主が本当に望まれること。

イザヤ書1章11-17節(旧1061頁)           マルコによる福音書7章1-23節(新74頁) 前置き 先々週の説教では「五つのパンと二匹の魚の奇跡の後、逆風に恐れていた弟子たちと、湖の上を歩いて彼らのところにおいでになったイエス」の物語について語りました。その物語を通して、キリストの教会が追い求めるべき目標は「単に規模が大きくなることではなく、主の御心を正しく知り、それに従うこと」であり、キリスト者が追い求めるべき価値は「この世での成功ではなく、神の御心に聞き従う生き方」であることが分かりました。神を知らない未信者と、神の民であるキリスト者の違いは、その点にありました。キリスト者の人生の中にも苦難と試練があり得るものです。しかし、神はその苦難と試練の中でも、いつもご自分の民を見守っておられ、主がお定めになった時に民を助けてくださる方です。その神を忘れず、心を尽くし、み旨を求めて生きることが、キリスト者に与えられた真の人生の意味なのです。我々の人生の中には、財物、名誉、権力などが必要な時もあるでしょうが、それが我々の人生の目標になってはならないでしょう。神がキリストを通して私たちを召され、聖霊を通して私たちと共に歩んでくださる理由は、私たちの世俗の成功のためではありません。神とその御心を知り、その御旨のままに生きるためであることを忘れてはなりません。 1.昔の人の言い伝えとは? 「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」(マルコ7:1-2)イエスの御業を妨げるために血眼になっていた、当時のユダヤ人の指導者たち(ファリサイ派の人々と数人の律法学者たち)が、イエスの所に訪ねて来ました。ファリサイ派とは、ユダヤ教の純粋性を守ろうとする根本主義ユダヤ人の集団であり、律法学者とは、旧約聖書を研究し、その律法を大事にしていた、いわば神学者でした。ファリサイ派の人々をあえて現在に照らしてみれば、祈り、黙想、礼拝、献金、聖餐式、宗教記念日などを徹底して守る、信心深い宗教者と言えるでしょう。また、律法学者は神学の専攻者、神学校の教授、牧師と言えるでしょう。しかし、彼らの問題点は、そのすべての宗教的な儀式と知識には精通しているものの、神に遣わされた真のメシアを見分ける目がないということでした。これを通して、ひとつはっきりさせておきたいことは、私たちが、いくら礼拝と宗教生活と聖書の研究に情熱的に取り組んでいると言っても、神の御心とは何か、何をやるべきかが分からなければ、私たちも、ファリサイ派や律法学者と、そんなに違いのない存在として、神に判断されるかも知れないということです。ただ、表だけの宗教的な情熱は、人の目を欺くことは出来るでしょうが、人の心を見ておられる神の御目には、すべてがばれてしまうだけでしょう。 「そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」(5)彼らはイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは神の律法を固く守らないのですか?」と言いませんでした。「なぜ、昔の人の言い伝えに従って歩まないのですか?」と言ったのです。その時、イエスは「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(6-8)と責められました。ここでの昔の人の言い伝えとは、旧約の律法そのものを意味するものではありません。皆さん、タルムードというユダヤ人の書物についてお聞きになったことがございますか。このタルムードとは「ミシュナー」と「ゲマラ」というモーセ五書についての、ユダヤのラビたちの解釈と討論を収録した本です。今日の本文に出てくる「昔の人の言い伝え」はミシュナーである可能性が高いです。牧師は聖書の解説書を参考にして説教を準備したりします。しかし、解説書は聖書そのものではありません。聖書についての神学者たちの解釈にすぎず、時代や状況の移り変わりによって変わりがちなものです。ひとえに変わらないものは、聖書の中の神の御言葉だけです。ところが、今日の本文のユダヤ人たちは、神の御言葉である律法の精神は無視しながら、昔の人の言い伝えであるミシュナーを大切に扱い、なぜ主の弟子たちが、それを守らないのかを問い詰めていたのでした。 2.律法の精神 それでは、ここでユダヤ人たちが無視していた律法の精神とは、何でしょうか? イエスは彼らに「あなたたちは偽善者だ。」という表現で咎められました。ここで「偽善者」は、ギリシャ語で「俳優」を意味する「ヒュポクリテース」という言葉で表現されています。つまり、「あなたたちの信仰の行いは、真心の籠もっていない演技にすぎない」という意味なのでしょう。数年前にハリウッド映画の「ラストサムライ」を印象深く観たことがあります。その時、有名な日本の俳優である渡辺謙さんにはまって、ファンになりました。明治維新後、新時代になっても、侍の伝統と精神を守ろうとする仁義に厚い武士、彼の演技は印象的でした。しかし、私は渡辺さんが本当の侍ではないことを知っています。いくら外見と演技が現実のようだと言っても、彼は現代の俳優であるだけです。その後、彼は他の映画に日本帝国の士官として、また、現代の教授としても出演しました。イエスが言われた、偽善者を意味する「ヒュポクリテース(俳優)」という表現も、そんなものでしょう。