神の子、人の子。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 18章28-40節(新205頁) 前置き ただ、イエスだけが人の罪を贖ってくださる神から遣わされた真の大祭司でいらっしゃいます。『キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。』(ヘブライ9:10-11)聖書はヘブライ書を通して、イエス・キリストが神から遣わされた、真の大祭司であることを明らかにしました。しかし、主は神ではなく、人の手によって立てられた偽の大祭司たちに苦しみを受けました。イエスは、この世の権力を追い求めた偽の大祭司たちを通して、この世に否定されました。 『門番の女中はペトロに言った。あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ペトロは、違うと言った。』(ヨハネ18:17)また、イエスの一番弟子であると、自他共に認めたペトロさえ、イエスを否定しました。主はペトロと代表される、教会からさえも、否定されたわけです。イエスは、この世だけでなく、ご自分の身内にも、否定されることによって、すべての人に拒まれました。なぜ、イエスは、世からも、教会からも否定されたのでしょうか?『彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。』(イザヤ53:5)それはまさに、主が否定される代わりに、罪人が認められ、彼が苦しみを受けことによって、不義な人類に癒しをくださるためでした。イエスは、すなわち、不義な罪人のために、代わりに否定と苦難を受けられたのです。 1.バラバ、人の子。 このように、主は、大切なご自分の命を捧げて、罪人を救ってくださいました。ご自身が滅ぼされるべき罪人の立場に降っていかれ、罪人をご自分の栄光の立場に引っ張り上げられたということでしょう。これは、特に今日の本文の最後の言葉で明らかに示されています。『過越祭には、誰か一人をあなたたちに釈放するのが、慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。すると、彼らは、その男ではない。バラバを。と大声で言い返した。バラバは強盗であった。』(ヨハネ18:39-40)今日の最後の言葉を始めから取り上げる理由は、このバラバという名前の示唆するところが大きいからです。『ピラトは、人々が集まって来たときに言った。どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。』(マタイ27:17)ヨハネ福音書ではバラバという名前だけで書かれていますが、マタイ福音書では、フル・ネームのバラバ・イエスと記されていることが分かります。イエスという名前は、私たちが信じている主の名前です。ところが、偶然にも、この強盗死刑囚の名前も、イエスでした。 イエスは旧約聖書に登場するイスラエルの指導者、ヨシュアをギリシャ語に読んだものです。ヨシュアは『主は救いである。』という意味です。イエスも、そのような意味の名前でした。ある本で読んだ話しですが、昔の日本では、太郎や花子のような名前が多かったそうです。イエスの時代のイスラエルでイエスという名前は、まるで太郎や花子のようにかなり一般的な名前だったようです。名前の内容も神を賛美するものであり、旧約聖書のヨシュアという人も、偉大な信仰の人物だったので、多くの人に愛用されたことでしょう。しかし、そのような一般的な名前だからといっても、キリスト・イエスとバラバ・イエスとの間には雲泥の差があります。この時代のイスラエルでは、ヘブライ語ではなく、アラム語というヘブライ語に近い言語を主に使用していました。バビロン捕囚の時代を経て言語が、かなり変わったわけです。アラム語で『バル』は息子という意味です。そして、『アッパ』は父という意味です。つまり、バルにアッパを加えた『バルアッパ』バラバは『父の子』という意味です。 私たちは、『天にまします私たちの父よ。』という言葉をもって祈りを始めたりします。そのため、このバラバという名前のアッパ、すなわち、父が神様を意味すると考えるかもしれません。バラバ、父なる神の子、本当に格好いいのではないでしょうか?しかし、我々が必ず知るべきことは、イエスが来られる前には、人が神を父と呼ぶことが許されなかったということです。不従順と罪の歴史を持っている、私たち人間は、あえて神に父と呼ぶことが出来ない、資格のない存在でした。しかし、イエス・キリストの贖いによって、やっと人間は神を父と呼ぶことが出来るようになったのです。その前には、神を信じるといっても、神のしもべに過ぎなかったのでしょう。つまり、バラバとは神の子という意味ではありません。バラバは父の子、自分の罪のために苦しまなければならない人間の息子。すなわち、人の子を意味するものです。 2.人の子たちの愚かさ。 人の子。どこか、たくさん聞いた言葉ではないでしょうか?『人の子が、仕えられるためではなく 仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと、同じように。』(マタイ20:28)イエスは、福音書でご自分を指す時に、「人の子」という言葉をよく用いられました。これを通して、イエスが自らをバラバと言われたといっても過言ではないだろうと思います。神の御子イエス・キリストが自らを人の子であると示されたというのは、果たしてどのような意味なのでしょうか?もちろん、主は自らを謙虚に低めるために人の子という別称を用いられたかも知れません。しかし、それだけでなく、さらに罪によって死ぬしかない罪人の立場に、ご自分が身をもって立ち、罪人に仕えるために、自分自身のことを人の子であるとなさったことではないでしょうか?イエスは神の子でいらっしゃいました​​が、自らが人の子、バラバになり、罪人の苦しみと悲しみ、罪による死のところに行かれたということではないでしょうか?今日の本文の最後の言葉は、このようなイメージを私たちに示しています。『神の子が、人の子の立場に行かれた。それによって人の子は、死から救われて、代わりに神の子とされた。』これが今日の言葉が、私たちに示している主の恵みだと思います。 しかし、人々はこのように人の子を愛してくださった主イエスの心が分かりませんでした。誰よりも、神の御心をよく知り、従うべきであった大祭司は、神のご計画も分からないまま、ただ自分の利益のために、キリストの死を望んだ者です。『一人の人間が、民の代わりに、死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。』(18:14)神はこのような邪悪な者の口を借りて、お一人、キリストの死によって、多くの命が救われるようになると教えてくださいました。しかし、そのようなことを告げたことにも拘わらず、大祭司は、ただ自分の利益のために、一人のキリストが死ななければならないと思っただけです。つまり、彼は自分が何を言ったのかも、知らなかったわけです。『ペトロは打ち消して、違うと言った。』(25)教会を代表する使徒たちの中でも、イエスの一番弟子であったペトロは、失望と不安の中で、イエス・キリストを否定しました。彼はイエス・キリストを完全に信じていなかったかも知れません。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』(ルカ9:22)イエスが明らかにご自分が復活されると教えてくださったことにも拘わらず、ペトロは権力者イエスの片腕になろうとしていた自分の考えと野心に陥って、主の御心を正しく知らず、誤解していたわけです。 イスラエルの群衆は、邪悪な大祭司やファリサイ派の人などによって煽られて、一週間前にホサナを叫んで歓迎していた姿とは違って、イエスを十字架につけろと叫びました。イエスが自分たちが願っていた権力者ではないことに気が付いたからです。彼らが追求したのは、イエスによる神の国ではなかったかもしれません。彼らは帝国の皇帝としてのイエスを期待したかも知れません。『祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、十字架につけろ。十字架につけろと叫んだ。ピラトは言った。あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見いだせない。』(19: 6)ローマ帝国の総督であったピラトは、いかがでしょうか?キリストから罪が見つからなかったことにも拘わらず、イスラエルの多数がせがんできて、イエスを十字架に押し込んでしまいました。罪人である人の子、バラバの代わりに、神の子、イエスを捨てたのです。『地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか』(詩篇2:2)の言葉のように、人々は神の油注がれた者、神の子イエス・キリストに逆らい、殺そうとしました。このすべての愚かな人々、皆が人の子であり、誰もが、バラバだったのです。しかし、イエス・キリストは、自分自身を迫害する、このすべての人の罪のために、自ら人の子バラバになってくださいました。そして、父なる神の御心に聞き従い、十字架の道に進んで行かれました。 3.イエス・キリストが証する真理‐神の国。 ピラトはローマ帝国から派遣された、イスラエルの本当の権力者でした。イスラエルで彼に反抗する人はいませんでした。イスラエルの王であったヘロデも、権力者であった大祭司も彼に逆らうことが出来ませんでした。彼は、イスラエルの王のような人物でした。しかし、実は彼も人の子に過ぎなかったのです。彼も結局、バラバの立場にあるべき一介の人間だったということです。『ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、お前がユダヤ人の王なのかと言った。』(ヨハネ18:33)そのようなピラトが、真のイスラエルの王であるキリストにお前がユダヤ人の王なのかと尋ねてきたのです。皮肉なことに、罪人の王が、義人の王に『本当の王なのか』と尋ねる愚かを犯したということです。『イエスはお答えになった。私の国は、この世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。 』(36)そんな彼に、主は『私が王であることは、確かである。しかし、私の国はこの世のものではない』とお答になりました。 神の子である主が、人の子らに苦しめられ、死まで至ることになりましたが、彼らを憎まず、愛してくださった理由は、イエス・キリストの御心が人の思いよりも遥かに高くにあったからです。人の子は、ただ自分の目に見えるもの、自分たちの測りうるものだけを見ようとします。すなわち、この地にある自分の有益だけに心を尽すということです。これは、ペトロ、大祭司、群衆、ピラト、すべての人に同じ事柄です。そして、これは私たちにも該当するものなのです。しかし、主は、ご自分の有益ではなく、ご自分の苦難によって成就される、人の子らの救いと神の御国の成立を眺められたのです。神の子において、人の子の立場に来なければならないという、義務はありません。罪を犯し、神から離れたのは人間のほうだったからです。神様は何の理由もなく、人間を捨てられたことではありません。人間が先に神様に不従順したからです。人々が罪のため滅ぼされても、神には何の被害も及ぼされません。それにもかかわらず、むしろ、神は最後まで人間への責任を負い、ご自分の被造物である人間を生かそうとなさいました。しかも、御子イエスを捨ててまでです。神はこれらのすべての罪人が赦しを受けて、キリストを中心として一つになる真の平和と愛の国を望まれました。イエス・キリストはこのような神の国を望んでおられたのです。 『そこでピラトが、それでは、やはり王なのかと言うと、イエスはお答えになった。私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。』(37)キリストが、この世に王として来られた理由は、権力者になって君臨するためではありません。彼が来られた理由は、真理について証しをするためでした。ピラトはイエスに『真理とは何なのか?』と問いました。これは私たちもすべき質問でもあります。過去、私はローマ2章の説教をしながら、真理の意味について、お話しました。聖書が語る真理とは、『表だけに見られる現象ではなく、ある物事の背後に隠れている本当のことを意味する。』と言いました。イエス・キリストがこの世の王として来られたのは、目に見える大帝国(表)を立てるためではありません。それより、目に見えない神の国(真理)を立てるために来られたのです。この世のことしか、知らなかったピラトは、イエス・キリストが夢見た本当のこと、即ち、真理とは何か、分かることが出来ませんでした。ここでの主イエスが証しした真理とは神の国の成立です。世の帝国より、はるかに大いなる神様が、手ずから治められる、神の国がイエスによって成し遂げられることです。これこそが本当の真理まのです。すべての罪人が罪による死の恐怖から抜け出し、神の子として、互いに愛しあい、神のご意志を成し遂げていく神の国。それこそが、神の国、イエス・キリストが仰る真理なのです。そこは神に許された人だけが享受できる国です。その国は神の子という身分がある時だけ、堂々と入ることができる所です。この世の人類、すべての罪人が持っているバラバ・イエス、人の子という身分としては許されません。しかし、キリスト・イエスによって神の子という身分にされた人は、罪人ではなく、義人として、神の国に入ることになります。『人の子であるあなたは、私によって、神の子となりなさい。そして、神の国に入りなさい。』イエス様が伝えようとした真理は、これなのです。 結論。 イエスは神の子です。神の子という言葉は、神の被造物という言葉ではなく、父なる神と同等の立場にたっているという意味です。須恵町の信徒たち、志免町の信徒たち、韓国からの牧師夫婦。私たちは、故郷、家柄、状況は異なりますが、人間という点では同じです。イエスは御子と呼ばれますが、父よりも劣る存在ではありません。つまり、彼も偉大な神様であるということです。この神様自らが人となられ、人間にご自分の特権を分けてくださいました。そのため、私たちは神の子となることが出来るのです。神の子になったので、私たちは恐怖と不安を追い払い、神の子と認められ、神の国に入ることができます。ペトロ、大祭司、群衆、ピラト、そして、私たちまで、すべての人は、この世の目に見えるものだけを追い求めていました。しかし、イエスは、すべての罪人を赦し、神に至る道を開いてくださいました。我々は皆、バラバなのです。我々は皆、人の子です。しかし、私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、もはや人の子ではなく、神の子として生きていくことができます。このために、主が私たちに来てくださったのです。この一週間、神の子として召された私たちの在り方を省み、主の喜びとなる人生を生きていきましょう。皆様の上に主の恵みがありますように祈り願います。

