光の子としての生き方

イザヤ書60章 1~2節(旧1159頁) エフェソの信徒への手紙5章1~21節(新357頁) 前置き 前回の説教で、何度も申し上げましたように、エフェソ書は、使徒パウロが小アジア地域(トルコ地域)の自分によって開拓されたエフェソ教会に寄せた手紙です。前半の1-3章にはキリストの福音ついての神学的な教えが記してあり、また、後半の4-6章には、その神学的な教えに伴う信徒の実践的な生き方についての教えが記してあります。私たちは前半の教えを通じて「主なる神が天地創造の前から、ご自分の民をあらかじめお選びになり、キリストを通して救ってくださり、キリストが頭となる教会としてお呼び出しくださった。」という神学的な知識を得るようになりました。そして、後半では、その神に選ばれ、救われ、教会に召された私たちが、この世でどう生きるべきか(実際の生活/生き方)について学びます。したがって、今日の5章の言葉もキリスト者の生活についてのパウロの教えだと言えます。今日の本文より、私たちはどのような教訓を得ることができますでしょうか? 一緒に考えてみたいと思います。 1.神に倣う者=愛によって歩む者。 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1-2) パウロはエフェソ教会の兄弟姉妹たちが神に倣う人生を生きることを勧めます。そして、そのような生き方を「愛によって歩むこと」と語ります。使徒パウロはエフェソ書4章1節で、エフェソ教会の信徒たちに「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい。」と言いました。また続いて2節と3節では「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」とも語りました。私はここで「愛」という言葉に注目したいと思います。別の箇所ですが、使徒パウロは、第1コリント13章で次のように語りました。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13) 私たちはこの言葉を読む時、信仰、希望、愛というものが別々であり、その中で愛がもっとも優れたものであると誤解しがちです。しかし、それは翻訳による誤解です。これは愛だけが優れているという意味ではなく、三つとも大事だが、その中で愛が一番基礎であるという意味です。 つまり、愛がなければ、信仰も虚しくなり、希望もただの欲望に過ぎなくなってしまうということです。したがって、キリスト者にとって「愛」は、私たちの信仰と希望を完全にする信仰生活の土台のようなものです。だから、神に倣う人生とは、愛をもって生きる人生であるのです。私たちが主と崇める三位一体なる神は、愛という関係の中で、世界を創造され、人間を造られ、歴史を導かれ、罪人を救ってくださいました。御父、御子、御霊が愛という関係にあって協力され、一つになられ、この世を支配しておられるということです。それと同じようにイエス·キリストも愛によって主の教会を立てられ、保たせていかれます。三位一体なる神が愛の関係によって結ばれ、お独りの神としておられることと同じように、教会もキリストの愛のもとで、キリストと結ばれた主の体として一つであるのです。主イエスのもとで一つとなった志免教会の兄弟姉妹の関係も、この愛に基づくものです。したがって、愛はキリスト者の人生の最も基礎となる大事なものです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(1コリント13:4-7) 神に倣う者、キリスト者なら、この愛の実践によって、自分が神の子供であることを証明しなければならなりません。神は愛そのものでおられるからです。 2.キリスト者は光の子である。 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」(エフェソ5:8-9) 神に倣う人生が、すなわち愛をもって生きる人生であるということを語ったパウロは、引き続き、キリスト者は光の子であると語ります。そして光の子にふさわしく生きることを勧めます。その生き方とは、光から生じる、あらゆる善意と正義と真実のある人生なのです。パウロは光の子となる前の人間は「暗闇」だったと語ります。この光の子と暗闇についてのパウロの話を聞くと、ふと、ヨハネによる福音書の1章5節の言葉が思い出されます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」ヨハネ福音書は、初めに神の御言葉があり、その御言葉の内に生命の光があったと語りました。そして、その光が暗闇に照らされても、暗闇は光を理解しなかったと言います。ここで御言葉とはキリストのことであり、キリストの御言葉によって、この世に生命の光が照らされたという意味です。