まことの信仰。

サムエル記上15章22節 (旧452頁) マルコによる福音書12章35-44節 (新87頁) 前置き 久しぶりにマルコによる福音書を説教することになりました。約1ヶ月半ぶりです。それで、説教を始める前に前回の説教について手短に触れてから、今日の本文に入りたいと思います。11章12章の本文の主な内容はユダヤの宗教指導者たちの挑発的な質問に対する主イエスのお答えでした。権威についての論争、ローマ皇帝に税金を払うべきかどうかについての論争、復活についての論争、最も重要な掟は何かについての質問など。当時のユダヤの宗教指導者たちがどれほど聖書と信仰を誤解していたのか、現実を赤裸々に明かす内容でした。今日の本文も、そのような宗教指導者の間違いを告発する内容です。今日の本文を通して、主は私たちに何を教えてくださるでしょうか? 一緒に考えてみましょう。 1.主の御言葉への理解 今日の本文に入る前に、まず知っておくべきことは、35から44節までの言葉が互いにつながっているということです。一見、ダビデとメシアについての話、律法学者の間違いへの糾弾、貧しいやもめの献金へのイエスの好評など、別々に分けられた関係のない話のように見えるかもしれませんが、それらは一つの主題のためにつながる話で、当時の宗教指導者たちの間違った信仰が、ユダヤ社会にどのような悪い影響を及ぼしたのかを示す、いわば告発なのです。11章で主イエスが十字架のためにエルサレムに到着し、一番最初になさったのは、ユダヤ社会の中心地である神殿への訪問でした。主が神殿に訪問された理由は、イエスの時代のユダヤが果たして神の御言葉に従順に従い、主の民らしく生きているのかをお確かめになるためでした。つまり、神殿はユダヤの信仰状態を現す象徴だったのです。しかし、皆さんもご存知のように当時の神殿は本来の機能を失い、まるで「強盗の巣」のように、宗教指導者の懐を満たす所になっていました。そういうわけで、主は神殿から商人たちを追い出されたのです。(マルコ11:15-17) 堕落した宗教指導者たちが治めるユダヤは、神の御言葉を正しく理解していませんでした。宗教指導者たちは熱心に宗教行為を行っていましたが、それは主の御心とは関係ない虚しい熱心でした。今日の本文35-37節も宗教指導者たちが、いかに旧約の言葉に無知だったのかを示す主の指摘だと言えます。 「どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまでと。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」(マルコ12:35-37)当時のユダヤには「昔の人の言伝」と呼ばれる伝統が旧約聖書に次ぐほど、大事にされたと言われます。これは旧約聖書を解釈した「タルムード」の中で「ミシュナ」という解釈集であると推定されます。人による聖書の解釈が聖書と同じくらいに大事にされたということです。ところが、「ミシュナ」を現代神学の観点から見ると、とんでもないでたらめのような場合が多いです。例えば、「安息日に働いてはならないから、くぼみに落ちた隣人の牛を救ってはならない。」「妻が(隣の妻よりきれいでない、料理がおいしくない)気に入らなかったら離婚状を書いて離婚しろ。」といった、愚にも付かぬことが聖書くらいに大事にされたということです。ユダヤ人が、この「昔の人の言伝」を大事にすることによって生まれた最も大きな問題は、聖書を本来の意味と全く違うように理解してしまうことでした。というわけで、今日の本文に書いてあるように、ダビデの子、つまり、かつて隆盛したユダヤ王朝の子孫ということで、メシアをダビデ王を受け継ぐ政治的、あるいは世俗的な人物として認識する風潮がユダヤに広がっていたようです。 したがって、今日の本文を通して、当時のユダヤ社会がどれほど主の御言葉に無理解だったのかが分かります。「メシアはダビデ王の子孫なので、政治的な自由をもたらす軍事的な指導者として来るだろう。だから、ダビデの時、征服した昔のイスラエルを再建し、ローマ帝国から解放し、ユダヤ民族に富と力を与えるだろう。」と誤解していたわけです。聖書が語るメシアのあり方は、主の民を罪から救い、神と和解させ、全人類を束縛から解放する、使命を持っている救い主です。しかし、ユダヤの指導者たちは聖書への無理解で、メシアをダビデ王の子孫、ユダヤ民族だけのための救い主という、小さな箱の中に閉じ込めてしまったのです。35-37節はダビデのメシア詩である、詩篇110編の言葉を引用した言葉です。メシアの先祖であるダビデ王自らがメシアを主として崇めているのです。主がこのダビデの詩篇を引用してメシアがダビデ王より優れた存在だと教えてくださった理由は、ユダヤの宗教指導者たちから始まったメシアへの無理解を、御言葉に基づいて正されたものと思われます。現代の教会にも御言葉の本来の意味とは関係ない、人の価値基準が、御言葉の座を脅かしているかもしれません。教会の伝統という名目に落ち込まれて、御言葉と関係ない基準で教会を運営している場合があるかもしれません。御言葉の本来の意味を正しく学び、まともに従っているかどうか、常に御言葉を通して顧みるべきだと思います。 2.御言葉による正しい信仰のために。 私たちは以上の35-37節の理解をもとにして後に出てくる38-44節の言葉を理解しなければなりません。