否定されるイエス。

聖書朗読  イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書 18章12-27節(新204頁) 前置き イエス・キリストはご自分を信じる者に神との和解の道を開いてくださいました。神の子であり、神ご自身である主が自分の特権を棄て、この地上に来られ、多くの人々にご自分の特権を分けてくださいました。 『自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。』(ヨハネ1:12)その特権は、まさに神に捨てられた罪人が主への信仰によって、神の子となる特権です。主を信じる者は、キリストのお蔭で、神の子となる資格を得ることになります。そして、その資格によって、罪人が神に禁じられた神の国の民になることが出来ます。 『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』(ヨハネ1:4)主を信じる者は、罪と死のために道に迷っている真っ暗な人生から抜け出し、暗闇を照らす真の光を得ることができます。主イエスは、このように苦しんでいる民を救ってくださるために喜んで、皆の救い主として来られました。しかし、今日の本文では、ご自分の民も、この世も、イエス・キリストを打ち消し、拒みました。なぜ、イエス・キリストは御愛と御救いとを持って来られたにも拘わらず、打ち消されたのでしょう?そして、そのように否定されたイエス・キリストを、私たちはどう思うべきでしょうか?今日は否定されるイエスという題で皆さんと一緒に御言葉を分かち合いたいと思います。 1.ご自分の民に否定されるイエス 先週イエスは、自分を捕まえるためにやって来たローマの兵士とユダヤ人たちにわざわざ捕らわれてくださり、代わりに弟子たちを生かしてくださいました。主は力なく逮捕されたのではなく、弟子たちを救うためにわざわざ逮捕されたのです。これは、主の民のために、ご自分が代わりに死んでくださることを予め示す出来事でもありました。 『わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』(18:8)しかし、主のこのような姿とは違って、弟子たちは皆、主を捨てて逃げてしまいました。これと繋がる有名な場面が、ペトロがイエスを三度も打ち消した話です。『門番の女中はペトロに言った。あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ペトロは、違うと言った。』(18:17)15節の言葉を読むと、主に従った、ある弟子の一人が大祭司の知り合いであったと記されています。おそらく、この人はヨハネによる福音書の著者である使徒ヨハネだと思います。どんなわけで、一介のガリラヤの漁師であった使徒ヨハネが大祭司の知り合いだったのでしょうか?ある聖書学者たちによれば、案外にヨハネの家は裕福だったそうです。つまり、ヨハネ、本人ではなく、彼の父ゼベダイの方が大祭司とも会ったことのあるほどの金持ちだったということです。だから、門番の女中は、このヨハネに無礼に振舞うことができない立場だったということでしょう。従って、彼の知り合いであるペトロにも失礼な態度を取ることができないはずでした。 ギリシャ語のニュアンスどおりに翻訳すると、彼女は、かなり丁寧にペトロに尋ねたことが分かります。 17節をもっと詳しく翻訳してみましょう。 「あなたがイエスの弟子である、あのヨハネさんと一緒にいるのを見れば、あなたもイエスの弟子ですよね?そうではありませんか?」この言葉には、どんな脅かそうとする意図も、追い詰めようとする姿勢もありませんでした。しかし、ペトロはきっぱりと否定しました。 「違う。」時間が経ち、今度は周りの人たちから『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』(25)と聞いてもらいました。今度は、前の女中とは違って、少し強圧的な質問でした。ペトロは再び否定しました。するとそばにいた大祭司の僕の一人が『園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。』(26)と明らかに目撃した人として追い詰め、ペトロに問い質しました。しかし、最後まで、ペトロは口を極めて否定しました。その時、主の言葉どおり、鶏が鳴きました。ペテロは、柔らかな質問から、鋭い問い質しまで、全面的に主を否定したのです。ペテロは、いつも主の一番弟子という自負を持っていました。なので、自分は、いつも主と共におり、共に死ぬだろうと言い放ちました。しかし、その一番弟子という自負は、果たして純粋なものだったのでしょうか?彼は神の子と呼ばれるイエスが、この世の価値に相応しい偉大な存在、つまり、王のような権力者になると思っていました。 もちろん、その心にかすかな信仰もあったと思います。しかし、マルコの福音書10章でヤコブとヨハネの兄弟が『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』と願った時、ペテロも、その言葉を聞いて、他の弟子たちと一緒に腹を立てました。このように、彼の主な関心は、イエスによる世の権力にあったのではないでしょうか?また、ペテロは主が御自分の死を予告されたとき、主の死を否み、主が逮捕されたとき、剣を振るって、主を守ろうとしました。果たして、これは本当に主を守ろうとする振舞いだったのでしょうか?自分の野望を守ろうとしたことではないでしょうか?主はペテロの裏切りを既に知っておられました。『ペトロが、たとえ、皆が躓いても、わたしは躓きませんと言った。 イエスは言われた。はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度、わたしのことを知らないと言うだろう。』(マルコ14:29-30)ここで、私たちは『自分だけは、決して主を離れない。』と誓ったペテロから、私たちの姿を見つけなければなりません。私たちが、イエスを信じる理由は何でしょうか?イエスが私たちを楽園に導いてくださるからでしょうか?この地上で私たちと家族を幸せにするために守ってくださるからでしょうか?あるいは、教会に来ると心安らかになるためなのでしょうか?それとも、毎週、祝福の祈りを受けることができるからでしょうか?米国や欧州、韓国のように、キリスト教の規模が大きな国では、政治家たちが自分の評判や選挙のために信仰なく、教会に通う場合があると言われます。私たちは、いかがでしょうか?もし、主が自分に役に立たなくても、私たちは主を主だと認められるでしょうか? イエスの弟子たちは、使徒と呼ばれ、教会を創り上げる大事な役割を務めました。ペテロはその中でも、イエスの弟子たちを代表する大切な人物です。カトリック教会では、ペテロを一代の法王であると考えています。イエス様もペテロを特別に扱われました。ところが、このようなペテロがイエスを否定しました。力のないイエス、弱いイエスに失望したのかも知れません。イエスのせいで被害を受けることを恐れたのかも知れません。重要なのは、教会を代表する人物がイエスを否定したということです。教会はイエスの体と呼ばれる共同体です。しかし、教会も、イエスを捨てることがありえます。自分の欲望を満たしてくれないイエス、自分の助けにならないイエス、自分の願いを叶えてくれないイエスに気づいたとき、ひょっとすると、私たちも今日のペテロのように、主を断固否定するかもしれません。私たちの信仰はいかがでしょうか?私たちは、どんなことがあろうとも、イエスを否定しないで、主と一緒に苦しみを受けることが出来るでしょうか?私たちのイエス・キリストへの信仰が、どのような躓きの石も乗り越える純粋な信仰であることを望みます。鶏が鳴き、後悔したペテロのようになる前に、どのようなことがあっても、主を認めて従う私たちになることを願います。 2.世に否定されるイエス 逮捕されたイエスは、イスラエルの権力者たちに連行されました。当時、イスラエルの大祭司は、カイアファでした。しかし、イエスは、まずカイアファのしゅうとであるアンナスのところに連行されます。『まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファの舅だったからである。』(13)アンナスは当時の大祭司ではなく、大祭司の舅というだけなのに、なぜ、イエスは彼のところに、 まず、連れられたのでしょうか?その時、イスラエルはローマの支配を受ける植民地でした。ローマは、出来るだけユダヤ人の信仰と伝統を認めて支配しましたが、それでも、植民地であったため、民族主義的な権力が生じることを懸念しました。そのため、もともと、終生職であるべき大祭司がローマ総督の指示の下で、数年ごとに変わりました。アンナスも、そのような過去の大祭司の一人でした。しかし、このアンナスの権力は強大でした。今日の本文の時の大祭司が彼の義理の息子であり、アンナスの5人の息子は、皆、歴代の大祭司として権力者になりました。つまり、アンナスは大祭司を左右することが出来るほどの目に見えない本当の権力者でした。主はこのような権力の頂点に立っている者のところに、まず連行されたのです。 続いて、イエスはアンナスの娘婿であり、当時の大祭司であるカイアファのところに連行されました。イスラエルの大祭司は、イスラエルで最高の権力者の一人でした。この時、イスラエルには、サンヘドリン公会という機関がありました。それはイスラエルがバビロンの捕囚から解き放された後、イスラエルの自治のために生まれた組織です。サンヘドリンは大祭司、ファリサイ派、サドカイ派、総計71人が集まり、まるで、今の国会、裁判所のように、イスラエルを治めました。後、ローマ総督は、この組織を操るために、直接、大祭司を任命しました。つまり、大祭司はそのサンヘドリン公会の代表であり、親ローマ派の者でした。したがって、大祭司は、単に宗教指導者を超えて、政治的にも多くの影響を持つ者でした。宗教権力も、世俗権力も、両方握っているものだったという意味でしょう。しかし、アンナスもカイアファも最終的にはローマ帝国の操り人形に近かったのです。彼らは神の御心によって選ばれた大祭司ではなく、世の権力によって立てられた大祭司でした。彼らは人間が立てた偽りの大祭司であり、律法に認められない偽者でした。彼らは神の律法より、ローマ帝国の権力に近い世の権力に属していたのです。彼らの興味は神の意志よりも、世の権力にあったからです。 大祭司たちの仕業の例を取り上げてみましょう。イスラエルの成人男性は過越祭、七週祭、仮庵祭の3大祭りにエルサレムの神殿に上り、神様に献げ物を捧げる義務を持っていました。『男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。 あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。』(申命記16:16-17)そのため、民は自分が心を込めて育てた生け贄の動物を、エルサレムまで連れて行って捧げました。しかし、傷のある物は捧げてはならないという律法の命令ため、行く途中、傷が生じたりすれば、その動物は使えないようになりました。大祭司は、それらのことを悪用し、神殿で商売をしました。傷のある動物を安く買い取って、その動物を綺麗だと騙し、高く売却した。ローマの銅貨には、皇帝の顔が描かれていて、偶像のものだという口実を設けて、イスラエルのお金に両替させました。このような正しくない方法によって、大祭司は莫大なお金を稼ぎました。イエス・キリストが神殿の商人たちを追い払われた出来事は、このような背景から理解する必要があると思います。神殿でのイエスの行為は、大祭司が聖であると認めた神殿商売の腐敗した面を暴き立てることでした。そのため、大祭司はイエスを目の敵にしたはずでしょう。 イエスは神の御心に逆らう、大祭司たちの悪行を指摘し、治そうとなさいました。その反面、大祭司は人を生き返らせ、イスラエルの悪い習わしを治し、人々を癒すことによって、人気を得たイエスを憎みました。自分らの立場が揺らぐと思ったわけです。『大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。』(19)大祭司はイエスを排除しなければ、自分の権力が危ないと思いました。そのため、イエスの教えを尋ねたわけです。彼は、すでにイスラエルの大祭司という名目から外れ、神の外にいる存在でした。彼はこの世の空中に勢力を持つ者の手下のような存在でした。 『イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるかと言って、イエスを平手で打った。』(2​​2)正しいことを教え、正しい道を示されたイエスは、大祭司の悪により、苦しみを受けることになりました。この世の偽りの大祭司が、神から遣わされた真の大祭司を否み、裁いたのです。世の権力者たちは、自分たちの利益のために、不正や悪行を犯したりします。そのような人々に正義を貫くキリストの福音は迫害を受けます。教会が主の言葉に徹底的に聞き従い、正しく変えようとするなら、迫害を受けることは決まっているでしょう。それでも、教会は、主に従って正しいことを行いつつ、生きるべきでしょう。この世の方式に妥協する瞬間、私たち教会は、偽りの大祭司のようになり、主さえも認めることが出来ないようになるでしょう。 締め括り 孤独なイエス イエス・キリストは弟子たち、すなわち教会に否定されました。そして、イスラエルの権力、すなわち世にも否定されました。皆が自分の野望と欲望のために、真の神の声を否みました。この世に救いと命を与えるために来られた主は、ご自分に従っている者、ご自分を憎んでいる者、両方から拒まれ、否定され、十字架につけられました。主イエスは、この世のすべてのものに徹底的に否定されたのです。キリストは、なぜ、そのように皆に否定されて、孤独に死んでいかれたのでしょう? 『わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。』(イザヤ53:6)教会も、世も、自分の罪を自ら赦すことができません。旧約の生け贄にも、傷のある羊は生け贄に使えませんでした。ただ罪がなく、傷のない生け贄だけが、人の罪を代わりに背負うことが出来ました。罪のないキリストだけが、人の罪を代わりに背負うことが出来るという意味でしょう。罪を背負うことにおいては、他の誰の哀れみも助けも要りません。ただ、私たちの罪を背負ったイエス・キリストと罪を裁かれる神様との問題なのです。主が徹底的に苦しんで捨てられたのは、もともと私たちのものでした。主が感じられた孤独は、私たちが感じるべき孤独でした。苦しみを受けるイエス・キリストは、皆に否定され、一人でご自分の道を歩んで行かれました。しかし、主は、最終的に復活され、世の罪を赦してくださるでしょう。そして、ご自分が受けてくださった、私たちが経験すべき否定と孤独の代わりに煌びやかな喜びを私たちに与えてくださるでしょう。否定されたキリストによって、私たちは神様に認められました。私たちは、主を否定しましたが、主は私たちを認めてくださったのです。否定されるキリストを覚えつつ、主の愛を覚え、私たちが受けるべき苦難を代わりに受けてくださったイエス・キリストに賛美と感謝をささげる一週間なるように祈り願います。

