平和のキリスト。

エゼキエル書37章24~25節(旧1358頁) エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) 前置き 前回の説教では、キリストに救われる前の人間の本質(罪と過ちによって死ぬべき存在)とキリストに救われた後の人間の本質(キリストの御救いにより命を得た存在)について話しました。聖書は罪によって神に背いた初めの人間の影響のため、この世のすべての人間が生まれつき「罪と過ち」を持ち、神に逆らう本質であると語ります。この世のすべての人間は本能的に自分の欲望に沿って生き、創造主である神を知ろうとも、御心に従おうともしない、神の呪いの下にある死の存在として生まれます。しかし、神はキリストを遣わされ、神との和解の道を開き、キリストの贖いによって、すべての罪人たちに生命の存在として生まれ変わる道を開いてくださいました。前回の説教では、このキリストによって神に赦された者たちが集まり、キリストを中心として打ち立てられたのが、まさにキリストを頭とする教会であると申し上げました。教会は単なる親睦団体ではなく、キリストによって死から命へと本質が変わった特別な存在です。教会はそのような本質が変化した者として、そのアイデンティティにふさわしく生きるべきです。 1.異邦人とユダヤ人。 今日の本文の11節から13節までの言葉には「以前」と「今」という表現が出てきます。「以前」は「罪と過ちによって死ぬべき存在」であった私たちの状態を、「今」は、「キリストの御救いにより命を得た存在」である私たちの状態を示します。そして、今日の本文は以前の私たちが「異邦人」だったと述べています。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェソ2:11-12) ところで、ここでの異邦人とは、どういう存在なのでしょうか? 本文の「異邦人、割礼のない者」の意味は一言で「ユダヤ人ではない」という意味です。ここで言うユダヤ人は、一次的には血統的なユダヤ人のことですが、二次的には霊的な意味としてのユダヤ人であると言えます。ヨハネ福音書にはこんな言葉があります。「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」(ヨハネ福4:22)ヨハネ福音書は救いがユダヤ人から来るからだと言いました。ユダヤ人そのものは救い主ではないのに、ヨハネ福音書はなぜ救いがユダヤ人から来ると語ったのでしょうか? まずは、ユダヤ人の意味について探ってみましょう。ユダヤ人は神と契約を結んだアブラハムの曾孫であるユダの子孫です。そしてユダヤ人はバビロンによるイスラエルの滅び後にも、異邦人と混血していない血統的にも、律法的にも、純粋な者たちと知られています。したがって、ユダヤ人とは、昔、神とアブラハムが結んだ契約、そしてモーセの律法を純粋に受け継いだ存在であると言えます。そういうわけで、ユダヤ人は神との契約のもとにいる選ばれた民という意味を持ちます。しかし、ヨハネ福音書が語るユダヤ人は、単に血統的なユダヤ人だけを意味するわけではありません。ユダヤ人という血統より、神がユダヤ人と結ばれた「契約、約束」がさらに大事です。したがって、ヨハネ福音書4章22節の「救いはユダヤ人から来るからだ。」という言葉の「ユダヤ人」とは、神の契約を完全に守り、その律法(御言葉)に従順に聞き従う存在を意味する「霊的なユダヤ人」なのです。ヨハネ福音書は、彼がまさにイエス•キリストであると遠回しに述べているのです。(だから、キリストに属した主の民も霊的なユダヤ人と言えるでしょう。) したがって、今日の本文11-12節に出てくる異邦人とは、単純に血統的なユダヤ人ではないという意味ではありません。以前の私たちが異邦人だったということは、私たちが神の契約と律法の外にいる存在だったという意味であり、より究極的にはキリストの外にいる、神とまったく関係ない存在だったという意味です。 2.キリストによる平和。 「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェソ2:12) そして12節は、異邦人のような存在だった私たちが、契約と関係ない存在であり、この世で希望も持たず、創造主も知らない惨めな存在だったと述べています。また、13節では「以前は遠く離れていた」と、以前のキリストを知らなかった私たちが、神の契約と救いから遠くにいる者だったと述べています。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(13)しかし、そのような以前の私たちが「キリストの血」すなわちキリストの御救いによって、今は「神との契約と救い」に近い者となったと証言しています。異邦人だった私たちがキリストによって「霊的なユダヤ人」という神の契約と救いの存在に生まれ変わったということです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、」(14-15) したがって、私たちはキリストによって、霊的なユダヤ人として召された者です。キリストは神と関係ない「異邦人」だった私たちを、主の十字架の血によって「霊的なユダヤ人」として呼び出し、キリストのもとに差別なく一つの存在として招いてくださったのです。 