父から与えられた杯。

イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書18章1‐11節(新203頁) 前置き 去る2月26日はレントの始まりを知らせる灰の水曜日でした。なぜ、灰の水曜日と呼ぶかというと、昔のキリスト者たちは、イエスの苦難を意味する灰を額に塗り、主の犠牲と愛を覚えつつ断食と祈りでレントに臨んだからだそうです。今でも、これを記念し、そのような伝統を受け継いでいる教派があるそうです。主の苦難を忘れず、覚え、参加しようとした信仰の先輩たちの心が、しみじみと感じられます。先週、私たちは罪人アダムの子孫という立場から、正しいキリストの民の立場に変えさせてくださる主の愛について、考えてみました。そのすべての恵みは、主イエス・キリストの苦難と愛によるものです。昨年の後半には、ヨハネによる福音書を学び続けましたが、今年のレントと受難週、イースターに分かち合うために、しばらくお休みし、ローマの信徒への手紙に取り組んでまいりました。今日からイースターまでは、残りのヨハネによる福音書を再び分かち合いながら、主がご自分の民のために、どのようなことをしてくださったのかを話していきたいと思います。主の苦難と復活を考えるとき、私たちは必ず考えざるを得ないことがあります。主の死は、私の罪の死であり、主の復活は、キリストの命による、新しい人としての私の復活だということです。主の死と復活は、すなわち私たち自身と密接な関係を結んでいるものです。これらの関係を黙想しながら、レントの期間、主の苦難と復活を記念して過ごして行きたいと思います。 1.園の中に入って行く。 『こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。』(1)イエス様は受難の一週間前に、エルサレムに入って行かれました。ヨハネによる福音書は、その後、すぐに聖晩餐に背景を移しますが、他の福音書を見ると、その間に多くのことがあったことが分かります。主は神殿に入り、商人を追い出されました。清くなった神殿で教え、神殿の向こう側であるオリブ山でも説教をなさいました。腐敗したユダヤ人の指導者との論争もありました。そして、神に聞き従わないイスラエルの民を見て、お嘆きになりました。このような、忙しい一週間を過ごし、十字架の苦難を前にして、過越しの晩餐を準備させ、弟子たちと一緒に時間を過ごされました。主は弟子たちの足を洗い、『仕える王』というキリストの本質を示してくださいました。また、キリストを通して、聖霊が来られること、聖霊を通してイエスが弟子たちと永遠に共におられることを教えてくださいました。最後に、主を信じる者と全人類のために、切に執り成しの祈りをしてくださいました。 1節に出てくる『こう話し終えると』での『こう話す』というのは、まさに主が救い主であること、弟子たちを守ってくださること、聖霊を送ってくださることの予告と神と人間の間でなさった、慰めと和解の執り成しの祈りを意味することです。 その後、主は弟子たちを連れて、キドロンの谷の向こうへ行かれました。キドロンの谷は、エルサレムとオリブ山を横切る低い地域です。そこを20分ほど通り過ぎると、イエス様がしばしばお祈りになったゲッセマネの園が出てきます。今日の1節で取り上げられている園は、まさにこのゲッセマネの園のことだそうです。ところで、なぜヨハネによる福音書は、詳細地名を省略し、向こう側の園と話しているのでしょうか?これはヨハネによる福音書の特徴であるからです。ヨハネによる福音書は、イエスが旧約の神であるということを示すために、多くの旧約聖書のイメージを借りて使用しました。例えば、ヨハネ1章1節『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』という言葉は、神の言葉と呼ばれるイエス・キリストが旧約の造り主であったということを『初めの言』と象徴的に表しているのです。今日の言葉に出てくる『園』という表現も、このような象徴的意味を持っています。聖書の中で一番最初に園の話が出てくる箇所は創世記です。 『主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。』(創世記2:8)初めの園は、神の平和と秩序に満たされていた美しい所でした。園のどの場所においても、何ものも害を加えず、滅ぼすこともありませんでした。しかし、神を裏切る罪を犯した初めの人は、主の呪いを受けて、その場所から追い出されることになりました。それ以来、神の園は人間が入ることを許されない、失われた楽園になりました。その園の門は神だけが開くことが出来ます。つまり、神に招かれた人だけが入ることが出来る所だということでしょう。この園というのは、神の国、御国を意味する象徴物なのです。 園は人間に許された空間ではありません。