ナザレのイエス

エレミヤ書15章10-11節(旧1205頁)       マルコによる福音書6章1-13節(新71頁) 前置き 我々はマルコによる福音書5章の出血病の女、そして会堂長ヤイロの物語を通して、イエスがいかなる不浄も正される聖なる方であり、死までも支配なさる真の神であることが分かりました。前回の本文は、このような主に出会うために登場人物たちが、どのような信仰を持っていたのかを語りました。出血病の女は、何があっても主に会おうとする大胆な信仰を、会堂長ヤイロは謙虚に主の時を待ち望む信仰を示しました。我々の人生の中には他人には打ち明けられない、様々な苦難や障害があります。しかし、神は常に私たちの中におられ、時には大胆な信仰を、また時には待ち望みの信仰をお求めになります。主は民がご自分への変わらない信仰を持って生きる時、必ずその信仰に答えてくださる方です。私たち志免教会の兄弟姉妹たちも、またそのような信仰を持って生きて行くことができますように祈ります。神は私たちの信仰の中にいらっしゃるからです。 1.ナザレのイエスという表現について。 本日の本文でイエスは幼年期と青年期を過ごされた故郷ナザレをお訪ねになりました。「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。」(1)実は本文に故郷の地名が明らかに書いてあるわけではないですが、ルカによる福音書の並行本文ではナザレとはっきり書いてあります。主の故郷ナザレ、しかし怪しい点があります。なぜなら、主の故郷はナザレではなく、ベツレヘムだからです。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(マタイ2:1)主はベツレヘムで生まれ、ナザレでは育たれただけなのに、どうして聖書はナザレを主の故郷だと語っているのでしょうか?※マタイによる福音書2章23節では、「ナザレという町に行って住んだ。彼はナザレの人と呼ばれると、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」という言葉があります。イエスが旧約の預言者たちの預言のようにナザレ人と呼ばれるためにナザレに行ってお住まいになったということでしょう。しかし、旧約のどこにも「ナザレの人と呼ばれる。」という箇所はありません。ですので、私たちはナザレという表現が持つ他の意味を探ってみる必要があります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」(イザヤ11:1-3) エッサイはユダ族の人であり、ダビデ王の父です。 ※「日本では故郷と言えば、育ったところというイメージが強いと思います。しかし、古代ユダヤでの感覚は現代の日本とは違いました。当時のユダヤ人にとって、ナザレ出身という言葉には劣るイメージがあったと言われます。貧しいガリラヤでも一番貧しい村の一つだったからです。ギリシャ語で故郷はパトリスと言います。この言葉はパテルに由来した表現ですが、父(Father)の語源です。ユダヤ人がどれほど父系を大事にしたのかが分かります。ベツレヘム生まれとすればダビデの子孫というネームバリューが、つまり伝統的、神学的な権威が付きますので、とても大事です。2000年前のユダヤ式の考え方ですので、故郷という言葉を日本の文化的な感覚のように受け止めるには多少無理があるだろうと思います。聖書解釈の基本は、当時の現地での社会、政治、文化を理解することから始まりますので、キリストの本当の故郷はベツレヘムとするのが正しいではないかと思います。聖書神学では、キリストの故郷をベツレヘム、ナザレの両方として取り上げていますが、神学的な重さは断然ベツレヘムの方にあるでしょう。」 エッサイの株と根とは、即ちダビデの血統を意味するものです。旧約イザヤ書には、このダビデの子孫から神のメシアが生まれると予言されています。ここで「ひとつの若枝」と訳されたヘブライ語は「ナツェル」という表現ですが、この表現はナザレ(ヘブライ語ナツラット)の語源としても知られています。つまり、ナザレのイエスとはダビデの子孫、神のメシアであるという意味です。別の意味としては、旧約聖書に登場するナジル人、つまり聖別された者の語源である「ナザル」から派生した言葉であるという見解もあります。つまり、キリストは神に聖別された聖なる方であるということです。最後にナザレは当時のガリラヤ地域の貧しい村として無視されていたと言われています。ところが、いと高き神の子が最も低いナザレに来られ、貧しくて弱い者たちに仕え、彼らの中で神の栄光を輝かせるためにナザレ人イエスと呼ばれたという見解もあります。いずれにしても、三つともイエスのアイデンティティを確実に表す意味を含んでいるので、意味のある解釈だと思います。主は旧約にも登場するダビデの町、ベツレヘム出身です。しかし、主は旧約で全く認められなかったナザレを拒否されませんでした。むしろ主は、ナザレの人と呼ばれることをお許しになりました。主は最も低いところをご自分の故郷とし、貧しい民を救いへと導かれることを喜ばれたわけです。 2.故郷で排斥されたイエス。 主はそんなナザレに弟子たちを連れて行かれました。「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(2)そして、マルコによる福音書1章でカファルナウムの会堂に入って教えられたように、ナザレの会堂に入り、御言葉を教えてくださいました。ナザレの人々もカファルナウムの人々のように主の御言葉を聞いて、その知恵と奇跡に驚きました。本文の「その手で行なわれる」という表現は当時の慣用句で「神がその手を通して偉大な業を行わせる。」