父から与えられた杯。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書18章1‐11節(新203頁) 前置き 去る2月26日はレントの始まりを知らせる灰の水曜日でした。なぜ、灰の水曜日と呼ぶかというと、昔のキリスト者たちは、イエスの苦難を意味する灰を額に塗り、主の犠牲と愛を覚えつつ断食と祈りでレントに臨んだからだそうです。今でも、これを記念し、そのような伝統を受け継いでいる教派があるそうです。主の苦難を忘れず、覚え、参加しようとした信仰の先輩たちの心が、しみじみと感じられます。先週、私たちは罪人アダムの子孫という立場から、正しいキリストの民の立場に変えさせてくださる主の愛について、考えてみました。そのすべての恵みは、主イエス・キリストの苦難と愛によるものです。昨年の後半には、ヨハネによる福音書を学び続けましたが、今年のレントと受難週、イースターに分かち合うために、しばらくお休みし、ローマの信徒への手紙に取り組んでまいりました。今日からイースターまでは、残りのヨハネによる福音書を再び分かち合いながら、主がご自分の民のために、どのようなことをしてくださったのかを話していきたいと思います。主の苦難と復活を考えるとき、私たちは必ず考えざるを得ないことがあります。主の死は、私の罪の死であり、主の復活は、キリストの命による、新しい人としての私の復活だということです。主の死と復活は、すなわち私たち自身と密接な関係を結んでいるものです。これらの関係を黙想しながら、レントの期間、主の苦難と復活を記念して過ごして行きたいと思います。 1.園の中に入って行く。 『こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。』(1)イエス様は受難の一週間前に、エルサレムに入って行かれました。ヨハネによる福音書は、その後、すぐに聖晩餐に背景を移しますが、他の福音書を見ると、その間に多くのことがあったことが分かります。主は神殿に入り、商人を追い出されました。清くなった神殿で教え、神殿の向こう側であるオリブ山でも説教をなさいました。腐敗したユダヤ人の指導者との論争もありました。そして、神に聞き従わないイスラエルの民を見て、お嘆きになりました。このような、忙しい一週間を過ごし、十字架の苦難を前にして、過越しの晩餐を準備させ、弟子たちと一緒に時間を過ごされました。主は弟子たちの足を洗い、『仕える王』というキリストの本質を示してくださいました。また、キリストを通して、聖霊が来られること、聖霊を通してイエスが弟子たちと永遠に共におられることを教えてくださいました。最後に、主を信じる者と全人類のために、切に執り成しの祈りをしてくださいました。 1節に出てくる『こう話し終えると』での『こう話す』というのは、まさに主が救い主であること、弟子たちを守ってくださること、聖霊を送ってくださることの予告と神と人間の間でなさった、慰めと和解の執り成しの祈りを意味することです。 その後、主は弟子たちを連れて、キドロンの谷の向こうへ行かれました。キドロンの谷は、エルサレムとオリブ山を横切る低い地域です。そこを20分ほど通り過ぎると、イエス様がしばしばお祈りになったゲッセマネの園が出てきます。今日の1節で取り上げられている園は、まさにこのゲッセマネの園のことだそうです。ところで、なぜヨハネによる福音書は、詳細地名を省略し、向こう側の園と話しているのでしょうか?これはヨハネによる福音書の特徴であるからです。ヨハネによる福音書は、イエスが旧約の神であるということを示すために、多くの旧約聖書のイメージを借りて使用しました。例えば、ヨハネ1章1節『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』という言葉は、神の言葉と呼ばれるイエス・キリストが旧約の造り主であったということを『初めの言』と象徴的に表しているのです。今日の言葉に出てくる『園』という表現も、このような象徴的意味を持っています。聖書の中で一番最初に園の話が出てくる箇所は創世記です。 『主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。』(創世記2:8)初めの園は、神の平和と秩序に満たされていた美しい所でした。園のどの場所においても、何ものも害を加えず、滅ぼすこともありませんでした。しかし、神を裏切る罪を犯した初めの人は、主の呪いを受けて、その場所から追い出されることになりました。それ以来、神の園は人間が入ることを許されない、失われた楽園になりました。その園の門は神だけが開くことが出来ます。つまり、神に招かれた人だけが入ることが出来る所だということでしょう。この園というのは、神の国、御国を意味する象徴物なのです。 園は人間に許された空間ではありません。罪人である人間は、自力では決して入ることができません。『そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。』もちろん、本文に登場する、この園はエデンの園ではありません。しかし、ヨハネによる福音書は、創世記の園というイメージを借り、象徴的に用いて、イエスと一緒にいると、禁じられた園に入ることが出来るというニュアンスを漂わせています。ここで私たちが分かることは、イエス様によって、人間は初めの人のように神の園に入ることを許されるということです。十字架の苦難は、イエスの弟子たち、すなわち主を信じる者を、失われた神の園に招くための最初の段階となります。イエス様は苦難を受けられましたが、その苦難のお蔭で、主を信じる者は、園というイメージで表現される神の統治と愛に入ることができるのです。主がこの世に来られた理由、苦難を受けられた理由は、神に捨てられた罪人を新たにし、神の民としてくださるためです。人間に許されない園でしたが、イエス様と一緒なら、入ることが出来るように、私たちはイエス様を通して神の民となることが出来、神の国に入ることができるのです。今日、園の物語を通して、私達を神に導いてくださるイエス様の愛と恵みを悟り、感謝すべきだと思います。ひたすら、イエスと一緒なら、私たちは神に向かって堂々と進むことが出来ます。主イエスは、このために、私たちの間に来てくださったのです。 2.世の光である主と松明と灯火を持つ人々。 ヨハネによる福音書には、イエス様がご自分のアイデンティティを定義づけてくださる部分が7ヶ所で出てきます。 『私は…命のパンである。世の光である。羊の門である。良い羊飼いである。復活であり、命である。道であり、真理であり、命である。まことの葡萄の木である。』この中で今日の本文と関わりのあることは『わたしは世の光である。』という言葉です。イエス・キリストはご自分を世の光であると宣言されました。世の光という言葉は、旧約聖書イザヤ書では、この世の中に臨むメシアを指す言葉です。 『先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。』(イザヤ8:24-9:1)エルサレムと比べると、弱者が多く住んでいたガリラヤは、イエス様の主な活動地域でした。ゼブルンとナフタリはガリラヤ地域を意味します。特に主が育たれたナザレはゼブルン地域にあるガリラヤの代表的な町でした。旧約聖書で神のご関心は、主に貧しくてみすぼらしい人々に向かいました。金持ちも貧しい人も、皆同じ人間ですがが、憐れみ深い神様は、神がいなくても関係なく、豊かに生きる金持ちよりも、目先の食べ物もなく、苦しみで呻いている貧しい人々に特に心を遣ってくださいました。 そのために、神が肉体を持って、イエス・キリストという名前で、この地上に来られた時、主にガリラヤ地域で活動し、その人々に癒しと愛を与えてくださったのです。イエス・キリストは、イザヤ書の言葉のように、ガリラヤの弱者たちの面倒を見、彼らに希望を与えてくださる世の光でした。そのため、主は自らが弱者の側に立ち、堂々とナザレのイエスと言われたのです。主は暗闇の中で呻いている民に光を照らされ、慰めと希望を与えてくださるの光の源でした。 『それで、ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明や灯し火や武器を手にしていた。』(3)しかし、イエス様を裏切ったユダがローマの兵士とユダヤ人を引き連れて、世の光であるイエス・キリストのおられるところにやって来ました。過越しの夕方、真っ暗になって、何も見えない夜、裏切り者ユダの手引きによって、人々はみすぼらしい灯火を持ってイエスを逮捕するために来たのです。ここで、今日の2番目のイメージを見つけることが出来ます。松明と灯火と表現される人間の光です。神の光、永遠に消えない光、暗闇を明るく照らす無限の光というイメージを持っていたイエス様と比べると、人々が持ってきた松明と灯火は、いつでも消え得る有限の光でした。 『イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。』(4-5)主は、彼らが、なぜやって来たのかを知っておられました。主を信じる者を神の園に導いてくださる主、無限に輝く世の光である主が、小さな光に頼ってきた人々と対面されたのです。『イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。』(6)主のこの言葉を聞いた人々は、後ずさりして、地に倒れました。有限な光を持った人間が、無限の光である主の前に立った時、神の御前での被造物の本来の姿である『地に倒れる。』ようになったのです。神と人間の間にある無限の違いを示すものです。人間は富、権力、名誉などの、かすかな光を持って、まるでそれが絶対的な光ででもあるかのように、生きていきます。しかし、そのようなものは全て、永遠に消えない世の光であるイエスの御前では、何の力も持つことが出来ません。むしろ『後ずさりして、地に倒れる。』だけです。イエスは自ら死を決意し、彼らに捕らわれるようになさいましたが、彼らはイエスの前では後ずさりして、地に倒れるしかない、微々たる存在に過ぎませんでした。私たちは、この松明と灯火というイメージを通して、全能なる主と人間の弱さを比較して見ることが出来ます。実に人間は主の御前で何の光もない弱い存在に過ぎません。 3.父から与えられた杯。 園というイメージに見られる神の永遠の支配、人間の有限の光というイメージと相反する主の無限の光。これらのイメージは、イエス・キリストの特別さを示すヨハネによる福音書の特別な装置であります。主は、私たちを神に導いてくださる神の園の門番であり、人々には絶対に許されない、まことの光をお持ちになる方です。罪人がこのような主の御前で、せいぜい出来るのは、倒れることしかありません。人間は、それほど主の御前に弱い存在です。松明と灯火を持ってゲッセマネの園にやってきたローマの兵士たちとユダヤ人たちは、このように主に触れることも、害を加えることもできない存在でした。しかし、主は彼らにわざわざ捕まえられてくださいました。 『わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』(8)主が彼らに逮捕された理由は、主の民を生かしてくださるためでした。『父が与えてくださった人を一人も失いません。』と言われたイエスの言葉が実現するためでした。なので、イエスは弟子達を生かすために、ご自分が捕らわれたのです。これから、主は十字架につけられ、死んでくださるでしょう。人々に引き連れられて、死ぬわけではなく、自ら死を選ばれるのです。なぜならば、イエスを信じる人々を死から自由にしてくださるためです。偉大な力と権威を持っておられる主でしたが、主はご自分の民を救ってくださるために自ら死を選ばれたのです。 『シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。』(10)時々、キリスト者は教会の大きさ、この世での影響力を前面に出し、教勢を通して、神様を示したがる傾向があります。しかし、主は人に頼らない御方です。主はいつも、自らの力でご自分の御心を成し遂げられます。ペトロは主を救おうとして、剣を使いましたが、主はむしろ、その力を止めさせ、自らを死に追い込まれました。ペトロのこのような行為は、主に何の影響も与えることが出来ませんでした。結局、ペトロのこのような行為も、人々が持ってきた松明と灯火のように微々たるものでした。 『イエスはペトロに言われた。剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』(11)イエスは救い主であり、世の光であります。しかし、主はそのような偉大さを後にして、父なる神の御心に聞き従われました。すべてが神の御心どおりでした。今日の本文に出てくる杯とは『神から与えられた苦難』を意味します。神である主は、自らが苦しみを受けることによって、微々たる弱い人間の手ではなく、偉大な神、ご自身の御手によって、救いと恵みの道を開いてくださいました。イエスは父なる神が与えてくださる杯を受けることによって、神と人との間にある壁を崩し、すべての人間が救われる道を開いてくださいました。そして復活した後に、真の神の園である御国に入ることができる道、神の永遠の光を享受する道を開いてくださいました。このすべてが、御父が与えてくださる苦難の杯を主イエスお一人がお受けになり、完全に神のご意思を成し遂げてくださったことによるのです。 締め括り 父なる神からいただいた杯を、御子のイエス・キリストが受けられました。これは、最初から最後まで完全に神様の事柄でした。この救いの御業に人の行いは全く役に立ちませんでした。私たちの救いは、ひとえに永遠の神によって叶えられたものです。レントを過ごしながら、私たちは、主の苦難を覚えています。しかし、主は弱いから、苦しめられたわけではありません。仕方なく苦難を受けられたことでもありません。主は全能なる方ですので、自らが苦しみを計画し、成し遂げられたのです。したがって、主の苦難による私たちの救いは、永遠に変わることのない偉大な御救いです。ですから、私たちは、主の苦難に涙を流すのではなく、その苦難の後、死に勝ち、復活された主の勝利に喜ぶべきことでしょう。イエス・キリストは、私たちを神の園に導いてくださる方です。イエス・キリストは、私たちに真の光を与えてくださる世の光です。このイエスが成し遂げられた完全な救いを喜びつつ、レントの終わりに復活される主を賛美する一週間を過ごしてまいりましょう。主が命をかけ、許してくださった救いを感謝し、賛美する一週間になりますよう祈り願います。

