神と教会の協力。

出エジプト記7章1~7節(旧103頁) マタイによる福音書16章19節(新32頁) 前置き ヤコブの息子ヨセフがエジプト帝国の総理だった時代、ヤコブの家族(イスラエル)は大飢饉を避けてエジプトに入ることになります。最初70人余りだったイスラエルの家族は、主の恵みにより約400年間数十万以上の民族に成長しました。しかし、その間、エジプトの王朝が変わり、一時、総理の民族だったイスラエルは、エジプトの新しい王朝によって奴隷民族に成り果ててしまいました。彼らは毎日重労働の中でうめき声を上げました。そして、彼らのうめき声と嘆きがクライマックスに達した時、神はイスラエルを憶え、救おうと決心されました。そこで、神はイスラエルの救いのために一人を呼び出されますが、彼はモーセでした。最初、モーセは神のお呼び出しを断りましたが、結局、神のご意志に服従し、エジプトに行くことになりました。そして、ファラオの前に立ち、神からのイスラエル解放の命令を告げ知らせます。しかし、モーセはファラオに見事に断られ、追い出されることになります。それだけでなく、モーセによってイスラエルの労働はさらに加えられ、イスラエルはモーセを恨むようになります。そしてモーセもその結果に失望し、神に嘆きます。すると、主なる神は必ずイスラエルを解放し、モーセを助けると約束されます。 1.慰めてくださる神。 今日は、イスラエル解放のための神の新しい御業の始まりである7章から話してみたいと思います。「主はモーセに言われた。見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。」(出7:1-2) 神は、挫折したモーセに「あなたをファラオに対して神の代わりとする。」と言われました。新共同訳聖書には「神の代わりとする」と書いてあるのですが、原文や英語の聖書から見ると「ファラオに対して必ず神のようにする。」という意味になります。今はたとえファラオに追い出され、無力感を憶えるモーセだとしても、神は必ずモーセをファラオに優れた者に立てて、用いられるという約束です。ファラオは自らがエジプトの神であると自負する存在でしたが、神はそのファラオを屈服させる大きな権威をモーセに与え、用いられると約束されたのです。モーセは前の5章で、このように言いました。 「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」(出 5:22-23) モーセは神を恨むニュアンスで抗議しましたが、主はモーセの心を知り、彼を慰め、再び立ち上がることができるようにお励ましと約束をくださいました。私たちは「神を絶対に恨んではならず、いつも丁寧に接しなければならない」と考え、神を自分と遠い存在として距離感を置いているかもしれません。もちろん、絶対者と被造物の間の徹底した規律は確かに必要です。しかし、神は恨みや嘆きを抱いている者にむやみに罰を与える方、彼らを見捨てる厳しさだけの方ではありません。神は絶対者でありながら、私たちの父でもある方です。辛くて悲しい時に、私たちは父なる神に嘆き悲しんで祈ることができます。その嘆きをお聴きになる神は、私たちに無礼だと罰を与えられず、私たちの悩みと痛みを聴き、分かり、慰めてくださり、また別の道を親切に教えてくださるお父さまなのです。7章が始まってから、神はまずモーセを慰めてくださいました。そして、彼に親切に新しい道を教えてくださいます。神は慰めてくださる方です。そして、希望を与えてくださる方です。私たちはその神が私たちと共におられ、わたしたちの父であることを忘れてはなりません。 2.協力者をくださる神。 「あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが…ファラオに語るであろう。」神はモーセの兄アロンが、モーセと一緒に活言われました。モーセ一人で孤独な戦いをするわけではなく、協力者が共に働くと言われたのです。ここで、私たちはキリスト教の大事な価値観について学ぶことができます。それは、主からいただく使命は一人ではなく、神による協力者と共に成し遂げていくべきであるということです。神は絶対に一人のキリスト者だけに多くの務めをお委ねになる方ではありません。キリストのもとで兄弟姉妹となった、すべての者が一緒に協力して、主にいただいた務めを全うしていくのです。私たちはキリストが教会の頭であり、私たちはその肢であることをよく知っています。そして、主はキリストにあって、肢と肢が互いに助け合い、愛し合い、協力し合うことを望んでおられます。一人の兄弟が弱くなると、他の兄弟姉妹が弱くなった兄弟を助け、また別の姉妹が困難にあうと、他の兄弟姉妹が祈りと助けで回復できるように助けていくのです。そのような助けと協力の中で、教会は一つになり、一緒に建てられていくのです。 そういうわけで、主は教会を建てられ、民を呼び出されたのです。長老派である日本キリスト教会には小会があります。しかし、小会員が他の兄弟姉妹より大きい権威を持っているわけではありません。