平和のキリスト。

エゼキエル書37章24~25節(旧1358頁) エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) 前置き 前回の説教では、キリストに救われる前の人間の本質(罪と過ちによって死ぬべき存在)とキリストに救われた後の人間の本質(キリストの御救いにより命を得た存在)について話しました。聖書は罪によって神に背いた初めの人間の影響のため、この世のすべての人間が生まれつき「罪と過ち」を持ち、神に逆らう本質であると語ります。この世のすべての人間は本能的に自分の欲望に沿って生き、創造主である神を知ろうとも、御心に従おうともしない、神の呪いの下にある死の存在として生まれます。しかし、神はキリストを遣わされ、神との和解の道を開き、キリストの贖いによって、すべての罪人たちに生命の存在として生まれ変わる道を開いてくださいました。前回の説教では、このキリストによって神に赦された者たちが集まり、キリストを中心として打ち立てられたのが、まさにキリストを頭とする教会であると申し上げました。教会は単なる親睦団体ではなく、キリストによって死から命へと本質が変わった特別な存在です。教会はそのような本質が変化した者として、そのアイデンティティにふさわしく生きるべきです。 1.異邦人とユダヤ人。 今日の本文の11節から13節までの言葉には「以前」と「今」という表現が出てきます。「以前」は「罪と過ちによって死ぬべき存在」であった私たちの状態を、「今」は、「キリストの御救いにより命を得た存在」である私たちの状態を示します。そして、今日の本文は以前の私たちが「異邦人」だったと述べています。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェソ2:11-12) ところで、ここでの異邦人とは、どういう存在なのでしょうか? 本文の「異邦人、割礼のない者」の意味は一言で「ユダヤ人ではない」という意味です。ここで言うユダヤ人は、一次的には血統的なユダヤ人のことですが、二次的には霊的な意味としてのユダヤ人であると言えます。ヨハネ福音書にはこんな言葉があります。「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」(ヨハネ福4:22)ヨハネ福音書は救いがユダヤ人から来るからだと言いました。ユダヤ人そのものは救い主ではないのに、ヨハネ福音書はなぜ救いがユダヤ人から来ると語ったのでしょうか? まずは、ユダヤ人の意味について探ってみましょう。ユダヤ人は神と契約を結んだアブラハムの曾孫であるユダの子孫です。そしてユダヤ人はバビロンによるイスラエルの滅び後にも、異邦人と混血していない血統的にも、律法的にも、純粋な者たちと知られています。したがって、ユダヤ人とは、昔、神とアブラハムが結んだ契約、そしてモーセの律法を純粋に受け継いだ存在であると言えます。そういうわけで、ユダヤ人は神との契約のもとにいる選ばれた民という意味を持ちます。しかし、ヨハネ福音書が語るユダヤ人は、単に血統的なユダヤ人だけを意味するわけではありません。ユダヤ人という血統より、神がユダヤ人と結ばれた「契約、約束」がさらに大事です。したがって、ヨハネ福音書4章22節の「救いはユダヤ人から来るからだ。」という言葉の「ユダヤ人」とは、神の契約を完全に守り、その律法(御言葉)に従順に聞き従う存在を意味する「霊的なユダヤ人」なのです。ヨハネ福音書は、彼がまさにイエス•キリストであると遠回しに述べているのです。(だから、キリストに属した主の民も霊的なユダヤ人と言えるでしょう。) したがって、今日の本文11-12節に出てくる異邦人とは、単純に血統的なユダヤ人ではないという意味ではありません。以前の私たちが異邦人だったということは、私たちが神の契約と律法の外にいる存在だったという意味であり、より究極的にはキリストの外にいる、神とまったく関係ない存在だったという意味です。 2.キリストによる平和。 「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェソ2:12) そして12節は、異邦人のような存在だった私たちが、契約と関係ない存在であり、この世で希望も持たず、創造主も知らない惨めな存在だったと述べています。また、13節では「以前は遠く離れていた」と、以前のキリストを知らなかった私たちが、神の契約と救いから遠くにいる者だったと述べています。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(13)しかし、そのような以前の私たちが「キリストの血」すなわちキリストの御救いによって、今は「神との契約と救い」に近い者となったと証言しています。異邦人だった私たちがキリストによって「霊的なユダヤ人」という神の契約と救いの存在に生まれ変わったということです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、」(14-15) したがって、私たちはキリストによって、霊的なユダヤ人として召された者です。