しかし、この世の罪と悪に支配されている人々、すなわち暗闇に属した罪人たちはイエスの御言葉を聞いても理解が出来ないということです。光と暗闇は両立できないからです。キリストの救いによって罪と悪の支配から抜け出し、主のものとなった人は、これ以上暗闇に属さず、光に属した者であり、主の御言葉に反応することが出来るようになるのです。 もし、通りすがりの人に「あなたには暗闇と罪がないか」と問うたら、どうなるでしょうか。彼が真のキリスト者なら、自分の暗闇と罪を認め、しかし、主イエスによって清められたと言うでしょう。しかし、キリスト者でなければ、彼は自分には何の暗闇も罪もないと言い返すでしょう。暗闇に属した人は、自分の暗闇を認められません。しかし光に属した者、すなわちキリストによって光の子となった人は、真の光である神の御言葉を受け入れます。だからこそ、聖書に記してある神の御言葉に基づき、自分が罪人であることを認めるというわけです。私たちは神の御言葉であるキリストによって、私たち自身がどんな惨めな存在だったのかを知る知恵の光を、自分の罪を顧みる悔い改めの光を、神の御言葉が聞き取れる悟りの光を得た存在です。世の人々は決して気づくことも、悟ることもできないキリストによる霊的な知識が、光である主イエスの御言葉を通じて、私たちに来るのです。光が暗闇の中で輝いても、暗闇は光を理解しなかったですが、今や光の子と呼ばれるようになった私たちは、神の御言葉の光によって、自分の罪について、神の恵みについて、理解するようになったのです。ですから、私たちはもう光の子として生きるしかありません。3-5節に記された「みだらなこと、いろいろの汚れたこと、貪欲なこと、卑わいな言葉、愚かな話、下品な冗談」は私たちの生活においてはあり得ません。みだらな者、汚れた者、また貪欲な者としての生き方に違和感を覚えるようになります。それらは、光の子にはふさわしくない、暗闇に属した偶像崇拝者の生き方だからです。 3.光の子としての生き方。 「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:11,15,17) したがってエフェソ書は私たちに勧めます。「光に属した者として光の実を結び、知恵をいただいた者として主の御心が何であるかを悟って生きなさい。」キリスト教は「死後、天国に入るための宗教」ではありません。私たちはこれを間違えてはなりません。ここ5年間、私が志免教会に来てから、皆さんに何度もお話しました。私たちが天国に入ることは、いわば「おまけ」です。来世の天国が信仰の目標ではありません。私たちの人生の目標は「キリストと共に生きること」です。キリストと共に生きるために、父なる神はキリストを遣わされ、私たちを救ってくださったのです。つまり、今日の御言葉のように、神に倣った光の子として、常にキリストと共に生きさせるために、神は、イエス・キリストを十字架のいけにえとされ、私たちをお呼び出しくださいました。それがまさに私たちの救いなのです。そして、そのおまけとして私たちは死んでも天国で主と共に生きることになり、将来キリストが再臨される時に栄光の姿で復活することになるのです。したがって最も大事なことは、光の子として「主イエスと共に生きること」なのです。 この話をしていると、また、もう一人の使徒であるペトロの教えが思い出されます。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。」(1ペトロ4:3) ペトロは暗闇の生き方は、かつてキリスト者になる前のことで、十分だと語りました。今やキリストの救いによって、神の子、光の子となった私たちは、昔の人生を踏襲してはいけません。もちろん、私たちの罪により、昔の生き方から完全に自由になるのは難しいです。しかし、だからこそ、主は悔い改めの機会を毎日毎日与えてくださるのです。光の子なら、その名にふさわしく生きるべきです。失敗したらまた悔い改めて、やり直せばいいです。キリストがその血潮を流し、私たちを救ってくださった理由を覚えて生きましょう。憎しみよりは愛を、欲望よりは清潔を、愚かな言葉よりは感謝の言葉を追い求め、神に倣っていく人生のために頑張っていきましょう。主の御言葉に聞き従って光の道を歩みつつ神に倣っていく私たちであることを祈ります。 締め括り 最後に、今日の旧約本文であるイザヤ書60章1-2節を読んで説教を終えたいと思います。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」私たちが生きる、この世界は暗闇に満ちています。しかし、私たちは真の光であるキリストによって、暗闇の道から出て、光の道に入っています。ですから、これ以上暗闇に属した人生を送らないように自らの生き方を吟味し、正しい方向に進んでいくために主に祈りつつ助けを求めましょう。起きましょう。そして光を放ちましょう。主の栄光が主イエス·キリストによって私たちの上に輝いています。 暗闇に照らされた神の栄光を憶え、その方の子供にふさわしく生きていきましょう。 キリスト・イエスが今日も私たちをその道に導いてくださるために神と私たちの間で執り成しておられます。光の子として光の人生を生きていく私たちであることを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

