神に召される日。

創世記25章1-11節(旧38頁) テモテへの手紙二4章6-8節(新394頁) 前置き ここ10ヶ月の間、私たちはアブラハムと歩んでくださった、唯一の真の神について話してきました。アダムが最初の罪を犯して以来、その子孫たちは罪と妥協しつつ、神無き人生を生きていきました。しかし、その中にも神を覚え、同道した少数の人々がいました。旧約聖書は彼らを「正しい人」と語ります。神は、その正しい人たちの子孫の中でアブラハムをお選びくださり、本格的に正しい人の系譜を作ろうとなさいました。そして、神はその系譜からイエス・キリストという真の正しい人を遣わしてくださいました。神に選ばれた本格的な正しい人という点で、アブラハムはとても重く位置づけられています。アブラハムは、正しい人と罪人という二面性を持った、弱くて失敗だらけの存在でしたが、神は少しも変わることなく、彼の人生を導いてくださいました。そして幸せな最後を許してくださいました。神は、現代を生きる私たちとも、このアブラハムのように常に一緒にいてくださり、罪を勝ちぬき、義を追い求めるように導くことを望んでおられる方です。このアブラハムの最期について一緒に探りつつ、私たちの追求すべき人生について顧みてみましょう。 1.アブラハムのハッピーエンド。 アブラハムの最期に先がけ、聖書は彼の3番目の妻について語ります。「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。」(1) アブラハムは3番目の妻をめとりました。ところで、いくつかのラビたちは、このケトラが3番目の妻ではなく、サラに追い出されたハガルであるかも知れないと主張しました。つまり、21章でサラの嫉妬により追い出されたハガルが、自分の思い煩いから自由になり、神への信仰で生きてきた結果、サラの死後、再びアブラハムの妻となり、名誉を取り戻したということです。「ケトラ」とは「芳しい」という意味で、イスラエルの神殿で使われていた香の語源です。この香は、神と人間の交わりの媒介となる、とても重要な神殿用品でした。新約聖書「ヨハネの啓示録」では、神への祈りを、この香に喩えているほどです。つまり、信仰を持って生きてきたハガルが、神殿の香のように、主と同道した人として、「ケトラ」という名前で描かれたということです。11節に、イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住んでいたと記されていますが、そこはサラに追い出されたハガルが神に出会った場所です。つまり、サラの死後、アブラハムはハガルと和解し、アブラハムの家族が互いに赦し合って幸せに生きたということです。数多くの葛藤と失敗で綴られたアブラハムの家族でしたが、最終的にすべてが神のお導きのもとで幸せに終わったということです。これは、あくまでも仮説で、定説だとは言えませんが、信仰を守り抜いたアブラハムへの神からの贈り物として、ある程度、解釈が出来る話しではないかと思います。 アブラハムは75歳に神に出会い、11年後に、イシュマエルという庶子を儲けた後、100歳でやっと嫡子のイサクを儲けました。しかし、以後、彼の信仰への神の報いなのか、このケトラを通して6人の息子を、さらに儲けることが出来ました。信仰の試練で、長い間、相続人が得られず、苦しんでいたアブラハムでしたが、信仰を証明した彼は今までなかった多くの子どもを得ました。神は私たちの考えとは違う方式でお働きになる方です。私たちが切に望んでも、神の時と御旨に敵わなければ、神のお答が延期される場合もあります。しかし、主の御旨と時に適えば、神は大きな祝福を持って叶えてくださる方です。信仰には待ち望むことが必須です。信仰とは「神のご意志と自分の意志」という絶対的な二つの価値の中で、自分の意志を抑え、神のご意志に全面的に従う自己否定の道のりです。信仰とは、自分の必要や欲望を満たすための「打ち出の小槌」のようなものではありません。信仰は、この世の本当の主でいらっしゃる神の御心に聞き従って、自分の野望や欲望を明け渡すことであり、その中で成されていく神の御心に従い、神の民になっていく道のりなのです。アブラハムの人生は、そのように自己中心の人生から神中心の人生へ変化していく信仰の道のりでした。その結果は、問題の解決と約束の成就といった真のハッピーエンドでした。 2.純粋な信仰の継承。 「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。」(5-6)もし、25章が童話だったら、今日の物語は、この上なく和気あいあいとしたハッピーエンドで終わったはずでしょう。「昔々、大昔、アブラハムとイサクとケトラと息子たちは、幸せに生き続けました。」のようになったはずでしょう。しかし、アブラハムは、その幸せに酔って本質を失う愚行を犯しませんでした。彼は嫡子のイサクと庶子たちを、はっきりと見分けました。神との約束を覚えており、約束の子であるイサクに、すべての遺産を譲りました。また、庶子たちには、あえて与えなくてもよかったはずの贈り物を分けてやることで、イサクに与えられた神の約束の相続に問題が生じないように徹底しました。