主がうまく計らってくださった。

創世記39章1~23節 (旧68頁) マタイによる福音書28章20下節 (新60頁) 前置き 前回の創世記37章で、ヨセフは兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまいました。彼は父親のヤコブの最愛の息子でしたが、神からいただいた将来を啓示する夢を偉そうにしゃべってしまい、それによって兄たちの憎しみを買い、エジプトに売られることになったのです。人間的な視座から見れば、この物語はヨセフの悲惨な失敗の話のように見えるかもしれません。彼は兄弟たちに裏切られ、他国の奴隷となってしまったからです。しかし、神の視座から見れば、この物語は、神の御心を成し遂げるための、一つの過程にすぎません。この段階があるからこそ、ヨセフはエジプトの総理の席に近づいていくからです。つまり、「ヨセフはエジプトに売られ、彼の人生は悲惨に終わった。」ではなく、これからが「ヨセフの人生の全盛期の始まり」ということです。ですので、今日の本文の冒頭と末尾に、「主がヨセフと共におられた。」という表現が2度も出てきているのです。今日の本文は、たとえヨセフが失敗を経験していても、神はヨセフのすべてのことをうまく計らっておられるという希望のメッセージを伝えています。人間には「もう終わりだ」と感じられるかもしれませんが、神にとっては「御心を成し遂げられるための過程」に過ぎないということです。ここにキリスト者の希望があります。今日は創世記39章を通じて人間の失敗さえも主の祝福の過程として用いてくださる主なる神のお導きについて話してみたいと思います。 1。主がヨセフのすべてのことを計らってくださった。 今日の本文は、ヨセフがファラオの侍従長ポティファルに売られ、彼の召使い(奴隷)となったという話から始まります。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。」(39:1)以前、神がヨセフにくださった夢によれば、彼は大勢の人の上に君臨する偉い人物になるべきでした。なのに、むしろ彼はエジプト人の奴隷となってしまったのです。彼の夢は、ただ、つまらない空夢だったでしょうか。ところで、2~3節の言葉を読むと、おかしい点が見つかります。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ(主がうまく計らわれたと同じ原文)。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は」(39:2-3)ヨセフはヤコブの最愛の息子に生まれ、当時の王族たちだけが着られる華麗な服を着て育ってきました。そんなヨセフがエジプトの奴隷として売られ、他人の召使いになっていたのに、聖書は彼がまるで神の祝福を受けているかのように描写しています。この世の常識から見ると、今のヨセフの状況は肯定的だとは絶対に言えないでしょう。しかし、聖書は、この世の常識とは、まったく違う観点からヨセフの状況を解釈しているのです。まるで予想していたことを平気で話しているかのようです。その中で最も理解できない表現は、神がヨセフと共におられ、彼のすべてのことを「うまく計らわれた。」ということです。「計らわれた。」という表現を英文聖書的に表現すると「繁栄させてくださった。」「成功させてくださった。」となります。つまり、ヨセフが奴隷となっていたにも関わらず、聖書はその状況さえも神の祝福として述べているということです。 ヨセフは兄弟たちに裏切られ、他国に売られ、異邦人の召使いとなっていたのに、なぜ聖書は彼の人生についてこれほど平気に、神によってうまく計らわれていると描写しているのでしょうか? 神が彼と共におられ、彼のすべてのことが成功的に導かれているという聖書の評価を、私たちはどう受け入れるべきでしょうか。アブラハムから、イサク、ヤコブ、ヨセフの人生まで、神の祝福は、人の考えとは全く違う姿で彼らに現れました。最初、神の祝福を約束されたアブラハムは、挫折を重ねた末に、100歳にもなってやっと相続人を儲け、イサクは息子たちの葛藤により、家庭の破綻を経験しなければなりませんでした。ヤコブは叔父であり、義父であるラバンの家で苦労し、故郷に帰る時も兄の仕返しを恐れなければなりませんでした。そして晩年には、愛する妻と息子まで失わなければなりませんでした。いくら考えてもアブラハム、イサク、ヤコブは人間的な観点から見れば、祝福された人だとは考えられないほど肉体的、精神的に苦難を経験しつつ生きてきました。しかし、聖書の評価はいかがでしょうか。彼らは神の祝福を受けた者として語られています。彼らには共通の事実がありました。それは神が彼らの人生の道に共におられ、彼らが成功をしようが、失敗をしようが、彼らから離れられず、いつも共におられたということです。 2。神の祝福への正しい理解。 今日の本文での「うまく事を運ぶ。」「うまく計らう。」