血の花婿

出エジプト記4章18~31節(旧99頁) マタイによる福音書10章34~39節(新19頁) 1. モーセの杖が神の杖となった。 「主はミディアンでモーセに言われた。さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」(出4:19-20) 神のご命令に説伏されたモーセは家族を連れてエジプトへ向かうことになります。神はエジプト行きを恐れるモーセに「あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」と安心させてくださいました。そして、モーセは家族を連れて、また自分の杖を携えてエジプトに向かいます。ところで、今日の本文にはこの杖が「神の杖」と記されています。この杖は神が特別にモーセにくださったものではなく、もともとモーセが普段羊を飼うために使っていたモーセの手慣れの物でした。しかし4章の序盤に出てくる「杖が蛇に変わった出来事」以来、この杖は、神の杖と呼ばれるようになったのです。杖はイスラエル人にとってとても馴染みのある羊飼いの道具です。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、杖を使って牧畜をしたでしょう。そしてモーセ自身もミディアンで40年近く、この杖を使ってきたはずです。つまり、杖はモーセの日常を象徴する道具だったのです。 その日常の杖が、モーセの神との出会い以来、神の杖となったわけです。今後、モーセは、この杖を用いて神による奇跡を起こし、ファラオを屈服させるようになるでしょう。宗教改革者ジャン・カルヴァンは「万人祭司説」という概念を唱えました。ジャン・カルヴァンは聖職者だけが特別な存在ではなく、主の民なら、誰もが神の御前で「祭司」としての招かれたと語りました。つまり、牧師や長老だけが現代の祭司ではなく、主の民皆がキリストにあって神に献身した霊的な祭司であるということです。ですから、私たちの日常は、祭司の日常である礼拝です。モーセには日常の道具として杖が与えられました。そして、その杖は神の道具として用いられるようになったのです。私たちにも、それぞれの日常の道具、日常の仕事があります。そして、私たちの日常は神に捧げられたもの、つまり神のものなのです。したがって、私たちの人生はモーセの杖のように神の道具として使われるべきです。私たちの口が神の道具です。隣人を慰め、励ます神の道具です。私たちの手と足が神の道具です。教会と社会に仕える主の道具です。 2. わたしが彼の心をかたくなにする。 「主はモーセに言われた。エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。」(出4:21) 私たちは「神は全能であり、すべてをご自分の御心のままにする方である」という言葉を説教などを通して、よく耳にします。あるいは「世のすべてが神によって計画されている。」という言葉も耳にします。そんな時、誰かはこんな考えをしたことがあるかもしれません。「神は悪事も計画されるということか?」全能な方、すべてを導かれる方、すべてを計画される方なら、人間は操り人形であり、神が良い事も悪い事も、全てご計画なさるだろうか? 今日の本文にも、そのように誤解しやすい表現があります。「わたしが彼の心をかたくなにする」です。イスラエルをエジプトから解放させてくださるためには、ファラオの心を柔らかにし、むしろ神の御言葉に聞き従わせるべきなのに、なぜ、神は「彼の心をかたくなにする」と言われたのでしょうか? 神が人に悪を行わせ、罪を犯させるということでしょうか? 明らかにそれは違うと思います。では、「わたしが彼の心をかたくなにする」という言葉をどういう意味なのでしょうか。 「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:13-15) 私たちは新約聖書のヤコブの手紙から、小さなヒントを得ることができます。神は誰も誘惑されない方です。誰にも罪を犯させない方です。人が誘惑され、罪を犯してしまうことは、結局、自分の欲望と罪に惑わされる結果です。つまり、罪人は自分の悪によって罪を犯すということです。ファラオは自分の悪によって神に逆らい続けます。そして神は悔い改めない罪人であるファラオの罪を傍観されます。悔い改めは、神の民のみに許される特別な恩寵であります。したがって、神がファラオの心をかたくなにするという言葉は、ファラオに悔い改める機会を与えずに彼が自分の罪の中で滅んでしまうように放っておかれるという意味になります。