牧師、長老、執事、そして教会のすべての兄弟姉妹がキリストの御名のもとで互いに協力しあって主の教会を健全に建てていくのです。小会員は奉仕のための務めに過ぎず、兄弟姉妹みんなが同じように神の民として召されていることを憶えてください。そして今日の説教のタイトルのように、主ご自身も民たちと協力してくださる方です。もちろん、主おひとりですべてを成し遂げることができます。  とりわけ、罪人の救いに限っては神は人間と絶対ご協力なさいません。しかし、主は民の生活においては、私たちをご自分の手と足と召され、主と一つになった体として、この世に仕えていくようになさいます。十数年前、ある牧師が私にこんな質問をしました。「私たちはキリストをどのように見ることができますか?」その質問の答えは次のようでした。「主は、ご自分の体なる教会を通してご自分のことを表されます。」主は全能者であるにもかかわらず、ご自分の民の人生を通してご自分のことを表されます。そのため、主は自ら弱い民と一つになってくださり、民と協力して教会を成していかれるのです。つまり、教会は偉大な主が私たちのような罪人を主の協力者として呼んでくださった栄光の証拠なのです。その光栄を私たちは忘れてはなりません。 3.教会は神の協力者。 「ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。」(出7:4-6) 神はモーセを慰め、アロンと一緒に再びファラオに行くことを命じられました。そして二人は神の御言葉に聞き従い、再びファラオのところに行きます。神はこのように失望した者、挫折した者、躓きの者、傷ついた者を、そのまま放っておかれず、引き起こされ、再び進んでいく力をくださる方です。そして、その弱い民を用いて、主の権能を見せてくださる方です。神はご自分の御手を下してお裁きになる方ですが、その裁きを下されるまで、ご自分の民を通して、この世に介入されます。何の予告も、機会も与えず、むやみに裁かれるのではなく、ご自分の民の口と手と足によって、神の御言葉を伝えさせられるのです。まず教会を世の中に遣わされて神の御言葉を告げ知らせるようになさった後、御言葉通りに救いと裁きを下されるわけです。神はこのように教会をご自分の協力者として先に遣わされ、お働きになる方です。 私たちは、それぞれ異なる経緯で、キリストに出会い。主の民となったのですが、今では同じ志免教会に集って、主の肢となっています。 私たちは皆弱い存在ですが、主は私たち一人一人を召され、キリストの体として、この世に遣わされたのです。主は私たちの口と手と足を用いられ、主の御言葉を宣べ伝えさせられます。私たちには資格がありませんが、それにもかかわらず、キリストは、ご自分の体という資格を与えて主の御言葉を代わりに伝えるようになさるのです。ですから、私たち志免教会は神の協力者です。これは私たちの光栄なのです。私たちが主の御言葉を伝えなければ、私たちの隣人は御言葉を聞くことができず、私たちが神の御言葉を伝えれば、私たちの隣人は私たちによって、御言葉を聞くようになります。ですから、私たちは神の大事な協力者なのです。この世はやがてキリストが再臨する時に裁きを受けることになるでしょう。私たちの誰も神の御言葉を伝えなければ、私たちの近所の人々は、御言葉を聞く機会を失い、みじめに裁きを受けることになるでしょう。しかし、私たちが伝えた主の御言葉を聞けば、悔い改める機会を得るようになるでしょう。だから、私たちは御言葉を宣べ伝える主の大事な協力者なのです。私たちの伝道によって隣人に御言葉が伝わり、私たちの奉仕によって、隣人に主の愛が伝わるのです。だから、教会は主の大事な協力者であるのです。 締め括り 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19) 今日の説教を準備しながら思い出した新約聖書の言葉です。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した時、イエスは彼にこのように言われたのです。プロテスタント教会は、この言葉が、当時ペトロを中心とする新約の教会への言葉と解釈し、教会の権威を表す御言葉だと思っています。神は教会に主と共に働く栄光をくださいました。そして、今日も教会の活動を通して、この世にキリストの恵みと愛とを宣べ伝えることを望んでおられます。したがって、私たちは自らが神の大事な協力者であるというプライドを持って生きるべきです。主なる神はご自分ですべてのことを成し遂げることが出来る方ですが、わざわざ、主の民である教会に主の協力者としての栄光の資格をくださったのです。今日の本文で、神がモーセを主のメッセンジャーとして用いられたように、私たちの教会もまたこの時代のモーセのように神に用いられているということを憶えましょう。主の協力者として、この地域のために祈り、福音を宣べ伝える、大事な志免教会になることを祈り願います。父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。