十字架がなければ、復活もない。

詩編126編1~6節 (旧971頁) ガラテヤの信徒への手紙2章19~20節 (新345頁) 前置き 復活なさった主イエス·キリストを讃美します。キリスト教は救い主イエスの復活を信じる宗教です。私たちは聖書に書いてあるとおり、神であるイエス·キリストが罪人を救ってくださるために、この地上に来られたことを信じます。また、罪によって苦しむ罪人に贖いの良い知らせ、すなわち福音を宣べ伝え、罪人の友になって癒してくださったことを信じます。私たちは、キリストが罪人の贖罪のために苦難を受けられ、十字架につけられ死んでくださった後、3日目に復活なさって罪人に救いの道を開いてくださったことを信じます。私たちはクリスマスを通して救い主イエスの人間としてのお生まれを記念し、またイースターを通して救い主イエスの死と復活を記念します。これらすべてはキリスト者の信仰において絶対に諦められない大事な価値であり、教えであります。今日はイースターを迎え、キリストの復活について話してみたいと思います。 1. 肉体の復活と霊の復活。 復活とは何でしょうか? ご存知のように、復活とは死者が再び生き返ることを意味します。ところで、この復活とは単純に生物学的に死んた肉体が生き返ることだけを意味するのでしょうか? 生物学的に肉体が生き返ることだけを復活だとすれば、もしかしたら、この世の中にはまだまともに復活した人がいないかもしれません。なぜなら、再び生き返った人は人類の歴史上、救い主イエスを除いて一人もいないからです。そうであれば、私たちはキリスト教の復活をどう理解すれば良いでしょうか。私たちはまず、肉体の復活と霊の復活という二つの概念から復活について考える必要があります。キリスト教が語る肉体の復活は、遠い未来に起こる終末の出来事と言えます。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(第一コリント15:51-52) 使徒パウロは第一コリントを通して、この世の終わりに起こる復活について話しました。この世の造り主である神が終わりの日、ご自分の子イエス·キリストをこの地上に再び遣わされる時(再臨の日)、イエスを主と崇める者たちは、死から生き返ることになります。すでに朽ちたり、燃えりした肉体も神の不思議なお働きによって、完全できれいな姿に生き返るのです。 こういう肉体の復活はキリスト教の最も重要な教理の一つであるため、信仰を持った人なら、誰でも堅く信じる教えです。しかし、今すぐ私たちの周辺では、起こり得ないことですので、未信者たちに客観的に証明することができない復活でもあります。そういうわけで、私たちは霊の復活に目を注ぐ必要があります。聖書は霊の復活を「新たに生まれる」という表現で言う場合もあります。「イエスは答えて言われた。はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。イエスはお答えになった。はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3,5) ヨハネによる福音書で、イエスは新たに生まれることの特徴について、このように言われました。「第一、神の国を見ること、第二、水と聖霊とによって生まれること。」第一に「神の国を見る」の意味は何でしょうか? キリスト教が語る神の国は、死後の来世だけの意味ではありません。現世であれ来世であれ、神に治められるすべての場所がすなわち神の国なのです。ですから、神の国を見ることとは、神のご統治を待ち望むこと、神による信仰にあって生きることです。つまり、霊の復活を経験した人とは、何があっても神のご統治を待ち望み、また、そのように生きることを誓う信仰者のことを意味します。 第二、霊の復活を経験した人、すなわち新たに生まれた人は「水と霊とによって生まれた人」です。「水による」とはキリストの贖いによって清くなることを意味します。自分の罪に無感覚で世俗的だった人が、まるで水で洗われたかのようにキリストの贖いによって新たにされ、信仰の人生を追い求めるようになることです。それによって、自分だけのために生きてきた人が、他人に仕えるようになり、自分だけを愛した人が、神を愛するようになり、自分の欲望だけを追求した人が、神の御心に聴き従うようになること、聖書はそれを水によって生まれることと言うのです。では、「霊による」とはどういう意味でしょうか? 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ福音書14:26) 人は自力で水によって清くなれないので、霊、つまり聖霊なる神が、人を助け導いてくださるという意味です。したがって「水と霊とによって生まれる。」とは、聖霊の導きによってキリストの贖罪を受け、清くなった信仰者のことを意味します。キリストの贖いによって新たになった信仰者が、すなわち神の国を見る人、水と霊とによって生まれた人、まさに霊の復活を経験した人なのです。 2. 十字架がなければ、復活もない。 さて、ここで一つ考えたいことがあります。肉体の復活は、遠い未来、キリストの再臨の時に起こる出来事であり、霊の復活は、キリストの贖いによって信仰者になることであるから、過去の霊の復活をすでに経験し、未来の肉体の復活をただ待つしかない私たちは、もうこれ以上、復活について何も考えずに生きても良いのでしょうか?