ファリサイ派の人々と律法学者たちが律法を固く守るという名目で、昔の人の言い伝えを力強く取り上げていますが、実際、そこには律法の教えから示されるべき、何かが欠けているということです。彼らは律法が語る神の御心が分からず、ただ律法の解釈のために人為的に作られた人間の教えだけを、まるで俳優が演技をするかように偽善的に守ろうとしていたということです。彼らはそのような偽善的な姿勢でイエスと弟子たちを批判していたわけです。 主イエスは、福音書のいくつかの箇所を通して、律法の精神について教えてくださいました。「第一の掟は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない。」(マタイ22、マガ12、ヌガ10) 律法は神と隣人を愛することこそを、最も重要なものだと教えています。我々は、時々今日の本文に出てくる「昔の人の言い伝え」と「旧約の律法」を間違って受け取ってしまい、「律法は行いだけを煽り、神の愛とは関連なく、望ましくないもの。」と誤解しがちだと思います。しかし、そうした間違った理解は、おそらく、当時のユダヤ人の間違った律法遵守、つまり昔の人の言い伝えを律法の精神だと勘違いしていた人たちによって生じた誤解ではないかと思います。今日の本文で、イエスはこの点を叩き直そうとしておられるのです。当時の多くのユダヤ人たちは律法が持っている本当の意味、つまり神と隣人への愛を行って守ることには消極的で、ただ自分が追求する「伝統に従って何かを守る」という拘りに陥り、神がくださった律法の本質を歪曲してしまいました。そういうわけで、イエスは「コルバン(神への供え物)」という間違った昔の人の言い伝えを取り上げて、そのため、十戒の大事な第5の戒である両親への敬いが守られていないと教えてくださったわけです。主は、ユダヤ人の間違った伝統の矛盾と罪について教えてくださったのです。 3. 主が本当に望まれること。 ユダヤ人たちは、自民族が神に選ばれた唯一の民だと信じていました。自分たち以外は、皆が呪われるべきだという間違った優越主義を持っていたのです。彼らは自分たちと違う存在に対して無慈悲な判断と呪いをかけました。しかし、それゆえに彼らは結局、自分たちが崇めようとする神ご自身であるキリストさえも、呪われた存在として烙印を押す愚行を犯してしまいました。自分たちが大事に扱う昔の人の言い伝えに目が眩み、真の神を見分けられず、不浄な存在にしてしまったのです。自分たちの神であるイエスさえも見分けられない彼らが、隣人を蔑視することは、当然のことでした。イエスは真の律法の精神と真の清さについて教えてくださることによって、人々が律法の真の精神について悟ることをお望みになりました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(15)主がご自分の民に本当に望まれることは、律法の最も重要な教えである「神と隣人への愛」なのです。人を汚すのは手を洗わなかったり、汚れた物に触れたりすることではありません。神の御言葉である律法の精神を歪め、自分の考えや拘りに神を合わせようとすること、それこそがまさに本当の汚れたものなのです。 「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」(イサヤ1:11,16,17)イサヤは、ユダヤ王国で活躍した予言者でした。(元々、イスラエルは一つの国でしたが、ダビデ王の息子ソロモンの死後、北のイスラエルと南のユダヤに分裂することになりました。)彼は、神の御前に何の誠実な信心もなく、ただ習慣的に出てきて宗教儀式を行っていたユダヤ人たちに、このような神の御言葉を宣べ伝えたのでした。ユダヤの民が、いくら熱心に神殿に集まり、献げ物を捧げ、神を祭ると言っても、神は愛の実践のない民から礼拝をお受けになりませんでした。むしろ、そんな華麗な礼拝をやめて、生活の中で愛を実践することを望まれたのです。しかし、そうした主の仰せに最後まで従わなかったユダヤ人は、結局、紀元前586年ごろにバビロン帝国に滅ぼされてしまいました。律法の真の精神である愛を実践し、律法の教えを固く守って生きることを望んでおられる神でしたが、民はその神の御心に従わず、その結果は滅びだったのです。 締め括り。 何十年が経ち、バビロンがペルシャに滅ぼされた後、皇帝キュロスはユダヤ人の文化や宗教に配慮してくれました。ネヘミヤとエズラといった立派な指導者によって、ユダヤ人は自らを改革するようになりました。しかし、時間が経ってイエスの時代になった時、その子孫たちは再び律法の精神を損ねる過ちを犯してしまいました。神が望まれるキリスト者の生き方は、外見だけ見事な宗教生活ではありません。そのような側面も時には必要ではありますが、何よりも大事なことは、世の中で神の言葉を実践しつつ生きることです。イエスは、その神の御言葉に聞き従い、御言葉(律法)の精神である愛の実践のために人間になってくださり、人間への愛のために、人間の代わりに十字架につけられて死に、人間の罪を赦してくださいました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15:12-14) 主イエスは私たちへの愛の極み、つまり赦しと救いのために、十字架にかけられ、また、私たちを友、民、神の子としてくださるために復活なさったのです。神が本当に望まれることは、愛の実践です。我々がこの福岡に生きる主の民であることを示すしるしも、愛の実践にあります。私たちの愛が実践される時に、私たちの礼拝も真の礼拝として一層輝くことでしょう。神は私たちの愛の実践をご覧になって祝福してくださるでしょう。そのような我々になりますように祈ります。

