目が見えるようになりたいのです。

列王記上19章11-13節(旧566頁) マルコによる福音書10章46-52節(新83頁) 前置き 前回のマルコによる福音書の説教では、聖書が語る「栄光」について話しました。「栄光」は非常に抽象的な表現ですので、定型表現として定義づけしにくい概念です。しかし、新旧約聖書に記された原文から、私たちは栄光が持つイメージについて、ある程度知ることができました。「ある存在が自分らしくあること」「ある存在について正しく知り、正しく言い表すこと」が栄光のイメージであると話しました。「強くて、輝いていて、栄えた何か」が栄光ではなく「神が神らしくいらっしゃること」が神の栄光であり「神を正しく知り、正しく告白すること」が信者の栄光であると言いました。そういう意味で、主イエスの救いと聖霊の導きを通じて、主のことを正しく知り、正しく告白するようになったことは、主を信じる私たちにとって、掛け替えのない栄光だと言いました。前回の説教で学んだ栄光の意味について、もう一度思い出してください。さて、今日の本文もある意味で、主の栄光に関わる話になると思います。 1.盲人バルティマイと出会われたイエス。 今日の本文は、エリコの町で主イエスと盲人「バルティマイ」の出会いから始まります。「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」(10:46-47) バルティマイは、ただの個人の名前というより「息子」を意味するアラム語「バル」にギリシャ語「ティマイオス」という人名がくっついた合成語です。つまり「ティマイオスの子」を意味します。それでは、ティマイオスはどういう意味でしょうか? 新約のギリシャ語で「ティマイオス」は「尊敬する」という意味の単語ですが、子を意味する「バル」がギリシャ語ではなくアラム語であるだけに、ギリシャ語の「ティマイオス」も実はギリシャ語ではなく、アラム語の当て字である可能性が非常に高いです。そこで、いくつかの解説書を引いてみると、この「ティマイオス」が、アラム語の「タメ—」に由来したことが分かりました。その意味は 「不浄である、汚い」などでした。これにより、バルティマイは「汚れた者、罪人」のイメージを持つ存在であることが推測できました。つまり、バルティマイは自らでは到底、自分自身を救うことができない「罪人」を象徴する存在であり、そのような罪人は、比喩的に盲人のような存在であるということです。ところで、主イエスは、この「汚れた者、罪人」を象徴する盲人バルティマイの目が見えるように癒してくださったわけです。 今日のイエスと盲人の出来事を見ながら、前にもあった盲人の物語が思い起されました。「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。」(8:22) 8章にもイエスが盲人を癒された物語があるからです。ところで、なぜ、同様な物語が再び出てくるのでしょうか? 同様な話しを二度するのは、紙面の無駄づかいではないでしょうか? しかし、今日の盲人の物語は、必然的な話しです。その理由は、8章の盲人の物語と今日の盲人の物語がつながっているからです。けっこう時間差のある物語なのに、いったいどういう意味でしょうか。実は8章22節から、10章52節までは、一つの長いエピソードなのです。そして、その2つの物語は、道(ギリシャ語ホドス)という表現によって繋がっています。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中(ホドス)、弟子たちに、人々は、わたしのことを何者だと言っているかと言われた。」(8:27)「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、途中(ホドス)で何を議論していたのかとお尋ねになった。」(9:33)「イエスが旅(ホドス)に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10:17)「一行がエルサレムへ上って行く途中(ホドス)、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32) 「バルティマイという盲人が道端(ホドス)に座って物乞いをしていた。」(10:46) つまり、二つの盲人の物語の間には、このようにホドス(道)という言葉が架け橋のように何度も登場しています。 2。道の上のイエスと弟子たち なぜ、道(ホドス)という表現が、繰り返し登場しているのでしょうか? 道はどこかに至るために存在するものです。そして主はその道に沿ってどこかに進んでおられます。前回の説教で、私たちはイエス•キリストの栄光について学びました。「救い主として来られたイエス•キリストが救い主らしくいらっしゃること」が主イエスの栄光であると話しました。その言葉の意味は「滅ぼされるべき罪人の贖いのために十字架で死に、復活して御救いを成し遂げること」が、すなわち救い主イエスの救い主らしい状態であり、イエスの栄光であるということです。主イエスはそのご自分の栄光のために十字架に向かう道を進んでいかれるのです。主は御父がご自分に与えられた罪人の贖いのための死と復活という、栄光の杯をお受けになるために道を進んでいかれます。そういうわけで、主は8章、9章、10章で3度もご自分の苦難と死と復活に言及されたのです。主イエスの道は罪を贖うための死の道であり、真の命のため復活の道であり、その目的地は苦難の十字架なのでした。そして、その十字架での死と復活が成就する時、主イエスは、御父から真の栄光をお受けになるのです。