権威について。

ダニエル記7章13~14節 (旧1393頁) マルコによる福音書11章27~12章12節 (新85頁) 前置き イエスは3年間の公生涯、つまりキリストとしての地上での御業を終えてご自分の体を十字架での犠牲として神に捧げるためにエルサレムにお入りになりました。主はエルサレムに到着して、一番最初に神殿に足を運ばれました。神殿はイスラエルの信仰の中心地だったからです。エゼキエル書43章には「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。」と記録されていますが、神の真の栄光であるイエスは、この言葉のように神殿に臨まれたのです。しかし、神殿では誰もイエスをお迎えしませんでした。祭司たちが一番先にイエスの到来を知り、主を迎え入れるべきだったのに、むしろ彼らはイエスが来たことも知らなかったかのように無視していたのです。いや、かえって彼らは自分たちの宗教的な既得権を否定するイエスを憎み、嫌がる存在でした。翌日、イエスはまた神殿に足を運ばれる途中、実はなく葉っぱだけが茂ったいちじくの木を呪われました。これは神殿の存在理由を失い、宗教的な偽善だけが残っていた神殿と宗教指導者たちへの主のお裁きを象徴する行為でした。また、イエスは神殿に入られ、祭司たちと結託して商売をしている商人たちを追い出し、叱られました。神の御心を成し遂げるために来られたイエスは「祈りの家」という本来の機能を失った神殿を清められたのです。そして、イエスはご自身が神と人との間を執り成してくださる真の神殿となるだろうと教えてくださいました。 1。イエスの時代の宗教指導者たちの実状。 「一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(11:27-28) イエスが神殿の商人たちを追い出されると、彼らと結託して不正蓄財をしていたエルサレムの宗教指導者たちがイエスのところに来ました。そして「何の権威でこんなことをしているのか?」と問い詰めました。ある新約の学者は、彼らがイエスに「何の権威」と云々したのが「君はどの学派の所属なのか?」という意図の言い方だったと話しました。当時には様々なラビの学派があって、学風にそって学派も分かれていたそうです。そして、学派別にそれなりの正当性があったようです。つまり、宗教指導者たちはイエスの正当性を傷つけるために、どこの所属なのかと尋ねたということです。考えてみれば、牧師の世界にもこういう傾向があると思います。「私は00教派所属の牧師です。」「私はXX教派所属の牧師です。」など、相手がどんな神学を学び、どんな性向の牧師なのかを確かめるためです。そして、自分が属している教派を前面に出し、自分の神学的な正当性を密かに表すためです。今日の本文の宗教指導者たちも「何の権威で」という表現で、どこにも属しておられなかったイエスの権威を傷つけ、自分たちの正当性を高めようとしていたわけです。 前の説教を通して、何度もお話してきましたが、イエスの時代の宗教指導者たちは純粋ではありませんでした。祭司長たちは見た目は宗教家であるだけで、精神的には世俗的すぎで、神への真の信仰、復活への希望を失っていました。復活への信仰を失ったため、神の永遠のご統治と御導きも信じていませんでした。彼らはただただこの世での繁栄だけを大事にしていたのです。そういうわけで、彼らは政治、財物、権力に執着するようになってしまいました。律法学者たちは、律法の真の精神、つまり神と人への愛を失っていました。彼らは行いによる救いを信じ、人々の前で自分の宗教的な優越性、つまり自分の義を示すことを楽しんでいたのです。律法を通して民を正しく教え、愛の実践へと導かなければならなかったのに、彼らは律法を悪用して人々を判断し、他人を罪に定めたのです。長老たちは、民の模範にならなければならない人々でしたが、祭司長、律法学者たちとともに政治的、宗教的な権力を欲しがっているだけでした。祭司長、律法学者、長老、すなわち今日イエスの権威について問い詰めた人々は、サンヘドリン公会という当時のユダヤ最高の権力機関だったと推定されます。彼らはユダヤの民衆を神へと導き、聖書を正しく教え、指導しなければならない宗教、社会、民族の指導者たちでした。そんな彼らが神の神殿を用いて自分たちの私利私欲だけを満たそうとしていたということから、当時のユダヤ社会の問題点が明らかにされます。イエスはまさに神殿で、このような問題を見つけられ、叱られたのです。 2.主イエスの権威 宗教指導者たちが、イエスの前で権威について話した理由は、自分たちの宗教的な正当性を高め、イエスの正当性をおとしめ、困らせるためでした。しかし、主はその計略に巻き込まれず、むしろ問い返されました。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(11:30)ヘロデ·アンティパスの暴挙により、悲惨になくなった洗礼者ヨハネ、群衆は彼を神からの預言者だと信じていました。宗教指導者たちはイエスの前で自分たちの宗教的な正当性のために「権威」について問い詰めましたが、イエスは群衆が預言者として信じる者、そして、イエスに洗礼を授けた者であるヨハネと彼の洗礼が持つ権威について問い返されたのです。「ヨハネは神からの預言者としての権威を持って洗礼を授けた。そして、私は彼を通じて神が認められた権威ある正当な洗礼を受けた。だから、私の権威もヨハネのように神にいただいたのだ。あなたたちはこれについてどう思うのか?」と問われたわけです。イエスの出身を取り上げて脅迫し、自分たちの正当性を高めようとしていた宗教指導者たちは、イエスのご質問に困ってしまいました。