だから、神の傍観は裁きのまた一つの名前なのです。神の 聖霊が共に歩んでくださらなければ、まことの悔い改めはありません。自分の罪を悔い改めないことは、神の民でない人の特徴です。私たちは常に悔い改める存在ですか? 悔い改めは、私たちが神の民であるかどうかを判断する大事な基準です。 3. 血の花婿。 最後に、血の花婿について考えてみましょう。「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、わたしにとって、あなたは血の花婿ですと叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに『血の花婿』と言ったのである。」(出4:24-26) 以上の言葉はとても難解な箇所であるため、明確に解釈ができないと言われます。そこで、いくつかの資料をもとにまとめて考えてみましょう。まず、血の花婿とは、出エジプト記の記録当時に使われていた表現と思われ、現代的な表現ではないと思います。直訳すると、まるでスリラー映画のタイトルみたいになってしまうのですが、意訳をすると「血を見させる夫」と言い換えることができるでしょう。なぜ、モーセの妻はモーセを「血を見させる夫」と言ったのでしょうか? おそらく、それは「割礼」の問題のためだったと思います。一部の学者は、モーセが幼い頃にまともなイスラエル式の割礼を受けなかったと推測しています。また、ミディアンで生まれたモーセの息子たちもミディアンの風習に従ってしまい「神がお定めになった割礼」を受けなかったと思います。さて、創世記はこう語っています。「 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」(創17:10-11) つまり、割礼は、神の民に与えられた絶対に守らなければならない義務であり、主の民の契約のしるしです。たとえ、モーセが神に選ばれた預言者だとしても、神との契約のしるし(割礼)が正しくなっていなければ、彼は神に裁かれるのです。なのに、モーセは自分の無知によって神との契約、つまり割礼を正しく守っていなかったわけです。神の民は神との正しい契約(関係)に立っていなければなりません。旧約において、その正しい契約とは、正しい割礼に表されていました。そして、新約時代には、割礼が廃止され、その代わりに「イエス・キリストへの信仰告白」になったのです。キリストへの確かな信仰告白と確信なしに教会に通うだけなら、まことの神の民にはなれません。50年以上を教会に通ってきたといっても、キリストを自分の主として確信できなければ、私たちはまるで、本文の割礼を受けていないモーセとモーセの息子たちのようになってしまうでしょう。そして、私たちは神の裁きを避けられず、自分の罪によって滅びてしまうでしょう。それにより、私たちの家族も神の裁きを目撃することになるでしょう。私たちは皆、血の夫、血の妻、血の親戚、血の家族になり得る存在です。誰からなんと言われても、私自身は神との関係を正しく確立し、キリストへの確実な信仰告白をしなければなりません。そして、最終的にキリストを伝えるようにならなければなりません。私たちが神との関係を明確にしなければ、私たちの家族にも主の祝福は伝われないからです。 締め括り 新約聖書にこんな言葉があります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(マタイ10:34-36) この言葉はイエスが、わざと家族の仲を悪くさせるという意味ではありません。信仰を保つために家族との関係が難しくなる可能性があるという意味です。最後まで主への信仰を守るか、家族のために信仰を諦めてしまうかということです。家族の反応のため、信仰や福音に消極的な方がいらっしゃると思います。家族への伝道が難しいことは理解します。しかし、自分の信仰まで捨てるのは、愚かなことです。私たちが信仰を捨てると、私たちの霊的な割礼はないものになってしまいます。そして、私たちのその選びによって、私たちの家族への神の祝福の通り道もなくなってしまいます。つまり、私たちの家族は、私たちの信仰の諦めによって神との一抹の関係が途絶え、血を見る(神との関係が完全になくなる)ことになってしまうでしょう。神は私たちを通して、私たちの家族に祝福を与えてくださるからです。したがって、私自身が「血の夫、血の妻、血の息子、血の娘、血の家族」にならないためにも、私たちは信仰を守らなければなりません。何があっても信仰を諦めないでください。 そして、家族への伝道も諦めないでください。キリストは私たちを通して、私たちの家族に救いの機会を与えてくださるからです。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

悔い改め。

