私の神、私の盾。

詩編18編 2-4節 (旧847頁) ヨハネによる福音書17章3節(新202頁) 前置き。 もう、今年の最後の礼拝が持たれるようになりました。今年の初めに、過去一年を守ってくださり、新しい一年を導いてくださる神様に感謝する礼拝を捧げましたが、あっという間に一年が経ち、また、年末の礼拝をささげるようになりました。今年も本当に多くの出来事がありました。今年は特に、「コロナで始まり、コロナで終わる。」と言っても過言ではないほどの一年だったと思います。コロナによって4月には、一ヶ月くらい礼拝を休止しなければならない時もあり、伝道礼拝も先送りに先送りを重ねてクリスマスになって、やっと守ることが出来ました。イエス・キリストの体なる教会であることを告白する聖餐も、一緒にお交わりするマナの会も、無期限に延ばされるようになりました。しかし、それにも拘わらず、やむを得ない事情のある方を除いては、皆で礼拝を守ることが許され、特に、昨年のように韓国からの訪問者がいなかったにも関わらず、礼拝への出席者の数が全く変わりませんでした。日本のキリスト教会内外の他の教会の礼拝出席者が大幅に減少したことに比べれば、志免教会はコロナによる打撃がほとんど無かったとも言えるでしょう。他の教会の出席者が減じたのは、本当に心痛むことですが、外国人宣教師に変わり、お互いの心を分かち合い、慣れていく時間の中にあって、このように無事に一年が経っていくのを見て、感謝しないわけにはいきません。来年はコロナが静まり、安定を取り戻して、いっそう神への感謝と礼拝を持って生きる私たちになることを願います。 1.イエス – 私の神、私の盾。 そういう意味で、今日は、私たちを守ってくださる神様、そしてイエス・キリストについて話してみたいと思います。 「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔、ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。」(詩篇18:2-4)この詩編は、ダビデが歌った感謝の賛美詩として知られています。この詩編の言葉は、ダビデの晩年を取り上げているサムエル記下の22章でも、ほぼ同様の内容で、出てきています。サミュエル記上下を通して、ダビデの人生を最初から最後まで説き明かしたサムエル記は、ほぼ最後の部分で、ダビデが歌ったと言われる、この賛美を持って、ダビデが神様の御前で、どのような心構えを持って生きて来た人なのか、また、神に、如何に愛を受けた人なのか、まとめているのです。以降、この賛美詩は、エルサレムの神殿で、神に礼拝する時に歌う賛美になったと言われます。この賛美詩は、神に愛されたダビデ、すなわち神の人を守ってくださり、導いてくださった神様に感謝を捧げる、感謝の賛美なのです。 イエス・キリストの先祖ダビデは、イスラエル民族の歴史上、最も偉大な王でした。彼はイスラエルの歴史の中で、最も広い領土を征服した人であり、イスラエルの名を高めた人であり、多くの手下を率いていた人でした。しかし、彼が神に偉大な王と認められた理由は、広い土地を征服したからではなく、優れた政治力によるわけでもなく、彼の人柄が素晴らしかったからでもありません。新約聖書の使徒言行録はダビデという人について、こう証ししています。 「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。(未来形)」(行13:22)ダビデが偉大な王として認められた理由は、たった一つ、神が彼を愛され、お受入れになったからです。彼がまだ王になる前に、敵に脅(おど)される前に、何の影響力も無かった時に、神はすでに彼を選ばれ、彼のことを喜ばれました。神はダビデの行為を御覧になって、喜ばれたわけではなく、その人のありのままを御覧になり、特に神への彼の信仰を御覧になって喜ばれたわけです。 過去1年間、私たちは礼拝を休んだこともあり、聖餐を守ることが出来ず、コロナによって積極的な伝道を行なうことも出来ませんでした。もし教会が会社だったら、良い実績を出したとは言えないでしょう。しかし、主は、私たちの行為と結果に基づいて、私たちを愛しておられる方ではありません。ダビデが何者でもない時に、神がダビデのことを喜ばれたように、私たちが何も出来ない時にも、神は私たちを愛してくださいます。なぜなら、私たちはキリストの体なる教会として、神に愛されている存在だからです。神は私たちの素晴らしい行為や結果だけを求める御方ではありません。神は私たちの頭でいらっしゃるキリストをご覧になる御方なのです。そして、そのキリストにある私たちの信仰を御覧になり、私たちを喜びを持って愛してくださるのです。私たちは、その主イエスによって、移り変わりの無い愛の中で、ここ1年を生きてきました。神の御前で私たちを愛される者としてくださるキリストに感謝する今年の最後の礼拝になることを願います。主イエス・キリストは、私たちの神、私たちの盾、私たちの岩、私たちの救いの角であり。私たちの砦の塔であられます。そのようなイエスに感謝し、今年を終え、来年を始める私たちになることを望みます。 2.救ってくださるイエス・キリスト。 今年の主題聖句は、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)でした。それだけに、今年の説教で最も強調したかった存在は、イエス・キリストだったのです。しかし、この言葉の冒頭に出てくる、永遠の命という言葉も強調したい表現です。皆さん、永遠の命とは、果たして何でしょうか?今年、筑紫野教会での水曜祈祷会の説教の後、ある方が私に聞いて来られました。 