エルサレム神殿の崩壊。
アモス書 9章1-4節 (旧1440頁) マルコによる福音書13章1-13節 (新88頁) 前置き 今日の本文で、主は神殿の崩壊を予告されます。これまで、数回の説教を通して、主が神殿で経験された様々なエピソードをお話しましたが、結局、主はエルサレム神殿が本来の機能を失い、ただ、人の欲望だけを満たす有名無実の場所になっているのをご覧になり、裁きと滅びを予告されたわけです。神はなぜ、神殿をくださったのでしょうか。神殿は地上の民が、天の神と会う礼拝の場です。神は神殿の至聖所で大祭司を通して民と会ってくださいました。イザヤ書は、この神殿を祈りの家と呼びました。しかし、実状はどうだったでしょうか。 メシアを歓迎することも、貧しい隣人を愛することもない場所になっていました。そこには宗教的な見掛けが残っているだけで、神への真の信仰と隣人への奉仕が欠けていました。神殿は人間の欲望だけが沸き立つ強盗の巣になっていました。そういうわけで、主は神殿の滅びを予告されたのです。「わたしは祭壇の傍らに立っておられる主を見た。主は言われた。柱頭を打ち、敷石を揺り動かせ。すべての者の頭上で砕け。生き残った者は、わたしが剣で殺す。彼らのうちに逃れうる者はない。逃れて、生き延びる者はひとりもない。」(アモス9:1) 主は新約の神殿である教会を甘やかされません。教会の罪を見逃されません。ですから、私たちは常に自分のことを弁え、主の御心に適う教会として建てられていくべきです。 とういうことで、今日は神殿について考えてみたいと思います。 1.神殿の崩壊を予告される主。 まず、エルサレム神殿について話してみましょう。歴史上、社殿は3つの形であったと言われます。一番目は、ソロモン王が父ダビデの遺志を継ぎ、神のお許しをいただいて建てたソロモン神殿で、バビロンの侵略によって崩れました。二番目は偶像崇拝と多くの罪によってバビロンの捕囚となったイスラエルが、以後、ペルシャ帝国の許可を得てユダヤに戻り、再建したゼルバベル(当時総督ユダヤ王族)神殿です。そして、3番目は、ゼルバベル神殿を増築したと言われるイエス時代のヘロデ神殿です。このヘロデ神殿は西暦70年にローマ帝国とユダヤ人の戦争で粉々に崩れてしまいます。先ほど、申し上げたように、神は民との会いの場所として神殿をくださいました。この神殿は祈りと礼拝を通して神に会う聖なるべき場所でした。なのに、ユダヤの指導者たちはローマ帝国、そして商人たちと結託して神殿を商売の場にしてしまいました。また、彼らは神に遣わされたメシアイエスを見分けられず、むしろ迫害し、憎み、結局は殺そうとしたのです。主さえも見違えるほど、暗くなっていた彼らが隣人愛なんてしていたものでしょうか。 つまり、礼拝の場所が裏切りの場所になってしまったということです。だから、主は神殿の必要性がなくなったと判断され、その結果として神殿の崩壊を予告されたわけです。今日の本文1節で弟子たちはエルサレム神殿を見て感心します。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 弟子たちは愚かにも、神殿の問題点を見抜くことができず、ただ素敵なうわべだけに圧倒されていたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」しかし、主は弟子たちの考えとは裏腹に、決然と神殿の崩壊を予告されます。以後、神殿の反対側のオリーブ山に登った時、弟子たちはきまり悪く尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(13:4) 興奮してエルサレム神殿の威容を称えていた弟子たちは、主の御言葉に驚いたわけか、いつ神殿が崩れるのか、その時にどんな徴があるのか尋ねます。それに対して主は5-13節のことばで、神殿の崩壊の徴を言われます。何度も申し上げましたが、新約時代においての神殿とは、教会堂のような建物ではなく、主を頭とする教会共同体を成している私たちです。旧約の神殿が神殿としての機能を果たしていなかった時、主は惜しげもなく神殿の崩壊を宣言されました。主はまた、新約の神殿である教会が教会らしくない時「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と警告される方なのです。人が多くなり、建て替えするからといって素晴らしい教会になるわけではありません。どんなに素晴らしい教会だと言っても、主の御心に適わなければ、その教会はまるで粉々に崩れてしまった旧約の神殿のように主の裁きを受けることになるでしょう。 2.霊的な神殿を崩す惑わす者 文脈を考えずに13章を読むと、その内容がまるで、この世の終末を示しているようです。もしかしたら、ヨハネの黙示録が思い出されるかもしれません。実際、13章の一部である14節以降の言葉は、世の中の終末の時を想定して読んでも構わないと言う学者もいます。しかし、私たちは今日、1節から13節の言葉について話しています。また冒頭に神殿の崩壊という表現もありますので、神殿の崩壊という脈絡で、この言葉を考える必要があります。「イエスは話し始められた。人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」(5-6) 主は神殿の崩れの時について明確には言われませんでした。しかし、主の御名を名乗る者が現れる時について言われました。実際、当時のユダヤには、自称メシアが何人かいたと言われます。しかし、最大の自称メシア(キリスト、救い主)は、ローマ帝国の皇帝でした。ユダヤの指導者たちは、自分らの安寧のためにローマ帝国に屈服し、神より人の権力をさらに恐れていました。世の中には、すでに自称キリストが存在し、神殿は崩れる一歩手前の状況だったのです。