助け主聖霊の予告。

詩編20編7-9節 ヨハネによる福音書14章15-21節 前置き キリスト教が他の宗教に比べて特別なところは、我々が信じる神という存在が、ただ崇拝されるだけで、かけ離れた存在ではなく、私たちと同じ立場で、私たちの弱さと痛みを一緒に背負っておられる方であるということです。もっと詳しく言うと、神と人間の仲介者、イエス・キリストが神側の代表であると同時に、人間側の代表でもあり、神と人間の間に堅固な架橋になってくださるということです。世界のどの宗教も、神と信者の間にそのような関係を結んでいません。神は誰よりも大いなる方、強い方でいらっしゃいますが、自分の子供である信徒たちのためには、自ら小さくなり、弱くなってくださる方であります。それにより口先だけの慰めと愛ではなく、ご自分の体で直接信徒たちの苦痛を背負ってくださる方であります。 もし、神がただ崇拝されることだけを求める存在だったら、神の息子、神ご自身であるイエス・キリストは十字架で死ななかったでしょう。キリスト教の特徴は、まさにそこにあります。キリストが私たちと共におられること、私たちの苦しみを知っておられること、そして私たちの弱さを知っておられること、これにより、私たちは神と繋げられ、もはや一人ではないようになること、私たちの痛みが癒されること、私たちが主によって強くなるということでしょう。主は今日も私たちを愛しておられ、喜んで私たちのために損害を甘受してくださる、私たちの家族、父、兄弟、助けてくださる方になってくださいます。それでは、主はどのような方法で、人間と一つになり、私たちの痛みを感じられ、私たちの助けになってくださるでしょうか? 1.聖霊を送って私たちと一つになってくださる主。 聖書で、聖霊は、しばしば油に例えられます。特に、使徒言行録では油注がれたという表現で、聖霊の臨在を示すこともあります。『ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。』(使徒言行録10:38)ここで『によって』として翻訳されたギリシャ語は、もともと、『何かを塗る。』という意味として使われる表現です。『聖霊と力が、まるで油のように主イエスに塗られた。』という意味でしょう。もちろん、聖霊は油ではありません。ここでの油は、神が旧約時代の王、祭司、預言者を選ばれる際に、行われた特定の行為に用いられた材料に基づいた言葉です。『油の壺を取って彼の頭に注いで言いなさい。主はこう言われる。わたしはあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王とすると。』(列王記下9:3) 先ほど読んだ言葉には、イスラエルの王だけが登場していますが、旧約聖書をよく読んでみると、王だけでなく、祭司、預言者まで、皆が神が命じられたように、油を注がれて、自分の役割を果たしたことが分かります。王、祭司、預言者はめいめい自分の場所で、神に代わって、神の統治を示す仕事をしていた者です。王は自分の権力と名誉のために働いていた者ではなく、真の王である神の統治を代理に行うメッセンジャーだったというわけです。祭司は神と民の間で民の代表となって、神に生け贄をささげた者でした。預言者は王と祭司、民に生きておられる神の厳重な言葉を伝える者でした。彼らが、その務めを上手く行う際に、神は民を惜しげもなく助けてくださり、油そそがれた者とその民に平安と幸福を許されたのです。  彼らが神に油注がれた理由は、自分のためではなく、民への神の統治を示すために、神と民のお交わりのために、神の御言葉を民に伝えるために、ひたすら神の手と足となるためでした。つまり、神は王、祭司、預言者のような油注がれた者たちの務めを通して民の中におられることを示され、油注がれた者たちは、自分らの務めを通して人々に神の臨在と統治を示したということです。その中で、神はご自分の民を祝福されたのです。民に聖霊が臨まれるということは、このような油注ぎと似ています。聖霊が民に臨まれるというのは、神ご自身の統治を現わし、民に崇められ、民に御言葉を伝えられることを意味します。つまり、聖霊が私たちの中にいらっしゃること、聖霊の臨在は民と一つになられ、その民を助けてくださる神の存在をリアルタイムで民に見せてくださり、祝福してくださることを意味するものです。 2.聖霊を通して主が我らの間に、我らが主の中に。 旧約の油注ぎは象徴性を持った行為です。神ご自身の僕に油を注いでくださることは、神の聖霊が彼に臨まれ、その僕が神の力を持って神の御働きをするようになるということです。あの有名なモーセも、ダビデも、士師も、最終的にイエス・キリストも油注ぎという象徴性を持つ聖霊の存在により、自分たちの務めをし、それを成し遂げたのです。そして、かれらを通して民は祝福を受けたのです。つまり、油注がれるということは、聖霊が神のメッセンジャーに強く臨まれ、豊かな神の力の中で、神の御業をするために選ばれること、そして、それを通して人々に神の祝福を流すことを意味するものです。 今日の旧約本文は油注がれた者への神のお助けについて、こう描いています。『今、わたしは知った、主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。』(詩篇20:7)詩篇20篇は、神が立てられた帝王、メシアが神のお助けのもと、勝利を勝ち取ることを褒め称える帝王詩であります。神はご自分が立てられた油注がれた者をお助けくださり、勝利を与えてくださるでしょう。これは新約まで繋がり、神から遣わされたキリスト、イエスに成し遂げられる予言でもあります。神のメッセンジャー、油注がれた者は、自分の力と考えに従っては、務めません。