主はアルファであり、オメガである。

イザヤ書 44章6-8節 (旧1133頁) / ヨハネの黙示録 1章3-8節(新452頁) 今日は2019年の最後の聖日礼拝です。2019年には色々な出来事がありました。そのたびに私達は心配の中で生きなければなりませんでした。それにもかかわらず、すべての教会員がお互いに愛し合い、謙虚に教会に仕えました。確かに恐ろしいことも沢山ありましたが、それでも、喜びの中で今年の終わりを迎えています。今まで私たちを守ってくださり、共に歩んでくださった神様に感謝と賛美をお捧げいたします。このすべての恵みが神から来たことを信じます。 1.苦難の中でも、神の御言葉が共にあります。 ヨハネの黙示録は確かに解釈が難しい聖書の一つです。殆どの言葉が象徴的に記されており、それが何を意味するのかは牧師にも難しいほどです。しかし、黙示録の中心的な内容はとても簡単です。『この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。』(黙示録1:3)神の言葉を知ろうとする者、その言葉を守ろうとする者は、幸いな者、つまり神に祝福を受けるという意味です。ここでの祝福とは、お金持ちになったり、名誉を得たりすることとは、違う祝福です。これは、神様に選ばれ、神のお守りと愛を受けて生きていく霊的な祝福を意味します。神の民が主の言葉に聞き従い、その御言葉通り生きるとき、神はその民を守ってくださるのです。 ヨハネの黙示録が記録された時期は、西暦.95年頃です。当時、ローマの皇帝はドミティアヌスでした。彼は有名な独裁者でした。暴政をしきながら、自分を主であり、神であると呼ばせた者です。ただイエス・キリストだけを主と、また神として認め、仕えたキリスト者たちを残虐に殺した者です。その時、苦難を受けたキリスト者に慰めと希望を与えるために使徒ヨハネを通してくださった言葉が、まさにこの黙示録であります。イエス・キリストが復活され、父なる神様の右に座し、助け主、聖霊もキリスト者と共におられましたが、キリスト者は依然として迫害と軽蔑から自由ではありませんでした。むしろ神を深く信じれば信じるほどキリスト者は、さらに苦しくて辛い生活をしなければなりませんでした。大勢の人々が信仰を告白したため、円形闘技場で剣闘士や獅子に引き裂かれ死ななければなりませんでした。しかし、キリスト者は、主の御言葉に頼り、そのような世に立ち向かって生きました。主の御言葉は死と恐怖を圧倒する力を持っていたからです。 私たちがこの世に生まれ、生きていく間、肉体を持っている間、苦難はいつも私たちと共にあります。時々大きな罪を犯さなかったにも拘わらず、神の呪いのような苦難を経験したり、真面目に生きて来たにも拘わらず、大きな事故に遭ったりすることもあります。時には他の人を苦しめて、自分自身だけのために生きる人々が、より豊かに生きることもあります。理不尽なことが盛んであり、世の中に不法が蔓延っています。しかし、今日、聖書を通して主は言われました。 『記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。』現在の状況と、世の理不尽への心配と不安に挫折するより、それにも拘わらず、変わらない神の言葉を守り、主を信頼する者は幸いです。永遠にあるような不条理の終わりには、神様の恐ろしい裁きがあるからです。その時は、すぐ到来します。終わりの日、悪は裁かれますが、キリスト者は生の中で感じたすべての苦難と辛さを、神様に報いていただくでしょう。私たちは、その日が来るまで、信仰を守って生きていくでしょう。神の言葉が私たちの中にあり、常に力と勇気と希望を与えるからです。 2.恵みと平安の神が私たちを導いてくださいます。 新しい一年を考えると、期待されると共に恐れが生じることもあります。来年の今ごろ、私はどのように生きているか?果たして来年の今頃、私はこの地上にいるか?韓国では、こんな言葉があります。 『来る順番はあるけれど、行く順番はない。』 たぶん、日本にも類語があると思います。明日、何が起こるか、一週間の間に何が起こるか、到底分からない人生の漠然さを言う慣用語です。明日、急に神様が私たちを召されれば、私たちは、主の御前に行かなければなりません。私たちが、一日一日を生きていくことは、私たちの生命力が強いからではありません。神様が毎日毎日、私たちの命の延長を許してくださるからです。果たして来年のクリスマス、私はどのようになっているでしょうか?生きてはいるでしょうか?死を考えると、本当に怖いです。もちろん、神のみもとに行くという信仰はありますが、残された人々の悲しみがさらに恐ろしいからです。 12月15日、事故当時、私の車は10メートルくらい押され、車はだめになってしまいました。その日は、皆さんに心配かけないように冗談で『車が衝突する際に一番先に思い起こされたのが、修理費の心配でした。』と言いましたが、実際には『ああ、これが事故か?このまま死ぬのか?』という思いでした。もし私が神様に召されれば、どうなるでしょうか?志免教会は再び無牧教会に立ち戻り、昨年結婚した妻は、寡婦になり、両親は悲しみで一日一日を過ごすでしょう。皆さんも悲しい心でお過ごしになるでしょう。しかし、神様はまだ私を召されませんでした。幸いなことに、事故は膝の打撲傷で終わり、他には僅かな痛みは残っていますが、ほとんど治ってきているようです。当日は事故現場から教会まで歩いて戻り、冗談まで話すことが出来ましたので、神様にどれだけ感謝すべきでしょうか。