二つの人類

ホセア書 6章1-3節 (旧1409頁) / ローマ信徒への手紙 5章1‐21節(新279頁)  パウロは1-4章の言葉を通して世界のすべての人は罪と不義に束縛されている罪人であることを明らかにしました。これから逃れられる人はおらず、神に選ばれたと言われるユダヤ人でさえ、例外ではないということを教えました。しかし、神はご自分の計画を通じ、罪人が義とされる道を開いてくださり、その道がイエス・キリストへの信仰であるということを明らかにしました。キリスト・イエスの中ではユダヤ人も、異邦人も、主を信じる信仰によって差別なく、神に赦しを得、真の神の民となることが出来るのです。人は宗教的な行い、物事、象徴などではなく、ひたすら、ご自分の義を通して罪と死の力を打ち破られたイエス・キリストの義を拠り所にし、神に進んでいくことが出来ます。だから、イエス・キリストを信じる者は、老若男女貧富国籍を問わず、キリストの功績によって、神の御前で正しいと認められるのです。今日(きょう)、5章の言葉は、このイエスを信じる者たちは、どのような人生を生きるようになるのか、そして、イエスを信じる人が、信じない人と、どのように違うのか話しています。 1.神との間に平和と希望を得る。 今日の1-11節の言葉は、イエスを信じる者が神にいただく、平和と希望について話しています。イエス・キリストを信じて神に義と認められることの第一の賜物は、『神との間に平和を得る。』ということです。ここでの『得る。』という意味は、『神様と平和を共有する。』という意味です。もともと、初めの人は神と被造物とを執り成す被造物の代表でした。彼は神と被造物の平和のために生きる存在であり、神との平和が崩れれば、その存在の意味を失ってしまう神の分身のような存在でした。つまり、神との平和というのは、人間の存在理由だったということです。しかし、人間はエデンの園にいっぱい満たされていた神の平和を崩してしまいました。神から与えられた『知識の木の実』を貪ってしまったからです。神様が初めにエデンの園に置かれた『知識の木の実』は、特別な効果を持つものではありませんでした。それは、神が立てられた平和と秩序を意味する象徴物に過ぎませんでした。人は自らが神のようになり、神から分離独立することを企んで、『知識の木の実』を貪り犯してしまったのです。人間が『知識の木の実』に触ったということは、神との平和を拒んだという意味と同じなのです。それから、神と人との間には、平和が無くなってしまいました。神との和平を失った人間は捨てられ、彼を待っていたのは、罪と不義と死でした。聖書は、この初めの人をアダムと語っています。 『わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており。』(1)ローマ書が読み手に強調しているのは、そのような人間の不義による不和の中で、神が遣わしてくださった新しい仲保者によって、アダムの子孫が神と平和を共有するようになったということです。この新しい仲保者は、神に認められた完全な義人で、彼を信じる者に、自分の義を分けてくださり、自分のように神に正しいと認められるように執り成してくださる方です。 『このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。』(2)また、彼を信じる者は、ひたすら、彼によって神の恵みの統治に入ることが出来るようになり、初めのアダムの罪のため、神から遠ざかった罪人という軛を脱ぎ捨て、神の怒りから自由になることが出来ます。さらに彼を信じる者は皆、彼の執り成しによって、神の怒りから自由になるだけでなく、むしろ、神の側に立ち、あえて人間が触れることが出来ない、神の栄光を自分の誇りにする特権も得られます。このすべてが、神から遣わされた仲保者を信じ、義と認められる時に可能になるのです。パウロが絶えず強調している、この仲保者がまさに主イエス・キリストなのです。 また、私たちは、この仲保者を通して第二の賜物を得ることが出来ます。それは、『信じる者の希望』です。『そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。』(3-4)キリストによる神の救いは、ただ一度だけで完成されるものです。私たちが、基準を満たせば、救いが保たれ、基準を満たさなければ、救いが消えるということではありません。神はすでに救ってくださった者から、その救いを決して奪い取られません。つまり、神の救いとは、一度に完成されるものです。まるで親子が、いくら連絡をしていなくても、戸籍から名前を消しても、精神的、肉体的に親子の縁が切れないように、救いは、神と救われた民を最後まで繋ぐ、永遠の関係になります。かつては、私たちに怒りを発せられた審判者の神様が、キリストを通して私たちの希望になってくださるということです。つまり、私たちの身分が完全に変わるということです。聖書はこれを恵みと言いました。 だから、本当に信じる者は、キリスト者は、以降どのような苦難に遭っても、簡単に絶望しません。聖書は『苦難をも誇りとします。』と語っているのです。これが神様の裁きではないことを知っているからです。むしろ、このような苦難はキリストによる希望への忍耐を生み出します。忍耐が生じるということは、神様から与えられた信仰が、この苦難を通り過ぎて、ますます強くなっていくということです。苦難への忍耐が続けば、続くほど、信者は信仰の練達を受け、その練達によって神への信仰は、さらに大きくなっていきます。なぜなら、そのような苦難と忍耐と練達の道で、私たちを救い、再び捨てられない神様が永遠に共にいてくださるからです。つまり、神から与えられた希望は、いかなる悪にも邪魔されない、健やかな信仰をもたらします。私たちを一気に完全に救い、それ以来決して変わらない神への希望は、私たちの信仰をさらに強くし、神のもとへ行く終わりの日まで、私たちを守ってくれるでしょう。イエス・キリストを通しての神の平和と希望は、主を信じる者と、いつまでも共にあり、私たちの人生を神に導くことでしょう。 2.アダムの道、キリストの道。 今日、ローマ書は、平和の中で希望を誇りとすることが出来る理由は、キリストを通して私たちに与えられた、聖霊の導きがあるからだと教えてくれます。『希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。』(5)神の平和と主への希望が、私たちに生じたといっても、それを私たちの自力で保たなければならないなら、それは中途半端な希望になるでしょう。しかし、主は三位一体の聖霊を私たちに送ってくださり、我々の人生の道を、私たちだけでなく、神様も一緒に歩んでくださることを保証してくださって、私たちに大きな慰めと力を与えてくださいます。この聖霊は、父なる神様と御子イエス・キリストから来られる御方です、私たちの弱さを助けてくださる助け主でいらっしゃいます。この助け主は父と息子の心を持って、私たちに仕え、愛してくださる方です。『実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。』(6)聖霊は、このようなキリストの心を持って、私たちが強いときにしろ、弱い時にしろ、相変わらず、私たちの道を導き、神の平和と希望を誇りとするようにしてくださいます。 このように、キリストを信じて救われた者たちは、聖霊の恵みのもとで、三位一体なる神と共に歩むことになります。それがイエスを否定する不義の罪人との違いです。今日の説教の題が『2つの人類』である理由もここにあります。聖霊のお導きを通して神との平和、神様が与えられる希望を誇りとして生きる、私たちキリスト者は、初めに神を離れて怒りの中で生きるようになったアダムの道から逃れた者だからです。私たちは、キリストを通して新しく示された平和と希望の道に立っている『新人類』であり、キリストを否定する者は、まだ裁きと怒りの下にある『アダムの道』に立っている旧人類です。『しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。』(14)最初の人アダムは罪人と表現される旧人類の代表として、最後のアダム、イエス・キリストは、義人と表現される新人類の代表として、両方、神の御前に立っています。アダムがイエス・キリストの『来るべき方を前もって表す者』だという言葉は、イエスが、アダムの代わりに、神に認められる新しい代表になってくださるという意味です。イエス・キリストを信じる者は、彼の義によって旧人類から新人類に生まれ変わる者なのです。 『一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。』(17)ローマ書は、人類がアダムという一人の罪を通して、罪に支配され、その罪によって、アダムとして代表される、多くの人が死ぬことになったと語っています。つまり、死が王のように君臨するということでしょう。また、イエス・キリストという新しいアダムを通して、彼を代表とする全ての信じる者らは、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けて、むしろ、イエスを信じる者、そのものが王のように支配すると語っています。ヘブライ書7章10節には、このような表現があります。 『メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいた。』(ヘブライ7:10)アブラハムが神の真の祭司メルキゼデクに出会ったとき、イスラエル民族の祭司となるレビ族はアブラハムの腰にあったということでしょう。この『腰にいた』という表現は、本当に腰にいたという意味ではなく、イスラエル民族に属している祭司の家系として、イスラエル民族の代表アブラハムがメルキゼデクに会ったとき、アブラハムによってレビ族もメルキゼデクに会ったかのように認められたという意味です。 アダムの子孫という言葉も、これに似ています。人類は直接『知識の木の実』を取り、食べる罪を犯したわけではありません。しかし、人間の代表アダムが、そのような罪を犯したということを通して、レビがアブラハムに属していたように、アダムに属している人類も、アダムと同じ罪に置かれるようになったということでしょう。つまり、アダムの犯罪は、人間の罪の性質を示す象徴的な部分でもあるでしょう。アダムという存在が旧人類の代表ということから、キリストによって義とされたことのない者は、依然としてアダムの道に立ち、罪の中にいるのです。しかし、キリストを通して義とされた者は、新人類として、キリストの側に立っています。罪と死に勝利した代表キリストに属しているので、彼を信じる者も、また罪と死に勝利した存在と認められるのです。このように、アダムの道から逃れ、キリストの道に立っている私たちは、先に説教したように、『神との平和、キリストによる希望』に一日一日を生きていくことが出来ます。この世の中には、二つの人類があります。アダムの旧人類と、キリストの新人類です。私たちは、主イエス・キリストによって、新しい人類として、この地上で生きていきます。私たちは、過去の罪人というアイデンティティから抜け出し、神の恵みと祝福の中で、罪と死に勝利した主イエスのように生きていく存在になりました。パウロは、ローマ書を通して、新人類に生まれ変わったキリスト者の幸せについて話したのです。これはただイエス・キリストの中でのみ、得ることが出来る空前絶後の神の恵みです。 結論 今日、旧約聖書はこう語っています。『さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、癒し、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。』(ホセア6:1)かつて、神様はイスラエルを自分の栄光にお呼びになり、ご自分の民としてくださいました。しかし、彼らは神を裏切ってしまいました。これは、特に選ばれたイスラエル民族も、人間の本性である罪から自由になることが出来ないという意味でしょう。聖書はそのようなイスラエル民族に『主のもとに帰ろう、主は我々を癒してくださる。』としました。これは、イスラエルだけでなく、すべての人類に同じように適用されるものです。アダムと同じ罪を持っている、すべての人類に神は御自分の栄光に招いておられます。『私に帰れ、私があなたを治す。』 主はイエス・キリストと呼ばれる新しいアダムをお遣わしになることによって、世界のすべての人類が神の御前に来て、恵みの内に生きる道を与えてくださいました。このキリストによる神の御招きは、今もなお有効なのです。私たちは主イエス・キリスト、お1人だけが、私たちを癒し、救ってくださることを信じ、その信仰によってイエス・キリストと共に進むべきです。その時、私たちは、『神との和平、信者の希望』を享受して生きることが出来ます。神は今日も私たちを招いておられます。キリストと共に神の御前に堂々と行き、平和と希望を持って生きていく一週間になることを祈り願います。