だけでなく、血統的、律法的に乗り越えられなかった、ユダヤ人と非ユダヤ人の差別をも解決してくださいました。つまり、誰でもキリストによって神の選ばれた民、霊的なユダヤ人になることができ、神はキリストを通して、その機会を与えてくださったということです。世の中には貧富の格差、理念の違い、人種差別など、数多くの差別と隔ての壁が存在します。しかし、キリストはそのすべてを超えて、すべての人を霊的なユダヤ人として招かれる資格と力を持っておられる方です。その方の中に世の中のすべての存在を一つにする真の平和があるのです。そのため、今日の本文は「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と述べているのです。私たちは祈る時、「主イエスによって、この世に真の平和をください。」と祈ります。私たちのこの祈りの根拠は、まさに今日の本文のように、すべてを一つにするキリストの平和にあります。主イエス·キリストは十字架の血によって差別のない平和を与えてくださいました。キリストはご自分の功績で、差別なく全人類を愛してくださる方なのです。 3. 一人の新しい人、そして神の家族。 「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」(15)ここで私たちは一つ独特な表現を見つけますが、それは「一人の新しい人」です。キリストがご自分においてユダヤ人、異邦人の区別なしに一つの教会として招いてくださったことを私たちは知っています。教会は主イエスに救われた者たちが集まり、主の十字架の血によって新たになった一つの共同体と呼ばれるのです。キリストが頭になってくださり、私たちはその方の肢として主の御心に従い、この罪深い世の中で、主を信じ、善を行って生きていかなければなりません。ところで、今日の本文は「新たになった一つの共同体、新しい一団体」という表現を使わず「一人の新しい人」という表現を使っています。翻訳が間違っているかと思い、ギリシャ語の聖書を見たら、確かに「一人の新しい人」と記録されています。ここで、私たちは、教会がどのような存在であるかを改めて学ぶことができます。私たちがキリストを「頭」と言うのは比喩的な「リーダー」の意味だけではありません。主はこの教会に頭として一緒におられ、異邦人、ユダヤ人を問わず、主に召された者たちを、比喩ではなく実存的にご自分の体として扱ってくださるのです。つまり、教会は厳密に言って団体ではなく、キリストという一人の体そのものなのです。これはただの共同体や団体と根本から違う意味なのです。 この概念とそっくりの例があります。日本には「国体」という言葉がありました。ある神学者は、この国体という概念が教会に由来したと言いました。かつて、日本帝国は天皇が親であり、民は子供であるという意味として、日本を「国体」と呼びました。その神学者は、国体概念がヨーロッパのキリスト教世界観に由来したと言いました。日本帝国時代、ヨーロッパのキリスト教的世界観を国家神道に融合させたわけです。キリストは教会の頭、教会はキリストの体のように、国体も天皇を頭に、民を体にしたわけです。しかし、違う点は、国体は民が王のために死に、教会は王が民のために死んだということです。主は教会とご自分とを分離させられず、謙遜にご自分を低くされ、ご自身も頭として教会の一部になると十字架での死によって確定してくださったのです。したがって、聖書は教会を「一人の新しい人」と表現します。そのため、私たちは父なる神にキリストと一つになった存在として認識されます。「私」ではなく「キリストの中にいる私」として、神はキリストの中の私をご覧になります。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(16)だから、私たちはキリストの体として神と和解することが出来るのです。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(19)さらに私たちはキリストによって神の家族として認められることになったのです。 締め括り 記憶力の良い方なら、今日の新約の本文が、今年、最初の説教の本文と同じであることに気づかれたかもしれません。教会はキリストから始まり、キリストにあって終わる共同体です。神がキリストを通してのみ、私たちと関係を結ばれるからです。キリストなしに、私たちは神を知ることも、神に会うこともできないからです。教会共同体の最も根本はキリストであり、目標もキリストです。「わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。」(エゼキエル37:24-25) 今日、旧約の本文は神がくださる王について予言しました。私たちは、このダビデがイエス・キリストを意味する存在であることを知っています。平和のキリスト、あなたと私を一つにしてくださるキリスト、神と教会をつなげてくださるキリスト。そのイエス·キリストを頭とする、私たち志免教会のアイデンティティを憶えつつ、この一週間を生きていきたいと思います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。