罪人である人間は、自力では決して入ることができません。『そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。』もちろん、本文に登場する、この園はエデンの園ではありません。しかし、ヨハネによる福音書は、創世記の園というイメージを借り、象徴的に用いて、イエスと一緒にいると、禁じられた園に入ることが出来るというニュアンスを漂わせています。ここで私たちが分かることは、イエス様によって、人間は初めの人のように神の園に入ることを許されるということです。十字架の苦難は、イエスの弟子たち、すなわち主を信じる者を、失われた神の園に招くための最初の段階となります。イエス様は苦難を受けられましたが、その苦難のお蔭で、主を信じる者は、園というイメージで表現される神の統治と愛に入ることができるのです。主がこの世に来られた理由、苦難を受けられた理由は、神に捨てられた罪人を新たにし、神の民としてくださるためです。人間に許されない園でしたが、イエス様と一緒なら、入ることが出来るように、私たちはイエス様を通して神の民となることが出来、神の国に入ることができるのです。今日、園の物語を通して、私達を神に導いてくださるイエス様の愛と恵みを悟り、感謝すべきだと思います。ひたすら、イエスと一緒なら、私たちは神に向かって堂々と進むことが出来ます。主イエスは、このために、私たちの間に来てくださったのです。 2.世の光である主と松明と灯火を持つ人々。 ヨハネによる福音書には、イエス様がご自分のアイデンティティを定義づけてくださる部分が7ヶ所で出てきます。 『私は…命のパンである。世の光である。羊の門である。良い羊飼いである。復活であり、命である。道であり、真理であり、命である。まことの葡萄の木である。』この中で今日の本文と関わりのあることは『わたしは世の光である。』という言葉です。イエス・キリストはご自分を世の光であると宣言されました。世の光という言葉は、旧約聖書イザヤ書では、この世の中に臨むメシアを指す言葉です。 『先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。』(イザヤ8:24-9:1)エルサレムと比べると、弱者が多く住んでいたガリラヤは、イエス様の主な活動地域でした。ゼブルンとナフタリはガリラヤ地域を意味します。特に主が育たれたナザレはゼブルン地域にあるガリラヤの代表的な町でした。旧約聖書で神のご関心は、主に貧しくてみすぼらしい人々に向かいました。金持ちも貧しい人も、皆同じ人間ですがが、憐れみ深い神様は、神がいなくても関係なく、豊かに生きる金持ちよりも、目先の食べ物もなく、苦しみで呻いている貧しい人々に特に心を遣ってくださいました。 そのために、神が肉体を持って、イエス・キリストという名前で、この地上に来られた時、主にガリラヤ地域で活動し、その人々に癒しと愛を与えてくださったのです。イエス・キリストは、イザヤ書の言葉のように、ガリラヤの弱者たちの面倒を見、彼らに希望を与えてくださる世の光でした。そのため、主は自らが弱者の側に立ち、堂々とナザレのイエスと言われたのです。主は暗闇の中で呻いている民に光を照らされ、慰めと希望を与えてくださるの光の源でした。 『それで、ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明や灯し火や武器を手にしていた。』(3)しかし、イエス様を裏切ったユダがローマの兵士とユダヤ人を引き連れて、世の光であるイエス・キリストのおられるところにやって来ました。過越しの夕方、真っ暗になって、何も見えない夜、裏切り者ユダの手引きによって、人々はみすぼらしい灯火を持ってイエスを逮捕するために来たのです。ここで、今日の2番目のイメージを見つけることが出来ます。松明と灯火と表現される人間の光です。神の光、永遠に消えない光、暗闇を明るく照らす無限の光というイメージを持っていたイエス様と比べると、人々が持ってきた松明と灯火は、いつでも消え得る有限の光でした。 『イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。』(4-5)主は、彼らが、なぜやって来たのかを知っておられました。主を信じる者を神の園に導いてくださる主、無限に輝く世の光である主が、小さな光に頼ってきた人々と対面されたのです。『イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。』(6)主のこの言葉を聞いた人々は、後ずさりして、地に倒れました。有限な光を持った人間が、無限の光である主の前に立った時、神の御前での被造物の本来の姿である『地に倒れる。』ようになったのです。神と人間の間にある無限の違いを示すものです。人間は富、権力、名誉などの、かすかな光を持って、まるでそれが絶対的な光ででもあるかのように、生きていきます。