神の聖霊のお導きのもとで、神の御心に聞き従うことによって、自分に委ねられたことを行うだけです。そして、その行ないの中心には、聖霊の主権的なお助けがあります。 先週の説教を通して、我々は、イエス・キリストによって歴史の外におられる神を歴史の中で知ることになると学びました。その神と人間の間に入ってこられ、お互いを取り結んででくださったイエス・キリストは、神の油注がれた者であって、聖霊の臨在の中で働いておられる方です。このイエス様によって来られた聖霊を通して、私たちは神を悟るようになり、神の中にいるようになり、神の祝福を受けるようになります。また、このイエスを通して来られた聖霊によって父なる神は、私たちの間にとどまってくださいます。神とイエス・キリストから送られた、この聖霊は、イエス・キリストを通して、私たちの中にとどまってくださるようになり、まるで私たちが旧約の油注がれた者のように、神のメッセンジャーとして生きることができるように私たちを導いてくださいます。聖霊が私たちに臨まれたということは、もはや自分のために、私一人だけのために生きるのではなく、私たちの生活を通して神様の偉大な御業が行われるということを意味するものです。 3.聖霊の御働き。 『わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。』(ヨハネ14:16)旧約の王、祭司、預言者たちに注がれた油は、メシア、イエス・キリストにも注がれ、今ではそのイエス・キリストを通して、彼を信じる新約の信徒たちにも注がれています。今や油という象徴ではなく、本物の聖霊が私たちの内に臨んでおられるのです。これに対してイエスは、「イエス・キリスト、ご自身ではなく、別の助け主、聖霊が来られる。」と言われました。『この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。』(ヨハネ14:17)この聖霊は、誰にも臨まれる方ではありません。ただ、イエスを通して、イエスを信じる者だけに来られる方です。これは聖霊が歴史の外に戻り、玉座に行かれたイエスの霊として来られ、この世界の終わりまで、イエス・キリストを信じる者達に臨まれ、共に歩んで行かれることを意味します。 『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』(ヨハネ14:12)肉体を持ったイエスは、もはや私たちの隣におられなくなりましたけれども、そのイエスを通して助け主である聖霊が私たちの内に来られるようになったということです。イエス・キリストは肉体を持った方ですので、お疲れを感じ、痛みを感じる弱さを持っておられましたが、霊である聖霊は、それとは違います。聖霊はイエスの御心を持っていますが、肉体ではなく霊でいらっしゃいますので強力な神の力を持って、私たちの内にいらっしゃる方です。その聖霊が私たちの内に、イエスの心をくださり、イエスの力をくださり、イエスの手と足として、主の御業を代わりにさせてくださり、それより大きな業が出来るようにしてくださるのです。私たちの心に聖霊がおられますので、私達はイエスを信じるようになり、隣人のために善を行なうようになり、神を愛するようになり、神が感じられるようになるのです。 『わたしは、あなたがたを孤児にはして置かない。あなた方のところに戻って来る。』(ヨハネ12:18)イエスの代わりに、私たちの内におられる聖霊は、また御父の御心をも、私たちに教えてくださいます。私たちは、私たちの願いによってはこの世に生まれてはいません。ある人は、生まれてから今まで事欠くことなく、安らかに生きてきたかも知れません。しかし、ある人は肉体的にも、精神的にもあまりにも苦しく生きてきたかも知れません。時には死にたいほど絶望した時もあるでしょう。しかし、聖霊が私たちの内におられれば、その聖霊を通して御父の愛と慰めが私たちのところに来ます。この世の中に、私たちが一人ぼっちのように残されたと感じられる時、御父は私たちを息子よ!娘よ!と聖霊を通して呼び掛けてくださいます。私たちは、孤児ではありません。父なる神の御心を持っておられる聖霊が今も私たちの間に一緒におられるからです。 締め括り イエス・キリストはこのように聖霊という助け主が来られるということの予告を通して弟子たちを慰めてくださいました。これは、今の私達においては、すでに聖霊が私たちの内におられるということを意味します。実際に使徒言行録では、聖霊が臨在されたことを証言しています。旧約聖書の聖霊は、特別に選ばれた油注がれた者に許されましたが、しかし、今ではイエスを通して、イエスを信じるすべての人に許される方であります。今日も聖霊は、私たちがイエスを信じるように導いてくださり、御言葉が分かるように教えてくださり、神と隣人を愛するようにさせてくださり、私たちが福音を伝えることが出来るように助けてくださいます。 先週、私たちは『お互いに愛すること』を通して歴史の外におられる神に会えると学びました。聖霊も同じだと思います。私たちが『互いに愛し合うこと』によって、イエス・キリストの新しい戒めを守る時、その愛の中で聖霊はお働きになるでしょう。その愛の中で、父なる神の御心を示してくださり、その愛の中で、イエスの愛を示してくださり、その愛の中で、私たちが主の御業をすることが出来るよう助けてくださるでしょう。私たちの生活の中に聖霊がおられます。この聖霊を通して私たちは、今日も神の御業を代わりに行うことが出来ます。聖霊を通して私たちの内におられ、私たちを祝福してくださるイエスに頼ってまいりましょう。私たちは決して一人ではありません。いつまでも聖霊が私たちと一緒におられるからです。