という意味が隠れていると言われます。しかし彼らの反応はすぐ冷ややかになりました。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(3)ナザレ人たちは、イエス・キリストの御言葉の権威と主の権能を自分の目で確かめたにもかかわらず、当時のイエスが自分たちの隣人の家族であることを知るや否や、イエスへの偏見を持ってしまったのです。普段、古代イスラエルで誰かを指す時は父の名前を挙げて呼んだりします。例えば、「小泉純一郎さんのご次男の小泉進次郎さん」こんなふうに表現するものです。ところが、「マリアの息子じゃないの?」と言うことは、イエスを私生児のように扱い、完全に無視することと同じだったのです。 「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけであると言われた。」(4-5)主はナザレの人々の不信仰のゆえに、何の奇跡も行うことが出来ず、ごくわずかの病人と他の地域の人々にだけ癒しを施されただけでした。私たちのほとんどはかなり長年、主を信じてきました。しかし、揺らぐことなく完全に主を信じ込んで生きているでしょうか。信仰の短い人が、信仰の長い人より、むしろ生き生きとした信仰生活を営む場合もまれではないでしょう。我々の信仰生活に永い間大きな変化がないから、神に十分慣れ親しんでいるから、実生活で奇跡がほぼ起こらないからといって、主の権能が信じられない姿が我々の中にないでしょうか? 日本は特にキリスト教の伝道が容易ではない国であり、他の国々に比べれば小規模の教会が形成されています。社会的な影響力も微々たるものでしょう。「いくら信じてもうまくいかないから、教会が弱いから、社会に認められないから」という考え方でイエスの御言葉の権能まで無視する姿が私たちの中にはないでしょうか? 私たちの中にいるナザレの人々の姿を警戒し、どんなことがあっても主を信じて疑わない信仰者であるべきではないかと思います。信仰なくしては主からのお答えもないということを忘れてはならないでしょう。 3.主の弟子の道。 イエスはナザレの人々に無視されることを知っておられたはずです。すでに主は他人でもない家族に気が変になっていると扱われていました。(3章)それにもかかわらず、主はあえて弟子たちを連れてナザレに行かれたのです。もし、私のような平凡な人だったら、弟子たちを連れて故郷に行くはずがなかったでしょう。もし私が国会議員や総理大臣、有名な芸能人だったら、知人を連れて誇らしげに故郷を訪ねたかもしれませんが、イエスのように既得権者たちに嫌われ、貧しく暮らし、精神病者のように扱われる立場だったら、ここ福岡ではなく、北海道の山里に行って息をひそめて生きたかもしれません。それでも、イエスはあえて弟子たちを連れてナザレに行かれ、排斥される姿をありのままに見せてくださいました。なぜ、主は自らの恥をお見せになったのでしょうか? イエスは世の人々に排斥されることなんかに絶望なさる弱い方ではありません。主は神の御目を通して、この世のすべてを見ぬかれる方で、神がご自分をいかに愛しておられるのかを、よく知っておられる方でした。むしろ、主イエスはこのような故郷での排斥の経験を通して、イエスを信じる弟子たちなら、イエスのように排斥されることを覚悟すべきということを教えてくださったのです。 今日の本文の7-13節にはイエスが弟子たちを派遣される場面が出てきています。「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(11)つまり、イエスの弟子だと自負するなら、排斥されることを恐れてはならないということです。主の弟子として生きようとする人は必然的に、この世に排斥を受けるようになります。この世と異なる道を歩んでいくからです。もし、世から歓迎されるなら、自分の信仰と生き方を真剣に省みるべきでしょう。神はエレミヤ書を通してこのように仰せになりました。「(新改訳聖書)主は仰せられた。必ず私はあなたを解き放って、幸せにする。必ず私は、災いの時、苦難の時に、敵があなたに執り成しを頼むようにする。」(エレミヤ15:11)、新共同訳聖書では、「主よ、私は敵対する者のためにも幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたに執り成しをしたではありませんか。」と書いてありますが、ヘブライ語本文、20種類以上の英語聖書、また日本語の新改訳聖書には、先のように記されていました。新改訳と新共同訳の違いは原本の差にあります。いずれも権威がありますが、新改訳の翻訳のほうが普く使われており、そっちの翻訳を使用したいと思います。とにかく、主は排斥されるご自分の民を必ず守ってくださる方です。私たちは主の民としての覚悟を持って生きるべきでしょう。 締め括り 今日、学んだ内容は大きく3つでした。第一に、ナザレという言葉にはメシア、聖なる者、低い所という意味があるということ、第二に、長年、奇跡のない信仰生活に慣れているからといって、神の権能を軽んじてはならないこと、第三に、神の弟子なら世の中の排斥を覚悟して生きること。イエスの民として生きることは、決して安楽で楽しいこととは限らないでしょう。イエスのように貧しく、低く、苦しみの中に生きる時もあるでしょう。それでも聖なるメシア主イエスに倣って世の中に福音を伝えながら生きる私たちになることを願います。私たちの人生は短いです。しかし、神との同道は永遠です。イエスのように正しく、低い所に仕え、神の御言葉を尊く思い、世の中の光と塩として生きていく私たちになることを願います。主イエスの祝福がこの一週間も皆さんと共にあることを切に祈り願います。