光の子としての生き方
イザヤ書60章 1~2節(旧1159頁) エフェソの信徒への手紙5章1~21節(新357頁) 前置き 前回の説教で、何度も申し上げましたように、エフェソ書は、使徒パウロが小アジア地域(トルコ地域)の自分によって開拓されたエフェソ教会に寄せた手紙です。前半の1-3章にはキリストの福音ついての神学的な教えが記してあり、また、後半の4-6章には、その神学的な教えに伴う信徒の実践的な生き方についての教えが記してあります。私たちは前半の教えを通じて「主なる神が天地創造の前から、ご自分の民をあらかじめお選びになり、キリストを通して救ってくださり、キリストが頭となる教会としてお呼び出しくださった。」という神学的な知識を得るようになりました。そして、後半では、その神に選ばれ、救われ、教会に召された私たちが、この世でどう生きるべきか(実際の生活/生き方)について学びます。したがって、今日の5章の言葉もキリスト者の生活についてのパウロの教えだと言えます。今日の本文より、私たちはどのような教訓を得ることができますでしょうか? 一緒に考えてみたいと思います。 1.神に倣う者=愛によって歩む者。 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1-2) パウロはエフェソ教会の兄弟姉妹たちが神に倣う人生を生きることを勧めます。そして、そのような生き方を「愛によって歩むこと」と語ります。使徒パウロはエフェソ書4章1節で、エフェソ教会の信徒たちに「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。」と言いました。また続いて2節と3節では「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」とも語りました。私はここで「愛」という言葉に注目したいと思います。別の箇所ですが、使徒パウロは、第1コリント13章で次のように語りました。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13) 私たちはこの言葉を読む時、信仰、希望、愛というものが別々であり、その中で愛がもっとも優れたものであると誤解しがちです。しかし、それは翻訳による誤解です。これは愛だけが優れているという意味ではなく、三つとも大事だが、その中で愛が一番基礎であるという意味です。 つまり、愛がなければ、信仰も虚しくなり、希望もただの欲望に過ぎなくなってしまうということです。したがって、キリスト者にとって「愛」は、私たちの信仰と希望を完全にする信仰生活の土台のようなものです。だから、神に倣う人生とは、愛をもって生きる人生であるのです。私たちが主と崇める三位一体なる神は、愛という関係の中で、世界を創造され、人間を造られ、歴史を導かれ、罪人を救ってくださいました。御父、御子、御霊が愛という関係にあって協力され、一つになられ、この世を支配しておられるということです。それと同じようにイエス·キリストも愛によって主の教会を立てられ、保たせていかれます。三位一体なる神が愛の関係によって結ばれ、お独りの神としておられることと同じように、教会もキリストの愛のもとで、キリストと結ばれた主の体として一つであるのです。主イエスのもとで一つとなった志免教会の兄弟姉妹の関係も、この愛に基づくものです。したがって、愛はキリスト者の人生の最も基礎となる大事なものです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(1コリント13:4-7) 神に倣う者、キリスト者なら、この愛の実践によって、自分が神の子供であることを証明しなければならなりません。神は愛そのものでおられるからです。 2.キリスト者は光の子である。 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」(エフェソ5:8-9) 神に倣う人生が、すなわち愛をもって生きる人生であるということを語ったパウロは、引き続き、キリスト者は光の子であると語ります。そして光の子にふさわしく生きることを勧めます。その生き方とは、光から生じる、あらゆる善意と正義と真実のある人生なのです。パウロは光の子となる前の人間は「暗闇」だったと語ります。この光の子と暗闇についてのパウロの話を聞くと、ふと、ヨハネによる福音書の1章5節の言葉が思い出されます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」ヨハネ福音書は、初めに神の御言葉があり、その御言葉の内に生命の光があったと語りました。そして、その光が暗闇に照らされても、暗闇は光を理解しなかったと言います。ここで御言葉とはキリストのことであり、キリストの御言葉によって、この世に生命の光が照らされたという意味です。しかし、この世の罪と悪に支配されている人々、すなわち暗闇に属した罪人たちはイエスの御言葉を聞いても理解が出来ないということです。光と暗闇は両立できないからです。