天から地上へ、教会から隣人へ。

詩編73編23-25節 (旧908頁) / ヨハネによる福音書 6章37-40節(新175頁) メリークリスマス!主イエス・キリストの父なる神様を賛美します。今日は主イエスの御降誕を記念するクリスマス礼拝です。クリスマスを迎え、皆さまのご家庭と日々の生活の上に神様の深い愛と恵みが豊かに溢れますようにお祈りいたします。皆さん、クリスマスの意味とは何か?お考えになったことがありますか?クリスマス、おそらく、キリストと繋がりがあると感じられませんか?ひょっとして、そう思われたなら、正解です。ギリシャ語、キリストから出たクリスに、ラテン語のミサがマスとなり、一つになった表現がこのクリスマスなんです。私は特に、ミサの方が気になりました。ミサ、良く聴いたことのある言葉ではないでしょうか?ミサは、カトリック教会で、感謝の祭事、感謝の礼拝という意味として使われる言葉です。ミサには、もう一つの意味があります。言語学的な意味として、英語のミッション(宣教)と語源が同じです。両方ラテン語のミッシオから来ましたが。ミッシオとは英語のミッションと同じく、宣教という意味の言葉です。 これらを総合して考えれば、感謝と宣教がクリスマスの主な意味だと言えるでしょう。一つ目に、クリスマスとは主イエスへの感謝を捧げる日です。何のための感謝でしょうか?私達を救ってくださった主の宣教への感謝でしょう。そして、二つ目に、神様に頂いた宣教の使命、この世に遣わされた私達、教会が持っている宣教の使命への感謝でもあるでしょう。クリスマスは感謝の日です。救い主、主イエスと神様への感謝、救い主の手と足として、遣わされた我らの宣教の使命への感謝の日です。このクリスマスが主の宣教、我らの宣教を誓う素晴らしい一日になることを願います。今日は感謝の心を込め、主の宣教、そして我らの宣教について話してみたいと思います。 天から、地上へ。 主イエスは天から地に来られました。聖書に於ける天とは、粕屋郡の美しい青空を意味することもありますが、人の手が触れる事が出来ない無限と永遠との神の力を示す表現でもあります。人間が認識している全ての物事、時間、空間、宇宙すらも、神様の永遠に比べれば、たった一つの点に過ぎない、小さな被造物でしょう。永遠とは、私達が生きていく、この世を超越するものです。ところで、この永遠を造り、司る御方が、主イエスの父、神様であると聖書は証言しています。 一方、地というのは、今私達が踏んでいる福岡の地という意味もありますけれど、さらに深く考えると、喜び、微笑み、生、怒り、涙、争い、死など、人間の喜怒哀楽のあるすべての所だとも、言えるでしょう。人が永遠に生きることが出来ないように、この地というのも永遠な存在ではありません。この地は、時間、空間、宇宙のような被造物に属しているからです。永遠ではない地、いつか終わらざるを得ない地、この地は真冬のように寒くて冷たい所です。この地の果てには死が潜んでいるからです。さて、昔のある冬の日、永遠の神様が人間になって無限の天から、この寒い地に降って来られる奇跡が起きました。 なぜ、永遠の神様が、限りある人間となり、この喜怒哀楽の地にいらっしゃったのでしょうか?ヨハネによる福音書では、このように記されています。『主をお遣わしになった方の御心を行うためである。』。では、神様の御心とはいったい何でしょうか?これを人間の言葉に直すと、お願いに言い替える事が出来ると思います。では、全能の父なる神様にも、願いがあるという意味でしょうか?はい、神様にも願いがあります。それは、御子を見て、信じる者が、皆、永遠の命を得ることであり、主がその人を終わりの日に復活させることです。主イエス・キリストは終わりの日に御父から、与えられた人々をご自身が復活させると仰ったのです。主はその人々に永遠の命を与えられるお方であるからです。 それでは、永遠の命とは何でしょうか?死なず、限りなく生きること?はい、その通りです。ですが、もう一つの意味があります。それは永遠の神様と共に生きることです。ヘブライ人への手紙は、人は肉体的には一度死ぬことが決まっていると話しています。でも、主イエスによって、神様に選ばれた人は、この地上でも神様と共に生き、神様の愛を感じ、お助けと御恵みを頂きながら、過ごすことが出来ます。このような人は、死んでも神様が備えてくださった天の国で、永遠に生きる事が出来ます。 永遠の命を得るというのは、こういうことです。永遠の神が共におられる地上での生活。単に地上で、何とか辛うじて生き残り、死んでから、パラダイスに入り、幸せに生きることではありません。毎日の疲れ切った人生、いくら、友達がいても、結局一人ぼっちの寂しい人生、明日の悩みで、寝付かれない人生。このような悲劇に満ちた人生に永遠の神様から、遣わされた主イエスが、ほかの誰かでなく、あなたと私を探しにお出でになったということです。聖書は主イエスが共にいる所を神の国、天国であると言いました。クリスマスの主イエス・キリストは私達にこの神の国を与えてくださるために生まれたのです。なぜならば、主イエスの父なる神様が、主を通してあなたのことを愛し、あなたと共に、この世から永遠に歩んで行かれることを切に望んでおられるからです。 