キリストは神と関係ない「異邦人」だった私たちを、主の十字架の血によって「霊的なユダヤ人」として呼び出し、キリストのもとに差別なく一つの存在として招いてくださったのです。 だけでなく、血統的、律法的に乗り越えられなかった、ユダヤ人と非ユダヤ人の差別をも解決してくださいました。つまり、誰でもキリストによって神の選ばれた民、霊的なユダヤ人になることができ、神はキリストを通して、その機会を与えてくださったということです。世の中には貧富の格差、理念の違い、人種差別など、数多くの差別と隔ての壁が存在します。しかし、キリストはそのすべてを超えて、すべての人を霊的なユダヤ人として招かれる資格と力を持っておられる方です。その方の中に世の中のすべての存在を一つにする真の平和があるのです。そのため、今日の本文は「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と述べているのです。私たちは祈る時、「主イエスによって、この世に真の平和をください。」と祈ります。私たちのこの祈りの根拠は、まさに今日の本文のように、すべてを一つにするキリストの平和にあります。主イエス·キリストは十字架の血によって差別のない平和を与えてくださいました。キリストはご自分の功績で、差別なく全人類を愛してくださる方なのです。 3. 一人の新しい人、そして神の家族。 「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」(15)ここで私たちは一つ独特な表現を見つけますが、それは「一人の新しい人」です。キリストがご自分においてユダヤ人、異邦人の区別なしに一つの教会として招いてくださったことを私たちは知っています。教会は主イエスに救われた者たちが集まり、主の十字架の血によって新たになった一つの共同体と呼ばれるのです。キリストが頭になってくださり、私たちはその方の肢として主の御心に従い、この罪深い世の中で、主を信じ、善を行って生きていかなければなりません。ところで、今日の本文は「新たになった一つの共同体、新しい一団体」という表現を使わず「一人の新しい人」という表現を使っています。翻訳が間違っているかと思い、ギリシャ語の聖書を見たら、確かに「一人の新しい人」と記録されています。ここで、私たちは、教会がどのような存在であるかを改めて学ぶことができます。私たちがキリストを「頭」と言うのは比喩的な「リーダー」の意味だけではありません。主はこの教会に頭として一緒におられ、異邦人、ユダヤ人を問わず、主に召された者たちを、比喩ではなく実存的にご自分の体として扱ってくださるのです。つまり、教会は厳密に言って団体ではなく、キリストという一人の体そのものなのです。これはただの共同体や団体と根本から違う意味なのです。 この概念とそっくりの例があります。日本には「国体」という言葉がありました。ある神学者は、この国体という概念が教会に由来したと言いました。かつて、日本帝国は天皇が親であり、民は子供であるという意味として、日本を「国体」と呼びました。その神学者は、国体概念がヨーロッパのキリスト教世界観に由来したと言いました。日本帝国時代、ヨーロッパのキリスト教的世界観を国家神道に融合させたわけです。キリストは教会の頭、教会はキリストの体のように、国体も天皇を頭に、民を体にしたわけです。しかし、違う点は、国体は民が王のために死に、教会は王が民のために死んだということです。主は教会とご自分とを分離させられず、謙遜にご自分を低くされ、ご自身も頭として教会の一部になると十字架での死によって確定してくださったのです。したがって、聖書は教会を「一人の新しい人」と表現します。そのため、私たちは父なる神にキリストと一つになった存在として認識されます。「私」ではなく「キリストの中にいる私」として、神はキリストの中の私をご覧になります。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(16)だから、私たちはキリストの体として神と和解することが出来るのです。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、」(19)さらに私たちはキリストによって神の家族として認められることになったのです。 締め括り 記憶力の良い方なら、今日の新約の本文が、今年、最初の説教の本文と同じであることに気づかれたかもしれません。教会はキリストから始まり、キリストにあって終わる共同体です。神がキリストを通してのみ、私たちと関係を結ばれるからです。キリストなしに、私たちは神を知ることも、神に会うこともできないからです。教会共同体の最も根本はキリストであり、目標もキリストです。「わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。」(エゼキエル37:24-25) 今日、旧約の本文は神がくださる王について予言しました。私たちは、このダビデがイエス・キリストを意味する存在であることを知っています。平和のキリスト、あなたと私を一つにしてくださるキリスト、神と教会をつなげてくださるキリスト。そのイエス·キリストを頭とする、私たち志免教会のアイデンティティを憶えつつ、この一週間を生きていきたいと思います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