そして、アブラハムはイサクを除いた他の息子たちを東の方に行かしてしまいました。約束の子のイサクが、約束の子ではない、他の兄弟たちと混じって、唯一の神ではない異邦の神々を拝む偶像崇拝者にならないようにするためでした。つまり、アブラハムは約束の子イサクに純粋な信仰を引き継ぐためにそうしたわけでした。 時々、キリスト教は排他的な宗教だと指摘されたりします。「どうしてキリスト教だけに救いがあると言うのか。他の宗教には救いがないということか」などの批判です。キリスト者にとって、これは実に困難なテーマです。他の宗教にも救いがあると言えば、聖書の言葉が偽りになることであり、他の宗教には救いがないと言えば、謙虚さを美徳とするキリスト者が傲慢な存在になってしまうからです。しかし、アブラハムは頑固に感じられるほど、イサクだけを約束の子として認めていました。ですから、私は本質的に「キリストの外にも救いがある」とは絶対に言えません。しかし、それでも、他宗教の信仰も尊重すべきでしょう。こういうわけで、私はこう話したいと思います。明らかなことは、私たちの神は他人ではなく、まさに「私」にお問いかけになっておられるということです。他人に向けた「キリストを信じなくては、救い無し」という言葉より「君はキリストを信じているか。」という、自分自身への神の御言葉に、もっと集中したいと思います。アブラハムは、ひとえに唯一の神のみを仰げという、純粋な信仰を信仰の相続人であったイサクに力強く教えたはずです。 神が今日、私たちにお聞きになられたら、私たちはどう答えるべきでしょうか? 「君はひたすら私のみを追い求めるのか? 君はひとえに私だけを信じるのか。君は私だけに唯一の救いがあると認めるのか。」このような主のお問い掛けの前で、私たちはどのような答えを持って生きているのでしょうか? 3.自分を捧げる人生 「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」(7-8) アブラハムは75歳の時、神に出会い、ちょうど100年後の175歳に神に召されました。本文の「長寿を全う」という表現は、ただ「長生きした。」という意味だけではありません。彼は自分の人生のすべてを全うして神と共に生きました。彼は異邦の神々の民として生まれ、唯一の神の民として生まれ変わり、信仰によって約束の子を生み出しました。主の約束に頼り、カナンの地に帰るべき「約束の地」を備え、子孫全員が求めるべき信仰の見本を作りあげました。彼の生涯は文字通りに神の御前にすべてを捧げ、全うする人生だったのであり、4000年経った今でも、極東の日本の教会でも教えられている信仰の父に相応しい人生であります。彼の最期を考えるたびに、新約聖書の、ある人物が思い浮かぶます。その人は使徒パウロです。今日の新約本文を読んでみましょう。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(テモテⅡ4章6-8) 残念なことに、今日の旧約の原文と新約の原文の間に共通の単語はありませんでした。ですが、旧約本文の7~8節と新約本文の6~8節は意味上、通じるところがあると思います。イエス·キリストに出会って以来、福音の伝道者として生きてきた使徒パウロは、自分のすべてを捧げました。アブラハムも神との100年間、このような充実した人生を送ったはずです。そのため、今日の聖書は「全うした。」と表現するわけです。私たち人間は、あまりにも怠慢な存在ですので、自分自身を神に完全に捧げ、全うする人生を生きることが不可能に近いと思います。それにもかかわらず、私たちは信仰の先輩であるアブラハムの人生を見て、自らをもう一度改めて振り返る機会にするべきだと思います。神という絶対的な存在の前で、私たちはどのような人生を生きているでしょうか。私たちの人生は、もうあまり残っていません。 もしかしたら明日、突然召されるかも知れません。若者だからと言って将来が晴れ続けるとは言えません。生まれは順番ですが、帰りは順番がないからです。ですから私たち自身の人生を省みつつ生きるべきです。 我々は果たしてアブラハムとパウロのように「すべてを捧げ、全うする人生」を通して神に仕えているのでしょうか? 締め括り ついにアブラハムは神のもとに帰りました。以後、彼の信仰を受け継いだイサクとヤコブ、そして、その後裔たちによって正しい人の系図が受け継がれていくことでしょう。聖書を読みながら、この物語を私たちの人生に適用しつつ生きていきたいと思います。私たちはキリストによってアブラハムの信仰の子孫となった教会です。アブラハムの信仰の子孫となった我々は恥じのない信仰の人生を生きているでしょうか。終わりの日、神の御前に立つ時、我々はどのように評価されるでしょうか? 「よくやった。我が子よ」と評価されるでしょうか? 「もっと励んで生きたら…」と評価されるでしょうか? 「私は君のことをまったく知らない」と評価されるでしょうか? 今日のアブラハムの最期を通して、我々の信仰と人生を省みていきたいと思います。 信仰とは何でしょうか。神と一緒に生きるということは何でしょうか。自らを顧み、神の御言葉に耳を傾け、従順に生きる人に神の大きな祝福があることを信じます。そのような志免教会になりますように。