しかし、そのようなものは全て、永遠に消えない世の光であるイエスの御前では、何の力も持つことが出来ません。むしろ『後ずさりして、地に倒れる。』だけです。イエスは自ら死を決意し、彼らに捕らわれるようになさいましたが、彼らはイエスの前では後ずさりして、地に倒れるしかない、微々たる存在に過ぎませんでした。私たちは、この松明と灯火というイメージを通して、全能なる主と人間の弱さを比較して見ることが出来ます。実に人間は主の御前で何の光もない弱い存在に過ぎません。 3.父から与えられた杯。 園というイメージに見られる神の永遠の支配、人間の有限の光というイメージと相反する主の無限の光。これらのイメージは、イエス・キリストの特別さを示すヨハネによる福音書の特別な装置であります。主は、私たちを神に導いてくださる神の園の門番であり、人々には絶対に許されない、まことの光をお持ちになる方です。罪人がこのような主の御前で、せいぜい出来るのは、倒れることしかありません。人間は、それほど主の御前に弱い存在です。松明と灯火を持ってゲッセマネの園にやってきたローマの兵士たちとユダヤ人たちは、このように主に触れることも、害を加えることもできない存在でした。しかし、主は彼らにわざわざ捕まえられてくださいました。 『わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。』(8)主が彼らに逮捕された理由は、主の民を生かしてくださるためでした。『父が与えてくださった人を一人も失いません。』と言われたイエスの言葉が実現するためでした。なので、イエスは弟子達を生かすために、ご自分が捕らわれたのです。これから、主は十字架につけられ、死んでくださるでしょう。人々に引き連れられて、死ぬわけではなく、自ら死を選ばれるのです。なぜならば、イエスを信じる人々を死から自由にしてくださるためです。偉大な力と権威を持っておられる主でしたが、主はご自分の民を救ってくださるために自ら死を選ばれたのです。 『シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。』(10)時々、キリスト者は教会の大きさ、この世での影響力を前面に出し、教勢を通して、神様を示したがる傾向があります。しかし、主は人に頼らない御方です。主はいつも、自らの力でご自分の御心を成し遂げられます。ペトロは主を救おうとして、剣を使いましたが、主はむしろ、その力を止めさせ、自らを死に追い込まれました。ペトロのこのような行為は、主に何の影響も与えることが出来ませんでした。結局、ペトロのこのような行為も、人々が持ってきた松明と灯火のように微々たるものでした。 『イエスはペトロに言われた。剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』(11)イエスは救い主であり、世の光であります。しかし、主はそのような偉大さを後にして、父なる神の御心に聞き従われました。すべてが神の御心どおりでした。今日の本文に出てくる杯とは『神から与えられた苦難』を意味します。神である主は、自らが苦しみを受けることによって、微々たる弱い人間の手ではなく、偉大な神、ご自身の御手によって、救いと恵みの道を開いてくださいました。イエスは父なる神が与えてくださる杯を受けることによって、神と人との間にある壁を崩し、すべての人間が救われる道を開いてくださいました。そして復活した後に、真の神の園である御国に入ることができる道、神の永遠の光を享受する道を開いてくださいました。このすべてが、御父が与えてくださる苦難の杯を主イエスお一人がお受けになり、完全に神のご意思を成し遂げてくださったことによるのです。 締め括り 父なる神からいただいた杯を、御子のイエス・キリストが受けられました。これは、最初から最後まで完全に神様の事柄でした。この救いの御業に人の行いは全く役に立ちませんでした。私たちの救いは、ひとえに永遠の神によって叶えられたものです。レントを過ごしながら、私たちは、主の苦難を覚えています。しかし、主は弱いから、苦しめられたわけではありません。仕方なく苦難を受けられたことでもありません。主は全能なる方ですので、自らが苦しみを計画し、成し遂げられたのです。したがって、主の苦難による私たちの救いは、永遠に変わることのない偉大な御救いです。ですから、私たちは、主の苦難に涙を流すのではなく、その苦難の後、死に勝ち、復活された主の勝利に喜ぶべきことでしょう。イエス・キリストは、私たちを神の園に導いてくださる方です。イエス・キリストは、私たちに真の光を与えてくださる世の光です。このイエスが成し遂げられた完全な救いを喜びつつ、レントの終わりに復活される主を賛美する一週間を過ごしてまいりましょう。主が命をかけ、許してくださった救いを感謝し、賛美する一週間になりますよう祈り願います。