神が約束を思い起こされた。

出エジプト記 2章11~25節(旧95頁) ローマの信徒への手紙14章7~9節(新294頁) 前置き 主の恵みにより、飢饉を避けてエジプトに移住したヤコブの子孫は栄え続け、数十万人以上の決して小さくない民族に成長しました。しかし、ヤコブの家族がエジプトに入った時期の「イスラエルに友好的なエジプト王朝」が滅び、他の王朝が打ち立てられ、栄え続けていたイスラエルに大きな試練が訪れます。しかし、それはイスラエルの滅びのための試練ではなく、試練によって目を覚まし、イスラエルのいるべき約束の場所であるカナンに帰らせようとされる神の合図でした。キリスト者には、いるべき場所があります。いくら満足し、安らかなところにいるといっても、神のみ旨に適わない場所なら、そこはキリスト者のいるべき場所ではありません。キリスト者に試練が訪れる時、そういう場合が多いです。キリスト者のいるべきところ、つまり神のふところではなく、神と関係のない自分の罪の本性が願うところにいる時、神は試練と苦難といった主の御導きによって、ご自分の民の目を開かせ、主がお備えくださった場所に立ち戻る準備をさせられます。出エジプト記は、まさにその「主の民のいるべき場所」についての物語なのです。今日の御言葉を通して、私たちのいるべき場所とは何かについて考えてみたいと思います。 1. 主の御業は人間の権力や思想によっては成し遂げられない。 前回の本文で、モーセはファラオの王女の養子としてエジプトの王宮に入ることになりました。幸いにも、モーセは姉の知恵により、実の母を乳母として育てられたため、「ヘブライ人」のアイデンティティを失わないでファラオの王女の養子として育つことが出来たと思います。また、王女の配慮でモーセは当時のエジプトの高級学問を学び、エリートとして育つことになったでしょう。モーセは完全なエジプト人ではありませんでしたが、背後の王女の後見により、エジプト人も無視できないほどの権力と知識を手に入れたでしょう。つまり、モーセはヘブライ人とエジプト人の半ばにいる存在でした。おそらく、そんな位置にいたモーセは、自分だけがヘブライ人を政治的に救える唯一の人物だと思っていたかもしれません。エジプトでの権力とヘブライ人への理解が両立できる人だったからです。「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」(出2:11-12) しかし、そんなモーセの情熱が問題を起こしてしまいました。ヘブライ人の同胞を助けようとしながら、エジプト人を殺してしまったからです。モーセはエジプト人の遺体を沙に隠し、それをなかったことにしようとしました。 「翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが『どうして自分の仲間を殴るのか』と悪い方をたしなめると『誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか』と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った」(出2:13-14) 翌日、モーセが再びヘブライ人たちのところに行き、争いを仲裁しようとしたら、その中の一人がモーセに言い返しました。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」驚くべきことに誰も知らないと思っていたのに、すでに多くの人がモーセのエジプト人殺害を知っていました。ヘブライ人であるが、王女の後見でエジプト社会にいたモーセ。しかし、エジプト人殺害によって彼を目の敵のようにしていたファラオとエジプトの権力者たちは、彼を攻撃しようとしたでしょう。だけでなく、ヘブライ人の同胞も彼を認めていませんでした。とういうことで、モーセはもう持ちこたえられず、エジプトから逃げてしまったことではないでしょうか? ひょっとしたら、モーセは自分の背景と権力を利用してヘブライ人の指導者になり、イスラエルをエジプトから脱出させようと計画していたのかもしれません。彼には力と知識があったからです。しかし、彼のその自己存在感は、むしろ自分の計画を台無しにする障害になってしまいました。意気揚々としていた彼は、一晩にエジプト人にも、ヘブライ人にも、認められない犯罪者になってしまったのです。 以上の内容を通じて、私たちは主なる神の御業の成就について考えるようになります。神の御業は、人間の情熱や権力によって成し遂げられるものではありません。一時、隣国の韓国の教会では「高地論」という主張が流行したことがあります。文字通りに「キリスト者が社会の高い位置に上がり、社会を変化させなければならない。」という思想でした。ところが、何十年たった今、韓国の教会は韓国社会でそんなに好評ではありません。かえって、クリスチャンリーダーの中には不正を犯した人もいました。もしかしたら、日本の教会にも、そういう思想があるかもしれません。去年、金子道仁という外交官出身の牧師が参議院議員になりました。「隣人愛を国政に」という合言葉で、他の教派ではかなり人気だったと知っています。