ところで、その道の上に弟子たちもいました。しかし、弟子たちは、その道が持つ真の意味が分かりませんでした。彼らは世俗的な思いで、メシアの権力と輝かしい栄光だけを望んでいたのです。彼らはイエスと同じ路上にいたにもかかわらず、主の御心がまったく分からない状態でした。 今日の本文で盲人バルティマイは、実は主人公ではないかもしれません。もしかしたら、癒しが必要な真の盲人は弟子たちだったのかもしれません。8章の盲人と10章のバルティマイという、目が見えない二人の物語を通じて、マルコによる福音書は、私たちに「目が見えない」ということの本当の意味について、何か特別なメッセージを投げているのかもしれません。そのメッセージとは、主と一緒に主の道の上にいるにもかかわらず、主の存在理由を見ることができず、気が付くことも出来ない、この情けない弟子たちこそが本当の盲人であると暴いているのではないでしょうか。 8、9、10章で主と一緒に路上にいた弟子たちは、どんな姿だったでしょうか。主は3度もご自分の苦難、死、復活について言われましたが、その度に弟子たちの反応は、恐れ、否定するだけでした。主が山の上で輝かしく変容された時、一緒に山に登った3人の弟子たちは、それを主の栄光と勘違いして、そこに安住しようとしました。主が山の下にお降りになった時、残りの弟子たちは、汚れた霊を追い出すことが出来ず、律法学者たちと論争する無力な姿を見せるだけでした。イエスの道を歩きながらも、権力に目がくらんで互いに争いました。イエスに会うために子供を連れてきた人たちを叱りました。ヤコブとヨハネは、主の栄光まで欲したのです。主イエスに最も身近な弟子たちが、主を一番理解していない状態だったのです。 3.目が見えるようになるということ。 恐ろしいことは、これがイエスの弟子だけに限った問題ではないということです。今日のこの物語は、講壇で説教する私自身をはじめ、この説教を聞いておられる、すべての方々にも適用される事柄です。私たちは果たして目が見える状態だと自負できますか? 私たちは本当に主の道の上で、主イエスに正しく従っているのでしょうか。習慣的に説教し、習慣的に説教を聞き、習慣的に祈り、習慣的に礼拝に出席しているのではないでしょうか? 私たちの信仰は、主の御心に適ったものなのでしょうか、それとも、私たち自身の欲望のための信仰なのでしょうか。常に自分自身のことを振り返るべきだと思います。そうでなければ、私たちは自分も気づかないうちに、8,9,10章の弟子たちのように目を開けてはいるけど、目が見えない盲人のような存在になってしまうかもしれません。「バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」(10:46-47) しかし、私たちに希望はあります。主イエスが私たちの目が見えるように導いてくださるからです。今日、バルティマイの目が見えるようになったのは、主イエスのことを正しく知り、正しく告白した、彼の信仰に基づきます。主イエスが誰なのか、正しく知り、正しく告白したバルティマイは、その信仰によって癒されました。私たちに主イエスによる正しい信仰さえあれば、私たちも主によってバルティマイのように目が見えるように癒されるということです。 「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」(10:48) 他の人たちが何と言おうとも、彼は意に介さなかったのです。彼はイエスが誰なのか正しく知り、ひたすら告白しました。「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:51-52) 主は、ご自身へのバルティマイの告白を彼の信仰と認めてくださいました。 そして彼はその信仰を認めてくださったイエスによって目が見えるようになりました。罪人たちはバルティマイの名前のように、罪によって汚され、どうしても自らを清められない惨めな存在です。 しかし、主イエスへの正しい信仰は、罪人を赦してくださり、目が見えるように癒してくださる主イエスへと導いてくれます。そして主イエスはその信仰をご覧になって、罪人を救ってくださいます。弟子たちのように、自分の欲望のために信仰を利用しないようにしましょう。バルティマイのように惨めな状況にあっても、主への信仰と希望とで生きられるように祈りましょう。主イエスの御心に適う信仰者になることを追い求めていきましょう。真の信仰によってこそ、私たちの目は見えるようになるからです。 締め括り 説教を書きながら、ふと、今日の旧約本文が思い起こされました。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12) 旧約の預言者エリヤは、アハブとイゼベルという悪い指導者たちに脅かされ、神の山に身を避けました。主はいつも彼と一緒におられましたが、信仰が弱くなったエリヤが恐怖に陥ったからです。神は、彼を呼ばれ、激しい風と地震と火を見せてくださいました。主の権能でした。しかし、主はそこにおられませんでした。むしろ主はささやく声、つまり御言葉を通して彼と共におられました。目に見える現象だけを追求するのは霊的な盲人のような姿です。主の栄光は目に見えるものではありません。主を真の主として仕え、主を正しく知り、告白し、信じること、それらに真の栄光があり、主は私たちを霊的な盲人の姿から救ってくださるのです。目が見えるということはどういう意味でしょうか。その質問を持って過ごす一週間になることを願います。

エジプトに売られたヨセフ

