繰り返す失敗と溢れる恵み。

創世記20章1-18節(旧27頁)ヨハネによる福音書15章4-5節(新198頁) 前置き 信仰の父と呼ばれるアブラハムは波乱万丈の人生を生きました。主のご命令によってカナンに来るやいなや、酷い飢饉に襲われ、飢饉を避けてエジプトに下りました。エジプトに行ったら、政治的な問題のため、妻を妹だと騙さなければならない命の危機に遭いました。以降、神のお助けによってエジプトから無事に脱出しましたが、また、自分の相続人だと思っていた甥のロトと財産の問題で別れることになりました。その後、離れていた甥を救うために命をかけて、大きな戦いに参戦することにもなりました。神に約束された息子の誕生は時間が経っても兆し無しで、神のご意思とは関係なく迎えた側妻は家庭の不和をもたらし、彼女から生まれた息子も神に約束された相続人ではなかったのです。「神の民」という呼び名が形だけのものに思えるほど、アブラハムの人生は波乱万丈そのものでした。しかし、そのようなアブラハムの人生の中でも、全く変わりのなかったのは、神がアブラハムを見捨てられず、常に共に歩んでくださることでした。神はアブラハムと契約を結ばれ、その契約関係の中でアブラハムの間違いを罰されず、その間違いさえ抱え込み、彼の人生の道に、いつも一緒にいてくださいました。キリスト教信仰の最も重要な価値の一つは、神がご自分の民と永遠に一緒に歩んでくださるということです。私たちは今日の本文を通して、アブラハムの失敗を再び目撃することになるでしょう。しかし、それと共に、決してアブラハムのことをお見捨てにならない神の愛をも再び目撃することになるでしょう。 1.同じ罪を繰り返すアブラハム。 アブラハムは、最も偉大な聖書の人物の一人と評価される人です。「信仰の父アブラハム」「アブラハムとイサクとヤコブの神」「アブラハムとダビデの子孫イエス」という表現があるほど、聖書を基盤とするキリスト教信仰において、彼の存在感は非常に大きいです。それだけに聖書を神の御言葉だと信じているキリスト者にとっても、旧約のアブラハムという人の影響は、新約でのイエスに肩を並べるほど非常に大きいです。しかし、かつて私は、このアブラハムという人が非常に気に食わなかったです。その理由は、まさに今日の本文のことのためでした。「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、これは私の妹です。と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(1-2)今日の本文、創世記20章は、前の12章の「アブラハムがエジプトのファラオに妻を妹だと騙した物語」と非常に似ています。話の文脈から見ると、今日の本文の物語はアブラハムが神を信じてから、すでに24年が経った時点、つまり、かなり成熟した信仰者になったはずの時点のことです。しかし、彼はなぜか自分の妻をまた捨てるといった失敗を再び仕出かしてしまい、まったく成長していない様子を見せているのです。12章とあまり変わりのないアブラハムの繰り返される信仰の失敗に失望感を覚えた私は、彼を「妻を二度捨てた情けない人間だ。」と思うようになりました。そのため、アブラハムのことが気に入らなかったわけです。 創世記12章でアブラハムは神に何も問わず、飢饉を避けて身勝手にエジプトへ下りました。そして神にも、妻にも大変な無礼を犯してしまいました。しかし、その後、神に赦されたアブラハムは繰り返し失敗と回復を経験し、少しずつ成長していきました。しかし、アブラハムは、長年の信仰の成長を経験してきたにもかかわらず、今日の本文に至って、再び妻を捨てる、また同じ失敗を犯してしまったのです。彼の妻サラは、ただ、普通の人妻に過ぎない存在ではありません。アブラハムの相続人、つまり神の約束の息子を産む、神に選ばれたアブラハムと肩を並べるほどの大事な人物でした。約束の相続人イサクを産む妻サラを捨てるということは、神との約束を破る大きな犯罪であり、妻との信頼をも破ってしまう大きな裏切りでした。しかし、アブラハムが同じ間違いを犯す今日の本文を見ながら、「これが人間の本質なのか?」