もちろん、私も彼の思いを応援しています。しかし、彼を支持するキリスト者の中には、彼が高い地位に上がって大きな影響を及ぼすだろうと、まるで日本の教会の希望であるかのようなニュアンスで話す人もいました。果たして、今後、彼は日本の政治と社会を変えることができるでしょうか? もし、主が彼を用いられ、変えようとされたら出来るかもしれませんが、彼自身の力では決して変えられません。世を変えるということは神がご自分の手を動かされる時に出来るものだからです。教会は、主の御手の道具として用いられるだけで十分です。もし教会が神の意志と関係なく(乱暴な言い方ですが)差し出がましく、自分で世を変えようとしたら、今日の本文のモーセのように困難に直面するようになってしまうかもしれません。 2. 主の御業は神の御心に基づいて成し遂げられる。 だからといって「教会は何もしなくて良い」という意味ではありません。先の金子道仁牧師は参議院議員という自分に許された場所で、また私たち志免教会は、私たちの日常の場所で、主に命じられた神への愛、隣人への愛、そして福音伝道に努めて生きれば良いです。そのような日常の中で、主はご自分の意思に従って世界を導いていかれるでしょう。私たちにできることは、主の御言葉に従順に聞き従いつつ、日常を生きていくことだからです。「ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。」(出2:23-25) エジプトからの脱出後、モーセはファラオの脅威を避け、ミディアン地方へ逃走しました。ミディアンは現在の紅海の東側地域(アラビア西部)を意味しますが、牧畜をしながら、流浪する、アブラハム系列の種族の名でもあります。ミディアン地域は砂漠であるため、羊の餌が足りなくて頻繁に移動しなければなりません。つまり、モーセは大帝国での安定した生活から離れ、決まった場所なく、移動し続けなければならない不安定なミディアンでの生活へと、その居場所が変わったのです。 「モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。」(出2:21-22)ミディアンの祭司の配慮で落ち着くようになったモーセは、以後「ツィポラ」という名の妻をめとり、息子「ゲルショム」をもうけました。「ツィポラ」はヘブライ語で「スズメ」という意味で「ゲルショム」は寄留者を思い起こさせる言葉です。それだけに、モーセはエジプトのエリートから、ミディアンの平凡な男に、その位置が変わっていたという意味でしょう。もうモーセには過去のような権力も、地位もありません。彼はただエジプト人にも、ヘブライ人にも、忘れられた普通の人になっていたのです。しかし、皮肉なことに彼が普通の人になったため、次の本文で神が彼に訪れられ、イスラエルの指導者にしてくださいます。先ほど前置きでお話ししましたように、キリスト者には自分のいるべき場所があります。モーセはエジプトの王子のように育ちましたが、そこが彼の場所ではありませんでした。モーセは自分の権力と知識でヘブライ人を導こうとしましたが、そこも自分の場所ではなかったのです。彼の場所は剣と槍を持った政治的な指導者ではなく、家庭を持った普通の男、杖を持った平凡な羊飼い、まさにミディアンでの生活でした。しかし、そのようになった時、はじめて神は彼を訪ねて来られたのです。 「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(出2:23-25) そして、過去のモーセがしようとしたイスラエルの指導者、出エジプトのリーダーの課題を、改めて彼にお委ねになりました。40歳の時、モーセが自分の情熱と血気でやろうとしたイスラエルの解放は、実は神の御業ではありませんでした。それはモーセ自身の業だったのです。しかし、モーセがミディアンの老人になって何の力もなく、羊飼いとして暮らしていた時、その時になって、神はイスラエルの先祖たちとの契約を思い起こされ、80歳の老人モーセを呼ばれ、神の御業に招いてくださったのです。つまり、神の御業は神の時に、神のご意志に従って成し遂げられるということです。また、神の御業は、人の意志と情熱ではなく、神のご計画と約束によって、私たちに与えられるものです。重要なのは「私たち自身の情熱」ではなく、「神のご意志」ということです。教会の生き方は徹底的に神の御心に教会の歩みを合わせることです。そして、その神がご自分の手を動かされる時に、教会は喜んでその方の御手の道具として用いられるべきなのです。 締め括り 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ書14:7-9) 前置きで、私は「キリスト者には自分のいるべき場所がある」と申し上げました。モーセは王宮での王子のような生活ではなく、荒野の羊飼いのような生活の中で、神に出会い、真のイスラエルの指導者と召されました。人の目にはみすぼらしいミディアンの荒野が、神の御目にはイスラエルの指導者がいるべき最適な場所だったわけです。私たちも時には、今こそ我が教会が動くべき時、あるいは何とかやらなければならないと気を揉む時があるかもしれません。しかし、そのたびに私たちは記憶しなければなりません。今現在、自分がいるべき場所はどこか? 今現在、自分のやるべきことは何か? ローマ書の言葉のように「自分のために生きるのではなく、主のために生き、死ぬ人生」を憶え、主の御心に私たちの歩みを合わせて、私たちのいるべき場所を分別して生きていきたいと思います。その人生の終わりに、間違いなく主なる神の慰めと祝福があると信じます。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

