでしょう。 3.ご自分を犠牲にして他人を生かす神の恵み。 このように、神様は人間が想像も出来ないほどの力を持って、今日も全世界を支配しておられる方です。主はすべてを成し遂げることが出来る力を持っておられます。しかし、この神様は、ご自分の強大な力で弱い者を抑圧される方ではありません。高慢で自分のことしか知らない強い者には、はるかに強い方であられますが、弱くて苦しんでいる者には愛を持って訪れる方です。神様は人が強い力によって屈服することではなく、神の言葉と恵みによって、変わることをより喜ばれる方です。だから、神様は財物と権力を持って身勝手に振舞う大きな教会より、小さくても謙虚に主を信じ、善を行う教会を、さらに愛されます。この神様の代表として来られた主イエス・キリストは、あまりにも弱い姿でこの地に来られました。そして他人のために犠牲になられました。強大な力があるにも拘わらず、弱い者のため、病んでいる者を生かすため、自ら一番小さな者の姿をして来られました。主は自ら一粒の麦になって来られました。『はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』(ヨハネ12:24)主イエスは死ぬまで、ご自分の利益ではなく、神と隣人の利益のために、自ら一粒の麦になってご自分の命を捨てられたのです。 イエス・キリストは神のご計画の前に、自分の主張を強調しませんでした。イエス・キリストは生きようと足掻きませんでした。イエス・キリストは死を控えて、父なる神のご計画に聞き従いました。他人を生き返らせ、ご自分のように従順に従う民を生まれさせるために一粒の麦になり、ご自分の命を捧げました。すなわち、主イエスは死ぬために来られたということです。自ら自己を否むために来られたのです。命を捧げたイエス・キリストの犠牲によって、多くの人々が赦されました。『彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』(イザヤ53:5)神様は、強い民を必要としておられない方です。神様、ご自身が一番強い方であるからです。ただし、神様は自ら一粒の麦のようになり、犠牲になって多くの実を結ぶ民、神に自分を捧げる民を望んでおられます。だから、神の民、教会は力ではなく、従順に生きる共同体です。教会の頭なるイエス・キリストがなさったように、主イエスの教会は自らを犠牲にし、神と隣人に仕える共同体です。 自分だけのために生きようとする者は、神様に裁かれるでしょう。他人のために死のうとする者は、神の恵みによって生きるでしょう。自分が一粒の麦となり、自分の利益だけでなく、近所の人々のことも一緒に考え、仕えて生きる時、神様は喜んで祝福してくださるでしょう。今日、私たちが落ちて、主に私達を捧げるべき所はどこでしょうか?私たちが自分を犠牲にし、他人を生かそうとする時に、神様は多くの実りを持って、私たちを祝福してくださるでしょう。『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。』(ヨハネ12:26)イエス・キリストが行かれた道、自ら一粒の麦になり、ご自分を犠牲にされた道、その道の上にイエス・キリストを信じ、仕える者も立っているでしょう。その道で、イエスに従って生きていく時、イエス・キリストの父なる神様は、私たちを大切にしてくださるでしょう。今日、私たちは、果たしてどこに立っているでしょうか?めいめい自分を顧みる時間になることを願います。 締め括り キリスト者の生活は、イエス・キリストが行かれた道に従って生きることです。イエスの道には数多くの苦難が伴います。その道は、幸せばかりの道ではありません。その道は安らぎばかりの道でもありません。しかし、その道には必ず神様の祝福があり、その道には必ず神様の慰めがあるでしょう。イエス・キリストは、直接、ご自分の命を捧げられましたが、いまのところ、私たちは命を捧げることまでは難しいでしょう。しかし、少なくとも、心だけは、命を捧げる覚悟を持って、自分の被害と苦痛に耐え、他人のために生きる人生、キリストを伝える人生にすべく取り組むべきでしょう。必生即死、自分のために生きようとする者は必ず死に、必死即生、主と他人のために死のうとする者は必ず生きるでしょう。自分自身を神様に捧げる人生、私の命を捧げ、他人に仕える人生、私たちの人生を通して、イエス・キリストの香りが、その十字架の愛が、私たちの志免町に広まることを願います。