イザヤ書55章6~9節(旧1152頁) マタイによる福音書4章17節(新5頁) 前置き 今日は、金牧師が佐賀めぐみ教会の聖餐式の執行と説教応援のため、留守です。とういうことで、今までの連続説教ではなく、別のテーマを取り上げて説教しようとしています。今日の説教の主題は「悔い改め」です。私たちは、日曜礼拝を始めるたびに「罪の告白」の時間を持ちます。この「罪の告白」の時間がある理由は、礼拝を始める前に、救い主キリストの執り成しに力づけられ、 過ぎた一週間の私たちの罪を告白し、赦され、清められた状態で、神に礼拝をささげるためです。悔い改め無しには、神のお慈しみもお赦しも御恵みも決してないからです。このようにキリスト者の人生において、悔い改めは神への礼拝の原点となる、非常に重要な意味を持っています。今日は、この悔い改めについて学び、私たちの信仰において、悔い改めが持つ意味について考えてみたいと思います。 1. 新・旧約を貫く聖書の呼びかけ – 悔い改め 聖書を読みながら、最も多く見つかる表現を取り上げてみると、神の恵み、救い、愛、信仰、赦し、祈り、奉仕などがあると思います。しかし、これらに引けを取らないほど、頻繁に出てくる表現がありますが、それは悔い改めです。旧約聖書でも、新約聖書でも、神は聖書を通して、絶えず悔い改めを求められます。なぜ、聖書はそんなに悔い改めについて力を入れて呼びかけているでしょうか? 悔い改めは神と人間との間にある隔てをなくす、大事なカギになるからです。神は完全無欠な方です。世のどんな汚れも神にはなく、世のどんな不条理も神にはありません。神は罪に汚されて完全さを失った存在を決して許されない方です。しかし、大きな問題があります。それは、人間は罪のため、完全無欠とは遠い存在ということです。人間には生まれつき罪があり、一生、罪の影響のもとに生きていきます。そして、それがまた別の罪を生み出します。したがって、人間は罪から絶対に自由ではなく、罪があるからこそ、神と純粋な交わりができない状態です。もし、人間が罪のもとで生き続けれてしまうなら、結局、完全無欠な神との接点を作ることができず、滅ぼされてしまうでしょう。だから、人間には、罪の解決という絶対的な課題が与えられているのです。その罪の解決ができなければ、人間は神に立ち返れず、最終的に悲惨に霊と肉の死に至るようになるでしょう。 初めの人間の堕落以来、神が新旧約聖書を通して絶えず悔い改めをお求めになった理由はこれです。神は人間との和解を誰よりも切に望んでおられる方です。神は、初めの人間にくださった、その完全無欠さが人間に引き返すことを望んでおられ、それによる人間との愛の交わりを望んでおられます。しかし、人間に罪があるかぎり、神は人間と付き合われることができません。神は絶対者と言われるのにどうしてできないのですか? 全能者にもできないことがあるということでしょうか。しかし、それが神がお造りになった法則だからです。神が全能でおられる理由は、何でも出来るからだけではありません。ご自身が造られた法則を無視なさらず、守られることも、ある意味で全能さなのです。つまり、その法則によって、神は罪を容認されないのです。だから悔いのない罪人も赦されないのです。しかし、神はキリストの救いという特別な恩寵によって、罪の問題を解決することができる手立てを与えてくださいました。人間には罪がありますが、イエス·キリストの執り成しがあるなら、罪人は神の御前に立つことが出来ます。神は赦しの御心(神の愛)も、赦しの手立て(キリストの救い)も、赦しの道しるべ(聖霊の導き)も設けて置かれました。そして、聖書を通して罪人たちにお告げになります。「キリストの名によって、あなたの罪を悔い改めなさい。そして、主なる神に立ち帰りなさい。」だから、悔い改めが大切というわけです。すべてを設けておかれ、罪人の決断だけを求めておられるからです。そして、その決断、それがまさに私たちの悔い改めなのです。 2. どう生きるのが悔い改めの生き方なのか? ですから、私たちは一生悔い改めを繰り返して生きなければなりません。ところで、悔い改めは、一度だけで良いのではないでしょうか。なぜ、繰り返さなければならないのでしょうか? 聖書にはキリストが、ただ一度ご自分の体を献げられて、罪人を救われたと書いてあるのに、なぜ、毎週の礼拝で、罪の告白をしているのでしょうか? それは、イエスがただ一度で成し遂げられた救いを否定する発想ではないでしょうか? その答えについては、マタイによる福音書からヒントを得ることができます。「そのときから、イエスは、悔い改めよ。天の国は近づいたと言って、宣べ伝え始められた。」(マタイ4:17) イエスが地上での御業を始められた時、主は「悔い改めよ」という言葉で天国の到来を告げられました。その時、主が「悔い改めよ」と言われたギリシャ語の表現は「メタノエオ」です。その意味は「考えを変える」という意味です。今まで持ってきた主に逆らう考え、思想、生き方を変えなさいという意味です。