信仰によって、実現される約束。

創世記15章6節 (旧19頁) ローマ信徒への手紙 4章1‐25節(新278頁) 前置き 世界の多くの宗教は、人の行いに価値を与えようとします。神々の気に入るために供物を捧げ、極楽に行くために苦しい修練をし、功績を認められるために敵を殺したり、自分の命をかけたりすることもあります。人間は宗教という名の下で、そのような行いを通して自分の特別さを示そうとします。それはユダヤ人も同じでした。神に委ねられた律法、神に選ばれた唯一の民族という独り善がりのため、自分らを高め、異邦人を排除しました。世界の多くの宗教は、このような行いを通して自分らの正しさを神に示し、そんな自分の正しさによって、救いを得るという話を前面に押し出しています。神の恵みより、人間の行為を大事に思うということです。ローマ書は、このような行いによる人間の義に対して、最初から断固否定しています。人間はもともと罪人であり、宗教人でさえ、そのような罪人という軛から自由ではなく、神に選ばれたと言われる者らも、それから自由ではないということを語っています。ローマ書は、ひたすら神による義だけが、人間を自由にすることが出来、人間は自分の行いではなく、正しい神様を信じる信仰だけによって、義とされると語っています。今日はローマ書4章を通じて、なぜ信仰なのか?果たしてこの信仰というのは何か?について話してみたいと思います。 1.信仰の始まり、アブラハム アブラハムは75歳のある日、神に召されました。ある研究によると、江戸時代の平均年齢は30〜40歳だったそうです。長寿国として有名な日本も、中世から近代に移る時期には、非常に短い寿命だったことを示しています。ところで、アブラハムは、それより3000年も前の人です。つまり、何千年前に生きていたアブラハムが召されたというのは、当時、非常に高齢者として、ほぼ死に近い時に神様に出会ったということでしょう。恐らく自分の人生を整えるために、誰かに遺産を残そうとする時点だったでしょう。ところが、神様は、まるで人生を始める20歳の若者に話すかのように、『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。』(創世記12:1-2)という信じがたい言葉をくださいました。 75歳の高齢者、『すべてが終わった。』という挫折の中に出会った神様は彼にすべての始まりを知らせる命令をくださいました。彼は神のこのようなご命令に非常に驚いたことでしょう。 しかし、さらに驚くべきことは、『わたしはあなたを大いなる国民にする。』という言葉でした。なぜ驚くかというと、アブラハムには子供がいなかったからです。現代医学でも40歳を超えると容易ではない妊娠なのに、古代の高齢者にとっては、とんでもない約束でした。アブラハムが旅に出たとき、彼は甥のロトを連れて行きました。ある学者たちは、恐らくアブラハムがロトを後継ぎとするために共に行ったのだろうと考えました。しかし、ロトはアブラハムを離れて自分の道に行きます。後継ぎが無くなったアブラハムは大きく失望したことでしょう。彼は全てを諦めて、自分の子供でもない彼の僕、エリエゼルに財産を残そうとしました。しかし、人間の目に一寸先も見えない絶望の時に、神はアブラハムに現れ、再び驚くべき話をなさいます。『あなたから生まれる者が跡を継ぐ。天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。』(15:4-5)古代社会で後継ぎがいないというのは、すなわち、死を意味することです。彼の家は、もうすぐ、滅びるはずでした。しかし、神様は滅びる直前のアブラハムの家柄が、夜空の星のように復興するものであり、アブラハムは信仰の先祖になると言われました。それは、死んだアブラハムを生き返らせるという言葉に違いありませんでした。 アブラハムが人間の弱さのため、諦め、挫折したにも拘わらず、神は絶えずに彼を信仰に招いてくださいました。人間アブラハムに義がないということを御存じでいらっしゃいましたが、それでも、彼に信仰を与えくださったのです。結局、アブラハムは神を拠り所とし、主に与えられた信仰を通して、主の御招きに応じました。その瞬間、アブラハムは神に義と認められました。アブラハムは何もせず、ただ神の招きに信仰を持って応じただけなのに、神は彼の小さな信仰を見て義としてくださったのです。ですが、その小さな信仰は、神に基づく偉大な信仰でした。人間アブラハムは決して実現できない大きなことを、全能なる神様が叶えてくださるという小さな信仰を持ちました。このような小さな信仰が、信仰の主であるキリストを私たちにもたらす種になりました。今日ローマ書がアブラハムの話を例え話に挙げる理由は、彼が自分自身ではなく、神の約束を信じたからです。『人間には出来ないことも、神には出来る』(ルカ18:27)というイエス・キリストの御言葉のように、アブラハムは、神に希望を置いて信じ込みました。自分ではなく、神に希望を置いたこと、これが、すなわち、信仰であり、この信仰によって、アブラハムは義人として認められたのです。 2.律法の前に信仰によって結ばれた約束。 ここで、ある人達は信仰について『それでも、信じるということも、結局、人間の行為ではないか。』という疑問を抱くかもしれません。しかし、聖書が語る信仰とは、信者が主体となる、行為としての信仰ではありません。聖書が語る信仰は、まるで 農夫が蒔いた種のようなものです。種は小さくて弱いですが、農夫に養われ、土の重さにうち勝ち、芽を出します。そして少しずつ育っていきます。種を蒔いた農民は種が死なないように水と肥しをやり、栄養素を奪っていく雑草を取ってくれます。いつの間にか種は、小さな木になっています。ようやく木は農夫の養いの下で、自ら育っていくようになります。そして美味しい実を結ぶようになります。神様は農夫として、小さな種のような弱い信仰が、一抱えの木のような堅い信仰になるまで守られ、育ててくださいます。私たちが『神様を信じている。』と自覚する時は、農夫のような神様が、私たちの信仰という種を、既に木のように養ってくださった時です。信仰は、神が与えてくださるものです。人間の情熱や努力によって生じるものではありません。 人が義とされるというのは、このような神の養いと支えの下に生きていくということを意味します。義とされるのは私たち、信徒ですが、私たちを義としてくださる存在は神様です。神はこのような信仰を、律法が生じる数百年前に、すでにアブラハムに与えてくださったのです。アブラハムは行いによって義とはされませんでした。彼は神から与えられた信仰に応じて、ただ神を信じただけです。彼に宗教的な行いがあって、神様が彼を認められたわけではありません。 『もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません』(2)ところで、このように神に義とされたアブラハムが大きな失敗をしてしまいます。神への信仰が弱まり、神に尋ねず、独断で後添いを迎え、イシュマエルを生んだことです。それにもかかわらず、神様は彼を捨てられず、彼が99歳になった時に再び現れ、割礼を命じられます。それによって、再びアブラハムとの約束を堅く保たれます。つまり、割礼とは信仰を守り抜けなかったアブラハムを赦し、彼の義を神様ご自身が守られるという約束の印なのです。『アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。』(11)律法に加え、最も重要なユダヤ人の印である割礼も、結局、先に与えられた信仰の印だったのです。 アブラハムは、律法によっても義とされませんでした。むしろ、律法は400年という時間が経った後に受けたものです。依然として神への信仰の出来事が、それより前に起こっています。前回の説教を通して、律法はユダヤ人の憲法のようなものであり、生活のガイドラインのようなものであると学びました。人は律法を通して神の言葉への従順を習い、自分の罪を自覚するだけです。つまり、律法は特別な力のある物、聖なる本ではなく、神の民が守るべき法則に過ぎないのです。ローマ書は、これら、すべての行為、割礼、律法が信仰を支えるためのものだと話すだけです。人が神に認められる唯一の道は、神への信仰だけです。神は、その他の何も与えてくださいませんでした。私たちは、今日のアブラハムの物語を通して、ひたすら信仰だけが、神の御前に私たちを立たせる一本道であることを心に留めて生きるべきでしょう。神を信じたアブラハムは100歳になり、自分の体から生まれた息子イサクを抱くことが出来ました。彼に子供を与えた原動力は、彼の行為ではなく、神から頂いた信仰でした。 3.約束を守られる神。 創世記15章17節には、神とアブラハムが約束を結ぶ場面が出てきます。神はアブラハムとの約束の証として自ら契約を図られます。古代近東では、双方束縛的契約という契約方式があったそうです。肉を真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置き、双方の契約者がその間に通過し、『約束を守らない者は、このように切り裂かれて死ぬことになる。』という恐しい契約です。『日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。』(創世記15:17)旧約で『燃える火』は神の御臨在を意味したりします。神ご自身が約束の現場に臨まれ、義と認めてくださったアブラハムと直接、約束を結んでくださるということです。ところで、創世記15章では、その真っ二つに切り裂かれた肉の間を神様御独りのみ通り過ぎておられます。どこにもアブラハムがその間を通って行ったという話はありません。 『アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。』(10)しかも、アブラハムは、鳥を切り裂かず、契約の準備も全うしませんでした。アブラハムの不完全さにも拘わらず、義と認めてくださった神様はアブラハムの足りなさすら抱かれ、切り裂かれた肉の間を通り過ぎました。神はご自分の責任に加えて、アブラハムの責任をも担われることを誓ってくださったのです。つまり、これからのアブラハムの罪責を神様がご自分の命をかけて担当されるということです。 なぜ、私たちは信仰によってのみ、神様に義とされるでしょうか?なぜ、私たちの行いによっては出来ないのでしょうか?これは、神とアブラハムの契約で結ばれた約束が行いではなく、信頼によるものだからです。これは単に、アブラハムだけが神を信じたからではなく、神もアブラハムを信頼してくださったからです。お互いに信頼関係を持って約束を結んだ神様とアブラハム、アブラハムが完全ではないにも拘わらず、彼を正しいと認めてくださった神の信頼。つまり、その神の信頼に応じる信仰だけが、神との約束を守る唯一の鍵だからです。この神との信頼による約束は信仰以外のいかなるものでも成就できないのです。したがって、人間に基づく行為、律法、割礼などの行いによる手柄としては、その約束を守ることが出来ません。『神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。』(13)私たちの信仰は、単に信じるという行為ではありません。私たちの信仰は、神との約束を守る唯一の鍵です。 イエス・キリストが私たちのために死んでくださった理由は、私たちを可哀相に思われたからではありません。アブラハムと結ばれた契約を神ご自身が手ずから守ってくださるために、アブラハムと、その子孫が守り抜けなかった約束の罪の償いのために、彼らの死の代わりに死んでくださったからです。アブラハムも、子孫も、絶え間なく罪を犯しました。彼らは決して罪から自由になることが出来ませんでした。しかし、それでも、神は神を信じる者たちを義と認めてくださいました。彼らが死に値する罪の中にいる時にも、彼らを赦してくださったのです。神様は最後までアブラハムとの約束を守ってくださったのです。天地万物を創造された全能の神が、ご自分の民に自らを束縛されてまで、何があっても、民を諦められませんでした。霊でいらっしゃるため、死ぬことが出来ない神様は、結局、死ぬために肉体を持って、この地上に臨まれました。そして自らが切り裂かれた契約の肉のようになられ、死んでくださいました。アブラハムの子孫の罪の報いと守れなかった律法の精神を完全に守るために、神が自ら死んくださったということです。イエス・キリストの十字架は、この神の約束の証なんです。イエス・キリストは罪人の代わりに罪の報いを解決し、ご自分の民への愛を成就され、律法の精神まで、完全に守ってくださった神様の約束の達成者なのです。 信仰によって、実現される約束。 なぜ、イエス・キリストだけを信じるべきなのか。なぜ、イエス・キリストの他には正解がないのか。なぜ、イエス・キリストだけが救い主であるのか?これは時には独断的に感じられるほどの質問です。しかし、主イエスだけが信仰の対象であり、正解であり、救い主である理由があります。まさにこのイエス・キリストだけが神とアブラハムの約束の実だからです。神様が主イエス・キリストを通して、この時代を生きていく信仰の民を探しておられます。神とアブラハムが結んだ約束が今、イエス・キリストと現代の信徒たちの間に再び現れています。イエス・キリストは、神がアブラハムを招いてくださったように、今日も人々を招いておられます。誰でもイエス・キリストを信じることによって、神の民として義とされ、天国の民として認められることが出来ます。信仰は双方の約束です。神は今日も、イエス・キリストを通して、私たちに限りのない信頼を示しておられます。今や、神の信頼に、私たちが答える番です。それがまさに私たちの信仰なのです。キリストを通って来る神の信頼に私たちが信仰を持って答える際に、私たちはキリストの中で神との契約の賜物としての義と永遠の命を得ることが出来ます。神は律法や他の何かを通しては約束を結ばれませんでした。神はただ信仰によって約束を結ばれたのです。私たちは、決してそれを忘れてはならないでしょう。

イエス・キリストを信じる。

創世記15章6節 (旧19頁) ローマ信徒への手紙 3章19‐32節(新277頁) 前置き 前の数回の説教を通して、すべての人間は罪のゆえに不義な存在として生きており、そのような罪の影響は信者、未信者を問わず、すべての人類に同じく有効であるということが分かりました。これらの罪の終わりには、神様の恐ろしい裁きがあるということも分かるようになりました。人は如何なる行為や思想を通しても、神の御前で義と認められることが出来ない存在だというのがローマ書の教えでした。そのため、人は自らが正しい者であるという考えを捨て、神の御前で自分の罪を認めなければならないということも分かるようになりました。それでは、人類はどうすれば、正しい存在、義とされることが出来るでしょうか?そして、その義というのは何を意味するのでしょうか?今日はキリスト教の最も重要な教義、キリストへの信仰による義と、律法行為によって義とされるということの無意味さについて話してみたいと思います。 1.律法とは何か? 私たちは、前の説教を通して、神に選ばれたと言われるユダヤ人について取り上げました。彼らは神に律法を委ねられた、神様が手ずから立てられたイスラエルの民でした。しかし、神は彼らを、律法、民というタイトルだけで、義と認められませんでした。むしろ、『わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(19-20)という言葉のように、ユダヤ人の律法は、ユダヤ人が完全な義人ではないことを証明するブレーキのようなものでした。また、『わたしたちが知っているように』という言葉を推し量ってみたら、当時、イエスを信じていた信者たちの間には、ユダヤ人が持っている律法の機能に対する理解と教えがあったようです。それでは、この律法とは果たして何でしょうか? 律法は神様がご自分の民を、世の中で聖別されて生きさせるために、神ご自身が与えてくださった法則を意味します。基本的に10戒を意味しますが、より広くは、モーセ五書を、新約では、今の旧約聖書のほとんどを意味するとします。 『ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。』今日の21節の言葉に出てくる律法と預言者について、律法とはモーセ五書を、預言者とは、その他の全ての預言書や知恵文学を意味します。古代イスラエルは祭政一致社会であったため、律法には宗教法をはじめ、民法、司法、刑法が統合されていました。つまり、律法は古代イスラエル社会のすべてをまとめる憲法のような機能を持っていたのです。宗教法にせよ、憲法にせよ、法律というのはそれを守る時に、有効なものです。法律を持っているといっても、守らなければ、その法律は何の意味も持つことが出来ないようになるでしょう。特にユダヤ人たちは、モーセ五書を更に重要としましたが、神から与えられた最初の成文法だと思うからです。ところで、彼らはこのモーセ五書から『守るべき戒め248個』、『してはならない戒め365個』を集めて合計613個の命令を作成、『ミツボト』という律法書を作って、使いました。 律法はヘブライ語で『トーラー』と言いますが、『指示、法令、戒め、法律、仕来り』という意味を持っています。この『トーラー』の語源は、『ヤーラー』です。この言葉は幾つかの意味を持っていますが、特に有意義な意味では、『矢を的に当てる。』と解析できます。これは、おそらく、ヘブライで『罪』が持っている語源的な意味と関係あると思います。ヘブライ語で罪の語源は『矢が的に外れる。』ですが、その反対に、「矢を的に当てる。」という意味を使い、すなわち、律法とは、神様の御前で罪を犯さないためのガイドラインという意味として『ヤーラー』を語源とする『トーラー』になったと思います。 また、ギリシャ語では、律法をノモスと言いますが、これは『分ける、分離させる。』という意味を持っています。ここでの『分ける、分離させる。』という意味は、神の民と、民でない者を差別するという意味ではなく、神の「民」が「民でない者」から区別された生き方を持たせるという意味で、「聖別」と理解するのが正しいと思います。つまり律法とは、罪を拒む民、神様に聖別された民が追い求めるべき、ユダヤ人の行動の指針なのです。 2.律法を通しては、義を成し遂げることが出来ない。 世界の各国は各々の憲法を持っています。憲法とは一国の国民が必ず守るべき、行動指針です。日本には日本の憲法が、アメリカには米国の憲法が、韓国には韓国の憲法があります。私たちは自国の国民として、憲法を遵守する義務があります。日本人が日本国の憲法をよく守るといって、義人と呼ばれることは有り得ないでしょう。皆さんも日本の憲法をよく守っておられるでしょう?しかし、誰にも『憲法をこんなに堅く守るなんて、あなたは義人ですね。』とは言われないでしょう?それは国民の当たり前な義務だからです。法律をよく守ったからといって、特に賞を受けたりすることはありません。律法も同様です。なのに、ユダヤ人の問題は何であったのでしょうか?自分らが神から与えられた聖なる律法を所有し、堅く守っているからという、自分らの行為に基づいて、自ら義人であると考えていたということです。彼らは当然に守るべきことを守っただけなのに、自分たちが特別だと思ったのです。しかし、実は、そのような勘違いに陥り、ちゃんと守ることも出来なかったのが真実でしょう。つまり、ユダヤ人の自己認識は、神の前で、何の根拠のないものでした。 また、19-20節の言葉に戻っていきましょう。『わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』私たちは、この言葉から律法の機能である『すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。』という言葉に注目する必要があると思います。『神の裁きに服する。』という言葉の原文は、ギリシャ語の『ウポディコス』です。これは新約聖書で、たった一度だけ、使われた表現ですが、古代ギリシャでは、頻繫に使用された非宗教的な法廷用語で『解明する責任がある。』という意味です。律法は、その下にある、すべての者に『解明』を要求します。なぜ、『律法をきちんと守れなかったのか』ということに対し、責任を問うという意味の言葉です。ローマ書は、神様が、この律法を通して、ユダヤ人だけでなく、その律法に記された、すべての戒めを守らなかった者に解き明かすことを求められると語っています。これは、もともと、律法がユダヤ人だけへの命令ではなく、全人類に与えられた戒めであることが分かる部分です。ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、解明できない者らに下される報いは、神様の厳重な裁きなのです。 従って、ユダヤ人も、キリスト者も、また、未信者も律法の所有、そのものに特別な価値を置いてはいけません。創世記は、神様がモーセに律法を与えてくださる数百年前に、すでに、イスラエルの先祖アブラハムを義とされたと証言しています。義というのは律法の遵守という行為に閉じ込められていることではありません。義とは、律法と別に働くのです。そして、その判断は、神様だけがなさる事柄です。ユダヤ人が、いくら律法を堅く守っても、キリスト者が聖書の御言葉にきちんと従うといっても、未信者が、いくら善良に生きるといっても、神様は人の行為から義を求められません。神様は、ひたすら神が定められた、主のご計画に従って、義人と罪人を分けられます。だから、現代を生きていく私たちキリスト者も、自分の努力や行いから神様のお褒めの言葉、自分の正しさを求めてはならないでしょう。パウロは、今までの言葉を通して、この点を確実にしているのです。律法では決して義を達成することが出来ません。律法は人間の罪責の解明を要求し、罪の存在を悟らせるだけです。 3.神から来る唯一の義 – イエス・キリスト。 このような律法の機能のため、すべての人間は、最終的に罪人というくびきから脱することが出来ません。先に私は613個の命令をまとめた『ミツボト』というユダヤ人の律法書についてお話しました。ラビたちは義人の条件について、非常に厳しく教えました。それは613個の戒めをすべて守り、維持することでした。面白いのは、この『ミツボト』の613個の戒めから612個を守っても、1つを守らなければ、律法は完成出来ないということです。もし613個を全部守るといっても、それを最後まで維持しなければならないということです。あるユダヤ人たちは、そのような律法を完全に守り抜いたラビがいたが、彼がメシアだったかも知れないと言いました。しかし、その『守り抜く』という意味が、単純な行為だけの意味ではなく、その行為に含まれている律法の最も重要な精神『神と隣人を愛すること』を叶えるという意味であれば、それはまた、不可能となったでしょう。そのラビもユダヤ人の習わしや宗教に従って、異邦人を侮ったはずだからです。つまり、律法が求める行為と共に律法の精神まで、守り抜くということは限りのある人間としては、まったく不可能な話ではないでしょうか。 だからこそ、神は人間の行いや手柄から義を探し求められないのです。ただ、主は人間の行いとは別に、ある基準を立てられ、そこから神の義を満足させ、求めようとなさいました。その基準についての話が、まさに主イエス・キリストのことなのです。正しい神様はモーセに律法を与えてくださる何百年前から、神ご自身から生じる真の義を人間に与えようとする御計画を持っておられました。この義は人の行い、手柄、律法などとは一切関係ありません。それはただ、造り主、神様の完全さに、その拠り所を置いているのです。『神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。』(29)したがって、神の義は、ユダヤ人と異邦人とを選り分けません。誰でも自分の行いではなく、神様からの義を受けることによって、ひたすら神の御業によって義とされるのです。神はこのような真の義を成し遂げる役割を真の神であり、真の人であるイエス・キリストに任せられたのです。 『ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。』(21-22)ローマ書は明らかに『イエス・キリストを信じることによって、すべて信じる者に与えられる神の義』のことを話しています。これは人種、貧富、名誉、行為の有無に基づいたものではなく、ひたすらイエスという存在を信頼し、彼に頼る際に得ることが出来るものです。 『人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。』(23-24)世のすべての人々は、罪から自由になることが出来ません。しかし、神様は、ただイエス・キリストという存在を通じて、そのような罪人も赦されることが出来るということを示されたのです。これは、私たちに大きな慰めと希望となります。私たちはこれを福音と呼びます。人類が自分の弱さのため、罪から自由になることが出来ない時、神様から遣わされたイエス・キリストは罪に勝利し、勝ち取られた、その力をもってご自分を信じる全ての人に、主の義を分けてくださいます。それによって、主イエスは信じる者が神に義人であると認められるように導いてくださるのです。キリストを信じる者は、自分の力に関係なく、神が立てられた義の基準を、神から遣わされたイエス・キリストに任せて、主から来る義によって、神の前に義人として立つことが出来ます。 締め括り レビ記には、和解の献げ物という祭祀法が登場します。これは、神と人、人と人が、 この祭祀を通して仲直りし、一つになる喜びの献げ物です。『神はこのキリストを立て、その血 によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。』(25)、新共同訳では、『罪を償う供え物』と書かれていますが、その言葉の語源は『和解する。』です。神はキリストを『和解の献げ物』として、人類に遣わしてくださったと思います。人間がいくら努力しても得られない神との和解を、イエス・キリストという義に満ちた存在が、代わりに叶えてくださったからです。もちろん、今後ローマ書の説教を通して、キリストがその和解のために、いかに多くの苦難と悲しみを受けたのかをお話しする予定ですが、主はご自分を信じる者らを赦し、神と和解させるために喜んで和解の献げ物になってくださったのです。このイエスの功績は今日も有効なのです。私の行いではなく、キリストの義に頼り、神様の御前に進む時、私たちは神と本当に和解し、正しい者と認められるでしょう。このすべてが、キリスト・イエスから来る真の義によるものであることを感謝しましょう。私たちに義を与えてくださるキリストに感謝して生きていく一週間になることを願います。

