殺す王、生かす王Ⅱ
申命記8章3節(旧294頁) マルコによる福音書6章30-44節(新72頁) 前置き 前回は邪悪な王であるヘロデと旧約最後の予言者である洗礼者ヨハネをめぐる物語を通して、この世は邪悪な王によって支配されやすい所であり、時々そのような王によって神の正しい人が、死の危機に追い込まれることもあると話しました。また、神が私たちにお遣わしくださった真の王は、ひとえにイエス・キリストお一人だけであり、神の民は邪悪な権勢の迫害を恐れず、ひたすらキリストに頼って共に生きるべきだとも話しました。世の権勢は悪く変質しやすいですが、キリスト者は変わることのないキリストへの信頼を持って、常に世の権勢を警戒する見張り番として生きるべきでしょう。終わりの日、キリストが再び来られる時まで、我々は忠誠心を持つ主の民として信仰を守り、堂々と生きていくべきでしょう。 1.糧より御言葉。 前回の説教の、マルコによる福音書の第6章に記してあった物語は、文脈上必ずしも必要な内容ではありませんでした。それでも、敢えてヘロデの物語が挿入された理由は、イエスという天から臨まれた善い王と、ヘロデという地上の邪悪な王を比較するための装置だったからだと申し上げました。地上の王は自分のために民を殺す悪行を働きましたが、天から来られた真の王キリストは、民を生かすために御言葉と共に糧を与えてくださいました。今日の本文は、そのような視座から考えるべきだと思います。「一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」(マルコ6:32-33)イエスのところには、いつも貧しくて弱い者たちが押し寄せてきました。ガリラヤの貧しい人々、もともと彼らを守るべき王はガリラヤの領主であるヘロデだったはずです。しかし、彼らはヘロデから、如何なる慰めも愛も受けることが出来ませんでした。彼はむしろ民を厳しく扱い、苦しめるだけでした。ヘロデの下でガリラヤの民は疲れ、つらくて貧しい暮らしをするだけでした。主の一同が船に乗って、他の地域に赴いた時、ガリラヤの貧しい者たちは船に従って駆けつけました。むしろ船より先に、主の行かれる所に到着して待っていました。それほど彼らには真の慰めと恵みが切実だったのです。 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(34)五つのパンと二匹の魚の奇跡は、4福音書に全て記してある有名な出来事です。キリスト者でなくても、その物語を知っている人がいるほどです。ところが、多くの人が、その出来事を「腹一杯食べさせること」と誤解しがちだと思います。群衆を飼い主のいない羊のようにお哀れみになったイエスが、食物だけをくださったと間違って受け入れるということです。しかし、主が群衆のために一番最初になさったことは、食べさせることではなく「いろいろと教える」ことでした。つまり糧より御言葉を優先されたということです。これには大事な神学的な意味が含まれています。我々は聖餐式を行う際に、必ず聖書を朗読し、説教を聴いて聖餐にあずかります。私たちは、ただ食べるために聖餐を行うわけではなく、神の御言葉そのものであるキリストを記念するためにパンと杯を分かち合うのです。ヘロデが暴君に見なされた理由は、ただガリラヤの民を経済的に困らせたからだけではありません。神の御言葉ではなく、自分の思いのままに治めたことが根本的な理由でした。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)五つのパンと二匹の魚の奇跡が持つ重要な教えは、「真の慰めは糧ではなく、神の御言葉に基づくものである。」ということです。 2.「五つのパンと二匹の魚の奇跡の本当の意味」 新約本文の「群衆」という単語はギリシャ語で「オクロス」と言います。オクロスとは、神の民である者と神の民でない者とをまとめた、全ての人々を意味する表現です。つまり、イエスはユダヤ人、異邦人、正しい者、罪人を問わず、全ての人間をお招きくださり、憐れんでくださったということでしょう。主はこうした分け隔てのない愛をもって、群衆つまり「オクロス」の前にお立ちになったのです。34節の「深く憐れむ。」という日本語の表現は、何か物足りない翻訳だと思います。この表現はギリシャ語の動詞で「スプランクニゾマイ」という表現です。これは「スプランクノン」という名詞に由来しますが「腸(はらわた)、比喩的には憐み、愛情」などの意味を持っています。つまり、34節で「深く憐れむ。」という言葉は「腸が千切れるほど憐れむ。」と翻訳したほうが、より一層原文に近い表現だと思います。世の風波にくたびれた群衆を見て腸が千切れるような憐れみを感じられたイエスは、そのために群衆に御言葉を教えてくださったのです。ところで、主はなぜ、疲れた彼らに、糧ではなく神の御言葉を先に与えようとなさったのでしょうか? それは神の真の慰めと恵みとは、その方の御言葉から生まれるものだからでしょう。食物はしばらくはお腹をいっぱいにするかも知れませんが、永遠の慰めと満足は与えることが出来ません。神の御言葉による恵みが先立たなければ、結局、人はしばしの間だけ満腹感に満足し、すぐに飢え、喉が乾いてしまうでしょう。 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)旧約時代、イスラエルをエジプトから導き出された神は、荒れ野で彼らにマナという不思議な糧をくださいました。