神の御名。

出エジプト記3章13~15節(旧97頁) ヨハネによる福音書8章58~59節(新184頁) 前置き 前回の出エジプト記の説教では、神に呼び出されるモーセの姿が描かれました。羊の群れを飼っている途中、ホレブ(廃墟)という名の山に来たモーセは、そこで「火に燃えているのに、燃え尽きない柴」を目撃します。その時、アブラハムとイサクとヤコブの神がモーセに現れ、エジプトに虐待されているイスラエル民族を解放しなさいという使命を与えられます。私たちは、この前回の説教で、神は炎(強さ)のように強い方ですが、柴(弱さ)を滅ぼされない方、ホレブ(廃墟)山を聖なる土地(聖地)に変えられる方、最後にご自分の約束を絶対に忘れられず、記憶しておられる方(アブラハムとイサクとヤコブとの約束)であるということを学びました。そして、最後に神がご自分の民に与えられる使命とは、民が偉いことをしたり、重荷を負ったりすることではなく、神に聞き従い、主と共に歩むことであると学びました。私たちはこの神に選ばれ、教会に集められた主の民です。私たちの使命は神を忘れず、神に召される人生の最後の日まで、神と共に歩み、主と生きることです。以上の内容を憶えつつ、今日の本文に入りたいと思います。 1。「わたしはある」という言葉の意味。 「モーセは神に尋ねた。わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(13) 神に呼び出されたモーセは、非常に戸惑い、神に尋ねます。「アブラハムとイサクとヤコブの神が私を遣わされたと言ったら、同胞たちが私を信じてくれるでしょうか? 彼らがあなたについて聞いてきたら、私はあなたの名前をどう言えば良いんですか?」東洋文化圏では、人の名前に大きな意味を与えると傾向があると思います。江戸時代の時代劇などを観ると、決闘する前に「何々家の誰、何々流の誰」と自分の名前を名乗る場面がよく出てきます。旧約聖書でも、ある存在の名前は大きな意味を持っています。「欺く者」という意味のヤコブが、神と出会った後「神を畏れる者(神に勝つという意味もある。)」という意味のイスラエルという新しい名前を得たという物語が代表的です。このように名前は、ある一人の存在の意味を明らかにする大事なものです。つまり、モーセが神の御名について尋ねたのも、単純な身元確認ではなく、神という存在の意味を確かめたいとの理由にあるでしょう。「私が一度失敗したイスラエルの解放を、老けてしまった今の私に再び命じられるあなたという存在は一体何者ですか?」という意味でしょう。 「神はモーセに、わたしはある。わたしはあるという者だと言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方が、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(14節) このようなモーセの問いに神はお答えになりました。「わたしはある」神のお返事が本当に不思議です。文法的に間違っています。「私は誰である」と答えるのが一般的ですが、神は「わたしはある」と答えられました。これはヘブライ語では「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」であり、ギリシャ語では「エゴ・エイミー」と翻訳できます。実際、直訳でも「わたしはある」という表現も正確ではないと思います。日本語で、いや人間の言葉では表せない存在の特別な名前なのです。これによって、神は人間の一般的な理解と哲学と理性をはるかに越える超越的な存在であることが分かります。それでも、あえて意味を与えて意訳をすれば、「私は自ら存在する者だ。」程度に訳することができるでしょう。私たち人間は皆、根源を持っています。両親がおり、先祖がいます。この会堂もセメントはある山の岩に、木材はある森の木に、電線はある鉱物に、プラスチックは石油に由来します。世の中のすべてのものは、自ら存在することができません。しかし、自ら存在する神、「わたしはあるという者だ。」と言われた神は、この世のすべての先におられ、すべてに存在理由をお与えになった絶対者なのです。「わたしはある」という名前の意味には、神の絶対者としての権威が含まれているのです。 モーセに現れられたイスラエルの神は、自ら存在する方です。神はすべての存在の根源であり、すべての権勢と栄光の源です。この神がモーセを用いられ遣わされるでしょう。そしてイスラエルを解放させられるでしょう。大帝国と呼ばれたエジプトでさえ、自ら存在する者のご意志に逆らうことはできないでしょう。神が永遠にご自分の民と共におられ、その先祖アブラハムとイサクとヤコブと結ばれた約束どおりに、ご自分の業を成就していかれるでしょう。ですから、神はご自分の約束どおりに、永遠にご自分の民と共にいらっしゃるでしょう。 (わたしは「民と共に」ある。) そして、その約束はイマヌエル(神が私たちと共におられる。)という名で来られる新約聖書のキリストのもとで成就するでしょう。 したがって、私たちは記憶しなければなりません。 私たちの神は「自ら存在する方、ご自分のご意志通りに行われる方、ご自分の民と永遠に共におられる方」です。人生の苦しさと悲しさの時、ひとりぼっちになったと絶望しないでください。『わたしはある』という方、私たちの神が、いつも永遠に主の民、私たちと共にいらっしゃるからです。 2.イエス・キリストの「わたしはある。」 現代を生きている私たちは、自由に古代のヘブライ語やギリシャ語が理解できない状態です。聖書の原文を長年学習しない限り、私たちはヘブライ語とギリシャ語に現れる聖書の本来の意味をありのままに理解することは難しいです。