正しい者はいない。一人もいない。

詩編14:1-3 ローマの信徒への手紙 3:1-20 前置き パウロは、ローマ書1章を通して、人類が持っている罪と不義に対する神の裁きを語りました。その後2章では、『神の民』が、その罪人を判断することについて、彼らも同じく大きな違いのない罪人であることを力説しました。パウロは『神の民』のモデルとして、ユダヤ人を例として挙げ、彼らが『特権であり誇りである』と思っていた律法についての誤解を批判しました。律法を持っているので、自らを義人だと思っていたユダヤ人たちが、結局は神の前で同じ罪人であることを話したものです。パウロは『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(2:13)という言葉で、真の義とは律法の所有によるのではない、律法の精神を守ることによって生じると話しました。そして、これは単にユダヤ人だけでなく、『神の民であるため、罪人とは異なるという特権意識』を持っている、すべてのキリスト者も同様であることを示しています。結局、ローマ書2章のユダヤ人への批判は、一次的にユダヤ人に、二次的には今日を生きていく私たちにも、同じく適用されるパウロの警告なのです。 1.律法の所有が救いを保証することではない。 2章で、想定モデルとしてのユダヤ人に訓戒するような姿勢を取りながら、信じる者の特権意識を指摘したパウロは、3章では、本格的に論争をしつつ、話を続けていきます。3章8節に『わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、』という言葉を通して、3章の会話がパウロの教えに反対する人たちとの論争であることが分かります。つまり、3章で、パウロは、ユダヤ人批判者と論争しながら、もう一度、ユダヤ人が誤解している律法について言い及ぶのです。2章がユダヤ人という仮想の象徴的人物を通して、ユダヤ人はもとより、すべての信じる者にした訓戒であれば、3章では、本格的にユダヤ人との論争を用いて、ユダヤ人が持つ特権意識に反論するという意味です。 1節『では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。』これは『神がユダヤ人の祖先であるアブラハムを選び、ご自分の民にしてくださり、割礼という意識を通して、他の民族と区別してくださったのに、これが何の意味もないという意味か?』という質問です。ユダヤ人の特権意識が、どこから来たのかが分かる部分です。『それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉を委ねられたのです。』パウロはこのような答えを通して、ユダヤ人が律法を所有したこと、そのものが大事なことではなく、ユダヤ人に与えられた言葉、すなわち、律法の精神の重要性を強調しています。新約で神の御言葉を意味するロゴスが持つ意味は、ただ言語という意味のほかに精神あるいは関係という意味を持っています。ユダヤ人に言葉が委ねられたという意味は、神が要求しておられるところ、神の御心を把握し、それをこの世で実践して生きることを意味します。これは言葉を所有するというのは特権になることではなく、神の御心を実践するための義務となるということです。ここで、私達は律法を所有していることだけで、ユダヤ人は特別であるという特権意識の無意味さが分かります。 3節『それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでも言うのですか。』新共同訳では、不誠実な者だと書かれていますが、これを直訳すると「信頼しない者」となります。ここで突然、信頼という言葉が出てくる理由は、ギリシャ語原語との関係があるためです。 2節で『言葉をゆだねられた。』という言葉が出て来ますが、原語の直訳では『誰かに信頼された。』という言葉となります。つまり、2節での『神の言葉をゆだねられた。』 という言葉は、『彼らは神に信頼された。』と解釈することが出来ます。先に私は神のロゴスには関係という意味も含まれているとお話ししました。神は民との信頼関係の中で、律法を任せられました。神の言葉を委ねられたということは、神との信頼関係の中にあるという意味です。しかし、ユダヤ人は、何度も信頼関係の律法の精神を破り、異邦の神々を拝んだのです。私たちは、旧約聖書を通して、旧約の民がどのように神との関係を破っていったのか明確に知ることが出来ます。そういうわけで、3節の質問は、このように解釈することが出来ると思います。 『ユダヤ人が神を信頼しないからと言って、誠実な神がイスラエル民族との契約を破られ、自分の民を異邦の罪人のように見捨てられるということか?』この質問にも、まだユダヤ人の特権意識が感じられます。パウロは4節を通して人は不誠実つまり、不義でありますが、神様は決してそのような方ではないという答えで、神の完全無欠さを守りつつ、3節の論争を一段落させます。 2.自らを正しいと思ったユダヤ人の罪。 ローマ書は、パウロの殉教の約10年前に記された文書だそうです。つまり、ローマ書はパウロがイエスを信じてから、数々の経験をした後、ローマ教会に送った手紙なんです。そういうわけで、ユダヤ人との仮想対話にはパウロ個人の経験が多く含まれています。パウロは、ユダヤ人の会堂でイエス・キリストの福音を紹介しながら、ユダヤ人と多くの論争をしたでしょう。神が自分らだけに律法を与えられたと信じていたユダヤ人たちは、律法の所有が神の特権ではなく、ユダヤ人も、神に見捨てられ得るというパウロの言葉に大きな衝撃を受け、多くの反論を申し立てたでしょう。そのうちの一つが今日の本文の5節-8節の話です。ユダヤ人たちは、『ユダヤ人が神様を信頼しなかったからといって、誠実な神様がユダヤ人を捨てられるのか? 律法を通してユダヤ人の救いを契約した神様が契約を守らないというのは、神様が”不誠実な方”ということではないか。』と反問したものです。これに対し、パウロは『ユダヤ人が、いかに不誠実で罪を犯しても、 神様が誠実な方だということは決して変わらない。』と答えたのです。むしろ、誠実な神様だからこそ、ユダヤ人の不誠実を赦し、キリストを通して救ってくださると語ったのでしょう。パウロはユダヤ人の不義のため、むしろ、主の義が現れると語ったのでしょう。これらのパウロの教えにユダヤ人たちは、自分たちにではなく、キリストに義があるという話に皮肉を言い、『善が生じるために悪をしよう。』と言ったのです。 このような背景をもって5-8節を読めば、割と容易に内容が分かるようになると思います。『しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。』この言葉を、より理解しやすく翻訳してみましょう。『ユダヤ人が契約を破ったからと言って、神様も契約を破る不義な神になるわけではない。これは、人間の視点でしかない。あなたの不義に対して怒りを発する神は正しくないのか』これは、ユダヤ人が過去、神との信頼関係を壊す罪を犯しましたが、神は依然として、その信頼関係を保っておられることを意味します。ただ、神様は律法ではなくイエス・キリストを通して、ユダヤ人との関係を保たれ、彼らの罪を赦し、救ってくださることを望んでおられるのです。しかし、ユダヤ人は、自分らが不義であるという言葉を納得できず、自分らが不義であれば、不義に放って置かれた神様も同じように不義の神になるだろうと頑なに意地を張っているのです。彼らは決して自分が正しいという考えを諦めないということです。これは、神を下げ、自分を高める大きな不敬になります。 『わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。』ユダヤ人たちは、続けて不敬な話を吐き出します。『パウロよ、あなたの言葉のように私たちの不義によって神の義が明らかになり、栄光を得られるとしたら、むしろ私たちは神様の裁きを受けてはならないだろう。 ならば、神様の善が生じるために悪をしなければならない。』キリストを露わに否定し、むしろ、自分たちに正当性を与えようとしたユダヤ人は、頑固にパウロの教えに真っ向から反論しました。ここで、人間が持っている致命的な罪が明らかに現れます。自らを正しく思い、自らの考えを最後まで正しいと主張する彼らを見て、私たちは、創世記で自分の判断に従って、神の言葉に聞き従わなかったアダムのような姿を見ることが出来ます。結局、ユダヤ人たちは、自分は選ばれたという勘違いの中で、アダムが犯した罪を、同じく犯しているのです。パウロは、これによって、ユダヤ人が持っている罪の性質を告発し、最終的にユダヤ人も、神の御前で罪人であることを現わしてくれます。この話は、すでに2章5節にも現れていました。『あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。』 3.人は罪から自由になれない。 これらの1-8節の物語を通して、パウロは、結局『ユダヤ人はそこまでだ。』という限界を示しています。そして自分自身を弁護するために、パウロが伝えた福音を歪め、拒んだ彼らに『こういう者たちが罰を受けるのは当然です。』と評価しています。だからといって、パウロが、キリスト者がユダヤ人にまさると話しているとは言えません。むしろ、同じように扱っています。 『では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。』(9)パウロは、すべての人が罪人であるだけだと話しているのです。ここで、パウロがした、これまでのユダヤ人への教えと対話が、最終的にはキリスト者にも適用されるものであることが分かります。私たちは、これにより、ユダヤ人、キリスト者、未信者を問わず、すべての人が罪の下におり、神の裁きの下にあるということが分かります。 『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』(10-12)パウロは、詩編14編を引用して、ユダヤ人たちが大切にした律法も、人間の本質についてこう評価したということを示し、確証します。 ここまで聞いたら、ローマ書の読み手は一つ悩むようになると思います。 『それなら、人間には全く希望がないということか?人間はただ生きていきながら、罪を犯すことしかないのか?』 残念なことに、聖書はそうであると話しています。『彼らの喉は開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。』パウロは13-18節を通して、旧約聖書に記された多数の罪を数え立てながら、人間は正しくないと話しています。実に人間には惨めさしかないということです。『さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ書3章19-10)さらに悲惨なことは、その罪の中にいる人間は、神に与えられた律法さえも、到底、守ることが出来ないということです。 パウロは今までの教えを通して『律法は聞くものではなく、実行するものである』と話しましたが、実は人間というものは、そのような法律の精神を守ることさえ出来ない無力な存在であり、罪だらけの存在であると再び話しています。神を知らない未信者も、旧約の民も、新約のキリスト者も、皆が自力では、神に認められない罪人であり、弱い存在であり、悪の存在だということです。実にパウロは、人間という存在へのポジティブな眼差しを諦めています。ただ人間には絶望だけがあるというのがパウロの教えの中身です。しかし、今日、聖書がここまで人間を必死に否んだ理由は、逆に、その人間という存在を救う希望の存在があるということを強調するためでした。私たちは、すでに御子イエス・キリストがユダヤ人、キリスト者、未信者を問わず、すべての人類のために、代わりに神の律法を満足させ、罪の力を打ち破り、救い主になってくださったことを知っています。人間という存在の中に絶望だけで、希望はないという事実で終わるのではなく、神様はそのような人間を見捨てられず、イエス・キリストという希望の存在を備えてくださったということ、それが今日の説教の一番大事な内容なんです。 締め括り、私たちの外から来る神の義。 今日ローマ書の言葉は、あまりにも人間の無力さを強調したあまり、聞き手が疲れを感じるほどの絶望的な話しだったと思います。しかし、パウロはすこし後の箇所で、そのような絶望的な人間に神様の愛と希望が来ると教えてくれます。今日の御言葉を通して、私たちは、私たち自身が、どれほど罪のため、弱い存在になっているのか悟らなければなりません。悟る時に、私たちの救いと力になってくださるイエス・キリストへの大きな信頼と希望を持つことが出来ます。『わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました。主にわたしの背きを告白しようと。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。』(詩篇32:5)人が自分の罪を告白するということは難しいことです。神を知らない、この世の人々は、自ら罪人であることを認める人を不思議に思います。しかし、神はそうではありません。神様は自分の罪を告白し、神様に助けを求める者に赦しと愛とを与えてくださいます。神はイエス・キリストの贖いを通して、罪人をお赦しくださるとお定めになりました。キリストに完全な神の義があるからです。結局、完全な義は私たち人間の心や行いからではなく、神に認められたイエス・キリストから来るのです。私たちは、そのイエス・キリストへの信仰によって義とされるでしょう。ユダヤ人の失敗を他山の石とし、私たちは、ひたすら主イエスに希望を置いて、生きていきましょう。来たる一週間、神様の平和を祈ります。