という気がしてきました。我々は信仰を持って以来、戦争も、命の脅威も、人権の抑圧もない平和の時代を生きてきました。個人的な苦難はあったはずでしょうが、わりと平和な世の中で信仰生活をしてきたのです。ところで、もし、私たちもアブラハムのような命の脅威を感じるほどの状況だったら、果たして私たちは信仰を守り抜くことが出来たのでしょうか。ひょっとしたら繰り返されるアブラハムの失敗は、私たちの姿を映す鏡のようなものなのかもしれません。もし、実際に命をかけなければならない日が来たら、我々はアブラハムと違う姿をとることが出来るでしょうか。 2.なぜ同じ話が繰り返されるのか? ところで、アブラハムは、なぜ同じ失敗を繰り返したのでしょうか? 過去、旧約学を勉強していた時、今日の本文についての面白い主張を読んだことがあります。それは、創世記12章と20章が、ひとつの言伝えから枝分かれされた物語だということでした。つまり、12章の「エジプトのファラオ」と20章の「ゲラルのアビメレク」が登場する、似ている物語が、地名と人名だけ違い、アブラハムが妻を妹だと騙したこと、神が現れてアブラハムを危機から救ってくださったことなど、同じ言伝えから派生したものだということでした。この主張は、かつて旧約学界に大きな響きを与えた「文書仮説」という学説によるものです。昔、創世記が記される、ずっと前から、アブラハムに関する断片的な、いくつかの物語はイスラエル民族の口から口に伝わり、こうした数多くの言伝えが数人の無名の記録者たちによってまとめ記されたという学説です。また、その学説の中には、長い時間、編集されてきた聖書に、その記録者たちが自分の神学に合わせて、似たような物語を意図的に加えた可能性もあるという主張もありました。つまり、もともとアブラハムが妻を捨てた話は、一度だけのことですが、以後、聖書を編集した記録者たちが、似たような物語を別の出来事のように追加し、それが創世記20章になったという仮説なのです。しかし、このような文書仮説は、あくまでも仮説ですので、定説として受け入れてはなりません。非常に注意すべき主張なのです。しかし、それでも私は文書仮説が主張する「意図的に加えた。」という文章を通して、小さいヒントを得ることが出来ました。12章と20章に繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語が、ひょっとしたら、神がご自分の移り変わりのない愛を示されるための意図的なしるしではないかということでした。創世記に記されているアブラハムの最初の罪と最後の罪が、仕組まれたように「妻を捨てる。」という非常に似た出来事だったからです。 現代の私たちは、創世記が一人によって記された書なのか、長い間、多くの人によって記された書なのかは分かりません。ただし、この創世記という聖書が記される際に、神が深く介入され、導いてくださったということ、そして、我々に主の御言葉として、この創世記をくださったということは否定できない事実なのです。なので、私たちは創世記 12章と 20章の繰り返されるアブラハムの失敗と神のお赦しの物語を通して、神が私たちに示しておられるしるしが、確かにあるということは信じるべきでしょう。いくら偉大な信仰者であるといっても失敗を経験することがあり、その偉大な信仰者でさえ、神のご恩寵がなければ、絶対に一人で立てないということを教えるための「失敗の繰り返し」それが創世記12章に似ている今日の本文の真の意味ではないでしょうか。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3) 神は創世記12章でファラオを罰されたように、今回はアビメレクにご警告なさり、アブラハムを救ってくださいました。アブラハムは繰り返される罪による失敗を犯しましたが、神も同じく繰り返してアブラハムを救ってくださったのです。神の民にいくら信仰があるといっても、その自分の信仰だけで完全に立つことはできません。民と共におられる主の存在によってのみ、民の信仰は輝くものなのです。