全能なる神の確実なお選び。

新共同訳聖書 創世記25章19-34節(旧39頁) ローマの信徒への手紙9章11-13節(新286頁) 前置き アブラハムの死後、彼の相続人であったイサクは、もはや父によってではなく、自分ひとりで神の御前に立つことになりました。神はアブラハムとの契約を覚えられ、喜んでイサクの神になってくださいました。アブラハムはカナンという広い地域(九州ぐらい)で神と契約を結んだ唯一の存在でした。今やイサクはそのアブラハムの後を継いで神と契約を結んだカナン唯一の存在になったわけです。事実、アブラハムは特別な人ではありませんでした。しかし、神は平凡な彼を一方的に選び、彼と結んだ契約を通して、彼をご自分の民としてくださいました。イサクは、このアブラハムと神が結んだ契約の相続人であることから、神に選ばれたのです。つまり、イサクは自分の能力ではなく、神の約束によって選ばれた存在なのです。神は人の能力や行為で救いを与えられる方ではありません。ひたすら、主のお選びと約束に基づいて、救いを成し遂げられる方です。今日の本文を通して、その点について話してみたいと思います。 1.選ばれた民の生活 「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」(21)イサクは、神の選ばれた民でしたが、彼の人生が、何事においても栄えたとは言えませんでした。25章にはイサクを除く、他のアブラハムの息子たちが息子を儲け、栄えたとの系譜が記されていますが、イサクはそうではありませんでした。聖書には、その始終が詳しくは記されていませんが、アブラハムが25年間、相続人を得られなかったように、イサクも20年間、子どもを儲けられなかったのでした。常識的に考えてみても、神に選ばれなかった兄弟たちより、神に選ばれたイサクのほうがもっと祝福されるべきでしたが、現実は違いました。しかし、考えてみるべきことがあります。キリスト者が抱きやすい誤解の一つは、神に選ばれた存在は、無条件、何事において、うまくいかなければならないということです。「他人より成功すべき、より栄えるべき、うまく行くべき」ということです。しかし、聖書において、そのように生きた人物は、ごくわずかです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、旧約の預言者たちも、イエス·キリストと、その弟子たちも、歴史上の数多くのキリスト者たちも、神を信じることで、幸福どころか苦難を受ける場合が多かったのです。 しかし、今日の本文を通して私たちは一つの事実を知ることが出来ます。それは神が「選ばれた民」の祈りを聞いておられるということです。アブラハムの他の息子たちとイサクの違いは、神との関係にあります。アブラハムの他の息子たちが、いくら多くの子どもを儲け、権力、財物を得たと言っても、彼らにはイサクに対するくらいの神からの愛と関心がなかったということです。旧約の他の書から見ると、アブラハムの他の息子たちの子孫の多数が、異邦の神々を信じる民族になったことが分かります。主が彼らと最後まで一緒に歩んでくださらなかったということでしょう。主はイサクの祈りを受け入れられ、息子を儲けさせてくださることで、彼の祈りに答えてくださいました。神に選ばれた人への主の祝福とは、目に見える財物、幸福、物事の有無で定まることではありません。ひとえに神が一緒に歩んでおられること、祈りを聞いておられること、主なる神になってくださること、そこに神に選ばれた者の、真の幸いがあるのです。私たちキリスト者にとって、最高の祝福とは、キリストが我らの救い主になってくださり、神の子どもとして認めてくださることです。豊かな財産、かっこいい車、社会的な名誉も良いですが、それらが無くても、神がキリストを通して私たちと共にいてくださり、私たちの祈りを聞いてくださること、それこそが我々キリスト者の掛け替えのない祝福なのです。そして、その神の祝福は永遠に続くことでしょう。 2. 神の自由なお選び。 それでは、神の御選びとは何でしょうか? 今日の本文には、そのお選びに関する物語が出てきています。「ところが、胎内で子供たちが押し合うので…主は彼女に言われた。… 一つの民が、他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」(22-23)イサクの祈りどおりに、妻リベカは妊娠しました。20年間、子供が無かったイサク夫婦に、めでたいことでした。ところで、胎児は双子でした。神はまるで、もう全てが定まっているかのように言われました。「兄が弟に仕えるようになる。」古代カナンでは、長子がすべての主導権を握り、弟たちは兄に従うべきでした。それなのに兄が弟に仕えるなんて、有り得ない事でした。しかし、神は「兄が弟に仕えるようになる。」とはっきり言われました。すでに2人の息子の将来についてお話になったのです。新約のローマの信徒への手紙には、次のような言葉があります。