創世記37章12-36節(旧64頁) ヨハネの手紙第一4章9節(新445頁) 前置き 前回の創世記の説教の主なテーマは、ヨセフの夢でした。旧約時代、また新約聖書が整う前の時代には、神が夢を通じて啓示を与えられる場合が多々ありました。つまり、神は主の計画の一部をヨセフの夢を通して示してくださったのです。しかし、まだ物心がついていなかったヨセフは、神がくださった啓示の夢を、自分勝手に解釈し、好きなように家族にしゃべってしまいました。これによってヨセフの兄たちはヨセフを、さらに憎むようになり、神がくださった啓示の夢も、ただ嘲弄の種になるだけでした。しかし、神がくださった夢の通り、ヨセフは将来、大きな国エジプトの総理になる人でした。主はヨセフをエジプトの総理に出世させ、ヤコブの家族はもとより、当時の周辺地域の人々を飢饉から救われる計画だったのです。そのように重要な神の啓示の夢だったのに、まだ分別のない愚かなヨセフは、その夢を通して家族を傷つけるだけだったのです。御言葉を託された者は、謙遜であるべきです。神の御言葉は、私たち一人だけのためのものではありません。私たちに託された御言葉は、私たちを通じて、周りの人々にまで伝わるのです。いくら大切な主の御言葉と言っても、憎らしい人が語る御言葉は耳に入りません。したがって、神の御言葉そのものであるキリストの体なる、私たち教会員は、神の御言葉のためにも謙遜に生きるべきです。そのために常に自らをわきまえて生きるべきです。 1.差別がもたらした破綻 今日は父ヤコブの愛のもとで、何不自由なく生きてきたヨセフが、兄たちによってエジプトに売られてしまう物語について話してみたいと思います。ヨセフは、ヤコブの最愛の妻であるラケルが、長年、神に求め続けてもうけた息子です。しかし、残念なことにもラケルは長生きできず、35章で、ヤコブの末っ子であるベニヤミンの出産中に、世を去ることになりました。そういうわけで、ヤコブはラケルの長男ヨセフを他の息子たちより、格別に愛したでしょう。「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。」(37:3) この前回の本文では、ヨセフの晴れ着について記されていますが、これは原文的に色とりどりの糸で織った裾の長い服とも解釈できます。実は今のような産業化時代には、色とりどりの服が特別ではないかもしれませんが、ヤコブがいた古代には、王族や貴族でないと着られない高価で貴重なものでした。色とりどりの晴れ着を作るためには、さまざまな色の染料が必要でしたが、赤い染料にはザクロが、青い染料には海の貝類が、黄色い染料にはサフランのような天然材料が必要でした。ヤコブはヨセフをあまりにも愛したあげく、当時の偉い人たちが着る裾の長い晴れ着をヨセフのために作ったというわけでした。しかし、その愛がむしろヨセフには毒となりました。「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(37:4) ことわざの中に「可愛い子には旅をさせよ」という言葉がありますが、今日のヤコブとヨセフには、このことわざが必要ではなかったでしょうか。もし、ヤコブがヨセフを特別扱いしなかったら、兄たちを差別しなかったら、このような悲劇はなかったでしょう。私には変わってはならないと思っている牧会哲学があります。それは教会員一人一人を差別しないことです。ただし、各々の状況に合わせて関心の強弱はあるかもしれません。しかし全体的に同じように愛し、同じように関心を持とうとしています。なぜなら、差別から共同体の分裂が起こり、互いに憎しみあうようになるからです。私たちの主イエスは世のすべての人々を公平に愛される方です。誰でも主の御前に出て、自分の罪を悔い改め、主に立ち返るなら、公平に受け入れてくださり、喜んでくださるのです。金持ちだから大喜びし、貧乏人だから適当に喜ぶというわけではありません。主のご招待は常に開かれていますが、それを受け入れるか否かに従って、主の扱いが異なるように感じられるだけです。むしろ主は主を受け入れた信者たちに、主を信じない者たちより、激しい苦難をお許しになる時もあります。キリスト者は差別をしてはなりません。差別は分裂と破綻の種になるからです。この言葉を覚えてほしいです。「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(ヤコブ2:1) 2.だます者ヤコブをだます息子たち。 ヤコブという名前の原文的な意味は「かかとをつかむ」という意味です。そして彼のあだ名は「だます者」でした。「かかとをつかむ者、だます者」と呼ばれたヤコブであったにもかかわらず、神はご自分の民イスラエルと名付けてくださいました。彼の罪とは関係なく、アブラハムとの約束に基づいて、彼を一方的に受け入れてくださったのです。ヤコブが、正しい人だからではなく、アブラハムと神の約束によるものだったのです。ヤコブは生まれる前から兄のかかとをつかみ、若い頃には長子の祝福を横取りするために自分の父親のイサクをだましました。ヤコブには貪欲とごまかし、偽りがあり、そのような罪の姿はイスラエルという名前をいただいても残っていました。ところが、今日の本文では、この「だます者」ヤコブが、他のだれでもない自分の息子たちに騙される場面を目撃することができます。「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください。と言わせた。」(37:31-32) ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄たちは目の敵のようだったヨセフが、自分たちを探しにきた時、彼を捕らえて、晴れ着を脱がし、穴に投げ込みました。