ユダヤ人と律法

詩編119編174-176節 (旧968頁) ローマの信徒への手紙 2章12‐29節(新273頁) 前置き 前々週、私達は裁きは神様だけがなさる事がらであり、『人は他人を裁いてはならない』というローマ書の教えについて分かち合いました。新約聖書で神の裁きと人間の判断は『クリノー』という同じ言葉を使っていました。これは裁く人が裁かれる人の処分を定めるときに使用する言葉でした。なので、人が他の誰かを判断するのは、まるで、神のように誰かを裁こうとする行為になり、神の権限を奪う罪になると学びました。ローマ書は、この人間の『判断しやすい傾向』が、罪に基づいていることなので、神を知らない罪人と同じく罪を犯すことになると語っています。また、神様は表に現れる姿だけをご覧になって裁かれる方ではなく、人の心中に隠れている意図まで把握し、裁かれる方であることを教えています。そのため表を見るだけで、隠れているものについては、全く分からない人間は、正しい判断が出来ないことが分かりました。結局、罪人も罪人を判断する人も皆、神の御前では同じく罪人であり、両方、神の裁きの下にあるということが、ローマ書2章1-11節の教えでした。そのような事実の前でキリスト者は、ただ謙虚に神に判断を任せ、『神の御心に聞き従うべきである。』というのが先々週の説教の主な内容でした。 1.パウロが突然ユダヤ人に声をかける理由。 ローマ書は2章に入ってから、その雰囲気が全く変わります。 1章で、人間の不義と罪、神の裁きについて、複数の聞き手に説明文のように語っていたパウロは、なぜ突然、話し方を変えて2章からは、一人に向かって叱責するような姿を示すのでしょうか?これは新約聖書で、しばしば用いられるディアトリベーという文学形式で記されているからです。このディアトリベーを日本語に翻訳すると(辞書的意味は『論文』になりますが、)『論理的な仮想対話』と言えるでしょう。このディアトリベーは仮想の人物と語り合いつつ、自分の主張を繰り広げるものですが、教師が生徒に論理的な叙述を通して、叱責するような方法で、相手が持っている誤った情報や偏見を矯正し、教訓を与えようとするときに使う教え方です。 パウロはそのディアトリベーの対象を神を知らない異邦人ではなく、自らが神に選ばれたと信じているユダヤ人に定めています。 最初はユダヤ人という名称は出ず、人を裁く者という言葉だけが出てきますが、17節に行けば、その裁く人がユダヤ人であるということが明らかになります。ローマ教会はユダヤ人と異邦人のキリスト者が一緒に仕えていたのに、なぜ、ユダヤ人だけを特定して語るのでしょうか?先々週、私はパウロが、自分は『ユダヤ人だから、またはキリスト者だから』と思い、世の罪人とは違うと信じている全ての『神を信じる者』に『君らも同じく罪人である』ということを強調しているとお話しました。つまり、これは単にユダヤ人だけへの教えではなく、自分が神の民であるため、他の罪人とは違うという勘違いに陥りやすい、すべての信者の偽善をユダヤ人という代表的な例を挙げて指摘しているのです。 『すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。』(ローマ2:9-10)という言葉のように使徒パウロは、ユダヤ人という仮想の存在を立てましたが、その教えは、ただユダヤ人だけでなく、 異邦のキリスト者を含む、すべての信者たちにも、適用されるという意味です。 ユダヤ人たちは、自分らが神の特別な民であり、子供だと思っていました。アブラハムの子孫であるユダヤ人たちは、自分らが神に選ばれた者であり、神が自分らだけに律法を与えてくださったので、自分らだけが特別な存在だと思っていたのです。当時のローマの異邦人キリスト者たちも罪が蔓延っていたローマ帝国で、キリストに救われた自分らが普通の罪人とは異なると考え、自分らを特別な存在だと思っていたでしょう。パウロは、このような全ての信者たちを仮想のユダヤ人と想定し、これらの信じる者が持ちやすい偏見や頑なな心を咎め、論理的に告発しているのです。このような理由から、ローマ書の読み手は、たとえ神を信じる信者であっても、誰でもユダヤ人のように偏見と片意地に惑わされ、罪を犯しやすいと悟るのです。このように、今日ローマ書が取り上げているユダヤ人は、一次的には本当のユダヤ人であり、二次的には神を信じるすべての信者であるということが分かります。従って、これは、ある名の無いユダヤ人へのメッセージではなく、志免教会で信仰生活をしている私たちにも適用できる内容でしょう。 2.パウロが突然、律法を登場させる理由。 ところで、2章12節から急に律法が登場します。今まで罪と不義について話し、罪人を裁く者の罪をも話していたパウロは、なぜ、いきなり飛躍的に、話題を律法に変えるでしょうか?実は当時のユダヤ人と律法は密接な関係でしたし、ユダヤ人が自分を義人とし、平気で罪人を裁いた根拠が、彼らは神に律法を委ねられたからという当時のユダヤ人社会の背景を考えると、突然な律法の登場は、別に不自然ではないかも知れません。当時のユダヤ人といえば、律法を思い浮かべるのが当たり前なことだったからです。ここでの律法とは、モーセが残したモーセ五書を指すことです。ユダヤ人たちは、このモーセ五書を受けた唯一な存在が、自分の民族であることを誇りに考えていました。自分たちが、このモーセ五書を持っているだけでも、異邦人たちとは違う大きな恵みを得、この律法があるため、自分らにとって神の救いは当然のことだと思っていました。彼らは律法のない全ての異邦人は滅びるだろうと思っていました。ユダヤ人に於いて、律法は誇りであり、全部でした。 しかし、パウロは彼らに律法を持っていることだけでは、何の役にも立たないと強調しています。 『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(ローマ2:13)律法は、ただ持っているだけでは、何の効果ももたらしません。律法に記された言葉を心に留め、それに聞き従う際に、律法の価値は輝きます。しかし、ユダヤ人たちは律法を持っているだけで満足したのです。自分たちは、律法を持っているため、神の裁きから自由だと信じていました。しかし、パウロは、むしろユダヤ人が律法によって裁かれると警告しました。新共同訳では省略されていますが、元々原文では11節と12節の間に「なぜなら」という単語があります。これを通して2章の1-11節の言葉を、このように解釈することが出来ると思います。『神に律法を委ねられたと高ぶり、他の罪人を裁き、自分を正しく思うユダヤ人たちよ。君らは異邦の罪人と全く違わない。ただ神様は君に対して忍耐しておられる。ユダヤ人にしろ、ギリシャ人にしろ、悪を行うと苦しみと悩みが、善を行うと栄光と誉れと平和がある。』その後、省略された『なぜなら』が入り、次の第12-13章に繋がります。『律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』 では、これを私たちキリスト者は、どのように自分に適用することが出来るでしょうか?ユダヤ人に律法があれば、キリスト者には、主の福音があります。ユダヤ人たちは、神の言葉である律法を通して、神の救いが、既に臨んでいたと思いました。キリスト者も、イエス・キリストの十字架の御救いを通して、既に救われ、天国を許されたと信じながら生きていきます。しかし、キリスト者が、既に救われたから善行は要らないという考え、もう天国が自分のものになったかのような安易な思い、隣人の魂への哀れみもなく、自分だけは地獄に行かないだろうと満足し、主の御言葉への不従順、神と隣人への愛も、キリストが福音を通して教えてくださった奉仕も無く、ただ福音を天国行きのチケットくらいに思っているなら、キリスト者は自分の救いについて、真剣に考えてみるべきだと思います。『ただ福音を持つ者が救われた者ではなく、福音の精神を生活の中で現わしている者が、本当に救われた者』であるからです。 3.律法は、形ではなく精神である。 ローマ書は2章17節以降、具体的にユダヤ人の勘違いと律法について話しを繋いでいきます。当時のユダヤ人たちは、自らが律法に頼り、神を誇りとし、神の御心を知り、律法の教えによる在り方を弁えていると思いました。 また、律法に具体的な知識と真理があると考え、自らが盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師だと自負していました。彼らは見掛けだけでは実際にそのような人々だったのかも知れません。しかし、彼らは律法をしる知識にふさわしくない悪い意図や振る舞いも持っていました。神と隣人を愛せよという律法の精神は破り、偽善的に行い、貧しい人々を無視し、異邦人を憎んだりしました。律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮ってしまいました。この手紙を書いたパウロさえも、神のためにという名目で、使徒言行録でステパノの迫害に加わった人殺しでした。ユダヤ人たちは、律法への知識と行為が一致しませんでした。表だけは立派に見えましたが、中身は腐った墓のように裏と表が違ったのです。ところで、突然ですが、恐ろしい事実があります。それはこのユダヤ人への叱責がユダヤ人だけでなく、私達にも同じく適用されるということです。私たちはこの言葉を通して、ユダヤ人ではなく、自分自身を顧みなければならないと思います。 ユダヤ人が残したタルムードのような文書には、ユダヤ人に3つの誇りがあったと記されています。律法、神殿、割礼です。このすべてのものは、ただ表だけに見える表示です。律法とは、神と隣人を愛せよという具体的な命令であり、神殿とは、その神殿を通して神様がユダヤ人だけでなく、すべての人類と共におられることを示す象徴でした。割礼とは、生命の根元になる男性性器の一部をきり、人間ではなく神だけが命の源であるということを認める謙虚と従順の象徴でした。しかし、ユダヤ人たちは、この3つのものが持っている真の精神は抜かして、ただ律法、神殿、割礼という目に見える形だけを取り、自分たちだけが神に救われ、選ばれた民族だと信じていたのです。 パウロはこのようなユダヤ人という象徴を通して、本当に選ばれた存在は、律法やその他の何かを通して証明できるものではなく、神の律法が持つ精神を生活の中で実践する時こそ証明出来ると、絶えず力説しています。『だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。』(フィリピ 2:12)パウロは、フィリピ書の言葉のように、常に恐れおののきながら、自分の救いについて反省し、自分が救われた者であるか、証明する生活を生きて行くように勧めています。 これは、行いによる救いという意味ではありません、救われた人の証としての行いを求めているのです。『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。』(ローマ2:28-29)このように今日の本文は目に見えるものではなく、目に見えない律法の精神を強調しました。 締め括り 今日パウロは、神を信じる者の象徴としてユダヤ人を選びました。また、そのユダヤ人の必ず守るべき精神としての律法を取り上げました。そしてユダヤ人と律法について、ディアトリベーという方式をもって話しました。この言葉は、単にユダヤ人だけへの話しではありません。パウロがユダヤ人にした話は、実は自分が神を信じていると思っている者なら、誰でも注意しなければならない内容です。律法のことも同じです。これは旧約の律法だけを意味することではなく、神を信じる者なら、当たり前に守るべき、神の言葉としての意味を持っています。私たちは、新約と旧約の律法と福音の言葉を、ただ知識として受け入れ、それだけで喜んでいるのではないでしょうか?私たちは本当に律法と福音が絶えず語りかけてくる、神と隣人への愛を誠実に守っているのでしょうか? 今日のユダヤ人と律法の話を通して、神を信じている自分自身と自分が理解している神の律法と福音について、もう一度、顧みる時間になることを願います。