「その子供たちが、まだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、兄は弟に仕えるであろうとリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだと書いてあるとおりです。」(ローマ9:11-13)神がイサクの息子の中で弟ヤコブを予め選んで定められ、彼をイサクの相続人にすると宣言されたのでした。 ここで「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という表現は、文字どおりに神が誰かを愛し、誰かを憎まれたという意味ではないでしょう。言い換えれば、「神はヤコブを選び、エサウは選ばれなかった。」ということでしょう。神がアブラハムを選ばれたことも、彼が最初から正しい者だったからではありません。神は一方的にアブラハムを導き出されました。イサクが選ばれたことも、彼が偉い人物だったからではありません。先ほど申し上げましたように、イサクは神とアブラハムの契約によって選ばれた者です。エサウは選ばれず、ヤコブが選ばれたことも、ヤコブがエサウより倫理道徳的に優れたわけではありませんでした。そのすべての選びは、ひたすら神のご意思による自由なお選びの結果だったのです。私たちはここで、神は、ご自身がお定めになったことを、成し遂げられる選択権を持っておられる方であることが分かります。改革派教会では、これを「神の予定」と言います。「神が予め定められた。」という意味です。 神は、世のすべての物事を前もって知り、定めて、御心のままに成就なさる方です。神はすべてを計画し、成し遂げられる方ですので、世の始まりから終わりまで、万事を知っておられる方です。神は、私たちが生まれるも前から、私たちをすでに知っておられ、私たちの救いを定めておられる方です。そして神はキリストを通して、予め決まっていた私たちの救いを遂に完成してくださった方なのです。 3.予定説について。 こうした神の自由なお選びについての神学理論を「予定説」と言います。ところで、この理論を聞いていると、なんだか心が窮屈になります。「ということは、救われる者と捨てられる者が定められているということか?」あるいは「どんなに熱心に神を信じても、もし救われる予定がなければ、最終的には見捨てられるということなのか?」という質問が自動的に心の底から浮かんでくるでしょう。これに対して改革派神学の代表的な神学者であるジャン・カルヴァンは、こう語っています。「誰でも知覚のない確信を持って、神の御選びを探ってみようとすれば、自分の好奇心も満足させず、むしろ迷宮に陥り、到底抜け出せないようになってしまうだろう。」(キリスト教綱要 3篇21章) 私たちは全てのことを予め定めておられるという神の予定について、私たちが持っている貧弱な知識や漠然とした認識で、身勝手に想像してはいけません。「神が全てのことを予め定めて行われる。」という言葉は、「神の我がままな判断によって誰かは救われ、誰かは見捨てられる。」というふうの1次元的な意味ではありません。それよりもっと大事な「すべてのことを知り、ご計画なさる。」という神の全知全能についての意味として受け止めるべきです。もしかして、神が全てのことを知り、予めご計画なさる方ではないなら、私たちは神を絶対者、全能なる方だと呼べるでしょうか。人間の救いという一部の事柄ではなく、神の全能さという全体的な脈絡を理解すべきでしょう。 「正しい者はいない。一人もいない。… 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12)そもそも罪を持って生まれる、すべての人類は不浄な存在です。もしかしたら、すべての人類が滅びることが、神の秩序にふさわしいかもしれません。しかし、神は滅ぼされるべき人類から救われる者をわざわざお選びになります。皆が見捨てられるのが原則なのに、神はその中から、わざわざ救いを与えてくださるのです。「救う義務のない神が、救われる権利のない人間をわざわざ選び、救われる。」ということです。 従って、神の予定は差別ではなく恩寵です。そして神は、誰かに「君は救われる。君は滅びる。」と強いて言われません。主は、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んで」おられます。(テモテ一2:4)救い主イエスを遣わされ、福音を宣べ伝えさせた理由も、その福音を聞き、救われる者を呼ばれるためです。今日の本文で、エサウは自ら長子の特権を軽んじ、簡単にヤコブに譲ってしまいました。神は前もって機会を与えてくださったのに、エサウは自らそれを捨てたのです。神は全能であり、すべてのことを知っておられる方です。しかし、神は残酷な暴君のように人間の運命を勝手に定めることはなさいません。神は常に機会をくださり、人の自由な意志を尊重してくださいます。しかし、機会をくださるにも拘らず、その機会を無視する人がいることを、神はすでに知っておられるのです。神はそのように救われる者と、救われない者を予め知り、定められるのです。 締め括り 今日も聖書ははっきりと語っています。世のすべての人が救いを得ることは出来ないと。ただ主の福音に反応し、悔い改め、信仰を持って生きる人だけが、キリストの義によって赦され、救いを得ることでしょう。いくら牧師だと言っても、キリストによる神の救いと福音を軽んじ、従わなければ決して救いは得られないでしょう。