イエスの御業。
イザヤ書61章1〜4節 (旧1162頁)マルコによる福音書 1章29-45節 (新61頁) 前置き 30年間、平凡に生きて来られたイエスは、洗礼者ヨハネに洗礼を受けることと、荒野で試練を経験なさることを通して公生涯、すなわちキリストとしての生涯をお始めになりました。以降、主は神の国の到来を宣言なさり、弟子たちをお召になり、この世の罪人のための本格的な救いの旅に出られました。イエスは公生涯の最初のしるしとして、カファルナウムの会堂で、汚れた霊に取り付かれた人についていた悪霊を追い出されましたが、マタイの福音書によると、悪霊が追い出されることは、悪魔の支配下に置かれている、この世に神の統治が到来したことを象徴するものでした。 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)つまり、イエスが悪霊を追い出された出来事は、罪に満ちた、この地に神のお赦しをもたらし、もはや罪の呪いではなく、神のお赦しと愛を持って世を新たにしようとするイエスの覚悟を示す象徴的なことだったのです。今日の本文は、そのような新しい世のためのイエスの御業を描いています。今日の本文を通して主がなさった生前の御業について話してみましょう。 1.イエスという方。 私たちが信じるイエスはどんな方でしょうか?キリスト教の教義では、このイエスが完全な神であると同時に、また、完全な人間であると教えています。それでは、まず、人間イエスについて話してみましょう。イエスの時代のイスラエルには、イエスという名前が珍しくなかったと言われます。イスラエルの歴史上、最も偉大な人物の一人である、モーセの後継者ヨシュアに由来した名前だったからです。ヨシュアは「神が救ってくださる。」という意味を持っています。ヨシュアという名前は、時には「ホセア」や「イエス」とも呼ばれましたが、これらも、また「神が救ってくださる。」という意味を持っていました。以後、イエスは罪人の贖いのために十字架で処刑されましたが、ユダヤ教では、イエスが神の呪いを受けて死んだと信じていました。そういうわけで、ユダヤ教では、イエスという名前を不正に考え、タブー視したそうです。イエスはベツレヘム出身のヨセフとマリアの長男として、お生まれになりましたが、彼らの祖先は共通して、ダビデ王だったと言われます。そのため、聖書はイエスをダビデの子孫であると称しています。イエスは公生涯が始まる時まで、家族と一緒に暮らし、大工を生業として生きてこられました。 イエスは30歳になった時から、ご自分の町、ナザレを離れられ、公生涯をお始めになったと知られています。 また、イエスは初めから存在しておられた神様です。私たちが三位一体と呼んでいる神は、父、御子、聖霊の三位が独りの神としておられる方です。この三位一体は、世界が造られる前からおられ、世界の創造、維持、終末までの、すべてを司られる神です。三位一体なる神は、各自、限りの無い権能を持っておられますが、自ら低くなられ、お互いに協力し合って、摂理を行われて、それを通して、この世界を治めて行かれる方です。そのような神の統治は、今でも移り変わりが無く、これからも永遠に続くでしょう。御父は、この世のすべてをご計画される方です。御子は父なる神の御言葉、すなわち神のご意志でいらっしゃり、神の計画をこの世に啓示なさる方です。そして、聖霊は、その御父の計画を御子の啓示によって、世の中で成し遂げられ、行われる方でいらっしゃいます。イエスが完全な神であり、完全な人間であるという意味は、神の全能さと人間の弱さをすべて知っておられ、そういうわけで神と人間の間で完全な仲保者になることが出来るということを意味します。イエスの御業は、これらの完全な神であり、人間であるという、神と人間への完全な知識の中で、この世を新たにしつつ、回復させる救いのお働きなのです。 2.イエス・キリストの御働き それでは、イエスは、この地上でどのようなお働きをなさったのでしょうか?私たちは今日の本文を通して、イエスが3つのお働きをなさったことが分かります。一つ目に、イエスが癒しをなさったということです。 「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(1:30-31)イエスの時代のユダヤ地域は、邪悪な王の支配とローマ帝国の圧政の故に、権力と富のある人は住みやすい所でしたが、貧しくて弱い人々には、ますます苦しくなる所でした。神は旧約聖書を通して、常に貧しくて弱い者たちの世話を見なさいと命じられました。また、貧富の隔たりを無くし、誰もが神のご支配の中で平和に生きる世界を追い求めるイスラエルをお望みになりました。しかし、イエスの時代は、そのような神の御意志とは、あまりにも遠ざかっている現実に置かれていました。王と総督は自分の権力と富だけを貪り、その下の祭司と宗教人たちも大きく異なるところがありませんでした。 前回の説教で、私は悪魔の性質について、自らを神のように高めようとする傲慢さだと話しました。