さらに大事なのは、この表現に使われた文法です。ギリシャ語の「動詞、現在形·能動態」(難しいことは覚えなくてもいいです。ただこういうのがあるんだと理解してください。) 現在形·能動態は、ある行為を一度行って終わることではなく、繰り返し行われるというニュアンスを持っています。つまり、イエスのこの言葉は、ただ一度で終わる悔い改めではなく、絶えず繰り返して考えを変え、生き方を変え、神に立ち帰れという意味なのです。というのは、一生が悔い改めの人生にならなければならないということです。 悔い改めを意味するギリシャ語「メタノエオ」をヘブライ語に訳すと「シューブ」になります。このシューブのイメージは、運転手がUターンするのと似ています。以前の方向の反対側に回ることです。つまり、罪、悪い欲望、望ましくない生き方、不信心からUターンして神の御心に適う生き方、聖書が教える生き方、聖霊の導きに従う生き方に立ち帰ることです。ですから、悔い改めは単純な反省、後悔という意味ではありません。実質的に、自分の生き方の改善を神の御前で誓う行為なのです。昨日、誰かと争ったなら、今日は仲直りしなければなりません。昨日、嘘をついたなら、今日は真実を言わなければなりません。昨日、自分が人生の主人だったら、今日は主を自分の人生の主人として招くのです。しかし、私たちは今日、悔い改めても、また、明日に罪を犯す可能性を持った不完全な存在です。したがって、悔い改めは、一生私たちが繰り返し行わなければならない課題なのです。今日、失敗したら、明日また挑戦するのです。イエス·キリストの救いの恩恵が私たちに絶えることなく機会を与えているからです。今日、罪を犯したとがっかりしないでください。今日、失敗だったら、主イエスの御名によって、明日、また新しい人生を生きるために進めばいいです。一生、失敗するたびに悔い改め、また進んでいきましょう。主は私たちの絶え間ない悔い改めのために、ご自分の命をもささげられました。U-ターンを覚えておいてください。私たちは主イエスの十字架の恩恵のもとで、悔い改めの機会をいただいた毎日U-ターンするべき存在なのです。 締め括り 福岡から東京に車で行くと考えてみましょう。途中で道を間違えて大分に行ってもUターンすれば良いです。四国に入ってもまた高速道路に出ればいいです。大阪で少し休んでも、また東京に向かえばいいです。そうすると富士山が見えてき、横浜を通って結局は東京に着くようになるでしょう。悔い改めは信仰の高速道路を走っていく私たちが、道を間違えた時、再び神に向かわせるU-ターンのようなものです。キリストは、神に向かう一本道であり、聖書は主なる神への正しい方向を指し示す交通標識のようなものであり、聖霊の導きはナビゲーションのようなものであります。このように説明すると、簡単に理解できるでしょう。だから毎日悔い改めて生活しましょう。小さい罪を犯したとしても悔い改めましょう。そして、再び機会をくださる主に感謝して、明日はまた違う生き方で生きましょう。そのような繰り返して悔い改めする人生を、主が喜んでくださると信じています。今日も主は聖書を通して、このように言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰る(シューブ)ならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イサヤ55:6-7)今週も悔い改めによって勝利する志免教会の兄弟姉妹の皆さんであることを祈ります。 主のお導きを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

新しい人の生き方

レビ記11章45節(旧178頁) エフェソの信徒への手紙4章17~32節(新356頁) 前置き キリストの教会は、天地創造の前に神に選ばれ、キリストによって救われ、聖霊のお導きによって生まれた神に愛される共同体です。キリストは、この教会を打ち立てられるために、ご自分の十字架の血潮によって罪人を赦され、喜んでご自分の体(民、教会)としてお呼び出しくださいました。かつての罪人たちは神を知らない異邦人のような存在でしたが、キリストの救いは異邦人のような罪人(神の愛の外にいる)を、神の子供(神の愛の中にいる)に生まれ変わらせました。したがって、キリストのもとにいる私たちは、もはや異邦人ではなく、神の子供であり、家族である存在です。また、エフェソ書は、この教会をキリストを頭とする「一人の新しい人」と表現しています。キリストが頭となる一人の新しい人、主は私たち教会をご自分の体として何よりも大切にしてくださいます。そのため、私たちはもう異邦人ではなく、新しく、主イエスの体として生きていく理由を持つのです。今日は、一人の新しい人、主の体なる教会の生き方について考えてみたいと思います。 1. 古い人の生き方。 