そして彼を殺そうとしました。しかし、ユダの説得によって彼らはヨセフをイシュマエルの商人たちに売ってしまい、彼が着ていた着物を雄山羊の血に浸し、父親ヤコブに送り届けました。自分たちの憤りを晴らすために弟を売って父をだましたのです。 かかとをつかむ者、だます者だったヤコブは、一生、人をだまそうとする生き方をとって生きており、主の恵みによって、やっと主に立ち返ったのです。しかし、彼の過去の生き方は息子たちによって、再び繰り返されます。創世記の物語を見ながら私たちはアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブを通じて、いくら神に呼ばれた存在だといっても、彼らの子供たちは再び、主の御前で罪を犯してしまうことが分かります。アダムの息子カイン、ノアの息子ハム、アブラハムの孫ヤコブも、自分の罪から自由ではありませんでした。そして結局、ヤコブの息子たちも、過去の先祖たちがしたように、愚かさと罪の中に生きていきました。これは単純に今日の登場人物だけの問題ではありません。これは、今を生きている私たちの問題でもあります。罪はしつこいです。絶対に消えません。消そう消そうとしても、またよみがえってしまう、恐ろしい怪物のようなものです。罪は主イエスが最後の裁きのために再臨される日まで存在し続けるでしょう。キリスト者である私たちにも、罪は残っており、私たちが死んでも、その罪は再び私たちの子孫を通じてよみがえるでしょう。神が主イエス•キリストを遣わされた理由は、この恐ろしい罪の影響力を無力にするためです。主イエスが再び来られるまで、人間はいつも罪と共にいるでしょう。しかし、神は主イエスの十字架の恵みを通じて、その方を信じる者たちの罪をお赦しになり、まるで罪がないように見なしてくださるのです。 3。悲劇から希望を造り出される神。 しかし、神は、このような罪深い人間の状態にも関わらず、ちっとも動揺なさらず、ご自分の計画通りに歴史を導いていかれる方です。兄たちの罪によってエジプトに売られたヨセフが、結局、ヤコブの家族と、当時のカナン地域の数多くの命を救うエジプトの偉い総理になるからです。近くから見れば悲劇のような今日の出来事ですが、遠くから見れば数多くの命を生かす神のご計画の一部だったからです。実際に多くの聖書の解釈者たちが、ヨセフという人物を旧約で見られる「メシアのモデル」だと考えました。父の命令によってシケム(34章でヤコブの息子たちが原住民を略奪した所、罪の場所)にいる兄弟たちを探しに出たヨセフ、兄弟たちをあきらめず、最後まで探し回るヨセフ、ドダン(ドタンの意味は穴)で兄たちに会ったが、むしろ苦難を受けてエジプト(象徴的に死)に売られるヨセフ、しかし、神の恵みによりエジプトとカナン地域を圧倒する権力者になるヨセフ、そして自分の家族と共に数多くの人々を飢饉から救うヨセフ。このようにヨセフの物語は、まるで、父なる神によってこの地上に遣わされ、罪人を探し、苦難を受けて死に、復活してこの世を治めるというキリストの物語と非常に似ています。 キリストの死が滅亡の虚しい死ではなく、真の命を造り出す救いのための死だったように、ヨセフが売られてしまう出来事も、ただの虚しい悲劇ではなく、より大きな神の御心の成就のための準備段階だったのです。創世記49章でヤコブは実際にヨセフをメシアのように描写しています。「彼の弓はたるむことなく、彼の腕と手は素早く動く。ヤコブの勇者の御手により、それによって、イスラエルの石となり牧者となった。どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。」(49:24-25)神は悲劇の中で希望を創り出される方です。いや、悲劇さえも神の徹底した計画と摂理の中にある神の道具に過ぎないのです。私たちはこのような神の全能さに希望をかけて生きるべきです。今の全世界は軍事的、経済的、衛生的、自然気候的に非常に危険な状況に置かれています。少しだけ私たちの日常から目を逸らして世の中を眺めると恐怖を感じるしかありません。しかし、このすべては結局は神の計画と摂理、統治のもとにあることを忘れないようにしましょう。すべては神の御手のうちにあります。そこから慰めを得る私たちになることを願います。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Ⅰヨハネ4:9) 締め括り 今日は3つの点について話しました。一つ目、差別は分裂を生む。キリスト者は差別してはならない。二つ目、罪は絶えずよみがえり、人間を惨めにする。しかし、神はその罪を無力にするためにキリストを遣わされた。三つ目、ヨセフの物語は旧約に現れるキリストのモデルである。神はいかなる悲劇の中でも、その悲劇まで計画の一部にされ、希望を創り出される方である。ヨセフは本格的にエジプトでの歩みを始めます。今後、神は彼をどのように導いてくださるでしょうか。ヨセフの物語を通じて神の導きと愛を憶える私たちになることを願います。今週も神の愛と恵みにあって安らぎの一週間を過ごされますように祈ります。

栄光とは何か