ヨーロッパの宗教改革を触発したマーティン·ルーターは中世カトリック教会の改革を訴え、95ヵ条論題を掲げました。そして、その最初の条項は次のとおりです。「私たちの主であるイエス・キリストが、悔い改めよと言われたとき、彼は信仰者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」第一条のイエスが「悔い改めよ」という言葉で信仰者の全生涯が悔い改めであることを命じられたとありますが、その原型はマタイ福音書4章17節です。「イエスは、悔い改めよ。天の国は近づいた。と言って、宣べ伝え始められた。」「悔い改めよ。」という表現の原文はギリシャ語の現在形そして命令形の動詞です。文法的に能動的で反復的な行為を命令する時に使われる表現でもあります。つまり、一生悔い改めを繰り返して生きることを命令する文章なのです。ルーターはこの言葉を参考にして95ヶ条論題の最初の文章を書き始めたのです。このような能動的で反復的な悔い改めへの促しは、後日、改革教会の大事な合言葉として位置づけられ「改革された教会は常に改革されなければならない」という大事な教えを残しました。 つまり、キリスト者は、一度だけの悔い改めに満足してはならないという意味です。キリスト者は繰り返して自分のことを省み、悔い改め、信仰によって生きるべき存在です。それこそが、真の改革なのです。これは復活に対する私たちの姿勢にも同じく適用されます。「私はすでに信仰を持った人として霊の復活を経験した。そして肉体の復活は遠い未来のことなので待つしかない。だから、もうこれ以上復活について悩む必要はないだろう。」ではないのです。改革教会が常に改革されなければならないことと同じように、霊の復活を経験した信仰者である私たちも毎日霊的に新たに生まれ、復活の人生を生きていかなければならないということです。キリストにあって、毎日復活し、昨日の自分に対して死に、新たにされた自分となって生きていかなければならないということです。つまり、私たちは毎日死んで毎日復活するべき存在なのです。そのため、復活は今日もまた私たちに与えられる神からの信仰の課題なのです。昨日隣人を憎んだら、今日は隣人を愛するために復活しなければなりません。昨日嘘をついたら、今日は真実になるために復活しなければなりません。昨日不信仰だったら、今日は真の信仰であるために復活しなければなりません。私たちの毎日の生活が復活の連続でなければなりません。したがって、イースター(復活節)は毎年4月の、ある一日だけを意味するものではありません。私たちの全生涯が繰り返し復活するイースターであるのです。 使徒パウロは言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」復活のためには死が前提となります。私たち、キリスト者は毎日昨日の自分に対して死に、今日の自分に対して生きる復活の人生を求めるべき存在です。したがって、聖書は私たちに自分の十字架を負うことを促します。十字架は死刑道具であり、キリストは十字架で死に、復活されました。私たちも、主のように毎日自分の十字架を負って罪に対して死ななければなりません。そしてキリストが復活されたように、信仰による新たな存在として復活しなければなりません。他人を憎む自分は死に、他人を愛する自分として復活しなければなりません。信じられない自分は死に、信じる自分として復活しなければなりません。私たちはキリストと共に十字架で死に、キリストと共に再び復活したキリスト者です。そしてキリストにあって復活した存在として毎日を生きていく存在でもあります。それが霊の復活を経験した者が求めるべき生き方ではないでしょうか。毎日死ぬというのは難しいことです。信仰によって、自分自身を徹底して制御することだからです。自分を制御することが、まさに私たちにおいての自分の十字架なのです。しかし、その十字架での死があってこそ、私たちの人生は真の復活の人生を生きることが出来るようになるのです。 締め括り 「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編126:5-6) この言葉は私の大好きな詩篇の一つです。自分のことを十字架につけ、復活した存在として一日を始めるというのは非常につらいものです。しかし、涙で種をまく者は喜びで刈り入れるという言葉のように、つらい十字架を負う人は、まことの復活の者として神による喜びにあって生きるようになるでしょう。自分の昨日の悪い生き方を十字架につけ、信仰によって新たになった今日を生きる復活のある人生。それこそがキリスト者の進むべき、復活の道ではないでしょうか? 今日の説教はかなり神学的で比較的に難しい内容だったと思います。お久しぶりにお越しくださった方々には本当に申し訳ございませんでした。しかし、主なる神が、ここに集っておられる皆さまに聞く耳をくださることを祈ります。主イエスの復活を記念するイースターです。主の復活を喜ぶ一週間になることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。