信仰によって、実現される約束。

創世記15章6節 (旧19頁) ローマ信徒への手紙 4章1‐25節(新278頁) 前置き 世界の多くの宗教は、人の行いに価値を与えようとします。神々の気に入るために供物を捧げ、極楽に行くために苦しい修練をし、功績を認められるために敵を殺したり、自分の命をかけたりすることもあります。人間は宗教という名の下で、そのような行いを通して自分の特別さを示そうとします。それはユダヤ人も同じでした。神に委ねられた律法、神に選ばれた唯一の民族という独り善がりのため、自分らを高め、異邦人を排除しました。世界の多くの宗教は、このような行いを通して自分らの正しさを神に示し、そんな自分の正しさによって、救いを得るという話を前面に押し出しています。神の恵みより、人間の行為を大事に思うということです。ローマ書は、このような行いによる人間の義に対して、最初から断固否定しています。人間はもともと罪人であり、宗教人でさえ、そのような罪人という軛から自由ではなく、神に選ばれたと言われる者らも、それから自由ではないということを語っています。ローマ書は、ひたすら神による義だけが、人間を自由にすることが出来、人間は自分の行いではなく、正しい神様を信じる信仰だけによって、義とされると語っています。今日はローマ書4章を通じて、なぜ信仰なのか?果たしてこの信仰というのは何か?について話してみたいと思います。 1.信仰の始まり、アブラハム アブラハムは75歳のある日、神に召されました。ある研究によると、江戸時代の平均年齢は30〜40歳だったそうです。長寿国として有名な日本も、中世から近代に移る時期には、非常に短い寿命だったことを示しています。ところで、アブラハムは、それより3000年も前の人です。つまり、何千年前に生きていたアブラハムが召されたというのは、当時、非常に高齢者として、ほぼ死に近い時に神様に出会ったということでしょう。恐らく自分の人生を整えるために、誰かに遺産を残そうとする時点だったでしょう。ところが、神様は、まるで人生を始める20歳の若者に話すかのように、『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。』(創世記12:1-2)という信じがたい言葉をくださいました。 75歳の高齢者、『すべてが終わった。』という挫折の中に出会った神様は彼にすべての始まりを知らせる命令をくださいました。彼は神のこのようなご命令に非常に驚いたことでしょう。 しかし、さらに驚くべきことは、『わたしはあなたを大いなる国民にする。』という言葉でした。なぜ驚くかというと、アブラハムには子供がいなかったからです。現代医学でも40歳を超えると容易ではない妊娠なのに、古代の高齢者にとっては、とんでもない約束でした。アブラハムが旅に出たとき、彼は甥のロトを連れて行きました。ある学者たちは、恐らくアブラハムがロトを後継ぎとするために共に行ったのだろうと考えました。しかし、ロトはアブラハムを離れて自分の道に行きます。後継ぎが無くなったアブラハムは大きく失望したことでしょう。彼は全てを諦めて、自分の子供でもない彼の僕、エリエゼルに財産を残そうとしました。しかし、人間の目に一寸先も見えない絶望の時に、神はアブラハムに現れ、再び驚くべき話をなさいます。『あなたから生まれる者が跡を継ぐ。天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。』(15:4-5)古代社会で後継ぎがいないというのは、すなわち、死を意味することです。彼の家は、もうすぐ、滅びるはずでした。しかし、神様は滅びる直前のアブラハムの家柄が、夜空の星のように復興するものであり、アブラハムは信仰の先祖になると言われました。それは、死んだアブラハムを生き返らせるという言葉に違いありませんでした。 アブラハムが人間の弱さのため、諦め、挫折したにも拘わらず、神は絶えずに彼を信仰に招いてくださいました。人間アブラハムに義がないということを御存じでいらっしゃいましたが、それでも、彼に信仰を与えくださったのです。結局、アブラハムは神を拠り所とし、主に与えられた信仰を通して、主の御招きに応じました。その瞬間、アブラハムは神に義と認められました。アブラハムは何もせず、ただ神の招きに信仰を持って応じただけなのに、神は彼の小さな信仰を見て義としてくださったのです。ですが、その小さな信仰は、神に基づく偉大な信仰でした。人間アブラハムは決して実現できない大きなことを、全能なる神様が叶えてくださるという小さな信仰を持ちました。このような小さな信仰が、信仰の主であるキリストを私たちにもたらす種になりました。