教会から隣人へ。 ですが、きっとある人は私達に、このように尋ねるかもしれません。神様が私のことを愛し、探しに来られたですって? 信じられない!ならば、今、神様はどこにいるの?全然、見えないよ。地上で神様と一緒に生きるなんて嘘でしょう?今の生活もヘトヘトで、体も心も疲れすぎているのに、神の国って、いったい、どこにあるっていうの? そうですね。神様は目に見えませんね。神の国というのは、いくら手を伸ばしてみても、触れられませんね。永遠の命が約束されたからと言って、死が無くなるはずもないですね。神様は見えないし、天の国も感じられないし、永遠の命は嘘みたいだし。もしかして、神様は嘘つきではないでしょうか? 『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』マタイによる福音書を読むと、イエス様は5000人の群衆に食べさせる前、弟子たちに『あなた達が食べ物を彼らに上げなさい』と仰いました。弟子達は、誰1人としてイエスの命令を果たせませんでした。彼らには、始めから、そんな力なんてありませんでした。しかし、彼らは少なくとも大麦のパン五つと2匹の魚だけを得ることは出来ました。しかも、それは幼い少年の物だったのです。このわずかな食べ物を通して、主イエスは男だけでも、5000人が満腹するほどまで、食べさせてくださいました。女性と子供まで、数えれば、凡そ2万をも上回る人数が食べたと予想が出来ます。聖書にはその後、食べた残りが12籠にいっぱいになったと記されています。その日は食べ物が途方もなく足りない状況でしたが、誰も思いつかなかった方法によって、主は偉大な奇跡を見せてくださったのです。 確かに神様は人の目に見えません。しかも、神の国を肌で感じる事も、 たやすくないです。ですが、この地上には、目に見える主イエスの身体、教会があります。この日本に日本キリスト教会が、九州に九州中会が、粕屋郡に志免教会があります。神様は目に見えませんが、主の教会は目にはっきり見えます。なぜ、今、私が何度も教会が目に見えると話しているのでしょうか?それは、目に見えない神様が、目に見える教会を通して、お働きになるからです。主イエスはこの教会を今も変わらず、ご自身の体として守っておられます。神から遣わされ、貧しい人、病んでいる人、死んだ人を助けてくださった主イエスは、今、ご自分の教会が主イエスのように隣の人々を助けることを望んでおられます。 私達、教会はイエス様のように、偉大な奇跡を施す力はありません。けれども、弟子達が命令に従って何とか動いたように、私達も小さなことから試みる事は出来ます。隣の一人暮らしのお年寄りの方々の面倒を見ることから、正しくない政治家に抗議をすること、心の病んでいる人々を慰めること、理不尽な社会に小さな声であっても、警告することなどの行いは出来ます。私達、教会は主イエスの手足、口、体であるからです。主イエスが仰った通り、『私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること。』復活は、明らかにイエス・キリストに限ったお働きです。でも、人を失わないように働くことは主の体、教会に委ねられた役割です。その時、隣人は、私達を通して、主イエスを見、信じ、主のもとに来て、永遠の命を得ることが出来るでしょう! ルカによる福音書の17章21節に、こういう言葉があります。『ここにある、あそこにあると言える物ではない。実は神の国はあなた方の間にあるのだ。』聖書は神の国と同じ意味として、天の国という言葉を使っています。永遠の天の国はもう、私達の間にあります。主イエス・キリストが、2000年前、お出でになった時、天の国も共に来たからです。教会は既に天の国の中にあります。いや、教会こそが天の国の一部です。一部でなければなりません。傷付いて、倒れている弱い者、隣人を癒し、助ける天の国の民が、この主の教会、私達です。主イエスが、この地上にお出でになった結果は実に、私達教会員の手足の働きにあります。地上での神の国を実現していく主人公は、正に私達、教会員です。主から、救われた私達を通して、主イエスは、今日も人を生かしてくださいます。永遠の主、父なる神様の御心、神のお願いを主イエスの体である私達教会が成し遂げられるように仕えて行きましょう。そこに、この世への主イエスの救いと御父の神の国があります。 締め括り 今日の説教の前置きではクリスマスの意味について考えてみました。クリスマスは主への感謝の日であり、その感謝の理由は主が神の宣教のために生まれたということと、その主の宣教によって、選ばれた私達にも宣教の使命が与えられたということでした。クリスマスは、この世の救いのために父なる神様から、遣わされた主イエスの降臨を記念し、喜び、そして、私達が主に遣わされ、神様と隣人を愛し、仕える大事な意味を持つ日です。今の日本のクリスマス文化は如何ですか?世のクリスマスと、私達、教会のクリスマスは何が違うのか、考えてみることが出来れば幸いです。主イエスの手と足と口になり、遣わされる志免教会になりますようにお祈りいたします。今度のクリスマスは、主イエスの救いへの感謝と、主の宣教を受け継ぐ伝道のクリスマスになることを切に望みます。