血の花婿

出エジプト記4章18~31節(旧99頁) マタイによる福音書10章34~39節(新19頁) 1. モーセの杖が神の杖となった。 「主はミディアンでモーセに言われた。さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」(出4:19-20) 神のご命令に説伏されたモーセは家族を連れてエジプトへ向かうことになります。神はエジプト行きを恐れるモーセに「あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」と安心させてくださいました。そして、モーセは家族を連れて、また自分の杖を携えてエジプトに向かいます。ところで、今日の本文にはこの杖が「神の杖」と記されています。この杖は神が特別にモーセにくださったものではなく、もともとモーセが普段羊を飼うために使っていたモーセの手慣れの物でした。しかし4章の序盤に出てくる「杖が蛇に変わった出来事」以来、この杖は、神の杖と呼ばれるようになったのです。杖はイスラエル人にとってとても馴染みのある羊飼いの道具です。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、杖を使って牧畜をしたでしょう。そしてモーセ自身もミディアンで40年近く、この杖を使ってきたはずです。つまり、杖はモーセの日常を象徴する道具だったのです。 その日常の杖が、モーセの神との出会い以来、神の杖となったわけです。今後、モーセは、この杖を用いて神による奇跡を起こし、ファラオを屈服させるようになるでしょう。宗教改革者ジャン・カルヴァンは「万人祭司説」という概念を唱えました。ジャン・カルヴァンは聖職者だけが特別な存在ではなく、主の民なら、誰もが神の御前で「祭司」としての招かれたと語りました。つまり、牧師や長老だけが現代の祭司ではなく、主の民皆がキリストにあって神に献身した霊的な祭司であるということです。ですから、私たちの日常は、祭司の日常である礼拝です。モーセには日常の道具として杖が与えられました。そして、その杖は神の道具として用いられるようになったのです。私たちにも、それぞれの日常の道具、日常の仕事があります。そして、私たちの日常は神に捧げられたもの、つまり神のものなのです。したがって、私たちの人生はモーセの杖のように神の道具として使われるべきです。私たちの口が神の道具です。隣人を慰め、励ます神の道具です。私たちの手と足が神の道具です。教会と社会に仕える主の道具です。 2. わたしが彼の心をかたくなにする。 「主はモーセに言われた。エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。」(出4:21) 私たちは「神は全能であり、すべてをご自分の御心のままにする方である」という言葉を説教などを通して、よく耳にします。あるいは「世のすべてが神によって計画されている。」という言葉も耳にします。そんな時、誰かはこんな考えをしたことがあるかもしれません。「神は悪事も計画されるということか?」全能な方、すべてを導かれる方、すべてを計画される方なら、人間は操り人形であり、神が良い事も悪い事も、全てご計画なさるだろうか? 今日の本文にも、そのように誤解しやすい表現があります。「わたしが彼の心をかたくなにする」です。イスラエルをエジプトから解放させてくださるためには、ファラオの心を柔らかにし、むしろ神の御言葉に聞き従わせるべきなのに、なぜ、神は「彼の心をかたくなにする」と言われたのでしょうか? 神が人に悪を行わせ、罪を犯させるということでしょうか? 明らかにそれは違うと思います。では、「わたしが彼の心をかたくなにする」という言葉をどういう意味なのでしょうか。 「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:13-15) 私たちは新約聖書のヤコブの手紙から、小さなヒントを得ることができます。神は誰も誘惑されない方です。誰にも罪を犯させない方です。人が誘惑され、罪を犯してしまうことは、結局、自分の欲望と罪に惑わされる結果です。つまり、罪人は自分の悪によって罪を犯すということです。ファラオは自分の悪によって神に逆らい続けます。そして神は悔い改めない罪人であるファラオの罪を傍観されます。悔い改めは、神の民のみに許される特別な恩寵であります。したがって、神がファラオの心をかたくなにするという言葉は、ファラオに悔い改める機会を与えずに彼が自分の罪の中で滅んでしまうように放っておかれるという意味になります。だから、神の傍観は裁きのまた一つの名前なのです。