今日ローマ書がアブラハムの話を例え話に挙げる理由は、彼が自分自身ではなく、神の約束を信じたからです。『人間には出来ないことも、神には出来る』(ルカ18:27)というイエス・キリストの御言葉のように、アブラハムは、神に希望を置いて信じ込みました。自分ではなく、神に希望を置いたこと、これが、すなわち、信仰であり、この信仰によって、アブラハムは義人として認められたのです。 2.律法の前に信仰によって結ばれた約束。 ここで、ある人達は信仰について『それでも、信じるということも、結局、人間の行為ではないか。』という疑問を抱くかもしれません。しかし、聖書が語る信仰とは、信者が主体となる、行為としての信仰ではありません。聖書が語る信仰は、まるで 農夫が蒔いた種のようなものです。種は小さくて弱いですが、農夫に養われ、土の重さにうち勝ち、芽を出します。そして少しずつ育っていきます。種を蒔いた農民は種が死なないように水と肥しをやり、栄養素を奪っていく雑草を取ってくれます。いつの間にか種は、小さな木になっています。ようやく木は農夫の養いの下で、自ら育っていくようになります。そして美味しい実を結ぶようになります。神様は農夫として、小さな種のような弱い信仰が、一抱えの木のような堅い信仰になるまで守られ、育ててくださいます。私たちが『神様を信じている。』と自覚する時は、農夫のような神様が、私たちの信仰という種を、既に木のように養ってくださった時です。信仰は、神が与えてくださるものです。人間の情熱や努力によって生じるものではありません。 人が義とされるというのは、このような神の養いと支えの下に生きていくということを意味します。義とされるのは私たち、信徒ですが、私たちを義としてくださる存在は神様です。神はこのような信仰を、律法が生じる数百年前に、すでにアブラハムに与えてくださったのです。アブラハムは行いによって義とはされませんでした。彼は神から与えられた信仰に応じて、ただ神を信じただけです。彼に宗教的な行いがあって、神様が彼を認められたわけではありません。 『もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません』(2)ところで、このように神に義とされたアブラハムが大きな失敗をしてしまいます。神への信仰が弱まり、神に尋ねず、独断で後添いを迎え、イシュマエルを生んだことです。それにもかかわらず、神様は彼を捨てられず、彼が99歳になった時に再び現れ、割礼を命じられます。それによって、再びアブラハムとの約束を堅く保たれます。つまり、割礼とは信仰を守り抜けなかったアブラハムを赦し、彼の義を神様ご自身が守られるという約束の印なのです。『アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。』(11)律法に加え、最も重要なユダヤ人の印である割礼も、結局、先に与えられた信仰の印だったのです。 アブラハムは、律法によっても義とされませんでした。むしろ、律法は400年という時間が経った後に受けたものです。依然として神への信仰の出来事が、それより前に起こっています。前回の説教を通して、律法はユダヤ人の憲法のようなものであり、生活のガイドラインのようなものであると学びました。人は律法を通して神の言葉への従順を習い、自分の罪を自覚するだけです。つまり、律法は特別な力のある物、聖なる本ではなく、神の民が守るべき法則に過ぎないのです。ローマ書は、これら、すべての行為、割礼、律法が信仰を支えるためのものだと話すだけです。人が神に認められる唯一の道は、神への信仰だけです。神は、その他の何も与えてくださいませんでした。私たちは、今日のアブラハムの物語を通して、ひたすら信仰だけが、神の御前に私たちを立たせる一本道であることを心に留めて生きるべきでしょう。神を信じたアブラハムは100歳になり、自分の体から生まれた息子イサクを抱くことが出来ました。彼に子供を与えた原動力は、彼の行為ではなく、神から頂いた信仰でした。 3.約束を守られる神。 創世記15章17節には、神とアブラハムが約束を結ぶ場面が出てきます。神はアブラハムとの約束の証として自ら契約を図られます。古代近東では、双方束縛的契約という契約方式があったそうです。肉を真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置き、双方の契約者がその間に通過し、『約束を守らない者は、このように切り裂かれて死ぬことになる。』という恐しい契約です。『日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。』(創世記15:17)旧約で『燃える火』は神の御臨在を意味したりします。