信仰による従順。

ローマ 1 章 1 節-7 節  小倉教会  金泰仁 伝道師 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と記されていま す。 パウロは、キリスト・イエスの僕として、身も心も全てキリストのものとされている、そしてそのことのゆえ に、召されて使徒となったと言っています。 「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。パウロは、身も心も徹底的にキリストに所有される僕となり、 キリストから全権を委任されて派遣される使徒となったのです。 パウロが召されて使徒となったのは、「神の福音のために」です。福音とは、良い知らせ、救いの知らせとい う言葉です。しかし人間の感覚における良い知らせではありません。神により神からの「神の」福音です。 2 節に「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので」と記されています。 神は既に聖書の中で、預言者を通して救いを約束しておられます。その神の救いの約束が実現したという良い 知らせをパウロは告げ知らせているのです。良い知らせ Good News それが福音です。 その福音は「御子に関するものです」と 3 節に記されています。「御子」とは神の子である、イエス・キリスト のことです。 神が預言者を通して約束していた福音は、神の子であるイエス・キリストにおいて実現しました。ですから「神 の福音」とは、「御子イエス・キリストによる救いの知らせ」なのです。 3-4 節に、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力 ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と記されています。 ここには、神の御子である主イエスの誕生と復活とが示されています。「肉によればダビデの子孫から生まれ」 とは、主イエスが私たちと同じ人間として、肉体をもってこの世に生まれて下さったことを現します。 そしてその御子は、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められ」ました。十字 架の死を経た主イエスの復活のことをパウロはここに示します。 「力ある神の子と定められ」と記されています。定められたとは、定めた方がおられることを意味します。 定めた方とは、主イエスを死の力から解放して復活させ、新しい命、永遠の命を与えてくださったのは神さま です。 救い主として私たちを救う神の力が主イエスの復活によって示されたのです。それは死に勝利する力、死の力 に捕えられ支配されている私たちを解放して、新しい命を与えて下さる力です。 私たちの人生を脅かしている最大の敵である死を、神の恵みの力が打ち破り、私たちに新しい命を与えて下さ る、その救いが、御子イエスの復活において実現したのです。これが福音です。 パウロはこの「神の福音」のために選ばれ、召されて使徒としての務めが与えられました。 5 節に「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵 みを受けて使徒とされました」と記されています。 原文の前半を語順通り直訳する、「わたしたちはこの方により、恵みを受けて使徒とされました」となります。 「この方」とは主イエス・キリストです。パウロはイエス・キリストにより、恵みを受けて使徒とされました。 「恵みを受けて」と記されています。ここも原文により忠実に訳すと「この方によって、恵みと使徒の務めと 2 を受けた」となります。「恵み」と「使徒の務め」とが、キリストによって与えられたものとして並べられていま す。パウロにとって、使徒とされたことは神の恵みを受けたことであり、恵みによってこそ使徒とされたのです。 パウロがそのように断言できたのは、彼がキリストを信じる者となり、使徒となった時の体験に基づいていま…

主の裁き。

詩編119編137-144節 (旧966頁) ローマの信徒への手紙 2章1節-16節(新274頁) 前置き 先週、私たちは、人間の罪がもたらす惨めさについてお話しました。人間を代表するアダムが神の御言葉に聞き従わない、最初の罪を犯した後、すべての人は、神の要求を満たすことが出来ない不義の存在となりました。ここでの不義とは、神様の要求に応えることが出来ないということ、すなわち、神を信じないということです。人間のこの不義は神に完全に聞き従うことが出来ない不完全さをもたらしました。また、人は、そのような不義により、引き続き神に逆らう罪を犯して生きて行くことになりました。ローマの信徒への手紙は、神がこのような人間の不義に対して怒りを現わされると証言しています。そこで神は、不義のため神に仕えず、むしろ逆らう罪人をその心の情欲のまま、放っておかれ、更に罪の中にとどまるようになさいました。捨てられた人間は、続けて罪を犯し、神の怒りを積み重ねて行くことになりました。 残念なことは、神が創造される時、被造物に神を知る知識を明らかに示されましたが、被造物である人間は、不義により、そのような神に対する微かな認識さえ歪めて、被造物を神として拝む偶像崇拝という更に大きな罪を作ってしまいました。結局、人は自力では罪を犯すだけで、その罪を解決することが出来ないことを、偶像崇拝を通して示したのです。自分の罪を清めることが出来ない人間は、神の怒りの中で、ただ恐ろしい裁きに向かって行くしかない惨めな存在です。したがって、神はこのように、神の怒りの中で、自らの罪を解決できない人間を救われるために、彼らの代わりに、神の要求を満足させるイエス・キリストを遣わしてくださったのです。罪と不義は恐ろしいものです。初めの罪が不義を呼び出し、不義によって新しい罪が生じるのです。これらの不義と罪の連鎖作用のため、人は神の裁きから決して切り抜けることが出来ない悲惨な人生を生きるしかありません。 1.神はすべての被造物を裁かれる。 それでは、神の裁きとは、果たして何でしょうか?私たちは、神の裁きについて漠然と地獄での甚だしい悲しみや苦しみを思い浮かべたりします。もちろん聖書にも、そのように記されています。『彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。』(黙示録20:13-15)しかし、聖書が語る裁きの、ただ文字的な意味を超えて、調べてみる必要があると思います。新約聖書が語る裁きという言葉は、ギリシャ語「クリノー」です。この『クリノー』は『定める、裁く、裁判する、判断する、批判する、告発する、治める。』等の様々な意味を持っています。ところで、このクリノーの最も基本的な意味は「定める。」です。つまり、裁きとは裁く人が裁かれる人の処分を定めるということです。裁判官が法律を持って被告人の処分を定めるように、神様は御言葉を持って被造物の処分を定められます。神の言葉によって造られた、すべての被造物は、終わりの日に厳重な神の御言葉によって処分が定められるでしょう。これは善と悪とを問わず、神によって造られた、すべての被造物に摘用される神の裁きです。 だから、この裁きというのは、単に罪人向きのものではありません。すべての被造物が神の定めとしての裁きを待たなければならないからです。これはキリスト者さえも、神の裁きについて『既に神の赦しを得、救われた。』という名目で、自分は神の裁きとは関係ないと思ってはいけないという意味です。世のすべてのものは終わりの日、キリストを通して神の裁きを受けるからです。もちろん、キリスト者は、キリストによって、神の御前で弁護されるでしょう。しかし、だからと言って、神が私たちの過去の行いと業について沈黙されるだろうとは言えません。その日、私たちは、必ず神に私たちの生涯について自供をしなければなりません。ウェストミンスター信仰告白33章では、これを明らかにしています。 『地上に生きたことのある全ての人が、彼らの思いと言葉と行いについて申し述べ、善であれ悪であれ、彼らが体をもってなしたことに応じて、報いを受けるためにキリストの法廷に立つことになる。』神は裁かれるお方です。神はすべてのものを造られた創り主でいらっしゃいますので、終わりの日、全ての被造物に対する権威を持って裁かれるでしょう。 2.ローマ教会へのパウロの警告。 東洋文化圏に生きる私たちは、基本的に仏教の世界観の影響を受けます。なので、裁きを考えるとき、地獄について漠然と考えたりします。ところが、仏教で語られる極楽と地獄のイメージは、仏教が生じる、ずっと前に古代近東で栄えたゾロアスター教という宗教の教義から渡って来たものです。ギリシャの王アレキサンダーがペルシャを征服した後、東西が融合したヘレニズム文化が生まれ、地中海全域には、これら善悪と天国、地獄の概念が広がり始めました。これらの思想は、インドにも伝えられ、仏教に影響を与えました。しかし、旧約聖書は、天国と地獄を語っていません。死後、すべての人は陰府に降り、すなわち死後の世界に入るということです。その後は神の領域ですので、人間としてははっきり知ることはできないというのが、旧約の来世観です。新約聖書が天国の喜びと地獄の裁きを話す理由は、その時代の人々がそのような善悪、天国地獄の概念の中に住んでいたからです。神の裁きは地獄のように恐ろしいということを教えるためでした。ここで確実に知れることが二つあります。すべての人は、死んで、神の御前に行かなければならないということと、天国と地獄よりも重要なことは、私たちが必ず神に裁きを受けるということです。 しかし、多くの人々が、特にすでに神を信じると考えているユダヤ人やキリスト者は、勘違いしやすいです。『私は神の民だから・私はキリストに既に救われたから、彼らとは違う。』しかし、今日の聖書は言います。『すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 』(ローマ2:1)この言葉は、ローマの信徒への手紙を受けたローマ教会の人々だけでなく、現代を生きる私たちにも訴えています。ひょっとしたら「私は神を信じているので、私はキリストの中にいるので、罪のために惨めになった彼らとは違う。」という思いが私たちの心の中に少しはあるんじゃないでしょうか?このような思いの根本には、罪人を判断する姿が隠れています。彼らと自分を分けて、自分は違うと思うからです。 パウロがローマの信徒への手紙を書いた当時、ローマ教会は、ユダヤ人とギリシャ人が一緒に仕える教会でした。自らが神の選ばれた民族だという自負心を持っているユダヤ人と、ユダヤ人ではないけれど、キリストによって救いを受け、信仰を持っていたローマのギリシャ人のキリスト者は、ローマ人の堕落を眺め、彼らは簡単に判断したりしたかも知れません。しかし、彼らに使徒パウロは、神の裁きの本質を教えてくれます。 『全ての人は、神の裁きの下にある。罪人を見て判断するならば、それは結局あなたがたの中にも同じ罪が潜んでいるという証拠である。あなたがたは、神の裁きから自由ではない。キリスト者であるあなたがたも安心せず、更に主の御心を察して、謙遜しなさい。』これがパウロが今日の言葉を通して、ローマのキリスト者、そして今日、この言葉にあずかる私たちに訴える教えであります。 3.神は正しくお裁きになる。 ローマ2章2節でパウロはこう語ります。『神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 』(ローマ2:2-3)パウロは信徒たちに『罪人を裁きながら、同じことをしている者よ』と話しています。ローマ教会の信徒たちが堕落して不義の生活をしていたから、このように責めたのでしょうか?そうではないと思います。ローマ1章8節は、ローマ教会の信仰が全世界に言い伝えられていると証言しているからです。それでは、一体なぜパウロは『君らも同じものだ。』という風に話したのでしょうか?これは、2節の『正しく。』という言葉から意味を見つけることが出来ます。 まず、2節の『正しく』という表現は直訳すれば、『真理通り』という意味です。古代ローマで真理という言葉は、東洋人が理解する真理とは、かなり異なる意味深い表現です。私たちは、真理を話す際に、主に偽りの反対語だと思う傾向があります。日本語の辞書にも『本当の事。間違いでない道理。正当な知識内容。』と書かれていました。ところが、ギリシャの思想では、この真理の反対語を「現象」と言いました。現象とは表に現れるものであり、真理は表に出なく隠れている実在を示すものだというです。難しい言葉だと思いますので、聖書から例え話を引いて見ましょう。 『わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』(マタイ5:28)人々は女性を見て淫らな思いを持っても、実際に犯していなければ、罪ではないと思います。この世の法律のことです。しかし、イエスは淫らな思いを持つ時、既に淫らな罪を犯していると語られました。表に現れる『女を犯す。』というのが現像であれば、心の中にある『淫らな思い』は真理だという意味です。人間は現象だけをみることが出来ます。しかし、神は真理までご覧になります。そして真理について裁かれ、それに応じて現像をも裁かれるでしょう。そのため、ローマ書は、神の裁きが真理通り、厳正になされると話しているわけです。 1節に「裁き」という言葉が3度も出てきます。ここでの裁きは、先に申し上げましたギリシャ語「クリノー」と同じ言葉です。ところで、私はその「クリノー」が神の裁きの原語だとお話しました。裁きは神だけの権限です。人が敢えて侵すことが出来ないものです。つまり人が人を裁くということは、神の領域を奪おうとする仕業と同じです。それは1章で、パウロが話した数々の不義を産んだ罪に基づくものです。人が裁いてはならないのは、人は真理と現像の間で何が真理であり、何が現象なのか分からないからです。人は表だけ見て中身を見ることが出来ないからです。真理と現像への完全な理解は、神だけがなさることです。ですから、私たちは人を裁いてはいけません。私たちが、イエスを信じているから、既に赦されたからといって誰かを裁けば、我々は最終的に神の御前で他の罪人と同じような罪を犯すことになると、パウロは語っています。神の裁きは、私たちの心の中の思いから表の行いまで一つ一つつまびらかにするからです。 締め括り 『あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。』(ローマ2:4)神は御哀れみをもって、私たちを赦しておられます。神様が私たちに対して何もなさらないからといって、私たちに罪がないわけではありません。神のお赦しを知っているにも拘わらず、引き続き、他人を裁き、自分自身は違うという考えを持っていれば、神はそれを、私たちの頑なな思い、悔い改めようとしない思いだと判断され、怒りの正しい裁きを下されるでしょう。『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(ローマ2:13)ですから、私たちは他人への裁きを止めて、ただ神の御言葉に聞き従うことによって、御言葉通り実践する人生を生きるべきでしょう。 19世紀のアメリカ、身なりが非常にみすぼらしい老人がハーバード大学長を訪れました。人々は彼がお金を乞うために来たと思いました。学長は彼を門前払いし、職員たちも、彼に冷たい態度を取りました。結局、老人は追い出されてしまいました。彼は帰っていくとき、職員にこのような質問をしました。『こんな大学を立てるには、どのくらいのお金が必要ですか?』 その後アメリカ大陸の反対側に良い大学が出来たという便りが伝わってきました。追い出された、みすぼらしい老人の名前はリーランドスタンフォードでした。ハーバードに肩を並べる有名なスタンフォード大学の創設者です。ハーバードは奨学金寄贈のために来た彼を、見かけだけを見て、追い出してしまったのです。人は真理を知ることが出来ません。神だけが真理を御存じです。したがって、我々は表だけ見て判断する前に、自分自身を顧み、神にその判断を委ねるべきです。誰かを裁くことなく、私たち自身の罪や悪いところを反省し、へりくだって主の道に従って生きましょう。