「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。」(エフェソ4:17) 今日の本文には異邦人という表現が出てきていますが、すでにエフェソ書2章にも、この異邦人についての話しがありました。エフェソ書が語る異邦人とは、旧約聖書の神の民である「ユダヤ人」の反対の概念です。ここで言うユダヤ人とは、血統だけがユダヤ族のユダヤ人ではなく、神の御言葉に従順に聞き従って生きる、神の真の民を意味する表現でした。つまり、異邦人は、神の御心に逆らう神の民でない存在を意味します。そして、今日の本文は、そのような異邦人みたいな神を知らない者の姿を「古い人」と表現しています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て」(4:2) 神の招きとキリストの救いと聖霊の導きによって、主の教会となった私たちは、主の聖なる民というアイデンティティを持っています。しかし、私たちが最初から神の聖なる民だったわけではありません。私たちは生まれた時、神を知らない状態にの霊的な「異邦人」でした。聖霊のお導きで教会に招かれ、み言葉にあずかって、キリストへの信仰を持つことが出来なかったら、私たちは依然として神を知らない「異邦人、古い人」に生きていたでしょう。 今日の本文は、神を知らない「異邦人、古い人」の生き方について、このように述べています。「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」(エフェソ4:17-19) 神と無関係な「異邦人、古い人」は「神の御言葉」という人生の基準がないため、自分自身が人生の基準になります。自らが基準になったため「創造主の御言葉」という広くて豊かな基準とは比べ物にならない、つまらない自分の判断が人生の基準となってしまうのです。罪の支配下の一介の人間の愚かさ、暗い知性、無知、心のかたくなさが基準になるので、その人生は無感覚、放縦、ふしだらな行いで、自分の欲望に支配され、結局、神の命から離れることになってしまうのです。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」(20) そして、パウロはキリストの民である教会は、主からそのように学んでいないと語ります。つまり、神を知らない異邦人、古い人のような行い、無知、心のかたくなさ、放縦など、そのすべての正しくないものは、主の民である教会の生き方にふさわしくないということです。 2. 新しい人を身に着けなさい。 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:22-24) 今日の本文はキリストの体となった教会を成すキリスト者が、これ以上異邦人、古い人の姿で生きてはならないということを教えています。そしてさらに「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなさい」と語ります。ここで大事な表現が2つありますが「真理と正しさ(義)と清さ(聖)」と「新しい人を身に着ける」です。 改革神学では「真理と正しさと清さ」が、初めの人間の犯罪によって失った「神のかたち」であると解釈します。創世記では、神がご自分のかたちにかたどって人間を創造されたとの記録があります。このかたちとは、五体、つまり肉体の形という意味ではなく、神の本性に似た存在という意味です。しかし、罪によって堕落した人間は、この「真理と正しさと清さ」という神のかたちを失ってしまいました。そのため、神は、人間が失った「真理と正しさと清さ」を回復させてくださるために、イエス・キリストを遣わされたのです。主イエスは「真理と正しさと清さ」の源であり、その方の体として召された民に、喜んでご自分のかたちを回復させられることを望んでおられる方です。私たちは、主イエスによって「真理と正しさと清さ」を回復した「新しい人」として呼び出されたのです。 ところで、エフェソ書は「真理と正しさと清さ」の新しい人を「身につけなさい」と語っています。聖書は「真理と正しさと清さの新しい人になりなさい」とは言いません。生まれつき罪を持ってきた私たちは「真理と正しさと清さ」を成し遂げることも、手に入れることも出来ません。それらを回復させてくださるのは、おひとり主イエスであり、私たちはその方によって真理と正しさと清さをいただくようになるのです。「なる」と「身につける」は全く別の意味です。本当に「真理と正しさと清さ」の持ち主はキリストおひとりだけであり、私たちはその方によって「真理と正しさと清さの新しい人」と見なされるようになるのです。神も私たちが罪ある不完全な存在であることを知っておられます。そして、キリストが再臨なさる終りの日まで、罪を持った人間は、初めの人間のように完全な存在にはなれないということも知っておられます。