リベカの信仰。

 創世記24章50-67節(旧37頁) エフェソの信徒への手紙5章30-32節(新358頁) 前置き 前回の説教のおもな内容を簡略にお話ししてから、説教を始めたいと思います。「祝福する」を意味するヘブライ語「バラク」は、基本的に「跪く」という意味の動詞でした。この言葉のイメージから、創世期が語る祝福とは「神の御前に跪き、その方と共に生きること」であることが分かりました。また、アブラハムが息子イサクの嫁を探すために送った僕(僕)がエリエゼルである可能性が高く、彼が見せた主人アブラハムへの忠誠と愛を通して、主なる神への民のあり方についても学ぶことが出来ました。キリスト教は世俗的な祝福だけを追求する宗教生活のための宗教ではありません。キリスト教は真の創り主であり、救い主である神に出会い、その方に赦され、人間の真の存在理由を悟って生きる信仰の宗教なのです。私たちは神の民である教会として、アブラハムの僕のように忠誠心を持って、神の御前に跪き、従順に生きるべきでしょう。 1.神の御選び。 前の創世記の本文にはアブラハムの僕の祈りが記されていました。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。私は今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、どうか、水がめを傾けて、飲ませてくださいと頼んでみます。その娘が、どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょうと答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによって私は、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」(創24:12-14)15節によると、彼の祈りが終わらないうちに、まるで待っていたかのように叶っています。「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。」(15)実際に祈りが、このように簡単に叶うことはめったにないでしょう。多くのキリスト者が祈りの応えを求め、一週間、一年、それ以上の長い間、祈りに念を入れる場合が多いですが、それでも祈りの答えを得ることができず、諦めてしまう場合が多いと思います。普通、祈りが成し遂げられない時は、その祈りが神の御旨に敵わない場合が多いです。あるいは神の御旨に適っても、神の時ではないため、叶わない場合もあります。祈りとは、祈る者の欲望を叶えるための道具ではありません。祈りが持つ真の意義は祈る者が神の御心に気付き、神の時を待ち望んで、神に自分の思いと時を合わせて生きるための神との交わりの手段なのです。 アブラハムの僕の祈りが終わるやいなや成し遂げられた理由は、その祈りが神の御心と時に適う良い祈りだったからです。神とアブラハムの契約の実であるイサクに約束の花嫁が与えられることは、イサクが生まれる前から、すでに決まっていた神のご計画でした。アブラハムの子孫が空の星のように、海の砂のように多くなるためには、イサクに必ず妻がいるという前提が必要だったからです。ですから、アブラハムの僕は、泉の傍らで偶然リベカに出会ったわけではありません。神は今後の神のご計画を成就なさるために、必然的にアブラハムの僕とリベカを会わせてくださったのです。カルヴァン主義の五大特質と言われているドルト信仰基準には「無条件的選び」という項目があります。「神は主権的にご自分の民をお選びになり、最後まで決して諦められない。」という教えです。神はイサクが生まれる前に、主権的に彼を選ばれ、彼の妻リベカも生まれる前から選んでおられました。そして神の時が満ち、イサクと彼女を出会わせてくださったわけです。今日の本文は、すでに選ばれたリベカが、神の御前でどのように従順に行っているのかを示してくれる物語なのです。全能なる神は、この世のすべてをご計画なさり、その正しい御心どおりに導いて行かれる方です。神はアブラハムの僕の物語を通して、全能なる主のお選びの成就を見せてくださったのです。 2.主の御心に聞き従ったリベカ。 「ラバンとベトエルは答えた。このことは主の御意志ですから、私どもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」(24:50-51)リベカに出会ったアブラハムの僕は彼女の家を訪れ、一部始終を説き明かしました。かつて神がアブラハムと契約を結ばれ、約束どおりにイサクという相続人を与えてくださり、そのイサクの嫁を探すためにアブラハムが自分を送ったことなどを、ことごとく告げました。彼の話を聞いて、リベカの兄ラバンと父ベトエルは、このことに神が深く関わっておられると気付きました。彼らはすぐに納得して、リベカをイサクに送ることに決意しました。実は、ラバンとベトエルがアブラハムの神を、同様に信じていたとは言えません。以後、イサクの息子ヤコブの物語の中ではラバンが偶像崇拝者として描かれており、日本語で「主」と書いてある神の名前も原文では「ヤーウェ」という固有名詞になっているからです。