マナは天から与えられたウェファースのような食物でしたが、一日経てば腐ってしまう、まさに日用の糧でした。神のご命令、つまり御言葉に従って正当に蓄えた者のマナは不足のない糧になりましたが、欲張って過度に蓄えた者のマナは、翌日、腐敗した生ゴミのようになってしまいました。神はマナをくださる前に、その点をはっきりとご警告なさいました。 一人に正味1オメル(約2.2リトル)という目安を教え、主の御言葉に聞き従うことを命じられたのです。肉体の満足を満たす前に、神の御言葉への服従が優先です。主の御言葉を聞いて従う者だけに、真の満足が与えられるのです。マナの物語はそういう点を私たちに教えてくれるのです。(マナに関する詳しい内容は、出エジプト記16章をご参照ください。) ですから、主イエスは5000人を食べさせる奇跡に先がけて御言葉を教えてくださったわけです。「五つのパンと二匹の魚」の出来事に教えられる本当の意味は「御言葉なくしては満足もなし」ということです。 3.5000人を食べさせてくださる。 「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」(6:35-36)時間が経ち、食事の時間になりました。弟子たちは主に群衆を解散させて、何かを買って食べさせようと頼みました。 しかし、群衆の中には当時のユダヤ社会において差別を受けている人もたくさんいたはずです。売国奴扱いされた徴税人、病んでいる人、娼婦、乞食など、社会から排除された人も多かったに違いありません。 もし、彼らを周りの里や村に行かしたら、彼らはきっと卑しめられたでしょう。そこで、主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と仰いました。しかし、弟子たちは、お金の心配ばかりしていて、何も行えませんでした。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか。」当時、1デナリオンは労働者一人の1日分の賃金だったと言われます。 2021年、福岡県の最低賃金が1時間当たり870円ですから、8時間としても1日7000円くらいです。それに200をかけると、140万円ぐらいになるはずです。弟子たちは群衆の事情に対する配慮も不十分でしたし、人間的な考えでお金を心配するだけでした。しかし、弟子たちの心配は極めて現実的なもので、私たちも同様に感じている心配なのかもしれません。しかし、お金の心配のため、神のお導きに従うことを躊躇ってはならないでしょう。祈りと工夫を通して、主のみ旨をたどって探し求める知恵が必要でしょう。 「イエスは言われた。パンは幾つあるのか。見て来なさい。弟子たちは確かめて来て言った。五つあります。それに魚が二匹です。」(38)その時、主は小さなものから解決策をお見つけになりました。ヨハネによる福音書6章によると、五つのパンと二匹の魚は、ある少年のものだったと言われます。主はその小さなものを用いられて、賛美の祈りの後、皆に分けてくださいました。 ここで「賛美の祈りを唱える」という表現はギリシャ語「エウロゲオ」ですが、「祝福する」という意味です。 前の創世記の説教で祝福を意味する「バラク」というヘブライ語を取り上げたんですが、この「バラク」をギリシャ語に訳すと、「エウロゲオ」になるのです。祝福とは「跪くようにする。」という意味だったことを覚えておられるでしょう。 さて、この「バラク、エウロゲオ」という表現を神に向かって使用すると、「賛美する。」という意味にもなります。すなわち、イエスが神の前で、まるで跪いたような謙遜な心で賛美の祈りを唱えられた時、天の神は、その少ないものから数え切れない多量の糧をくださったのです。その結果、5,000人を満腹させ、十二の籠がいっぱいになるほど、祝福してくださいました。神の御言葉へと群衆を導かれたイエスは、神に祝福された真の王でした。そして、その方は神の祝福を民衆にも分け与えてくださいました。その結果、出エジプトのイスラエルがマナを味わったように、主を頼っていた群衆も、天からの糧を味わうことが許されたのです。 締め括り 「五つのパンと二匹の魚の奇跡は、旧約のマナの出来事を思い浮かべさせる新約の出来事です。 かつて、エジプトの王、邪悪なファラオからイスラエルを解放し、約束の地カナンまで導いてくださった方が唯一の神であることをマナの出来事を通して示されたように、今日の五つのパンと二匹の魚の出来事は、イエス·キリストがその唯一の神から来られた存在であり、真の満足と恵みを与えてくださる、真の王であることを示してくれたのです。世の権勢は、自分の欲望のために誰かを犠牲にしますが、キリストは、ご自分の民のために、喜んで恵みの糧と満足を与えてくださいます。そして、ご自分の民を生かすために、自らの尊い命をも捧げてくださるのです。私たちの真の王は誰ですか。 特にこの日本では今でも天皇を精神的な王として、特定の政治家を政治的な王として思う人が少なからずいると思います。このような日本の社会で私たちに御言葉をくださり、導いてくださる、真の王は誰なのか、常に考えて生きるべきでしょう。私たちに霊と肉の糧、そして神の御言葉をくださる、真の王イエス・キリストを覚えて生きましょう。 真の王であるキリストと共に生きる志免教会の皆さんに主の豊かな恵みがありますように祈ります。