神はエサウに長子の権利(相続権ー神のお選びと約束)得る機会をくださいましたが、彼が自ら捨てることを知っておられました。そして今現在ヤコブに貪欲な本性があるものの、結局、長子の権利を大切にし、神の御前に立派な信仰者として立つことをすでに知っておられたのです。神はいつも人間に機会をくださる方です。福音を与え、信仰にお招きになります。ですが、それに応じるか否かは、その福音を聞く人次第です。従って、私たちはすべてを予め知り、選んで定められる神の予定を、神の暴政ではなく、神の全能さを説明する概念として受け入れるべきでしょう。もし、皆さんが、神から遣わされたキリストを、唯一の救い主として信じ、その方を通じてのみ、義を得、神の子となることを信じておられるならば、皆さんはすでに神に選ばれた存在だと私は確信します。そして神はご自分が確実にお選びくださった皆さんを世の終わりまで守り導かれるでしょう。神の確実なお選びによって、この世を生きる志免教会の上に神の豊かな恵みと愛があることを祈り願います。

湖の上を歩く。

イザヤ書66章1-2節(旧1169頁) マルコによる福音書6章45-56節(新73頁) 前置き 邪悪な王ヘロデの暴挙と、正しい王キリストの愛、過去の2回の説教は、ヘロデとキリストという2人の王を比べつつ、我々の王であるキリストの愛について分かち合う時間だったと思います。私たちは神に召される時まで、否でも応でも、この地上に生きていくしかありません。皆さんは日本の国民として生まれ、日本の社会、政治、経済の中で生きていく存在です。しかし、皆さんが神に召される、その瞬間、もはや日本に係わる全ての物事から自由になります。その時、皆さんは、神の民というアイデンティティだけを持つようになります。ですから、皆さんの唯一の王は、地上の王でも、政治家でも、財産でもありません。生きる時も死ぬ時もキリスト者の王は、ただ神がお選びくださった真の王であるキリストお一人だけです。その点に留意しつつ、主に召される日まで、誠実な主の民として生きていくべきです。 1.大きい教会ではなく、正しい教会を。 「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」(45-46)イエスの弟子たちの出身成分は実に様々でした。ローマからの独立のために暴力的な闘争に加わっていたユダ、ローマにくっついて同胞を苦しめていた徴税人マタイ、荒仕事の漁業に携わっていた漁師ペトロなど。主の弟子の中には、主への信仰を持って追従していた者もいれば、他の意図で従っている者もいました。そんな彼らにとって、「五つのパンと二匹の魚」をもって男だけ5000人を食べさせた出来事は、強い衝撃となったはずでしょう。彼らは「少なくとも、この方さえいれば、飢えることは無いだろう。」と思ったかも知れません。さらには「この方こそローマ帝国からイスラエルを独立させる救世主である。」と判断する人もいたかも知れません。弟子たちは、主の偉大な奇跡の場を離れたくなかったことでしょう。すぐさま、ローマが滅びるとか、神の国がイエスによって成し遂げられるとかなど、何か大変なことが起こるだろうと思ったかも知れません。しかし、そのような弟子たちにイエスがされたことは「強いて舟に乗せ、行かせること」でした。 5000人を食べさせた出来事は、イエスの世俗的な権力を極大化する絶好の機会でした。ひょっとしたらイエスはローマ帝国に対抗する歴史的な英雄になれたのかもしれません。おそらく何人かの弟子たちには、そのような希望があったでしょう。しかし、主はそのような世の権力には、一抹の関心もお持ちになりませんでした。むしろ、群衆を解散され、弟子たちを次の地域に強いて行かせるだけでした。主のご関心は、世の権力ではなく、より崇高な神の御心に聞き従うことだったからです。時々、人は自分が追い求める何かを、信仰に投影させたりします。韓国には登録人数80万人の巨大な教会があります。植民地時代と朝鮮戦争の中で大きいのが最善という間違った認識が生じたからです。だからと言って、今の韓国の教会が正しいとは言えません。私は伝道師になってから数年間、韓国教会の問題点をいくつも目撃しました。今の韓国社会において教会への評価は最低です。規模だけ大きく、わがままばかりだからです。もちろん素晴らしい教会もあるでしょうが、ほとんどが小さい教会だと思います。大きい教会だからといって偉大なものだとは言えません。本当に偉大な教会、本当に大きな教会とは、主の御心とは何かを弁え、それに徹底する教会です。教会が大きくなり、教会員が増えたことに興奮する必要はありません。我々は一喜一憂せず、ただ主の御心に適う教会であるために最善を尽くして生きるべきです。 2.逆風の中の弟子たちに来られたキリスト。 「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」(46-47)、弟子たちを船に乗せて強いて送られた主は、祈るために山に行かれました。聖書で「山」という表現は、神に会う場所、神の権能などを象徴する場合が多いです。5000人を食べさせたイエスは、人気のために人の中に行かれませんでした。むしろお一人で神の御心を求めるために、祈りの場に行かれたのです。イエスは世の権力より、聖なる神とのお交わりをよりいっそう大事にされたのです。事がうまく行き、すぐにでも成功しそうな時、我々は何をするべきでしょうか? 何かがうまく行っているような時、我々は自惚れずに、神の前にひざまずくべきです。