しかし、キリストが私たちを「ご自分の体」と認めてくださるなら、父なる神は私たちを「真理と正しさと清さの新しい人」と見なしてくださるのです。だから、私たちはキリストによってのみ、神のかたちを回復することができます。そして、キリストによってのみ「異邦人、古い人」の姿を脱ぎ捨てる機会を得ることが出来るのです。パウロは主の体なる教会として、キリストによって古い人の愚かさを脱ぎ捨て、主の体なる「新しい人」として真理と正しさと清さを追い求めて生きることをエフェソ教会と私たちに願っているのです。 3. どう生きるべきか? では、今日の本文に照らして、私たちがどう生きるべきなのか考えてみましょう。果たして「愚かな古い人の姿」とは何であり「真理と正しさと清さの新しい人」とは何でしょうか? 私たちは、今日の本文の 25 節から 32 節の言葉からヒントを得ることができます。本文が長いので、今しばらく25-32節の言葉に目を通していただければ幸いです。「愚かな古い人の姿」にはいろいろありますが、特に今日の本文には「偽り、怒り、盗み、悪い言葉」を指摘しています。一、偽り、ヨハネの福音書8章44節には「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」とあります。ここで、悪魔とはエフェソ書2章2節の「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」つまり、神に逆らう悪霊のことでしょう。偽証してはならないという十戒もあり、教会でなくて、偽りは悪いというのが世の常識です。しかし、聖書はさらに、偽りが神に逆らう者、悪魔の本性であることを語っているのです。二、怒り、怒らない人はいません。現代の精神医学でも、無理して怒りを我慢するより、賢く怒る方が心の健康に良いという話もあります。しかし、他人を傷つけるための怒りは「古い人」の本性だと聖書は警告しています。だから、今日の本文は怒っても罪を犯さず、日が暮れる前に和解することを語っています。 「悪魔にすきを与えてはなりません。」(4:27) そして、この怒りが悪魔にすきを与える悪魔の道具であることを明確にしています。一瞬、怒っても、それを罪にまでつなげないように気をつけましょう。怒りは古い人のものであり、悪魔の道具であることを忘れてはなりません。三、盗み、盗みもキリスト教でなくても悪いということは常識です。十戒の8戒にも「盗んではならない」と書いてあります。しかし、私たちは、単純に人の物を盗むことだけが盗みではないということを知らなければなりません。隣人の苦しい状況を知りながら気付かないふりをすること、自分の益のために他人の益を妨げることも、広い意味としては、盗みなのです。神は豊かな者が貧しい者を助けることを聖書の様々な箇所で教えてくださいました。キリストはご自分の命を罪人たちに分け与えてくださるために、ご自分の命を捨てられたのです。私たちは主の体なる教会として、盗みについてより広い認識を持って理解するべきです。最後に悪い言葉、簡単に言えば他人への悪口と言えるでしょう。そして、他人を憎む心にまで至ると思います。この世を生きながら気に入らない、憎い人が必ずいるでしょう。人間だから、当たり前です。しかし、聖書はそれでさえ制御することを命じます。誰かに悪口を言いたい時、憎しみが湧き出る時、これらはキリストによって新しい人となった私たち教会には、ふさわしくない姿であることをぜひ憶えてください。悪い言葉は明らかに悪魔のものだからです。 締め括り パウロは教会に告げます。「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(4:24)「偽りを捨てて真実を語りなさい」「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」「盗みをやめて困っている人を助けなさい」「悪い言葉ではなく、恵みの言葉を言いましょう」「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」パウロは、このように教会のあり方について力強く語っているのです。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」(レビ記11:45) 今日の本文を読みながら、旧約聖書レビ記の言葉が思い起されました。神はエジプトから脱出した、イスラエルの民に明確に言われました。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。」私たちはキリストによって新しい人となった主の体なる教会です。今日の御言葉を通じて、私たちが取るべき生き方について考えてみましょう。主イエスの教会にふさわしい生き方のために、特に心していく志免教会の兄弟姉妹であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。