詩編62編8-9節(旧895頁) ルカによる福音書23章39-43節(新158頁) 前置き 前回の説教の時は、本当に残念な気持ちでした。非常に大事な栄光の意味についての内容でしたのに、まともな説明が出来なかったからです。到底、満足が出来ない説教だったと思います。前回の説教での「人の子」に関しては、皆さんがほとんどお分かりだったと思います。一方では強力なメシアとして来られた人の子、また他方では弱い人間として来られた人の子、人の子であるイエスのその両面性を通して、私たちの救いを成し遂げてくださった主について学んだのです。その次はその人の子の栄光に関する内容でしたが、私はその「栄光」という概念を、聞き取りやすく説明することが出来なかったと思います。そこで、今日は、予定されていた創世記の説教を来週に延ばして、聖書が語る「栄光」の意味についてもう一度詳しく話してみようとしています。できる限り、分かりやすく説教を準備しようと自分なり努力しましたが、多少、抽象的な内容でもありますので、難しく感じられる方がおられるかもしれません。しかし、明らかなことは聖書が語る「栄光」は、世間が漠然と考えている「ただの栄えた光」ではないということです。栄光の意味を正しく理解する時に、私たちは、なぜキリストが十字架につけられなければならなかったのかが分かるようになり、人の子であるイエスの栄光とは何かについて正しく理解することができるようになると思います。どうか主が悟りを与えてくださいますように祈ります。 1。誤解しがちな栄光の概念。 ルカによる福音書23章には、イエスと共に十字架につけられた、二人の犯罪人の物語が登場しています。二人の犯罪人のうち一人は、イエスをののしりつつ「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と叫びました。彼は本当のメシアなら強い権力があるはずだと思っていたようです。すると、もう一人の犯罪人が、彼をたしなめて言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」彼はメシアの権力ではなくイエスというメシアの存在自体に注目したわけです。私たちは、これを通じてメシアに対する2種類の人間像を見ることが出来ます。一人は「メシアという存在ではなく、その権力」を追求する者、もう一人は「権力とは関係なくメシアの存在自体」を追求する者です。おそらく、世の多くの人々はイエスをののしり叫んだ、前の犯罪人のような見方でメシアを理解しているかもしれません。そして、そのような「強くて圧倒的な権力」がメシアの栄光だと思うかもしれません。しかし、聖書はもう一人の犯罪人の見方からメシアの栄光について語っています。「権力の有無とは関係なく、もっぱら神の御心に服従し、何の罪もなく十字架にかけられたメシア」の存在そのものを栄光だと語っているのです。この二人の犯罪人の中で、果たして誰がメシアの栄光を正しく理解しているのでしょうか? 話を変えて、中世のカトリック教会はイエスをののしった犯罪人のような見方から神の栄光を理解しようとしていました。 権力、名誉、財物を神の祝福であり、栄光だと思いました。まるで、メシアの権力を望んだ、今日の犯罪人が持った見方のように、神の栄光を間違って理解したのです。その結果、中世カトリック教会は権力、名誉、財物のために数多くの不正と犯罪、戦争をもたらしてしまいました。そういうわけで、堕落したカトリック教会から抜け出して宗教改革を打ち立てた信仰者たちは、権力としての栄光を追求していた中世カトリックの神学を「栄光の神学」と名付け、中世カトリック教会の「栄光への誤解」を批判しました。宗教改革者たちは、神の御心に従順に聞き従い、十字架の上で死ぬまで服従されたイエスそのものから真の栄光を見つけようとしたのです。神は十字架のいけにえとして、数多くの人類を救ってくださるためにイエスを遣わされました。そして、イエスは十分な力があったにもかかわらず、神の御心に服従し、自ら死んでくださいました。その結果、神はキリストの死を通して、罪人の救いという御心を成就されたのです。宗教改革者たちは、死ぬまで従順に行われたイエスの生き方を追い求め、自らの神学を「十字架の神学」と名付けました。十字架で死んでくださったイエスと、その存在自体から、神の栄光を見つけようとしたわけです。私たちは、栄光についてどんなイメージを持っているでしょうか。「圧倒的で強力で輝かしい何か」を思い起こしているのではないでしょうか? しかし、神の御心への服従と十字架上でのみすぼらしい死から、はじめてキリストの栄光が現れたことを忘れてはならないと思います。 2.栄光の真の意味について。 以上の話を聞いて、聖書が語る栄光は漠然とした「圧倒的で強力で輝かしい何か」のイメージではないということがお分かりになったと思います。それでは、栄光とは何でしょうか。内容が複雑で難しくなると思いますので、単刀直入に結論から話して説明に移りましょう。「ある存在が自分らしく存在する状態。その存在について正しく知り、正しく言い表す(告白)こと」が聖書が語る栄光のイメージです。つまり「神が神らしくいらっしゃること。」が神の栄光であり、「その神について正しく知り告白すること」が神を信じる者の栄光という意味です。父なる神においては、その存在自体が神らしい状態です。創り主ですから存在なさる自体がすでに栄光であるのです。(神が存在しなければ、世界も存在できない)  救い主イエスにおいては、十字架で死んで復活し、民を救われることが救い主らしい状態です。主イエスはすでに死に、復活され、民を救われましたので、栄光の中におられます。助け主、聖霊においては、神の民を助けて導かれるのが助け主らしい状態です。聖霊はすでにその民を助け導いていらっしゃいますので、もう栄光の中におられます。そして、以上の三位一体なる神の栄光について正しく知り、信じ、告白することこそが、まさに神にかたどって創造された人間がとうぜん取るべき人間らしい状態、つまり人間の栄光なのです。 