キリストの救いによって罪と悪の支配から抜け出し、主のものとなった人は、これ以上暗闇に属さず、光に属した者であり、主の御言葉に反応することが出来るようになるのです。 もし、通りすがりの人に「あなたには暗闇と罪がないか」と問うたら、どうなるでしょうか。彼が真のキリスト者なら、自分の暗闇と罪を認め、しかし、主イエスによって清められたと言うでしょう。しかし、キリスト者でなければ、彼は自分には何の暗闇も罪もないと言い返すでしょう。暗闇に属した人は、自分の暗闇を認められません。しかし光に属した者、すなわちキリストによって光の子となった人は、真の光である神の御言葉を受け入れます。だからこそ、聖書に記してある神の御言葉に基づき、自分が罪人であることを認めるというわけです。私たちは神の御言葉であるキリストによって、私たち自身がどんな惨めな存在だったのかを知る知恵の光を、自分の罪を顧みる悔い改めの光を、神の御言葉が聞き取れる悟りの光を得た存在です。世の人々は決して気づくことも、悟ることもできないキリストによる霊的な知識が、光である主イエスの御言葉を通じて、私たちに来るのです。光が暗闇の中で輝いても、暗闇は光を理解しなかったですが、今や光の子と呼ばれるようになった私たちは、神の御言葉の光によって、自分の罪について、神の恵みについて、理解するようになったのです。ですから、私たちはもう光の子として生きるしかありません。3-5節に記された「みだらなこと、いろいろの汚れたこと、貪欲なこと、卑わいな言葉、愚かな話、下品な冗談」は私たちの生活においてはあり得ません。みだらな者、汚れた者、また貪欲な者としての生き方に違和感を覚えるようになります。それらは、光の子にはふさわしくない、暗闇に属した偶像崇拝者の生き方だからです。 3.光の子としての生き方。 「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:11,15,17) したがってエフェソ書は私たちに勧めます。「光に属した者として光の実を結び、知恵をいただいた者として主の御心が何であるかを悟って生きなさい。」キリスト教は「死後、天国に入るための宗教」ではありません。私たちはこれを間違えてはなりません。ここ5年間、私が志免教会に来てから、皆さんに何度もお話しました。私たちが天国に入ることは、いわば「おまけ」です。来世の天国が信仰の目標ではありません。私たちの人生の目標は「キリストと共に生きること」です。キリストと共に生きるために、父なる神はキリストを遣わされ、私たちを救ってくださったのです。つまり、今日の御言葉のように、神に倣った光の子として、常にキリストと共に生きさせるために、神は、イエス・キリストを十字架のいけにえとされ、私たちをお呼び出しくださいました。それがまさに私たちの救いなのです。そして、そのおまけとして私たちは死んでも天国で主と共に生きることになり、将来キリストが再臨される時に栄光の姿で復活することになるのです。したがって最も大事なことは、光の子として「主イエスと共に生きること」なのです。 この話をしていると、また、もう一人の使徒であるペトロの教えが思い出されます。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」(1ペトロ4:3) ペトロは暗闇の生き方は、かつてキリスト者になる前のことで、十分だと語りました。今やキリストの救いによって、神の子、光の子となった私たちは、昔の人生を踏襲してはいけません。もちろん、私たちの罪により、昔の生き方から完全に自由になるのは難しいです。しかし、だからこそ、主は悔い改めの機会を毎日毎日与えてくださるのです。光の子なら、その名にふさわしく生きるべきです。失敗したらまた悔い改めて、やり直せばいいです。キリストがその血潮を流し、私たちを救ってくださった理由を覚えて生きましょう。憎しみよりは愛を、欲望よりは清潔を、愚かな言葉よりは感謝の言葉を追い求め、神に倣っていく人生のために頑張っていきましょう。主の御言葉に聞き従って光の道を歩みつつ神に倣っていく私たちであることを祈ります。 締め括り 最後に、今日の旧約本文であるイザヤ書60章1-2節を読んで説教を終えたいと思います。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」私たちが生きる、この世界は暗闇に満ちています。しかし、私たちは真の光であるキリストによって、暗闇の道から出て、光の道に入っています。ですから、これ以上暗闇に属した人生を送らないように自らの生き方を吟味し、正しい方向に進んでいくために主に祈りつつ助けを求めましょう。起きましょう。そして光を放ちましょう。主の栄光が主イエス·キリストによって私たちの上に輝いています。 暗闇に照らされた神の栄光を憶え、その方の子供にふさわしく生きていきましょう。 キリスト・イエスが今日も私たちをその道に導いてくださるために神と私たちの間で執り成しておられます。光の子として光の人生を生きていく私たちであることを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。