洗礼者ヨハネの権威が天からのものだと言えば、彼を排斥した自分たちの正当性を自ら損ねるさまとなり、洗礼者ヨハネの権威が人からのものだと言えば、群衆を刺激することとなり、また自分たちの正当性が損なわれるため、いずれにしても困難な答えだったのです。 「そこで、彼らはイエスに、分からないと答えた。すると、イエスは言われた。それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(11:33) イエスはご自分の権威を守りながら、宗教指導者たちを戸惑わせることで、彼らの質問から抜け出されました。そして、12章の「ぶどう園と農夫」のたとえを通じて、宗教指導者たちの問題点を暴かれました。たとえの中のぶどう園の農夫たちは、主人を本当に愛し、仕えていませんでした。彼らは主人のぶどう園を利用して自分たちのよこしまな利益だけをたくらみ、結局、主人のものを奪い取ろうとして、主人の僕とその息子まで殺そうとしました。まるで今日のぶどう園のたとえの中の農夫たちのように振舞っていた宗教指導者たち。彼らが権威を云々したのは、ぶどう園として表現された神殿を奪い取り、自分たちの歪んだ権威を用いて私利私欲を満たすための言い訳だったのです。彼らは権威を言い訳にし、神の栄光と神への信仰とは、まったく関係ない自分たちの利益と欲望のために神のもの(神殿)を悪用しているだけでした。だから、イエスは当時の宗教指導者たちの不信仰と悪を「ぶどう園のたとえ」を通して告発されたのです。ここで私たちは果たして「真の権威とは何か」について考える必要があります。ユダヤの宗教指導者たちが、あのように重要視していた権威。聖書が語る真の権威とは一体何でしょうか。 3.真の権威について。 今日の新約本文に記された権威という言葉は、ギリシャ語の「エクスシア」を翻訳した表現です。エクスシアは「権威」という意味とともに「権勢、権能、所属、源」などの意味をも持っていると言われます。つまり、エクスシアとは、上から押さえつける水平的な力のイメージを持っています。宗教指導者たちがイエスに「何の権威で」と尋ねた理由は、自分たちの世俗的なエクスシアを強調するためでした。「君の所属はどこか? 君は私たちが認めるべき者なのか。 私たちより上にいるのか。私たちより下にいる者ではないか」という意味で問うたわけです。彼らにとって権威とは、神に由来する権威という意味合いではなかったのです。主導権を握るための世俗的な上下の意味で聞いたのです。自分たちがイエスより上にいる優越な存在であるということをアピールするためでした。しかし、主は天からの権威について語られました。「私は神が洗礼者ヨハネに与えられた権威、それ以上の権威をいただいている」と暗黙的に示されたのです。今日の旧約の本文を見てみましょう。「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14) ダニエル書は、人の子のような者について神からエクスシア(権威)をいただいた者と語りました。つまり、メシアの権威は神がくださったということです。真の権威は、今日の宗教指導者たちが口にした世俗的な偉さを意味するものではありません。宗教指導者たちが考えた権威とイエスが言われた権威は、その性格が全く違うものだったからです。当時の宗教指導者たちの権威は、神が認めてくださらない、群衆が納得しない自分たちの欲望ための世俗的な権威でした。そのため、宗教指導者たちは群衆の反応を恐れていたのです。しかし、主イエスは神も群衆も認めることが出来る真の権威について語られ、イエスご自身がその神からの権威を持っておられたのです。権威とは、人間が作るものではありません。ある人が誰かに与えるものでもありません。権威はひたすら神に由来するものです。権威の真の主人は神おひとりだけだからです。したがって、私たちも自分に権威があると思うなら、それを前面に出して威張るより、果たして、自分は神に認められる権威を受けているのか、もし、そうであれば、自分は神からの権威を正しく取り扱っているのかを考えてみるべきだと思います。 締め括り 権威は神からいただくものです。私たちは、常に真の権威とは何かをわきまえて生きるべきです。教会に長く通っているからといって権威が高く、出席してわずかだからといって権威が低いわけではありません。主なる神の必要であれば、主は誰にでも権威を与えてくださり、権威をいただいた者は、謙虚にその神からの権威を正しく使うべきです。そうでなければ、今日の宗教指導者たちのように、権威を世俗的に悪用してしまうからです。現代の政治家たちを考えてみましょう。彼らは自らが権威者であると思い、国民を軽んじてしまう場合が多いでしょう。それは真の権威の使い方ではありません。皆さん、金牧師を志免教会の権威者だと思わないでください。牧師が持っている権威は、神がくださった御言葉の権威を述べ伝えるための道具にすぎません。牧師に権威があるわけではなく、神の御言葉に権威があり、牧師はそれを支えるだけです。長老、執事の皆さんも自らを志免教会の権威者だと思わないようにしましょう。皆さんの務めに神からの権威が置かれ、私たちはその権威のために仕えているだけです。将来、誰か志免教会の長老、執事になられれば、その権威が君臨のための権威ではなく、奉仕のための権威であることを忘れないでください。真の権威者でおられる主イエス·キリストが、ご自分の権威の責任を果たすために十字架にかけられ、自らを犠牲にされたことを憶えつつ生きましょう。真の権威の在り方について常に考え、心に留めて生きる志免教会の皆さんであることを願います。