本質の変化

出エジプト記 19章5~6節(旧125頁) エフェソの信徒への手紙 2章1~10節(新353頁) 前置き 前のエフェソの信徒への手紙1章の2回の説教では、教会が持つ大事な二つの意味について学びました。その一つは、教会は主なる神が天地創造の前にあらかじめお定めになった主の民を、キリストによって、お呼び出しくださり、主に礼拝する存在として打ち立ててくださった「神を礼拝する共同体」ということでした。その二つは、イエス·キリストは教会だけでなく、この世のすべての上におられる、教会と世界の頭であり、教会はその方の体として、すべてを満たしているキリストの満ちておられる「キリストの体なる共同体」ということでした。私たちの志免教会も、そのような神に礼拝するキリストの体なる教会として天地創造の前に選ばれ、世のすべてを満たしているキリストに満ちておられる共同体なのです。私たちはエフェソ書を通して、教会とは何か、志免教会は主の体なる共同体として、どう生きるべきか、自ら考える機会を持たなければならないと思います。今日はエフェソ書2章の御言葉を通じて、教会という存在と主に呼び出された私たちがキリストによって本質的にどのように変化したのかを学び、もう一度私たちの存在理由について考える時間であることを願います。「教会」という共同体には確かな哲学と意義があります。キリストを知る知識に満ちた共同体、その方を宣べ伝える共同体、その方の御心に聞き従う共同体、私たちは教会の意味をはっきり憶えつつ生きなければなりません。 1. 生まれながら神の怒りを受けるべき者だった私たち。 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。…しかし、憐れみ豊かな神は…罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」(エフェソ書2:1-5一部) 今日の本文は「あなたがた」すなわち教会という共同体の意義を簡潔に教えています。本文によると、教会は前は死んでいたのに、今では神の愛によって生き返った存在です。ここで「あなたがた」とは1次的に「エフェソ教会」を、2次的には「世々の教会」を意味します。つまり、私たちは本文の言葉から、昔のエフェソ教会も、今エフェソ書を読んでいる志免教会も「キリストにあって過ちと罪による死から生き返った存在」であるということが分かります。そして、2-3節を通して、以前「過ちと罪」によって死んでいた私たちが、どんな状態だったのかを知ることが出来ます。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:2-3)「過ちと罪」のために死んだ存在であった私たちは「空中に勢力を持つ者」に従う存在でした。「空中に勢力を持つ者」に従う存在というのは「神の創造の摂理と御心」に従う人生ではなく、この世を支配する悪に従い、神に逆らう人生を意味します。「空中に勢力を持つ者」とは、よく言われる「サタン」のような邪悪な霊的存在を意味するとともに、最も根本的な意味としては、神の摂理に逆らうすべての思想や理念や精神とも言えます。 私たちがよく「サタン」と言う存在は、邪悪な存在、悪魔、悪霊などを意味する場合が多いですが、その語源となるヘブライ語は「逆らう者、対敵する者」に近いです。ですから、神に逆らい、敵対するすべての存在が「サタン」になりうるということです。つまり「誰かがサタンに欺かれて神に逆らうようになった。」と理解するよりは「神に逆らうからサタンと呼ばれる。」と解釈したほうがより正しいと思います。過去、神に逆らう人生を生きた私たち、主の御言葉と合わない人生を生きていた私たちは、もしかしたら「空中に勢力を持つ者、不従順な者たち、サタン」そのものであったかもしれません。だから、私たちは、自分の罪の理由を外から探してはなりません。自分自身が神に逆らう「空中に勢力を持つ者、不従順な者たち、サタン」の一部だったことを認め、自分の中から罪を探す心構えが必要です。私たちは自分の罪について他人のせいにしたり、言い訳をしたりすることが出来ないという意味です。キリストを知る前の私たちは、そんな存在でした。自分の「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた、生まれながら神の怒りを受けるべき者」つまり、本質的に主の怒りのもとにいる呪われた存在だったのです。神を知ろうともせず、神の御言葉に正反対に行い、真の主人である神を無視し、自分自身が神の座を奪い取って自らが主人となって生きる存在だったのです。