もう少し詳しく説明してみましょう。聖書の原文には栄光を意味する二つの表現があります。一つはヘブライ語の「カーボード」で、もう一つは先週も取り上げましたギリシャ語の「ドクサ」です。「カーボード」は語源的に「重い」という意味です。私たちは「慎重な人」という表現をよく使います。それは「重みがあり、忠実である」というイメージでしょう。カーボードもそれと似たイメージです。「ある存在が自分の存在理由にふさわしく重みと忠実さを持っているさま」なのです。旧約聖書が語る「栄光」は、ある存在が自分の存在理由に重みを持って忠実である状態を意味します。ある存在の強い力や輝かしい光ではなく、もしそれらのものがなくても、その存在自体が持つ存在理由に忠実な状態がまさに光栄なのです。言い換えれば「ある存在が自分らしく存在すること」という意味です。それでは新約聖書は何と語っているでしょうか。先週の取り上げましたギリシャ語の「ドクサ」がそれです。新約聖書で栄光を意味するギリシャ語「ドクサ」は「~に対して正しい見解を持つ。~に対して正しい見解を持たせる)を意味します。言い換えれば「~について正しく知る。~について正しく知らせる)」という意味です。「ある存在について正しく知っていること。 正しく言い表すこと。」とも言えるでしょう。それがまさに新約が語る栄光の意味なのです。 したがって「誰かが自分の存在に重みを持って忠実であること 」「ある存在について正しく知り、正しく言い表すこと」が、聖書が語る栄光のイメージなのです。そのような意味として、先週の本文に出たヤコボとヨハネ兄弟は、イエスに大変な失礼を犯してしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ 10:35,37) 私たちは先ほど、救い主イエスの栄光とは「十字架で死んで復活し、主の民を救われる救い主らしい状態」を意味すると言いました。つまり主イエスの栄光は、他人とまったく共有出来ない、十字架での犠牲と復活から生まれるものです。弟子たちが主イエスの栄光を分け与えられるためには、まずは死ななければならなりません。しかし、死んだと言っても罪のある二人は他人を救えません。主の栄光は他人と分かち合えないものです。なのに、弟子たちは主の栄光の意味を正しく知らずに、ただ欲しがったわけです。それで、イエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(マルコ10:38) それでもヤコボとヨハネは「できます」と、せんえつな言動をしました。キリストの栄光は「キリストがキリストらしくおられること」すなわち、「十字架の死と復活による民の救い」を意味します。それらは誰とも共有できないキリストだけに託された栄光なのです。それに対する人間が受けるべき栄光は、ただただ「キリストの存在理由を正しく知り、正しく告白することだけです。 3.現在を生きている私たちにとって栄光とは? したがって、私たちは栄光に対して、誤解しないようにしましょう。栄光とは太陽のように輝き、台風のように強い、波のように激しい何かを意味するものではありません。神の栄光は「神が神らしく存在なさること」であり、そのような「神のことを正しく知り、正しく言い表す(告白)こと。」が信者の栄光なのです。もちろん聖書には神の栄光を「圧倒的で強力で輝く何か」のように描くときもあります。しかし、それは全能なる神であるゆえに当然に現れる、権能なのです。それ自体が栄光ではないということです。神の栄光が持つ最も重要な意味は「神が神らしくいらっしゃることと、それを正しく知り、告白すること。」です。ここで私たち自身に適用したいことがあります。「正しく知り、告白すること」という表現です。大信仰問答10問には、このような言葉があります。「まことの神を知り、そして、信ずることは、神を崇め、神の国と神の義とを求めて生きることである。」正しく知るということは、正しく信じることを伴います。そして正しく信じる者は、正しく神を崇め、神の国と神の義とを求めて生きるために、自分の信仰を公に告白する者です。私たちが礼拝の時、信仰を告白する理由も、私たちの知識と信仰を神と人の前に公に告白するためです。そのような意味として、「正しく知り、正しく告白する、私たちの信仰」は、私たちキリスト者にとって「栄光」になるのです。神を知り、信じて、告白することこそが、私たちが私たちらしく生きる存在理由、まさに私たちの栄光であるのです。 締め括り 今日の説教は先週よりは聞きやすかったでしょうか。もしかしたら依然として難しく感じられる方がおられるかもしれません。私にも神学が難しいです。しかし、大丈夫です。 皆さん、お忘れになっても問題ありません。いつか、また聞く機会があるでしょう。そもそも聖書も、説教も、何度も読み、何度も聞いて学び続けるべきものだからです。ただし、これ一つだけは覚えてほしいです。神の栄光とは、漠然とした「圧倒的で強力で輝く何か」ではなく、「神が神らしくいらっしゃること。」であり、キリスト者の栄光とは「その神のことを正しく知り、正しく告白すること」であるということです。この二つだけを覚えてくださっても、今日の説教は成功だと思います。最後に詩篇の言葉を一節読んで説教を終えたいと思います。「わたしの救いと栄え(栄光、カーボード)は神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」(詩編62:8) 神の栄光と私たちの栄光への正しい理解を持って信仰生活を続けていきたいと思います。今週も主の栄光にあって生きていく志免教会になりますように祈ります。

