エジプトに売られたヨセフ

創世記37章12-36節(旧64頁) ヨハネの手紙第一4章9節(新445頁) 前置き 前回の創世記の説教の主なテーマは、ヨセフの夢でした。旧約時代、また新約聖書が整う前の時代には、神が夢を通じて啓示を与えられる場合が多々ありました。つまり、神は主の計画の一部をヨセフの夢を通して示してくださったのです。しかし、まだ物心がついていなかったヨセフは、神がくださった啓示の夢を、自分勝手に解釈し、好きなように家族にしゃべってしまいました。これによってヨセフの兄たちはヨセフを、さらに憎むようになり、神がくださった啓示の夢も、ただ嘲弄の種になるだけでした。しかし、神がくださった夢の通り、ヨセフは将来、大きな国エジプトの総理になる人でした。主はヨセフをエジプトの総理に出世させ、ヤコブの家族はもとより、当時の周辺地域の人々を飢饉から救われる計画だったのです。そのように重要な神の啓示の夢だったのに、まだ分別のない愚かなヨセフは、その夢を通して家族を傷つけるだけだったのです。御言葉を託された者は、謙遜であるべきです。神の御言葉は、私たち一人だけのためのものではありません。私たちに託された御言葉は、私たちを通じて、周りの人々にまで伝わるのです。いくら大切な主の御言葉と言っても、憎らしい人が語る御言葉は耳に入りません。したがって、神の御言葉そのものであるキリストの体なる、私たち教会員は、神の御言葉のためにも謙遜に生きるべきです。そのために常に自らをわきまえて生きるべきです。 1.差別がもたらした破綻 今日は父ヤコブの愛のもとで、何不自由なく生きてきたヨセフが、兄たちによってエジプトに売られてしまう物語について話してみたいと思います。ヨセフは、ヤコブの最愛の妻であるラケルが、長年、神に求め続けてもうけた息子です。しかし、残念なことにもラケルは長生きできず、35章で、ヤコブの末っ子であるベニヤミンの出産中に、世を去ることになりました。そういうわけで、ヤコブはラケルの長男ヨセフを他の息子たちより、格別に愛したでしょう。「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。」(37:3) この前回の本文では、ヨセフの晴れ着について記されていますが、これは原文的に色とりどりの糸で織った裾の長い服とも解釈できます。実は今のような産業化時代には、色とりどりの服が特別ではないかもしれませんが、ヤコブがいた古代には、王族や貴族でないと着られない高価で貴重なものでした。色とりどりの晴れ着を作るためには、さまざまな色の染料が必要でしたが、赤い染料にはザクロが、青い染料には海の貝類が、黄色い染料にはサフランのような天然材料が必要でした。ヤコブはヨセフをあまりにも愛したあげく、当時の偉い人たちが着る裾の長い晴れ着をヨセフのために作ったというわけでした。しかし、その愛がむしろヨセフには毒となりました。「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(37:4) ことわざの中に「可愛い子には旅をさせよ」という言葉がありますが、今日のヤコブとヨセフには、このことわざが必要ではなかったでしょうか。もし、ヤコブがヨセフを特別扱いしなかったら、兄たちを差別しなかったら、このような悲劇はなかったでしょう。私には変わってはならないと思っている牧会哲学があります。それは教会員一人一人を差別しないことです。ただし、各々の状況に合わせて関心の強弱はあるかもしれません。しかし全体的に同じように愛し、同じように関心を持とうとしています。なぜなら、差別から共同体の分裂が起こり、互いに憎しみあうようになるからです。私たちの主イエスは世のすべての人々を公平に愛される方です。誰でも主の御前に出て、自分の罪を悔い改め、主に立ち返るなら、公平に受け入れてくださり、喜んでくださるのです。金持ちだから大喜びし、貧乏人だから適当に喜ぶというわけではありません。主のご招待は常に開かれていますが、それを受け入れるか否かに従って、主の扱いが異なるように感じられるだけです。むしろ主は主を受け入れた信者たちに、主を信じない者たちより、激しい苦難をお許しになる時もあります。キリスト者は差別をしてはなりません。差別は分裂と破綻の種になるからです。この言葉を覚えてほしいです。「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(ヤコブ2:1) 2.だます者ヤコブをだます息子たち。 ヤコブという名前の原文的な意味は「かかとをつかむ」という意味です。そして彼のあだ名は「だます者」でした。「かかとをつかむ者、だます者」と呼ばれたヤコブであったにもかかわらず、神はご自分の民イスラエルと名付けてくださいました。彼の罪とは関係なく、アブラハムとの約束に基づいて、彼を一方的に受け入れてくださったのです。ヤコブが、正しい人だからではなく、アブラハムと神の約束によるものだったのです。ヤコブは生まれる前から兄のかかとをつかみ、若い頃には長子の祝福を横取りするために自分の父親のイサクをだましました。ヤコブには貪欲とごまかし、偽りがあり、そのような罪の姿はイスラエルという名前をいただいても残っていました。ところが、今日の本文では、この「だます者」ヤコブが、他のだれでもない自分の息子たちに騙される場面を目撃することができます。