当時の指導者たちは、低くて弱い者には関心を持たず、ひたすら自分の政治的、社会的、宗教的な権力が高まることだけに気を取られていました。イエス様が、この地に来られ、病んだ人を癒し、悪霊を追い出し、弱い者たちと一緒におられたというのは、そのような世の風潮に真正面から抵抗する行為でした。イエスは貧しい弟子の家族を癒してくださることから始め、あらゆる病人を治され、人を苦しめる悪魔を追い出され、罪人を清めてくださいました。 「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、御心ならば、わたしを清くすることがおできになりますと言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい。清くなれと言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 」(1:40-42)イエスのお癒しは、真の王でいらっしゃる神様が、イエスを介して、弱い者たちと一緒におられることを積極的に見せてくださる行為でした。最も高いところから来られたイエスは、最も低いところに自ら臨まれて、お慰めくださり、お癒しくださって、神が民の間におられることを証明されました。 二つ目に、イエスは宣教なさいました。 「イエスは言われた。近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38)今日の本文に宣教するとして翻訳された単語は、ギリシャ語で「ケリュッソ」と言いますが、「宣言する。述べ伝える。告げる。」などの意味を持っています。つまり、今日の本文の「宣教する」は、イエスの説教、あるいは宣言として翻訳することが出来ます。この「ケリュッソ」という言葉から、キリストを通した救い、罪の赦し、恵みなどを述べ伝えるという意味の「ケリュグマ」という概念が由来しました。イエスが病人を癒され、悪霊に取り付かれてた者から悪魔を追い出された理由は、神の国がこの地上に臨んだということを宣言する宣教をなさるためでした。イエスは、この宣教のために、神から人間にお生まれになったのです。もし、ただ、癒されるばかり、悪霊を追い出されるばかり、糧を分けてくださるばかりで、イエスのお働きが終わったならば、イエスの御業は中途半端になってしまったはずでしょう。主が癒してくださった理由は、その癒しと伴う宣教を通して、人々がイエスを信じて、神の民になり、神の国に入るように導いてくださるためだったのです。 三つ目に、イエスはお教えになりました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44)イエスはお癒しを受けるために、主のところに来た重い皮膚病を患っている人を清めてくださり、それから彼が何をすべきかを教えてくださいました。主はレビ記の教えに基づいて、回復された人の在り方を教えてくださったのです。主は旧約聖書の言葉を無視なさらず、その言葉に応じて、祭司のところに行ってモーセが定めたものを献げて、人々に証明することを命じられました。主は、聖書の言葉を生活の中で適用するように、導かれ、治った人が御言葉のように行なうことを望まれたのです。イエスは癒しと共に、御言葉を教えてくださる方です。癒しを通じて体と生活を新たにしてくださり、御言葉の教えを通じて、魂と信仰を新たにしてくださいます。イエスは今でも聖霊を通して、教会にお教えをくださいます。聖日の説教と、個人の黙想を通して、主は今日も、御心を教えてくださり、その教えを通して信徒の進むべき道を教えてくださるのです。 締め括り 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1)かつて、イザヤ書は、神が油注がれたメシアを遣わし、貧しくて弱い者を救い、慰めてくださることを予告しました。主イエスがこの地に来られ、御業を行われたのは、このようなメシアの到来を実際に証明することでした。主はお癒しを通して、弱い者を立ててくださり、宣教なさることを通して、主の救いを知らせてくださいました。そして教えてくださることを通して、信者の在り方を教えてくださいました。私はこのような主の3つの御業が、キリストの教会が貫くべき働きであると思います。私たち教会は、主の体なる共同体です。私たちは、楽園に入るだけのために、主を信じる存在ではありません。このようにお働きになるまでに、世を愛してくださった主の、そのご意志を受け継ぐ者として召されたのです。イエスが再び来られる、その日まで、主がお働きになったように、教会は働くべきです。イエスは今日も、聖霊を通して私たちの間におられます。そして、その聖霊を通して、教会が働くことを望んでおられます。 21世紀の日本社会で、私たち教会は何をすることが出来るでしょうか?今日の言葉を顧みつつ、我々が働くべきことは何なのか、悟りを得る一週間になることを願います。