それらが今日の本文が語る「過ちと罪によって死んだ者」の生き方であり、生まれながら神の怒りを受けるべき者であり、まさに私たち自身の過去の姿だったのです。 2. 本質の変化とは何か? ところで、今日の本文ははっきりと話しています。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ書2:4-6) 昔、神に逆らい、空中に勢力を持つ者の一部であるかのように生き、本質的に主の怒りの下にいる者として、過ちと罪によって死んだ私たちが、憐れみ豊かな神の愛とキリストの恵みによって生き返り、その本質がまったく変わったという意味です。つまり、私たちは自分自身の功績や力で変化を受けたわけではなく、神の憐れみとキリストの恵みによって、新たな存在となったのです。主の怒りの下にいた者が、主の恵みの下にいる者として生まれ変わったのです。そして、キリストの恵みによって教会という存在として召されたのです。ここで私たちは一つの真理を知ることができます。私たちの内から始まった罪の問題が、私たちの外からの、キリストの恵みによって解決され、それによって私たちが救いを得ることになったということです。私たちは「死の存在」でしたが、キリストによって「生命の存在」に変わったのです。これがまさに本質の変化です。キリストの外にいる時の私たちは「死」に支配される存在でしたが、キリストの中にいる私たちは「生命」であるキリストのご統治を受けていきる存在となったのです。 したがって、キリストの統治を受ける、主の体なる教会は本質的に「生命」の存在です。教会員一人一人が立派な者だから「生命」の存在となったわけではなく、教会の主であるキリストが「生命」の存在でおられるから、教会も生命の存在として神に見なされることになったわけです。私たちの本質が変わったということは、徹底的に受動的な意味を持つのです。唯一キリストの恵みでなければ、私たちがいくら努力しても本質の変化を成し遂げることはできないからです。「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ書2:9) だから、私たちは自分自身の行いを誇ってはなりません。「自分の立派な信仰を誇る。」ではありません。「自分に信仰をくださった主を誇る。」なのです。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェソ書2:10) そして私たちは徹底的にキリストにおいて「善い業」(私たちの善良な行いを意味するのではなく、主の善い御心に聞き従うこと)のために生きなければなりません。したがって、教会での私たちの業は「自分の信仰的な満足」を成し遂げる行為ではありません。教会の業は、ひたすら「イエスによる神の御心」に従順に従うことであり、その御心が成し遂げられるために主の栄光のために生きることなのです。時々「キリストの手足となって隣人に仕える。」という言葉をよく耳にしますが、キリストの手足となるということが、まさに善い業(神の御心に聞き従う生き方)という意味ではないでしょうか。 締め括り 出エジプト後、主の山(シナイ山)にイスラエルの民をお呼び出しになった神はモーセにこのように言われました。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19:5-6) 神はその昔、アブラハムと結ばれた契約のもとで、イスラエルに聖なる民としての本質的な変化を命じられました。これは過去のエジプトの奴隷だったイスラエルが、本質を変えて神の聖なる民に生まれ変わる大事な意味のご命令でした。新約時代の教会は、旧約時代のイスラエルの精神的な延長線の上に立っています。それは、空中に勢力を持つ者に従い、自分だけのために生きていた私たちが、キリストにあって、その本質が変わり、神の御心に聞き従う存在とならなければならないということです。私たちは果たして本質が変化した存在として生きているでしょうか? 私たちは死ではなく生命の本質を持った存在にふさわしく生活しているでしょうか? 私たちの生活の中にキリストの香りが漂っているでしょうか? 死から生命へとその本質が変化した存在、教会はそのようなキリストによる生命の勢いを発して生きるべき存在です。神と隣人を愛し、自分より主の御心と隣人の有益のために生きなければなりません。そのような人生こそがまさに教会という共同体が当然追求すべき生命の生き方ではないでしょうか。エフェソ書の言葉を通して、志免教会のあり方を再確認する私たちであることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

危機ではなく機会。