私たちも、いつも惑わす者に注意しなければなりません。キリスト以外に他の救い主を強要するカルトなどに注意しなければなりません。しかし、最も注意すべきのは、私たち自身の心です。主の言葉より先立つ自己信念、教会の和合を乱す自己欲望に注意しなければなりません。 主イエスの福音ではなく、自分の思想を強要する牧師に注意しなければなりません。互いに対立して教会を分裂させる人にならないように注意しなければなりません。これら、すべてはキリストの御言葉より自分自身の思いを押し立てることによって生じるものです。「惑わす者」とはキリストのみ言葉に逆らい、それを広める者です。英語で「アンチ·キリスト」です。自分自身もアンチ・キリストになりうるということを用心して、常に信仰と生活を顧みて生きるべきです。自分の間違いによって新約の神殿である教会が崩れうるということをいつも心に留めて生きましょう。かつて日本帝国では、今とは比べ物にならないほど民族主義の勢いが強かったです。信徒たちの中にも自分の信念に陥ってしまい、キリストの上に天皇を置くというおかしい状況が起きました。その結果、教会はキリストを礼拝する共同体ではなく、日本帝国のための教会になってしまいました。礼拝の前に宮城遥拝がありました。日本の教会だけではありません。植民地の教会も同じだったのです。教会の指導者たちが教会を守るという名目で教会の頭であるキリストを裏切りました。御言葉の先に人が立ってしまったのです。その結果、主の教会はまるで旧約の神殿のように機能を失ってしまいました。これこそが教会の崩壊なのです。霊的な神殿の崩壊なのです。私たちは過去の先達が犯した間違いを二度と繰り返してはなりません。惑わす者を拒み、キリストのみに服従する教会になることこそ、霊的な神殿である教会を丈夫に建てていく一本道なのです。 3。 「自分」という古い神殿を崩せ。 今までは、神殿を教会のモデルとして適用して話していましたが、これからは見方を変えて、古い自分の信仰という見方から考えてみたいと思います。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(第一コリント3:16) 第一コリントは、信徒が神の霊の住い、神殿であると表現しています。キリストのからだとなった教会を成す私たち一人一人が神が住んでおられる神殿なのです。ところで、新約の神殿の一部となった私たちも、習慣的になった信仰のゆえに、まるでイエス時代のエルサレム神殿のように生気を失った習慣的な信仰者になっているのかもしれません。私が最も懸念している信仰の姿。それは定型化された宗教生活を信仰だと思い違える姿です。もし、私たちにそのような姿があるとすれば、私たちは「自分」という古い神殿を崩さなければなりません。 そして、主の恵みによって新たになった神殿として建てられなければなりません。その時に必要なのが、私たちに与えられる苦難なのです。神は信徒の苦難を用いられ、信徒を新たにしていかれる方からです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」(7-8) 戦争の騒ぎは、戦争そのもの、戦争のうわさは社会的な不安のことでしょう。 地震と飢饉は自然災害のことでしょう。このような恐ろしいことが神殿の崩壊の時に起きると、主は予言されました。実際にエルサレムの神殿が崩れた時の、ユダヤの状況は修羅場だったと言われます。ユダヤとローマの戦争があり、パレスチナの情勢は非常に不安定だったようです。また、地震や飢饉もあったと言われます。これは歴史的な背景です。しかし、 個人の信仰として「自分」という古い神殿が崩れる時も、心の中で、このようなことが起こることもあります。思い煩いと人間関係の試練、生活の困難による心細さ。しかし、このようなことがある時に漠然と恐れるより、自分の信仰を振り返り、神に目を向けるきっかけになれば幸いです。このようなすべての苦難は古い神殿のような私たちの信仰を崩し、新しく建てれた神殿、すなわち神の御前に健全な信仰者として生まれ変わる産みの苦しみ(産痛)の始まりだからです。旧約の神殿の没落は、主の教会を世界中に広める促進剤となりました。宗教の中心がもはやエルサレムではなくイエス·キリストに替わりました。そうして、教会は古い神殿を離れ、新しい神殿に生まれ変わったのです。このように私たちの信仰にも古い神殿の崩壊が必要です。そうしてこそ、主のからだと認められる教会の一員として新しい神殿として建てられるからです。 締め括り 今日は、時間の関係で、本文全体を説教することはできませんでした。残りの箇所は次の説教でまた話しましょう。今日の説教は多少抽象的な説教だったと思います。実際、13章自体が説教するに難しい本文です。しかし、その中でも、私たちの信仰生活に適用できる部分があったと思います。今日の説教で話した内容を、もう一度整理してみましょう。第一、神殿が神殿らしくない時、主は神殿を滅ぼされました。教会が教会らしくない時、教会も裁かれるでしょう。第二、霊的な神殿である教会は、キリストの御言葉より人間の思いを先立てる時に崩れるでしょう。第三、「自分」という古い神殿が崩れてこそ、キリストのからだという新しい神殿、真の教会に生まれ変わることができるでしょう。だから、苦難は私自身を新たにする産みの苦しみの始まりでしょう。私たちは、主のからだ、新約の神殿としてどう生きているでしょうか。今週も私たち自身が神の住い、神殿であることを憶え、神の神殿として正しく生きているかどうか振り返って生きていきたいと思います。主の恵みが志免教会をなす皆さんの上に豊か注がれますように。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。