私はまだ日本で果たすべき使命が残っているので、神様が私を生かしてくださったと思います。 神は主から頂いた使命を果たさせるために、ご自分の民を生かしてくださり、一日一日を導いてくださいます。ですので、私たちは一歩一歩を導かれる神の愛と恵みに感謝せざるを得ません。黙示録が記された時代、多くのキリスト者は死んで行きましたが、それにも拘わらず、主の教会は生き残って迫害と苦難とを逞しく乗り越えて福音を宣べ伝えました。神様は苦難の中でも恵みと平安を持って、主の教会を導いてくださったのです。『今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。』(黙示録1:4-5)この世は恐ろしい所です。しかし、私たちは使命を達成することが出来るように命を保たせてくださる主と共に輝かしい勝利を収めることが出来ます。永遠におられる父なる神様と、完全数、七つとして表現された完全な聖霊と、世の王たちを治めるイエス・キリストが私たちを見捨てられず、永遠に一緒に歩んでくださるからです。 3.神はアルファであり、オメガであるからです。 なぜ、キリスト者が苦難の中に、また死の中に生きていくときにも、神は私たちの命を守り、最後まで生き残らせ、使命を果たすことが出来るように導いてくださるでしょうか?それは、主がアルファであり、オメガであるからです。つまり、主は万物の始まりであり、すべてのものの最後であられるからです。 『神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。私はアルファであり、オメガである。』(黙示録1:8)ギリシャ語で『初め』という言葉、『アルケー』は『開始』という意味と同時に『起源、根本』という意味をも持っています。ですので、ギリシャ語に翻訳された旧約聖書の創世記1章1節では『初め』を『アルケー』と記しています。また、ギリシャ語で『終わり』という言葉は、『テロス』と言いますが、これは『終わり』という意味と同時に、『すべての目標を完成する。』という意味をも持っています。つまり、アルファとオメガという言葉は、創造から終末までを意味するものであり、創造と終末が持っている永遠さと無限さの主が神様であることを古代ギリシャ風に示したものです。 聖書はこれを旧約でも強調しています。 『イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。』(イザヤ44章6節)イザヤ書は1-39章、40-55章、56 -66章の三つの部分に分けられています。三つは記録された時期が、それぞれ異なります。特に40-55章の部分は偶像崇拝、悪行などにより神に捨てられ、バビロンに捕えられたイスラエル民族が、神様によって70年ぶりに解き放され、神様に再び機会を頂いた時、宣言された希望の託宣です。当時、バビロンは強い国でしたが、さらに強力なペルシャに滅ぼされました。しかし、あの強力なペルシャさえ、神の御手に操られました。 『ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。 』 (歴代誌下36:23) 天地万物の始まりと終わりである神は、どんな強力な存在でも逆らうことが出来ない偉大な方です。巨大なペルシャの皇帝キュロスさえも、神のご命令の前では、取るに足らない被造物に過ぎませんでした。神は王の中の王であり、神の中の神でいらっしゃるからです。ところで、この大いなる神は今日の御言葉で、イエス・キリストを通して小さくて力のない民を選ばれ、罪から解き放し、彼らを王として、父である神に仕える祭司として生きさせてくださると約束されました。これは大いなる神が小さな民をお選びくださり、彼らのアルファとオメガになられ、最後まで一緒におられるという意味です。キリスト者が出会う苦難と死は、キリスト者自らの力では勝つことの出来ない恐ろしい存在です。しかし、その苦難と死さえも、神の御手の中にあることを信じれば、我々はそれらをもう恐れる必要がないでしょう。むしろ私たちが苦難と死の間にいても、主はその苦難と死の道で、私たちと共におられるからです。 締め括り 今年の終わりが近づいています。今年、本当にたくさんの出来事がありました。しかし、私たちは無事に年末を迎えることが出来ました。このことについて考えてみると、神の恵みではなかったことが何かあっただろうかと、感謝せざるを得ません。我らの心配と不安の中で一緒にいてくださった主が私たちを助けてくださり、無事な終わりを許してくださいました。もちろん、まだ我々の中に未解決の苦難と心配が残っているかも知れません。しかし、アルファであり、オメガである主は、依然として皆さんの苦難と心配の中におられます。 『私は、あなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。』(ヨハネ14:18)イエスは明らかに私たちを孤児のようには捨てておかないと約束されました。この約束は、私たちが神に召される、その日まで続くものでしょう。今年の終わりを迎え、今まで私たちをお助けくださった神に感謝しましょう。そして、2020年、新しい年も、共にいてくださる主を喜びましょう。年越しも健康に過ごされ、来年も幸せな夢を抱いて、神様と一緒に歩いていきましょう。皆さんに父なる神、主イエス・キリスト、聖霊の愛と平安が常に共にあることを祈り願います。