人の子の栄光

ダニエル7章1-14節(旧1393頁) マルコによる福音書10章32-45節(新82頁) 前置き これまでの私の説教には、私たち自身の現実の生活を振り返り、「どうすればキリスト者らしく生きることができるだろうか」という質問が多かったと思います。そのため、私たちの人生の在り方。すなわち、「しなければならないこと」と「してはならないこと」に関する言及が多かったと思います。もちろん聖書を通じて生活の教訓を得ること、実践を追い求める教えを得ることは、とても重要なことだと思います。これからも私の説教では、そのような趣旨の内容が続いて伝えられるでしょう。しかし、今日の説教だけは、徹底的にキリストだけについて学ぶ時間になってほしいと思います。私たちが何をして、どのように生きるべきかについての実践的な説明よりは、キリストがなぜご自分のことを「人の子」と呼ばれたのか、「人の子」とは、どういう存在なのか、その「人の子」の「栄光」とは何であるか、私たちが「人の子」であるキリストの「栄光」に加わるということは、どういう意味なのか、そのような多少キリスト論的な内容を中心に話したいと思います。 1.人の子とは誰なのか? 今日の本文の始めには、イエスの死についての予告が出てきています。主は8章、9章、10章を通じて、ご自分の死について3回にわたって言われました。ところが、その度に弟子たちは戸惑いを覚えたように見えます。彼らが考えてきたメシアは政治的、軍事的にローマ帝国を圧倒する強力な存在であるべきだったのに、イエスは繰り返し自ら死ぬと断言されるからです。イエスを強力なメシアだと期待していた弟子たちにとって、イエスの死はあり得ず、あってはならないことだったからです。それにもかかわらず、イエスはご自分の死をますます強調し続けられたのです。マルコによる福音書8章でペトロは言いました。「あなたは、メシアです。」(8:29) マルコによる福音書には記録されていませんが、マタイによる福音書でイエスはその言葉を肯定されました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:17)すなわち、福音書全体から見れば、主イエスはご自身がメシアであることを知っておられたに違いありません。それにもかかわらず、なぜイエスはメシアらしくなく、自らの死を認められたのでしょうか。それはまさにイエスが死ぬために来られたメシアだったからです。主はおっしゃいました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45) 私たちはこの本文を通じて、主の奉仕について目を注ぎがちです。そして、それを根拠に私たちの他人への奉仕と善行の実践について強調しがちです。もちろん、そのような解釈をしても問題ないでしょう。確かに主は人類に仕えるために来られたからです。しかし、本文の場面は十字架の苦難を受けるためにエルサレムに上っている状況であることを見逃してはなりません。主は他者への奉仕とともに、その仕えの極みである贖いの死のために来られたからです。ところで、この本文で目立つ表現があります。それは「人の子」という表現です。主は福音書のあちこちで自らを「人の子」と呼んでおられます。それでは、この人の子はどういう意味を持っているでしょうか?そのために私たちは、まずダニエル書を確かめる必要があります。「夜の幻をなお見ていると、見よ、人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14)ダニエル書は、世界を治めるメシアの出現を「人の子のような者」と表現しているからです。人の子とは、ダニエル書7章に先立って登場する「四頭の大きな獣」と対比される存在です。獣がどんなに強力であっても、万物の霊長である人間を越えることは出来ないように、人の子は恐ろしい獣たちを圧倒する神的な存在なのです。「天の雲に乗り」という表現がこれを裏付けています。 聖書で「天、雲」は神の栄光と臨在を意味する表現であるためです。イエスが自らを人の子と呼ばれた理由には、まさにこのようなメシア的な意味が含まれているからです。普通、今日の本文の「四頭の大きな獣」は、当時のアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ帝国を意味するものとして知られています。しかし、人の子であるメシアはその全てを圧倒する強力な存在として、神の御前に立つのです。しかし、人の子の働き方は人間の漠然とした望みである「すべてを圧倒する強力なメシア」そのままではありません。なぜなら、聖書で言う人の子は「人間の息子」という意味としても使われるからです。「そのあなたが御心に留めてくださるとは。人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」(詩編8編4節)この詩篇の言葉の他にも、聖書で「人の子」という表現は、メシアの意味ではなく、ある一人の人間を意味する場合もあります。つまり、「人の子」には両面性があるということです。イエスは自らを「人の子」と呼ばれました。しかし、イエスは強いメシアとしての「人の子」であると共に、殺されうる弱い人間としての「人の子」でもある方なのです。ここで、私たちは神の働き方を見つけることができます。神は主イエスの弱さと強さ両方とも用いられ、神の御業を成し遂げていかれるのです。主イエスの弱さと死で、ご自分の民の強さと命を造り出していかれるのです。 「人の子」イエス•キリストは、そのような存在です。