主は前の言葉を通してユダヤ社会、特に宗教指導者たちが御言葉に無理解であることを指摘されました。続いて、主は具体的な二つの出来事でそれを教えてくださいます。「イエスは教えの中でこう言われた。律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(38-40) 主はまず、最も代表的なユダヤの宗教指導者である律法学者について指摘されます。律法学者は文字通りに、旧約の律法、つまりモーセ五書を研究し、教える務めを持っています。彼らは聖書への優れた知識を備え、民に御言葉を正しく教えなければならない人々でした。しかし、誰よりも優れた信仰を持つべきだった彼らの生き方はどうだったでしょうか? 「長い衣」は宗教指導者が着ていた、普通の人には許されなかった高価な服だったと言われます。自分は他人とは違うと威張り、虚栄心が強かったと解釈できるでしょう。「歩き回る」は他の人々に注目され、特権層と付き合うためだったと解釈できるでしょう。「広場で挨拶されること、会堂で上席、宴会で上座」は宗教を利用して自らを高めることと解釈できるでしょう。 つまり、旧約聖書を研究する使命を持っていた、当時の宗教指導者たちが、民の魂には興味がなく、自分の名誉と富のために動いていたことを証言するのです。「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」律法によると、寄留者、孤児、寡婦はユダヤ社会において積極的に守られるべき存在でした。律法学者は、それを民に教え、民が寄留者、孤児、寡婦を守る社会を作っていくように導かなければならない者だったのです。そんな彼らがやもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをして、律法を悪用していたということです。これが当時のユダヤ社会の宗教指導者たちの現実だったのです。それらは正しい信仰のあり方ではありません。神の御言葉を間違って理解した程度ではなく、御言葉を悪用して神の民を貶める積極的な悪だったのです。次は寡婦についての主の御言葉です。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。」(41-42) 時々、この本文を、「乏しい中から自分の持っている物のすべてを献金した寡婦の信仰」と説教する場合があります。この本文だけを別に置いて見たら、そのような解釈も問題ないかもしれません。しかし、文脈的に考えれば、この本文は献金についての教えではありません。 なぜ、貧しい寡婦が自分のすべてを持って、辛うじて献金が出来たのかを、私たちは考えてみる必要があります。ここでクァドランスとは、ローマ帝国の貨幣の最小単位で、現在でいうと「100円」程度の価値でした。レプトン銅貨はギリシャの貨幣だったと言われます。「イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(43-44)つまり、どれだけ、ユダヤの社会がこの寡婦の世話をしていなかったのか、わずか100円だけが彼女のすべての所有だったのか、考えてみるべきです。人々は有り余りの中で宗教行為として神殿に献金しましたが、100円しかない寡婦のために何をしていたのでしょうか? ユダヤの律法学者たちは、神の御言葉を教え、ユダヤ社会が寡婦のために救済させなければならなかったにもかかわらず、むしろ彼らは寡婦のへの世話を教えるより、自分の名誉と富だけに気を遣い、彼らに指導されるべきだったユダヤの社会は無知によって堕落し、100円が全財産であった寡婦を傍観していたわけです。イエスは、彼女が乏しい中で献金をしたことをお褒めになったわけではなく、その困難の中でも主への信仰をあきらめなかった寡婦を慰められたわけではないでしょうか。 締め括り 皆さん、一体、まことの信仰とは何でしょうか? 教会に出席して、礼拝に参加し、説教を週一度聴くのが信仰なのでしょうか? 教会で行う徹底した宗教儀式が私たちの信仰なのでしょうか。真の信仰について私はこう言いたいと思います。「神の御言葉を正しく学び、それを信じ、聞き従い、実践して生きること。」旧約の預言者サムエルは、こう言いました。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上15:22) 預言者ホセアはこう言いました。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6:6) 間違った信仰の理解によって汚されたユダヤの社会、そして御言葉に背いた民たち。それらがまさにイエスの時代のユダヤの現実でした。私たちは今日の本文を通して自分自身を顧みる必要があると思います。私たちは御言葉を正しく学んでいるでしょうか? そのような意味として、今日の説教は皆さんより、牧師にさらに厳重な教訓ではないかと思います。志免教会が真の信仰の共同体であることを祈ります。主の御言葉を正しく学び、従順に聞き従い、実践しつつ生きていきたいと思います。主がユダヤの社会と宗教指導者たちに言われた警告の言葉を、今の私たちは自分自身に適用し、常に心に留めていくべきだと思います。主なる神のお導きを求めます。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。