おそらく、ラバンとベトエルはいたって人間的な考え方で、親族が崇める神と仲良くした方がいいとの判断から、リベカをアブラハムの家に行かせようとしたのかもしれません。当時、アブラハムが大金持ちだったので、いっそう気楽に送りだせたのでしょう。 重要なのは彼らの考えではなく、当事者であるリベカの考えでした。顔も知らない夫、信じたことのない神、すべてがリベカにとっては未知の領域でした。しかし、リベカは自分を必要とする人々がおり、そのことが主と呼ばれる神のご計画であることを聞いて、アブラハムの僕と、一緒に夫イサクのところに行こうと決断したのです。リベカの家族は彼女が、しばらく10日ほど余裕を持って出ていくことを願いましたが、彼女は思い切って翌日すぐにアブラハムの僕と出発しました。事実、イサクが妻をめとることは、神のご計画の成就のためにとても大事なことでした。母サラは死に、父アブラハムも年をとって、いつか最期を迎えるはずでした。両親が死んだら、イサクは独りになるに決まっていました。イサクは約束の相続人でしたが、だからといってイサク一人で「大いなる国民にする」と言われた神の約束を果たすことは出来ませんでした。そのため、彼には必ず妻が必要だったのです。リベカが急いでイサクのところに向かった物語は、単なる男女の結婚問題に限ったことではありませんでした。それは神の約束の成就のための至急の出来事でした。アブラハムが神の御言葉に聞き従い、生まれ故郷、父の家を離れたように、リベカも神の御言葉に聞き従い、生まれ故郷、父の家を離れ、主が示してくださるイサクのところに向かったわけでした。 3.「花婿であるキリストと花嫁である教会」 ある日の夕方、リベカは泉の傍らでアブラハムの僕に出会いました。 そして翌朝、結婚を決心して900㎞も離れたイサクのいるカナンに向かいました。リベカはまだ神という方と夫イサクの顔も知らない状態でしたが、彼女は神の御言葉に従って愛する家族を離れる、大きな決断を下しました。彼らが発つ時、家族たちはリベカを祝福しました。「私たちの妹よ、あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。」(60)そのリベカへの祝福は、2000年後、リベカの子孫イエスの御言葉によって同じように繰り返されます。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:18)イエスは「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰の告白に応じ、そのように祝福してくださいました。マタイによる福音書16章18節の「力」に訳されたギリシャ語「フィレ」はもともと「門」を意味する単語です。「対抗できない。」は 「勝ち取れない」という意味です。つまり、主イエスを真の主と告白する教会が悪の源である陰府の門を制圧するという意味です。偶然か必然か分かりませんが、リベカの家族の祝福は、2000年後のイエス·キリストと、その方の教会を通して成就されたのです。このように今日、神とイサクのために自分のすべてを捨ててカナンに赴いたリベカを見ながら私は理想的な主の教会を思い浮かべました。 「私たちは、キリストの体の一部なのです。それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:30-32)主の教会はキリストの花嫁と呼ばれる共同体です。キリストは教会を救い、ご自分の花嫁にしてくださいました。教会はキリストの御心に従い、その方の花嫁として生きています。これは、まるで異邦の神々と生きていたリベカが、神の尊い御言葉に従い、主のみもとに入り、イサクの妻となった出来事と非常に似ています。リベカは、以後自分の夫を通してヤコブというイスラエルの先祖を産むことになります。リベカがいたからこそ、イスラエルも生まれたということでしょう。また、リベカは夫イサクがエサウを偏愛して神の約束を忘れたような時も、「兄が弟に仕えるようになる。」(25:23)という御言葉を記憶し、ヤコブが長子の特権を受けるように導きました。今日の本文を通して、リベカの信仰をよく吟味したいと思います。神の御言葉なら、すべてを捨ててでも聞き従う決断と信仰、自分の感情と気分ではなく、より大きなものを見分ける目、自分のことを求めておられる神のために、いつでも動ける手と足、教会が追い求めるべき在り方ではないでしょうか? 締め括り 父アブラハムや息子ヤコブに比べて、イサクは比較的に影響力が少なく感じられます。しかし、そのイサクには信仰の妻リベカがいました。リベカによってアブラハムとイサクの子孫ヤコブが生まれ、長子として祝福を受けることになり、その後、12部族の先祖たちも生まれることになりました。イサク一人だったら絶対に叶わなかったことでしょう。私たち、教会もリベカのように主の良い花嫁になることを願います。もちろん、キリストはイサクと比較できない全能なる方で、教会の助けが必要な方ではありません。しかし、キリストの福音を伝え、隣人を愛し、神の存在を生涯を通して示す教会になれれば、主に褒められるのではないでしょうか? リベカの決断と信仰を見ながら、私たちも神の御前で決断し、信仰を持って生きる真の信仰者になることを願います。キリストの花嫁として生きる志免教会の上に神の祝福が満ち溢れることを祈ります。