「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください。と言わせた。」(37:31-32) ヤコブの息子たち、すなわちヨセフの兄たちは目の敵のようだったヨセフが、自分たちを探しにきた時、彼を捕らえて、晴れ着を脱がし、穴に投げ込みました。そして彼を殺そうとしました。しかし、ユダの説得によって彼らはヨセフをイシュマエルの商人たちに売ってしまい、彼が着ていた着物を雄山羊の血に浸し、父親ヤコブに送り届けました。自分たちの憤りを晴らすために弟を売って父をだましたのです。 かかとをつかむ者、だます者だったヤコブは、一生、人をだまそうとする生き方をとって生きており、主の恵みによって、やっと主に立ち返ったのです。しかし、彼の過去の生き方は息子たちによって、再び繰り返されます。創世記の物語を見ながら私たちはアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブを通じて、いくら神に呼ばれた存在だといっても、彼らの子供たちは再び、主の御前で罪を犯してしまうことが分かります。アダムの息子カイン、ノアの息子ハム、アブラハムの孫ヤコブも、自分の罪から自由ではありませんでした。そして結局、ヤコブの息子たちも、過去の先祖たちがしたように、愚かさと罪の中に生きていきました。これは単純に今日の登場人物だけの問題ではありません。これは、今を生きている私たちの問題でもあります。罪はしつこいです。絶対に消えません。消そう消そうとしても、またよみがえってしまう、恐ろしい怪物のようなものです。罪は主イエスが最後の裁きのために再臨される日まで存在し続けるでしょう。キリスト者である私たちにも、罪は残っており、私たちが死んでも、その罪は再び私たちの子孫を通じてよみがえるでしょう。神が主イエス•キリストを遣わされた理由は、この恐ろしい罪の影響力を無力にするためです。主イエスが再び来られるまで、人間はいつも罪と共にいるでしょう。しかし、神は主イエスの十字架の恵みを通じて、その方を信じる者たちの罪をお赦しになり、まるで罪がないように見なしてくださるのです。 3。悲劇から希望を造り出される神。 しかし、神は、このような罪深い人間の状態にも関わらず、ちっとも動揺なさらず、ご自分の計画通りに歴史を導いていかれる方です。兄たちの罪によってエジプトに売られたヨセフが、結局、ヤコブの家族と、当時のカナン地域の数多くの命を救うエジプトの偉い総理になるからです。近くから見れば悲劇のような今日の出来事ですが、遠くから見れば数多くの命を生かす神のご計画の一部だったからです。実際に多くの聖書の解釈者たちが、ヨセフという人物を旧約で見られる「メシアのモデル」だと考えました。父の命令によってシケム(34章でヤコブの息子たちが原住民を略奪した所、罪の場所)にいる兄弟たちを探しに出たヨセフ、兄弟たちをあきらめず、最後まで探し回るヨセフ、ドダン(ドタンの意味は穴)で兄たちに会ったが、むしろ苦難を受けてエジプト(象徴的に死)に売られるヨセフ、しかし、神の恵みによりエジプトとカナン地域を圧倒する権力者になるヨセフ、そして自分の家族と共に数多くの人々を飢饉から救うヨセフ。このようにヨセフの物語は、まるで、父なる神によってこの地上に遣わされ、罪人を探し、苦難を受けて死に、復活してこの世を治めるというキリストの物語と非常に似ています。 キリストの死が滅亡の虚しい死ではなく、真の命を造り出す救いのための死だったように、ヨセフが売られてしまう出来事も、ただの虚しい悲劇ではなく、より大きな神の御心の成就のための準備段階だったのです。創世記49章でヤコブは実際にヨセフをメシアのように描写しています。「彼の弓はたるむことなく、彼の腕と手は素早く動く。ヤコブの勇者の御手により、それによって、イスラエルの石となり牧者となった。どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。」(49:24-25)神は悲劇の中で希望を創り出される方です。いや、悲劇さえも神の徹底した計画と摂理の中にある神の道具に過ぎないのです。私たちはこのような神の全能さに希望をかけて生きるべきです。今の全世界は軍事的、経済的、衛生的、自然気候的に非常に危険な状況に置かれています。少しだけ私たちの日常から目を逸らして世の中を眺めると恐怖を感じるしかありません。しかし、このすべては結局は神の計画と摂理、統治のもとにあることを忘れないようにしましょう。すべては神の御手のうちにあります。そこから慰めを得る私たちになることを願います。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Ⅰヨハネ4:9) 締め括り 今日は3つの点について話しました。一つ目、差別は分裂を生む。キリスト者は差別してはならない。二つ目、罪は絶えずよみがえり、人間を惨めにする。しかし、神はその罪を無力にするためにキリストを遣わされた。三つ目、ヨセフの物語は旧約に現れるキリストのモデルである。神はいかなる悲劇の中でも、その悲劇まで計画の一部にされ、希望を創り出される方である。ヨセフは本格的にエジプトでの歩みを始めます。今後、神は彼をどのように導いてくださるでしょうか。ヨセフの物語を通じて神の導きと愛を憶える私たちになることを願います。今週も神の愛と恵みにあって安らぎの一週間を過ごされますように祈ります。