イエスは、それを実践することで手本になってくださいました。さて、主が山で祈っておられた時、弟子たちは湖を渡っていました。ところで、彼らに強い風が吹い出してきました。 「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」(48-49)主は弟子たちが苦境に立たされたことを知り、湖の上を歩いて彼らにおいでになりました。 聖書において海、湖は混沌や闇、世の風潮などを意味する場合もあります。 そこに風まで吹き始めたということは、象徴的に弟子たちが世の風潮の中で、大きく脅かされていたことと理解できます。主は神とお交わりになっていた山から、危機に瀕した弟子たちに下ってこられました。 つまり、これは聖なる神が混沌の地上に臨在なさったとのイメージです。ところで、面白いことは、主は弟子たちのそばを通り過ぎようとされたということです。せっかく弟子たちのそばに着かれた主は、なぜ彼らを通り過ぎようとされたしょうか。日本語で「通り過ぎる」と訳されたギリシャ語は「ファレルッコマイ」です。そして、この表現をヘブライ語に訳すると「アバル」になります。ところで、旧約聖書のいくつかの箇所では、この「アバル」が、神の顕現(現れ出る)を意味する表現として使われる時もあります。おそらく、マルコ書の著者は旧約の神の顕現のように、イエスが困難に直面した弟子たちに現れ出られたことを示すために、この表現を使用したと思います。つまり、主が弟子たちを無視して、通り過ぎたということではなく、助けてくださるために現れ出られたということでしょう。しかし、皮肉なことに弟子たちは主を見て、幽霊だと思ってしまいました。 権能の主イエスが共におられることを忘却してしまったわけです。神は御言葉と祈りの中で、私たちに現れ出てくださる方です。しかし、私たちは主の御心が理解できず、その方をまるで幽霊のように扱っているのではないでしょうか? 世の風潮に呑まれ、主のご臨在も感じられず、愚かに生きているのではないでしょうか。自分自身を省みる機会になればと思います。 3.再び世の中へ。 「皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(50-52)弟子たちは愚かでした。5000人も食べさせた奇跡を目撃しても、その権能に気付かず、風への恐怖で騒然でした。しかし、愚かな弟子たちが、主を見分けることができなくても、主から先に声をかけてくださったことに慰められます。主が船に乗り込まれると、湖は嘘のように静かになりました。弟子たちにとって、強い風は生命への脅威でしたが、創り主である神、主にとっては被造物の一つにすぎませんでした。我々も世を生きながら、何かに絶望、失望、悲しみ、恐怖をする時があるでしょう。しかし、主においては、それらすべては大したことではないでしょう。万物を支配され、導かれる主に恐ろしいことがあるものでしょうか。神はおっしゃいました。「天はわたしの王座、地はわが足台。これらはすべて、わたしの手が造った。」(イサヤ66:1-2)私たちが信じる主なる神は、天地万物を造り、また裁かれる、創り主であり、審判者であり、救い主である唯一の神です。その神に頼って祈り、その方にお委ねする私たちになることを願います。 「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」(53 – 56)イエスによって強い風から自由になった弟子たちは、五つのパンと二匹の魚の奇跡がもたらした興奮を後にして、ゲネサレト地域に着き、癒し、教え、宣教する、主のお働きの場に戻りました。ガリラヤの貧しい群衆は、イエスの偉大さを見分け、遠くから押し寄せてきました。イエスのそばで、大きな奇跡を目撃しても、湖の上でイエスを幽霊だと勘違いした弟子たちとは違って、群衆はイエスの船を見るだけで主と気づき、集まってきたのでした。時々、教会の内の人々よりも、教会の外の人々のほうが、いっそう神の御心通りに生きているかのような場合があります。教会は何もせずにじっとしているのに、世の中の社会運動家たちは、むしろ隣人と社会改革のために情熱的に働くことなどを例に挙げることができるでしょう。イエスは主を尋ねてきた人々のために癒し、教え、宣教してくださいました。その姿を見受けて、弟子たちは、まだ完全には悟れなかったかも知れませんが、少なくとも主イエスが、世の人気のために働かれる方ではないことは、かすかにでも感じたはずでしょう。キリストの弟子が追求すべき生き方についてです。 締め括り 我々の信仰の目標は、この世での大きな成功を追い求めることではありません。それよりも大切な神の御心に気づき、聞き従っていくことでしょう。 主イエスが望まれ、キリスト者が求めていくべき、主の弟子の在り方とは、まさにそのようなものではなかったでしょうか? 私の好きな賛美歌の中にこんな歌があります。「夜更けまで園で共におりたくとも『世に働きは多く』ゆけとの御声、主は日々共にまして我を友とせり、受けし、この喜びは誰も知らねど」主は、ご自分の民が今に安住せず、主と共に世に行き、主の福音を宣べ伝えることを望んでおられます。自分の安らぎだけを追求することでなく、神の御心を悟り、それに従って生きることを望んでおられます。主イエスは弟子たちのために、神とお交わりなさったお祈りの山から下り、湖の上を歩いて弟子たちに行かれました。主イエスはご自分の教会のために喜んで聖なる玉座を捨てて、この地上に降臨されました。そして、主の教会が神の御心を悟り、聞き従って生きることができるよう、御言葉と御救いを与えてくださいました。その主のご意志を承って生きる、我々志免教会になることを願います。主が望んでおられる、我々の在り方を記憶し、この一週間を過ごすことが出来ますように祈り願います。