神の 聖霊が共に歩んでくださらなければ、まことの悔い改めはありません。自分の罪を悔い改めないことは、神の民でない人の特徴です。私たちは常に悔い改める存在ですか? 悔い改めは、私たちが神の民であるかどうかを判断する大事な基準です。 3. 血の花婿。 最後に、血の花婿について考えてみましょう。「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、わたしにとって、あなたは血の花婿ですと叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに『血の花婿』と言ったのである。」(出4:24-26) 以上の言葉はとても難解な箇所であるため、明確に解釈ができないと言われます。そこで、いくつかの資料をもとにまとめて考えてみましょう。まず、血の花婿とは、出エジプト記の記録当時に使われていた表現と思われ、現代的な表現ではないと思います。直訳すると、まるでスリラー映画のタイトルみたいになってしまうのですが、意訳をすると「血を見させる夫」と言い換えることができるでしょう。なぜ、モーセの妻はモーセを「血を見させる夫」と言ったのでしょうか? おそらく、それは「割礼」の問題のためだったと思います。一部の学者は、モーセが幼い頃にまともなイスラエル式の割礼を受けなかったと推測しています。また、ミディアンで生まれたモーセの息子たちもミディアンの風習に従ってしまい「神がお定めになった割礼」を受けなかったと思います。さて、創世記はこう語っています。「 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」(創17:10-11) つまり、割礼は、神の民に与えられた絶対に守らなければならない義務であり、主の民の契約のしるしです。たとえ、モーセが神に選ばれた預言者だとしても、神との契約のしるし(割礼)が正しくなっていなければ、彼は神に裁かれるのです。なのに、モーセは自分の無知によって神との契約、つまり割礼を正しく守っていなかったわけです。神の民は神との正しい契約(関係)に立っていなければなりません。旧約において、その正しい契約とは、正しい割礼に表されていました。そして、新約時代には、割礼が廃止され、その代わりに「イエス・キリストへの信仰告白」になったのです。キリストへの確かな信仰告白と確信なしに教会に通うだけなら、まことの神の民にはなれません。50年以上を教会に通ってきたといっても、キリストを自分の主として確信できなければ、私たちはまるで、本文の割礼を受けていないモーセとモーセの息子たちのようになってしまうでしょう。そして、私たちは神の裁きを避けられず、自分の罪によって滅びてしまうでしょう。それにより、私たちの家族も神の裁きを目撃することになるでしょう。私たちは皆、血の夫、血の妻、血の親戚、血の家族になり得る存在です。誰からなんと言われても、私自身は神との関係を正しく確立し、キリストへの確実な信仰告白をしなければなりません。そして、最終的にキリストを伝えるようにならなければなりません。私たちが神との関係を明確にしなければ、私たちの家族にも主の祝福は伝われないからです。 締め括り 新約聖書にこんな言葉があります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(マタイ10:34-36) この言葉はイエスが、わざと家族の仲を悪くさせるという意味ではありません。信仰を保つために家族との関係が難しくなる可能性があるという意味です。最後まで主への信仰を守るか、家族のために信仰を諦めてしまうかということです。家族の反応のため、信仰や福音に消極的な方がいらっしゃると思います。家族への伝道が難しいことは理解します。しかし、自分の信仰まで捨てるのは、愚かなことです。私たちが信仰を捨てると、私たちの霊的な割礼はないものになってしまいます。そして、私たちのその選びによって、私たちの家族への神の祝福の通り道もなくなってしまいます。つまり、私たちの家族は、私たちの信仰の諦めによって神との一抹の関係が途絶え、血を見る(神との関係が完全になくなる)ことになってしまうでしょう。神は私たちを通して、私たちの家族に祝福を与えてくださるからです。したがって、私自身が「血の夫、血の妻、血の息子、血の娘、血の家族」にならないためにも、私たちは信仰を守らなければなりません。何があっても信仰を諦めないでください。 そして、家族への伝道も諦めないでください。キリストは私たちを通して、私たちの家族に救いの機会を与えてくださるからです。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。