私たちはただ日本語だけで聖書を読んでいるからです。しかし、その意味を理解して読むことができれば、私たちは、さらに大きい恵みを得ることができるでしょう。今日の新約の本文を見てみましょう。「イエスは言われた。はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」(ヨハネ福音8:58-59) ヨハネ福音8章はイエスに反対するファリサイ派の人々と主イエスの論争の場面です。イエスは、神が自分たちの父であると言っている、主に反対するユダヤ人たちに、「本当に神を父だと思うならばイエスに反対せず、むしろ愛するだろう」と言われました。そして「イエスに反対するユダヤ人の先祖であるアブラハムは、主の日を見るのを楽しみにしており、それを見て、喜んだのである」とおっしゃいました。 するとユダヤ人たちは50歳にもならないイエスがどうやってアブラハムを見たのか問い返します。その時、イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」とおっしゃっています。するとユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスを殺そうとします。 ユダヤ人たちは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という言葉に、なぜ憤ってしまったのでしょうか。 単純に自分の先祖であるアブラハムを冒涜したと思ったからでしょうか? 実は日本語では見えない表現のせいで、ユダヤ人はそんなに憤ったわけです。 新約本文58節を見ると「わたしはある」という表現があります。この表現はギリシャ語で「エゴ・エイミー」なのです。先ほど「わたしはある」のヘブライ語は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」であり、これをギリシャ語に翻訳すると「エゴ·エイミー」になるとお話ししました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」すなわち、今日の旧約本文で神がモーセに言われた「わたしはある」という表現をイエスも同じように言われたわけです。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という表現は「アブラハムが生まれる前から、私は自ら存在する者だ」という意味にもなるのです。イエスご自身がまさに父なる神と同一本質で、同等の存在であることを示す表現です。イエスがご自身がすなわち神であるということを宣言される言葉なのです。おそらく当時のユダヤ人なら、イエスの「わたしはある」という言葉に、非常に大きな衝撃を受けたでしょう。イエスが「わたしはある」という旧約の神の言葉をそのまま、使われたからです。その当時のユダヤ人でなければ、簡単には分からない内容なので、現代の私たちには大きな衝撃にならないでしょうが、イエスはこの本文でご自分のアイデンティティをはっきり示されたのです。まさに今日の旧約本文でモーセに「わたしはある」とおっしゃった神としてイエスはご自身の存在について明らかに言われたのです。 私たちが信じるイエス・キリストは神です。私たちは聖なる三位一体の神を信じています。そして主イエスは、その三位一体の中の一位格、御子なる神です。志免教会の主であるイエスは「自ら存在する方」です。イエスの栄光は、父なる神よりけっして劣りません。同一の本質、同格の権勢、同等の全能さのお持ちの方です。今日、旧約本文で「わたしはある」つまり「自ら存在する者」である神は、イスラエルの解放を約束されます。そして神はモーセを通して、実際にその解放を成し遂げられます。私たちの「わたしはある」と言われた方、「自ら存在する者」であるイエス·キリストは、父なる神から与えられた権勢と栄光で私たちを死と呪いから解放してくださったのです。 私たちは教会の頭である、このイエスが「自ら存在する者、全能者」であるということにプライドを持っても良いです。神がイスラエルをエジプトから救い出され、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったように、イエス·キリストは私たち教会を罪から救い出され、神の祝福のもとに導いてくださいます。神の御名「わたしはある」すなわち、神はイエス·キリストを通して、今日も私たちと共に「おられます。」これがまさに私たちと共におられるイマヌエル(神が私たちと共にいらっしゃる。)の証しであるのです。 締め括り 神には、数多くの名前があります。しかし、その中で聖書で一番最初に出てくる名前は、今日の「わたしはある」です。 神は私たちが独りぼっちである時も一緒におられ、私の家族の中にも一緒におられ、私たちの職場、私たちの社会的な関係の中にも一緒におられる方です。神は世の中のすべてを満たしておられる無所不在(中国や韓国で使う表現)であり、全知全能である方です。私たちを一度お選びになった主は絶対に私たちを見捨てられず、いつも「わたしはある」という存在として、私たちの人生の中に共におられるでしょう。この神がモーセを通してイスラエルを救われたのです。そして、この神が主イエス・キリストの民である私たち、キリストの教会を通して、主の御心を成し遂げていかれるでしょう。「わたしはある」という名前の神、自ら存在する神、私たちと一緒におられるインマヌエルの神、キリストを通して、私たちと共におられる神。この神の民であることを感謝し、喜びを持って生きる一週間であることを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。