神に召される日。

創世記25章1-11節(旧38頁) テモテへの手紙二4章6-8節(新394頁) 前置き ここ10ヶ月の間、私たちはアブラハムと歩んでくださった、唯一の真の神について話してきました。アダムが最初の罪を犯して以来、その子孫たちは罪と妥協しつつ、神無き人生を生きていきました。しかし、その中にも神を覚え、同道した少数の人々がいました。旧約聖書は彼らを「正しい人」と語ります。神は、その正しい人たちの子孫の中でアブラハムをお選びくださり、本格的に正しい人の系譜を作ろうとなさいました。そして、神はその系譜からイエス・キリストという真の正しい人を遣わしてくださいました。神に選ばれた本格的な正しい人という点で、アブラハムはとても重く位置づけられています。アブラハムは、正しい人と罪人という二面性を持った、弱くて失敗だらけの存在でしたが、神は少しも変わることなく、彼の人生を導いてくださいました。そして幸せな最後を許してくださいました。神は、現代を生きる私たちとも、このアブラハムのように常に一緒にいてくださり、罪を勝ちぬき、義を追い求めるように導くことを望んでおられる方です。このアブラハムの最期について一緒に探りつつ、私たちの追求すべき人生について顧みてみましょう。 1.アブラハムのハッピーエンド。 アブラハムの最期に先がけ、聖書は彼の3番目の妻について語ります。「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。」(1) アブラハムは3番目の妻をめとりました。ところで、いくつかのラビたちは、このケトラが3番目の妻ではなく、サラに追い出されたハガルであるかも知れないと主張しました。つまり、21章でサラの嫉妬により追い出されたハガルが、自分の思い煩いから自由になり、神への信仰で生きてきた結果、サラの死後、再びアブラハムの妻となり、名誉を取り戻したということです。「ケトラ」とは「芳しい」という意味で、イスラエルの神殿で使われていた香の語源です。この香は、神と人間の交わりの媒介となる、とても重要な神殿用品でした。新約聖書「ヨハネの啓示録」では、神への祈りを、この香に喩えているほどです。つまり、信仰を持って生きてきたハガルが、神殿の香のように、主と同道した人として、「ケトラ」という名前で描かれたということです。11節に、イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住んでいたと記されていますが、そこはサラに追い出されたハガルが神に出会った場所です。つまり、サラの死後、アブラハムはハガルと和解し、アブラハムの家族が互いに赦し合って幸せに生きたということです。数多くの葛藤と失敗で綴られたアブラハムの家族でしたが、最終的にすべてが神のお導きのもとで幸せに終わったということです。これは、あくまでも仮説で、定説だとは言えませんが、信仰を守り抜いたアブラハムへの神からの贈り物として、ある程度、解釈が出来る話しではないかと思います。 アブラハムは75歳に神に出会い、11年後に、イシュマエルという庶子を儲けた後、100歳でやっと嫡子のイサクを儲けました。しかし、以後、彼の信仰への神の報いなのか、このケトラを通して6人の息子を、さらに儲けることが出来ました。信仰の試練で、長い間、相続人が得られず、苦しんでいたアブラハムでしたが、信仰を証明した彼は今までなかった多くの子どもを得ました。神は私たちの考えとは違う方式でお働きになる方です。私たちが切に望んでも、神の時と御旨に敵わなければ、神のお答が延期される場合もあります。しかし、主の御旨と時に適えば、神は大きな祝福を持って叶えてくださる方です。信仰には待ち望むことが必須です。信仰とは「神のご意志と自分の意志」という絶対的な二つの価値の中で、自分の意志を抑え、神のご意志に全面的に従う自己否定の道のりです。信仰とは、自分の必要や欲望を満たすための「打ち出の小槌」のようなものではありません。信仰は、この世の本当の主でいらっしゃる神の御心に聞き従って、自分の野望や欲望を明け渡すことであり、その中で成されていく神の御心に従い、神の民になっていく道のりなのです。アブラハムの人生は、そのように自己中心の人生から神中心の人生へ変化していく信仰の道のりでした。その結果は、問題の解決と約束の成就といった真のハッピーエンドでした。 2.純粋な信仰の継承。 「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。」(5-6)もし、25章が童話だったら、今日の物語は、この上なく和気あいあいとしたハッピーエンドで終わったはずでしょう。「昔々、大昔、アブラハムとイサクとケトラと息子たちは、幸せに生き続けました。」のようになったはずでしょう。しかし、アブラハムは、その幸せに酔って本質を失う愚行を犯しませんでした。彼は嫡子のイサクと庶子たちを、はっきりと見分けました。神との約束を覚えており、約束の子であるイサクに、すべての遺産を譲りました。