神ご自身が約束の現場に臨まれ、義と認めてくださったアブラハムと直接、約束を結んでくださるということです。ところで、創世記15章では、その真っ二つに切り裂かれた肉の間を神様御独りのみ通り過ぎておられます。どこにもアブラハムがその間を通って行ったという話はありません。 『アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。』(10)しかも、アブラハムは、鳥を切り裂かず、契約の準備も全うしませんでした。アブラハムの不完全さにも拘わらず、義と認めてくださった神様はアブラハムの足りなさすら抱かれ、切り裂かれた肉の間を通り過ぎました。神はご自分の責任に加えて、アブラハムの責任をも担われることを誓ってくださったのです。つまり、これからのアブラハムの罪責を神様がご自分の命をかけて担当されるということです。 なぜ、私たちは信仰によってのみ、神様に義とされるでしょうか?なぜ、私たちの行いによっては出来ないのでしょうか?これは、神とアブラハムの契約で結ばれた約束が行いではなく、信頼によるものだからです。これは単に、アブラハムだけが神を信じたからではなく、神もアブラハムを信頼してくださったからです。お互いに信頼関係を持って約束を結んだ神様とアブラハム、アブラハムが完全ではないにも拘わらず、彼を正しいと認めてくださった神の信頼。つまり、その神の信頼に応じる信仰だけが、神との約束を守る唯一の鍵だからです。この神との信頼による約束は信仰以外のいかなるものでも成就できないのです。したがって、人間に基づく行為、律法、割礼などの行いによる手柄としては、その約束を守ることが出来ません。『神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。』(13)私たちの信仰は、単に信じるという行為ではありません。私たちの信仰は、神との約束を守る唯一の鍵です。 イエス・キリストが私たちのために死んでくださった理由は、私たちを可哀相に思われたからではありません。アブラハムと結ばれた契約を神ご自身が手ずから守ってくださるために、アブラハムと、その子孫が守り抜けなかった約束の罪の償いのために、彼らの死の代わりに死んでくださったからです。アブラハムも、子孫も、絶え間なく罪を犯しました。彼らは決して罪から自由になることが出来ませんでした。しかし、それでも、神は神を信じる者たちを義と認めてくださいました。彼らが死に値する罪の中にいる時にも、彼らを赦してくださったのです。神様は最後までアブラハムとの約束を守ってくださったのです。天地万物を創造された全能の神が、ご自分の民に自らを束縛されてまで、何があっても、民を諦められませんでした。霊でいらっしゃるため、死ぬことが出来ない神様は、結局、死ぬために肉体を持って、この地上に臨まれました。そして自らが切り裂かれた契約の肉のようになられ、死んでくださいました。アブラハムの子孫の罪の報いと守れなかった律法の精神を完全に守るために、神が自ら死んくださったということです。イエス・キリストの十字架は、この神の約束の証なんです。イエス・キリストは罪人の代わりに罪の報いを解決し、ご自分の民への愛を成就され、律法の精神まで、完全に守ってくださった神様の約束の達成者なのです。 信仰によって、実現される約束。 なぜ、イエス・キリストだけを信じるべきなのか。なぜ、イエス・キリストの他には正解がないのか。なぜ、イエス・キリストだけが救い主であるのか?これは時には独断的に感じられるほどの質問です。しかし、主イエスだけが信仰の対象であり、正解であり、救い主である理由があります。まさにこのイエス・キリストだけが神とアブラハムの約束の実だからです。神様が主イエス・キリストを通して、この時代を生きていく信仰の民を探しておられます。神とアブラハムが結んだ約束が今、イエス・キリストと現代の信徒たちの間に再び現れています。イエス・キリストは、神がアブラハムを招いてくださったように、今日も人々を招いておられます。誰でもイエス・キリストを信じることによって、神の民として義とされ、天国の民として認められることが出来ます。信仰は双方の約束です。神は今日も、イエス・キリストを通して、私たちに限りのない信頼を示しておられます。今や、神の信頼に、私たちが答える番です。それがまさに私たちの信仰なのです。キリストを通って来る神の信頼に私たちが信仰を持って答える際に、私たちはキリストの中で神との契約の賜物としての義と永遠の命を得ることが出来ます。神は律法や他の何かを通しては約束を結ばれませんでした。神はただ信仰によって約束を結ばれたのです。私たちは、決してそれを忘れてはならないでしょう。