ヨセフがエジプトの総理になる。

創世記41章32~44節 (旧72頁) ルカによる福音書9章23節 (新112頁) 前置き ヨセフは父親の愛を独り占めした大事な息子でした。神もヨセフに幼い頃から啓示の夢を見せてくださるなど、特別な人に成長させられるように見えました。しかし、神はある日突然、彼に不幸を許されました。ヨセフは身内の兄弟たちによってエジプトに売られ、10年以上奴隷生活をし、最後は無実に投獄され、囚人になってしまいました。大事な息子だったヨセフは、最も低くむさ苦しいところで卑しい人生を生きなければなりませんでした。しかし、ヨセフの不幸には理由がありました。神はこのヨセフを最も低いところで苦労させ、人の常識を超える方法によって彼を訓練させられたのです。年寄り子で物心もついていなかったヨセフは「苦難」という神の訓練を受け、立派な信仰の人物となり、謙遜を身につけるようになりました。信仰と謙遜の人物となったヨセフは、もはや自分ではなく神だけを高めつつ生きる真の信仰者になっていました。そして彼が神の御前に完全にひれ伏すようになった時、神はヨセフを、最も高い地位にまで引き上げてくださいました。今までのヨセフの苦難と経験は、彼が誰よりも聡明で知恵のある大帝国の総理になり、ものすごくひどい飢饉の中から大勢の命を救うようにする養分になったのです。ヨセフ一人の苦難が、大勢の命の救う結果となったということです。 1.主おひとりだけが、この世の真の統治者である。 長い間、苦難という訓練の人生を生きてきたヨセフは、もうこれ以上、幼い頃のように偉そうにする未熟な人物ではありませんでした。「ファラオはヨセフに言った。『わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。』ヨセフはファラオに答えた。『わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。』」(創世記41:15-16) ファラオがヨセフを煽てたが、ヨセフは威張らずに、まず、主なる神のことから語りはじめました。ヨセフは神の訓練によって、自己中心的な人間から神中心的な人間に変わったのです。以後、今日の本文で読まなかった17節から24節を通してファラオはヨセフに自分の2つの夢について話します。その内容は「醜くやせた雌牛が、肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。」「実の入っていない穂が、よく実った七つの穂をのみ込んでしまった。」でした。それに対し、25節から32節を通してヨセフはその二つの夢の意味についてファラオに解き明かしました。その内容は「7年間の大豊作の後、7年間の大飢饉が訪れ、エジプトが滅びることになる。夢を二度も重ねて見たのは、主なる神が既に決定しておられるからだ。」でした。古代エジプトの皇帝ファラオは「大きな家」という意味の名称でした。古代人はおそらくファラオがエジプトの神々が宿る特別な存在だと信じていたでしょう。 つまり、ファラオは神の代理者であり、神と同等の現人神として崇められたということです。エジプトでファラオは全知全能の神のような存在だったのです。今日の本文でもそのような表現が見つかります。「わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。」(創世記41:44) このように皇帝を神のように扱う模様は古代の帝国ではよくあることでした。古代人にとって王や皇帝は普通の人間ではなく、とても特別な存在だったのです。古代だけでなく19、20世紀の日本でも天皇を現人神と呼んだのですから、人間の世界で王や皇帝を神のように崇めることは珍しくないと思います。ところで、その全知全能の現人神であるファラオが、高が自分の悪夢一つも解釈できず不安に怯えていたのです。そして、その夢は小さな遊牧民族であるイスラエルの神から与えられたものであり、権力者でもない一介の奴隷囚人であるヨセフが神の知恵をいただいて解釈してしまったのです。私たちはこれを通じて、大帝国の皇帝のような権力者も結局、主の支配から自由ではなく、ひとえに主の御心によってのみ、真の救いを得ることができるという創世記の思想をかいま見ることができます。創世記から黙示録まで、聖書は常に私たちに力強く語っています。「真の王はただ主なる神だけだ。」「世の中のすべてのものは神のご統治の下にある。」私たちは主だけがこの世の真の主であることを忘れてはなりません。 2.聡明で知恵のある者を遣わしてくださる主。 「ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、」(創世記41:33) ファラオの難解な夢を解き明かしたヨセフはファラオに忠言をしました。聡明で知恵のある人物を登用し、今後の状況を切り開いていく必要があるとのことでした。ここで聡明と知恵について考えてみたいと思います。聡明はヘブライ語の「ビナ」という表現です。「考慮、識別、知識、理屈、注意」などの意味を持っています。知恵は「ホクマー」という表現で、言葉通りに「知恵、または賢明」を意味します。つまり、聡明で知恵のある人物とは、どちらが正しいのかを分別し、常に注意し、賢く自分に託されたことをやり遂げる人という意味です。しかし、世の中には神の民でなくても、分別があり、賢い人が数え切れないほど多いです。間違いなくファラオの魔術師たちも「聡明で知恵」のある人々だったでしょう。それでも、ヨセフは「聡明で知恵のある人物」を言いました。つまり、この「聡明で知恵のある」という表現には、一般的な意味とはひと味違う意味が含まれているということです。そして、私たちは次の言葉から真の「聡明で知恵のある人物」が、どのような意味なのかが分かります。「ファラオは家来たちに、『このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか』と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。