私たちはアブラハムの繰り返される失敗に失望するより、それでも絶対に諦められない神の愛への感謝を持つべきでしょう。もしかしたら、このアブラハムの失敗へのお赦しが、私たちの失敗へのお赦しを意味する鏡であるかもしれないからです。 3.繰り返す失敗と溢れる恵み。 「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(7)正直、今日の本文を読んでみると、先に誤った人はアビメレクではなく、アブラハムのように見えます。古代に、一つの勢力が拠点を移す際に、他の勢力の暴力的な牽制を避けるために、家族を人質として差し出すという話もありますが、当時のアブラハムはカナンで力も、富もある結構有名な人で、妻サラはすでに100歳近くの年寄でした。ある学者たちは、神がサラに子供を産ませるため、彼女を若返らせてくださり、それによってアビメレクがサラを連れていったと解釈したりもしましたが、説得力は弱いと思います。いずれにせよ、当時のアブラハムは自分の妻を妹と騙す必要はなかったと思います。創世記12章では、勢力も弱く、妻も比較的若かったので、命のために騙したのかも知れませんが、創世記20章では財力も、権力も持っていたアブラハムが、あえて妻を渡す理由がなかったということです。なので、おそらくアブラハムが早のみ込みして怖がり、妻を渡したのではないかと思います。 いずれにせよ、今日のアブラハムは信仰の父と呼ばれるに恥ずかしいほどの、情けない姿をとっています。しかし、この情けないアブラハムへの神の御心は驚くべきことです。まさにアブラハムのことを「預言者」と呼んでおられるからです。神はアブラハムが信仰の父に相応しく行動していた時も、情けない信仰の失敗者のように振舞っていた時も、変わることなく「主の民」「神の預言者」と認めてくださいました。彼の行いではなく、神と結んだ契約を見ておられたからです。これはキリストの福音に非常に似ています。私たちキリスト者は、自分自身の義によって神の民となった存在ではありません。私たちもアブラハムのように、時には信仰に生きたり、時には不信仰に生きたりします。いや、むしろ信仰より不信仰に生きるほうが多いかも知れません。しかし、それでも神は、私たちを救ってくださったキリストの義をご覧になり、私たちをご自分の民として認めてくださいます。今日のアブラハムが犯した罪は、彼が最初に犯した罪と同じ罪、つまり妻を捨てる罪でした。しかし、神は最初の罪から最後の罪まで、いつも同じように彼を守ってくださいました。正しい道を教えてくださいました。同じくイエスは、人生の初めの罪から終わりの罪まで、すべての罪をお赦しくださり、我々を神への道に導いてくださるでしょう。繰り返される罪の中でも、主は満ち溢れる恵みを持って私たちの人生を導いてくださるでしょう。その主をほめたたえます。 締め括り 「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。葡萄の枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)イエスは十字架にかけられる前夜、ご自身は葡萄の木であり、弟子たちは枝であると言われました。枝は幹につながっている時にのみ実を結ぶことができ、自分では実を結ぶことができないものです。アブラハムは同じ失敗を繰り返しました。しかし、彼は偉大な信仰の人物として私たちの記憶に刻まれています。アブラハムが偉大な人物に覚えられる理由は、失敗にもかかわらず神を信じ、離れずつながっていたからです。我々キリスト者も依然として、とるに足りない存在です。しかし、神はキリストにつながっている私たちを見ておられます。私たちが繰り返して罪を犯しても、主は繰り返して赦してくださり、常に私たちを正しい道に導いてくださるでしょう。だから失敗を恐れないようにしましょう。失敗したら悔い改め、お赦しの神を最後まで信じ抜いていきましょう。私たちが神につながっている時に、神は私たちを実を結ぶ枝として養ってくださるでしょう。繰り返される失敗にも溢れる恵みによって応えてくださる神のご恩恵を覚え、神のもとにいる者として生きていきましょう。