もともと誰も近づくことの出来ない神そのものである方でしたが、弱い人間の体を持ってお生まれになったので、死にうるようになった方です。もし、イエスが強いばかりの方なら、どのように人間の罪を償うために死ぬことが出来、もし、イエスが弱いばかりの方なら、どのように人間を死のくびきから救い出すことが出来るのでしょうか。神はこの「人の子」という表現の中にある、弱さと強さを適切に用いられ、ご自分の御業を完璧に成し遂げていかれるのです。神である主イエスは自ら「人の子」になり、罪人の側にあって弱くなられました。そして罪人に代わって死んでくださいました。また、主は自ら「人の子」になり、神の側にあって強くなられました。そして罪人を救い出し、命を与えてくださいました。したがって聖書で、この「人の子」という表現を見る度に自ら弱くなって罪人の傍らに立ったイエス、自ら強くなって神の傍らに立ったイエス、そして、それらの弱さと強さの間で神と人を執り成されたイエス・キリストを覚えてください。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)この言葉を必ず覚えておきたいです。 2.栄光とは何か? 今日の本文で「人の子」と共にもう一つ考えてみたい表現がありますが、それは「栄光」です。本文で、ヤコブとヨハネ兄弟はイエスに大きな無礼を犯してしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(10:35-37) 主イエスに、主の栄光の時に権力をくださいとわがままに要求したのです。主はご自分の死を語っておられましたが、なぜ、この二人の兄弟は自分たちの未来の権力に執着したのでしょうか。「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。」(ヨハネ12:23) このように、主はご自分の死を栄光と表現されました。おそらく彼らは今まで主イエスと同道しながら、主の死と復活の時に栄光をお受けになるという話を何度も聞いてきたでしょう。つまり、彼らは主が栄光の中で死んで復活し、また、この世を支配する真の栄光のメシアになり、ローマ帝国を倒すだろうと思ったでしょう。もし、そうだったら、彼らは主の栄光を完全に誤解していたと言えます。もしかしたら私たちも「主の栄光」を誤解しているかもしれません。栄光の漢字語自体が私たちを誤解させます。「栄の光」のような意味に感じられるからです。しかし、聖書が語る栄光は、そんな意味とは異なります。「栄光」のギリシャ語は「ドクサ」と言います。「ドクサ」は「意見、見解、考え、思い」などの意味の名詞ですが、その語源である動詞「トケオ—」は「ーについて考える。–と見なされる。」という意味です。 そして、聖書で使われる文法は「-について考える。-と見なされる。」という意味を超えて、「-に対する正しい見方を持つ。-という見方に影響を及ぼす。」という意味にまで展開されます。つまり、聖書が語る「主の栄光」とは、「主への正しい見方を持つ」という意味です。ただ、主の栄えた光を意味するのではなく「主イエスの存在理由を正しく知る」という意味です。先ほど「人の子」イエスは死ぬために来られたと話しました。イエスが人間の体を持って来られた理由は、罪人の代わりに死ぬためです。死んでこそ救うことが出来るようになるからです。イエスの復活も栄光ですが、復活のために死ぬこともイエスの栄光、すなわち「人の子」イエスが存在する理由なのです。それを正しく知ることから、はじめて主に栄光を捧げることが出来るようになるのです。聖書が語る栄光とは、ある存在が自分の存在理由に合わせて確実に生きていく時に成し遂げられるものです。御父は神として存在される時に栄光をお受けになります。つまり、父なる神は常に神であるため、神の栄光はすでに存在し、存在しており、これからも存在するでしょう。イエスは十字架で死に、復活して民をお救いになる時に栄光をお受けになります。主イエスはすでに民のために死に、再び生き返って栄光の中におられる方です。聖霊はキリストの教会を導かれる時に栄光をお受けになります。変わることなく教会を導いていかれる聖霊は、すでに栄光の中におられる方です。それなら人間の栄光は何でしょうか。造り主であり、救い主である主なる神を正しく知り、信じて、従う生き方、つまり創造摂理に忠実なことこそがまさに人間にとっては栄光なのです。 締め括り 今日の説教を通して、人の子についてはある程度説明が出来たと思いますが、時間の関係で、栄光については説明が少し足りなかったと思います。しかし、いつか、また「栄光」について話す機会があるでしょう。今日、私たちは「人の子」について、そして「栄光」について学びました。栄光の主イエス•キリストは、主の栄光のために、私たちのために、私たちの罪と共に死んでくださった弱い「人の子」であります。そして、その弱い主は、私たちの救いのために死から私たちの命と共に復活された、強い「人の子」でもあります。私たちはこのような弱いが強く、強いが弱い、そしてそのすべてを用いられて私たちの救いを確証してくださるイエス•キリストの民です。このイエスを正しく知り、その方の存在理由を常に心に留めて生きることこそが、まさに私たちキリスト者の栄光なのです。もし、今日の説教が難しく感じられたら、ホームページの説教文をもう一度確認してください。そして、もし説教原稿が必要でしたら教えてください。イエス•キリストについてより深く学び、悟っていく私たち志免教会になることを願います。この一週間も栄光の人の子であるイエス•キリストの恵みにあって生きていくことを祈ります。