出エジプト記 2章1~10節(旧95頁) ペトロの手紙一 1章5節(新428頁) 前置き 前回の出エジプト記の説教では、ヘブライ人(イスラエル)の男の子が生まれたら殺せというファラオの抑圧と、それに抵抗した2人の助産婦の信仰について話しました。ファラオの命令に従わず、神への畏れをもって抵抗した二人の助産婦の名前は、シフラとプアでした。シフラは「清い」プアは「輝く」という意味でした。旧約聖書は登場人物の名前を通して、その人の性格を示すケースが多いですが、シフラとプアもそのような意味で、望ましい信仰の人物として描かれています。彼らは神への畏れから、この世の権勢に抵抗する弱いが勇気を持っている信仰者でした。彼らの信仰をご覧になった神は、彼らに知恵を与え、守り、祝福してくださいました。前回の説教を通じて、私たちは教会がどのように世の悪い権勢に抵抗して生きるべきかについて考えることができました。現代では、教会への目に見える抑圧はほとんどありません。しかし、少なくとも主の教会を成す私たちキリスト者は、この世の悪い権勢とは何であり、それによって抑圧される時、どのように対応していくべきかを悩みつつ生きる必要があると思います。 1. ファラオの抑圧とモーセの脱出。 「ファラオは全国民に命じた。生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト1:22)かつてヨセフが総理だった王朝である「ヒクソス人の王朝」が終わり、再び権力を握ったエジプト人はヒクソス人と同じ系統のヘブライ人がエジプト国内で増加することをただ見ていられませんでした。そこで、ヘブライ人の大人へのエジプト人の抑圧がありましたが、神の恵みにより、ヘブライ人はむしろさらに増えていきました。また、ファラオはヘブライの助産婦に男の子を殺せと命じましたが、助産婦は賢くその命令に抵抗しました。結局、ファラオは、その抑圧の対象をヘブライの大人から直接男の子たちに変えたました。そんな状況で、レビ族のある夫婦が息子を産みましたが、その子がまさに出エジプトの主人公であるモーセでした。「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。」(出エジプト2:1-2)新共同訳聖書にはその男の子が「かわいかった」と書いてあります。「かわいい」にいろいろな意味があるでしょうが、原文的にはヘブライ語の「トーブ」の翻訳です。「トーブ」は「良い」という意味で、神が天地創造の時、被造物をご覧になって言われた「良し」と同じ表現です。出エジプト記はこの「良い子」を通して、将来、神がなさる「良い業」を予告したのです。 「しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。」(出エジプト2:3) ところが、この「良い子」は生まれてすぐ大きな逆境に直面することになります。「男児殺害」の現場で、もはや隠しきれなくなった親は、少なくとも殺すわけにはいかないという心で、息子をパピルスの籠に入れてナイル河に流しました。出エジプト記は、ここで創世記の記録と重なっているようなイメージを記録します。それは籠です。籠はヘブライ語でテバと言います。そしてまた「テバ」は創世記のノアの箱舟を意味する表現でもあります。創世記では、神が水で罪に満ちた世を滅ぼされた時、ノア家族だけが「テバ」に乗せられ、救われることになったと記されています。男の子はやむなく親から離れてナイル河に流されれなければなりませんでしたが、この子はテバに乗っていました。ここで、私たちにこの子の運命が分かってきます。彼は神によって救われると予想できます。おそらく昔のイスラエル人は、このヘブライ語の単語を見て、誰でもノアの箱舟を思い起こしたはずです。「箱舟によって生き残ったノアの家族のように、この子もパピルスの籠に乗って救われるだろう。」このように旧約聖書は人の名前や、ある物事のイメージに特別な意味を含ませたりもします。 2. 女性たちの活躍。 「その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると」(出エジプト2:4)男の子はパピルスの籠に乗ってナイル河に流れていきました。そして、彼の姉は遠くから籠がどこに流れていくかを見守っています。ところで偶然にも、その籠はファラオの娘のところに至りました。「ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、これは、きっと、ヘブライ人の子ですと言った。」(出エジプト2:5-6) ファラオの娘なら、きっと父親によって行われる「ヘブライ人の男児殺害」について知っていたはずです。それでも、彼女はヘブライ人の子を哀れに思いました。おそらく、彼女の母性愛がヘブライ人の子であることが分かったにもかかわらず、知らないふりをさせなかったわけでしょう。神はエジプトの王女を用いられ、最も危険な目にさらされたヘブライ人の子を、最も安全なエジプトの中心部に送られたのです。「そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」(出エジプト2:7) だけでなく、籠を見守っていた男の子の姉は、大胆にも王女に近づき、乳母が必要ではないかと尋ねることさえします。 おそらく、姉は死を覚悟して王女に近づいたことでしょう。そして、その結果は驚くべきものでした。「そうしておくれと、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますからと言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ」(出エジプト2:8-9) 男の子は王女の養子となり、また実母によって育てられることになったのです。