という言葉のヘブライ語は「ツァラッハ」という表現です。「良い。平坦だ。 有益だ。繁栄する。」などの意味を持っています。ところで、旧約聖書の他の箇所では、この表現が、主の霊が「ご臨在なさる。」という風にも使われます。「主の霊があなたに激しく降り(ツァラッハ)、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。」(サムエル記上10:6) ある人にとって「良い時、有益な時、繁栄する時」は主の霊が臨まれ、その人と共におられる時を意味するということでしょう。つまり、神が、ある人と一緒におられる、その瞬間が、その人の人生において真の祝福の時であるという意味でしょう。そのような観点から見ると、キリスト者の人生において、真の祝福の時は、神が一緒にいらっしゃることとも言えるでしょう。しかし、神の祝福を受けた者にも、相変わらず苦難は存在し、試練を経験しなければならない時もあります。今日の本文で、ヨセフは熱心に主人の家に仕えてきましたが、淫らな女主人の偽りによって濡れ衣を着せられ、監獄に閉じ込められてしまいました。しかし、そのような危機の中でも、神はご自分の選ばれた者ヨセフを絶対に見捨てられなかったのです。むしろ、主は監獄にいるヨセフと変わらず一緒にいてくださいました。常にご自分の民と一緒におられ「主の御旨にかなう方向に、導いていかれること」聖書はそれを祝福だと語っているのです。 今まで教師として働いてきながら、数多くの苦しむキリスト者と出会う機会がありました。彼らにはこんな疑問がありました。「なぜ、主は主を信じる自分に、こんなに苦難を与えられるのか?」事業がつぶれてしまい、一寸先も見えない人、不意の事故によってひどく怪我をしたり、家族を失った人、いくら努力しても人生がうまくいかない人。数多くの人々が「主はどこにいらっしゃるのか?」 「主はなぜ自分にこんな苦難を与えられるのか」という疑問を抱いていたのです。そして、その中には神への信仰を諦めてしまう人々もいました。しかし、その苦難の瞬間を信仰を持って最後まで乗り切った人々は、一様にこう告白しました。「当時は死にたいほど辛かったが、今になって考えてみると、その都度、神は私と一緒におられた。」神の祝福は盲目的にすべての苦難を防いでくれる盾のようなものではありません。偉い親は、無条件に子供の苦難を防ぎ、弱虫に育てる人ではありません。子供が苦難に立ち向かって進んでいけるように導き、一緒にその苦難を乗り越えていく親こそが、本当に偉い親ではないでしょうか。神もそのように無条件に苦難を防いでくださる方ではなく、乗り越えていけるよう背後におられ、諦めることなく導いてくださる方なのです。神の祝福に生きる民も苦難を経験し得ると思います。今日の本文のヨセフも確かにすべてがうまくいく状況ではありませんでした。他国に来て他人の召使となり、淫らな女主人の誘惑を断って、誤解されて監獄に閉じ込められることになってしまいました。しかし、そのような状況下でも、神は常に彼の苦難の時に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったのです。それがまさにヨセフへの神の祝福だったのです。そして、その苦難を伴う祝福の道の終わりに、ヨセフはエジプトの総理となり、その昔、神がくださった夢のように、すべての人の上に君臨し、飢饉から数多くの民族を救う真の成功を成し遂げることになったのです。 締め括り 今日の説教の主題はとても簡単です。神が一緒におられることこそが、真の祝福であるということです。もちろん、神は私たちに経済的な豊、心の安らぎ、家族の成功のような、この世が語る祝福も許してくださると信じます。人生において苦難だけを受けつつ生きることはできず、主もそれを知っておられるからです。しかし、それらだけが祝福のすべてではないでしょう。私たちは聖書が語る祝福の真の意味について常に念頭に置いて生きなければなりません。私たちにいくら辛いことがあるといっても、神が私たちと共にいらっしゃるということ、私たちのすべての人生に介入しておられるということ、それこそが真の神の祝福であることを憶えなければならないでしょう。イエス・キリストが昇天される前に私たちに聖霊を約束してくださった理由も、ペンテコステに聖霊を送ってくださった理由も、私たちがこの聖霊によって神と常に一緒にいるようにしてくださるためでした。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 新約時代を生きていく私たちに主は聖霊を通して常に一緒におられ、私たちに祝福しておられることを忘れてはなりません。神が苦難を受けるヨセフの人生に常に一緒におられ、彼の人生をうまく計らって導いてくださったことを記憶し、現在を生きている私たちに与えられた真の祝福とは何かについて顧みる時間になることを願います。そして、私たちを見捨てられず、常に一緒にいてくださる主の豊かな恵みに感謝しつつ生きていく私たちになることを願います。