また、庶子たちには、あえて与えなくてもよかったはずの贈り物を分けてやることで、イサクに与えられた神の約束の相続に問題が生じないように徹底しました。そして、アブラハムはイサクを除いた他の息子たちを東の方に行かしてしまいました。約束の子のイサクが、約束の子ではない、他の兄弟たちと混じって、唯一の神ではない異邦の神々を拝む偶像崇拝者にならないようにするためでした。つまり、アブラハムは約束の子イサクに純粋な信仰を引き継ぐためにそうしたわけでした。 時々、キリスト教は排他的な宗教だと指摘されたりします。「どうしてキリスト教だけに救いがあると言うのか。他の宗教には救いがないということか」などの批判です。キリスト者にとって、これは実に困難なテーマです。他の宗教にも救いがあると言えば、聖書の言葉が偽りになることであり、他の宗教には救いがないと言えば、謙虚さを美徳とするキリスト者が傲慢な存在になってしまうからです。しかし、アブラハムは頑固に感じられるほど、イサクだけを約束の子として認めていました。ですから、私は本質的に「キリストの外にも救いがある」とは絶対に言えません。しかし、それでも、他宗教の信仰も尊重すべきでしょう。こういうわけで、私はこう話したいと思います。明らかなことは、私たちの神は他人ではなく、まさに「私」にお問いかけになっておられるということです。他人に向けた「キリストを信じなくては、救い無し」という言葉より「君はキリストを信じているか。」という、自分自身への神の御言葉に、もっと集中したいと思います。アブラハムは、ひとえに唯一の神のみを仰げという、純粋な信仰を信仰の相続人であったイサクに力強く教えたはずです。 神が今日、私たちにお聞きになられたら、私たちはどう答えるべきでしょうか? 「君はひたすら私のみを追い求めるのか? 君はひとえに私だけを信じるのか。君は私だけに唯一の救いがあると認めるのか。」このような主のお問い掛けの前で、私たちはどのような答えを持って生きているのでしょうか? 3.自分を捧げる人生 「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」(7-8) アブラハムは75歳の時、神に出会い、ちょうど100年後の175歳に神に召されました。本文の「長寿を全う」という表現は、ただ「長生きした。」という意味だけではありません。彼は自分の人生のすべてを全うして神と共に生きました。彼は異邦の神々の民として生まれ、唯一の神の民として生まれ変わり、信仰によって約束の子を生み出しました。主の約束に頼り、カナンの地に帰るべき「約束の地」を備え、子孫全員が求めるべき信仰の見本を作りあげました。彼の生涯は文字通りに神の御前にすべてを捧げ、全うする人生だったのであり、4000年経った今でも、極東の日本の教会でも教えられている信仰の父に相応しい人生であります。彼の最期を考えるたびに、新約聖書の、ある人物が思い浮かぶます。その人は使徒パウロです。今日の新約本文を読んでみましょう。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(テモテⅡ4章6-8) 残念なことに、今日の旧約の原文と新約の原文の間に共通の単語はありませんでした。ですが、旧約本文の7~8節と新約本文の6~8節は意味上、通じるところがあると思います。イエス·キリストに出会って以来、福音の伝道者として生きてきた使徒パウロは、自分のすべてを捧げました。アブラハムも神との100年間、このような充実した人生を送ったはずです。そのため、今日の聖書は「全うした。」と表現するわけです。私たち人間は、あまりにも怠慢な存在ですので、自分自身を神に完全に捧げ、全うする人生を生きることが不可能に近いと思います。それにもかかわらず、私たちは信仰の先輩であるアブラハムの人生を見て、自らをもう一度改めて振り返る機会にするべきだと思います。神という絶対的な存在の前で、私たちはどのような人生を生きているでしょうか。私たちの人生は、もうあまり残っていません。 もしかしたら明日、突然召されるかも知れません。若者だからと言って将来が晴れ続けるとは言えません。生まれは順番ですが、帰りは順番がないからです。ですから私たち自身の人生を省みつつ生きるべきです。 我々は果たしてアブラハムとパウロのように「すべてを捧げ、全うする人生」を通して神に仕えているのでしょうか? 締め括り ついにアブラハムは神のもとに帰りました。以後、彼の信仰を受け継いだイサクとヤコブ、そして、その後裔たちによって正しい人の系図が受け継がれていくことでしょう。聖書を読みながら、この物語を私たちの人生に適用しつつ生きていきたいと思います。私たちはキリストによってアブラハムの信仰の子孫となった教会です。アブラハムの信仰の子孫となった我々は恥じのない信仰の人生を生きているでしょうか。終わりの日、神の御前に立つ時、我々はどのように評価されるでしょうか? 「よくやった。我が子よ」と評価されるでしょうか? 「もっと励んで生きたら…」と評価されるでしょうか? 「私は君のことをまったく知らない」と評価されるでしょうか? 今日のアブラハムの最期を通して、我々の信仰と人生を省みていきたいと思います。 信仰とは何でしょうか。神と一緒に生きるということは何でしょうか。自らを顧み、神の御言葉に耳を傾け、従順に生きる人に神の大きな祝福があることを信じます。そのような志免教会になりますように。