神は男の子の母親、姉そしてエジプトの王女を用いられ、死にさらされていた彼を助け、また彼を当時の最も安全な場所である王女のもとに送られました。神はこの3人の女性を通して神の御業を成功的に成し遂げられたわけです。それは女性の活躍を顕かに示す箇所でした。神は女性を大切に思って用いられる方です。もし愛する息子を生かすための母親の情熱がなかったら、弟を守るための姉の勇気と覚悟がなかったら、ヘブライの子を助けたいとの王女の決断がなかったら、この子「モーセ」はどうなったでしょうか? 男もできないことを3人の女性が果たしたわけです。このように神は女性を用いられ、主の教会(イスラエル)を健全に建てられたのです。日本は比較的に男性中心の社会だと思います。しかし、もし女性がいなければ、日本の教会はどう保たれるでしょうか?志免教会の姉妹の皆さんも神に用いられる主の働き手としてプライドを持って生きていかれるよう祈ります。 3. 民の危機は主からの機会。 今日の説教のタイトルは「危機ではなく機会」です。 つまり、今日の本文のテーマは「逆説」であります。民に迫ってきた危機は、神が与えられる機会になりうるということです。神はイスラエルの民に、ただ「気楽に暮らしなさい」という意味として、彼らの先祖をエジプトに送られたわけではありません。神はすでに創世記の御言葉を通して、アブラハムにはっきり言われました。「主はアブラムに言われた。よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」(創世記15:13-14) 主はアブラハムの時から出エジプトについて予告されたのです。わずか70人の家族でエジプトに入ったアブラハムの子孫たち、すなわちイスラエルは、もう数十万になってエジプトという卵殻を破り、神の約束の地であるカナンに出ていかなければなりません。しかし、イスラエルはエジプトでの生活に慣れすぎて出エジプトのことは全く考えていませんでした。イスラエルに降りかかったエジプトの抑圧は実に辛いです。エジプトによって無実に殺された男の子たちのことは、とても悲しいです。しかし、この苦しみと悲しみといった危機はイスラエルが目覚め、自分の 進むべき方向がどこなのかを知らせる機会となりました。危機が機会となったわけです。イスラエルは今やエジプトという悪夢から目覚めなければなりません。そして神がお備えくださった約束の地であるカナンに進んでいかなければなりません。 今日の本文に登場するパピルスの籠の子モーセは、実はイスラエルを象徴する存在とも言えます。エジプトの抑圧のもとで、どこに進むべきかも分からないまま、何もできずに川に流される非常に不安な存在、イスラエルは、まるでそんな赤ちゃんモーセと似ています。しかし、神はその不安な存在であるモーセをエジプト王女のもとに導かれ、水から引き出されるように導いてくださいます。 (モーセという名前はヘブライ語で水から引き出すという意味の「マシャ」に由来します。)このようなモーセの姿からイスラエルの未来を予想することが出来ます。イスラエルは危機の真ん中で何もできなかったが、まるで籠(箱舟)に乗ったかのように神のお導きによってエジプトから脱出する機会を得ます。まるでモーセがナイル河から引き出されたように、紅海を渡って新しい救いの地に進むようになるでしょう。何もできない存在ですが、すべてがお出来になる存在によって危機の中から機会を得るようになるでしょう。私たちの教会も同じです。私たちには出来ることより、出来ないことがさらに多いです。 特に他国の教会に比べて規模が顕かに小さい日本の教会はなおさらです。現在も教会はますます小さくなっています。しかし、私たちは憶えなければなりません。私たちが河のような世の中で、何もできない存在のように見えようとも、私たちの背後にはすべてがお出来になる神がおられることを。そして神は私たちの弱さ、危機を通して、むしろ強さと機会を与えてくださる方であるということを。 締め括り 今日の説教を準備しながら、新約聖書のペトロの手紙の言葉が思い起されました。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(第一ペトロ1:5) 主の民の危機が、むしろ神による機会になりうる理由は、主の民は主の御守りの中に生きる存在だからです。つまり、神がキリストを通して、私たちを守ってくださるからです。第一ペトロの言葉のように「終わりの時に準備されている救い」すなわち、キリストがこの世に再び来られる再臨の日、すべてを屈服させ、主の勝利を宣言する終末の日まで、私たちは神の力によって守られて生きていく存在です。したがって、私たちに迫ってくる危機は、神の御守りの中で、むしろ機会となってくるものでしょう。キリストが十字架での死という危機を十字架での復活という機会に変え、死から命をもたらされたように、私たちの教会も神のお導きのもとで危機を機会として生きていくでしょう。神が志免教会の弱さと必要を知っておられ、新しい機会をくださることを信じます。そのような主の御守りと御助けを待ち望みつつ、主と共に歩いていく私たちであることを願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。