『神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。』」(41:38-39) おそらく、ファラオが言った神の霊は「イスラエルの神の聖霊」を意味するものではないでしょう。彼は私たちが信じる神の存在もあり方も知らなかったからです。しかし、ファラオは知らないうちに神の存在について語ったのです。彼の言葉どおり「聡明で知恵のある人」は、まさに「神の霊が宿っている人」つまり、「聖霊なる神に導かれて生きる人」なのです。「その上に主の霊がとどまる。知恵(ホクマー)と識別(ビナ)の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」(イザヤ11:2)そしてこれは神が遣わされるメシアを意味する表現でもあります。つまり、ヨセフは神に遣わされた「メシア」の旧約のモデルなのです。もちろん、ヨセフは真のメシアではありません。ただ、神の御子「イエス·キリスト」だけが真のメシアなのです。しかし、ヨセフは少なくとも、創世記に限っては神の約束である「アブラハムは祝福の源になる。」という神の契約を成し遂げたメシアのような存在でした。この世の悪が勝手に流れていくように見えても、すぐに世が滅びそうに見えても、神は主のメシア、聡明と知恵と聖霊に満ちたキリストを遣わして、この世を常に見守り、今もキリストの聖霊によってご統治なさる方なのです。また、必ず私たち一人一人の人生にもキリストを遣わしてくださる方です。いや、私たちはすでにキリストに出会い、導かれて生きる人なのです。神のメシア主イエス·キリストは、私たちの人生に常に一緒におられ、真の命の道を教えてくださる方です。 3。キリスト者の苦難は祝福の準備段階。 「ファラオはヨセフに向かって『見よ、わたしは今、お前をエジプト全国の上に立てる」と言い、印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた。ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、『アブレク(敬礼)』と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、ヨセフに言った。『わたしはファラオである。お前の許しなしには、このエジプト全国で、だれも、手足を上げてはならない。』」(創世記41:41-44) ヨセフはついに大帝国エジプトの総理になりました。印章の指輪と第二の車をもらったということは、皇帝のほかに、誰もヨセフをぞんざいに扱うことが出来ないほどの権力者になったという意味です。まるで、神であるキリストが人となられ、人間の弱さと苦しみと悲しみを全て経験し、最後には十字架で壮絶に亡くなられた後、復活して世界中を支配する真の王になられたような驚くべき変化でした。だから、聖書学者たちはヨセフが旧約に登場する「キリストのモデル」であると話しているというわけです。しかし、私たちは忘れてはなりません。ヨセフが何もせず、たまたま高い者となったのではないということです。10年以上最も低く苦しんで生きてきたヨセフは、それでも、苦難の中で神への信仰を諦めず、神だけを頼りとしました。そして、その信仰が実を結ぶ時に、彼は大帝国の総理になったのです。ヨセフが栄光を得る前に、苦難の時を過ごし、主にあって乗り越えてきたということを、私たちは絶対に覚えておくべきです。 説教を始めるとき、私はこう言いました。「しかし、神はある日突然、ヨセフに不幸を許されました。」この言葉は本当に恐ろしい言葉です。人間には、宗教を通して幸いだけを願う傾向があると思います。幸せになるために、慰められるために、平安を得るために、つまり自分の満足のために宗教を持とうとするのです。それが悪いとは言えません。それは本能だからです。しかし、私たちの主はそういう満足のための信仰の対象ではありません。自分の満足のためではなく、神の御心に聞き従って生きるために私たちは主を信じているのです。主イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23) 主を信じる者には、十字架が伴います。主イエスが公に言われたのです。自分の十字架とは、神への信仰を守るために遭う苦難のことです。骨身を削る痛さです。笑えず、喜べず、安らぎもなく、幸せでもない道です。人生最悪の不幸が訪れるかもしれません。同じ苦難がニ度、三度も来るかもしれません。信仰をやめたい状況が来るかもしれません。しかし、その苦難が自分に与えられた「十字架」であると信じ、絶えず神だけに頼り、いかなる苦難に遭っても神に信頼し、涙の中でも主だけを愛していく時に、主なる神は苦難を乗り切った民を復活されたキリストのように、総理となったヨセフのように高く持ち上げてくださるでしょう。苦難のない栄光はありません。 締め括り 今日は三つの点について説教しました。一つ目、神だけがこの世の真の支配者であり、主はご自分の民を通してお働きになる方。二つ目、神は聡明と知恵のある人であるイエス·キリストを通して、ご自分の御業を成し遂げていかれる方。三つ目、苦難なしには祝福もない。神は苦難を通してご自分の民を成長させ、最終的に必ず祝福してくださる方。神を信じるというのは本当に難しいことです。自分が自分の人生の主人ではなく、神が自分の人生の主人であることを認めるのが信仰の基礎です。主による人生なので、自分の思い通りに生きることはできないからです。ある意味で神を信じるということは損であるかもしれません。しかし、主なる神は必ず、主がご統治なさる、この世で私たちと共に歩んでくださるでしょう。私たちに苦難が迫ってきても、主は聡明と知恵に満ちたキリストを通して、私たちを導き、勝利するように助けてくださるでしょう。ただ神おひとりだけに信頼し、今週も生きていくことを願います。神の祝福が志免教会に連なる兄弟姉妹の上に豊に注がれますように。 父と子と聖霊の名によって。 アーメン。