「先生、永遠とは果たして何ですか?神と共に住むのは良いと思いますが、永遠なら、長すぎで退屈になるのではないでしょうか?」もちろん、その方の冗談半分の話だったと思いますが、私は、その質問を聞いて、信徒の皆さんが永遠という概念について、誤解しておられるかも知れないと思いました。人は永遠という言葉について、「無限の時間」だと、漠然と思いがちだと思います。しかし、西洋の哲学では、無限の時間を生きることを、「永遠の命」と呼ばず、「不滅」と呼びます。哲学者たちは「永遠とは時間の外に存在する概念」だと信じていました。つまり、永遠とは、時間とは関係なく、「最初から最後まで、その中のすべての物事」と思った方が望ましいと思います。キリスト教的に言えば、永遠とは、「世界をお造りになった神が、また世界を御裁きになる、その終わりの日まで、神のご計画の中で、司られている全ての物事を意味する概念」です。したがって、永遠の始まりと終わりは神様だけが知っておられ、人間はあえて触れることができない、計り知れないレベルの概念です。だから、神様が永遠の命を与えてくださるということは、単に長い時間を生きるという意味ではなく、神ご自身の計画の中で、最初から最後まで、私たちを導き、私たちの生の全てに責任を負ってくださるという意味です。 キリスト教は、その名称の通り、イエス・キリストを中心とする教会です。私たちの信仰、生活、すべてがキリストを中心に行われる宗教であるのです。しかし、キリスト教は宗教というには、あまりにも、私たちの生活と密接な関係を持ちます。過去、私の祖母は、いくつかの宗教で信仰生活をしました。日本から来た天理教、韓国の仏教、後は台湾から来た、仏教、道教、キリスト教のように、複数の宗教がミックスされた宗教をも信じました。そうするうちに、母の絶え間ない伝道によって70歳の頃に、イエスに出会い、本当に神を信じるようになりました。それ以前の宗教は、優れた教えを持ってはいましたが、宗教の対象と信徒の現実の生活との接点がありませんでした。お経を唱え、宗教行為を行い、宗教の教義を勉強しましたが、その中心的な内容は、「自分の努力の有無によって、人に生まれ変わるか、極楽に入るか、超越者になる。」という教えでした。その宗教には全能の神がご自分の民の生に責任を負うという概念がありませんでした。つまり、永遠の命が無かったということです。超越者と信徒との間に接点がない、別々の宗教だったのです。しかし、キリスト教は超越者が信者の生活に介入して、彼らの人生に責任を負います。それこそがキリスト教と他宗教との異なる点なのです。したがって、キリスト教は宗教というよりは、人生、生活そのものに、より近いものです。 キリスト教は信仰の対象である神様が、信徒の生活に入って来られ、共に歩んで行かれる、まるで親と子、先生と学生、友人と友人のような関係で、私たちと一緒に生きて行かれる宗教です。イエス・キリストは、単に私たちを天国に導くための、何の感情も、人格もない全能者だけに止まる神ではなく、私たちの喜怒哀楽を分かち合い、人生の旅を一緒に歩んでくださる、誰よりも人格的な存在なのです。キリスト教が語る真の救いとは、そのようなことです。キリスト教で語られる天国は、救いの結果ではなく、救われた者に与えられる救いの旅のご褒美なのです。私たちの真の救いは、まさにこのキリストを通して、神の子として認められたものであり、神の中で神と共に喜怒哀楽の世界を生きていくこと、そのものなのです。つまり、イエスによる神との歩みが、まさに私たちの救いです。そういう意味で、私たちは、すでに救いと天国の中にいる存在なのです。今日の旧約本文の言葉も、そのような文脈で理解すべきものだと思います。神は、まるで盾、砦の塔、岩のように、主がお選びになった民らのことに責任を負ってくださり、彼らを守ってくださり、愛してくださる方です。その神様は、ご自分の民が帰ってくることが出来る道として、私たちに、イエス・キリストを送ってくださいました。その神様は、いろいろ大変なことが多かった今年も自分の民である志免教会を放って置かれず、愛を持って歩みを共にしてくださったのです。 締め括り 来年も、神と共に愛と平和とを持って歩んでいく志免教会であることを望みます。教会員同士の関係が一層深まり、教会員のご家族の間にも平和が満ち溢れ、教会の近所の人々にも、志免教会は平和の場所、親切な所、美しい所という印象が残ることを願います。なぜなら、私たちの教会は、人の力によって成り立つ場所じゃなくて、ひとえに神様の御導きによって成り立つ主の共同体だからです。主が私たちを愛し、私たちと一緒におられることに慰められ、これからも神の喜び、隣人の喜びになる、私達志免教会になることを願います。2021年度も、主の恵みと愛に満ちた教会、そして教会員の生活になることを祈り願います。

平和の王。

イザヤ書52章7節 (旧1148頁)ルカによる福音書2章8-21節(新103頁) 前置き メリー!クリスマス!子供の頃、私はメリークリスマスという言葉が大好きでした。 1980年代の日本の経済が最も盛んだった時代、韓国もソウルオリンピックを前後して、本格的な発展を期待していた時代でした。その頃は日本も韓国も、経済的に安定している時期だったと思います。今のように激しい日韓の葛藤も少なく、日本も韓国も戦後最高の、平和に満ちた時だったではないでしょうか?その頃のクリスマスの雰囲気を未だに記憶しています。当時、幼稚園児だった私は、クリスマスイブに枕元に小さな靴下をかけておき、今夜サンタクロースが来てオモチャのプレゼントをくれるだろうと楽しみにして、熱心に祈ったりしました。その頃のクリスマスは本当に平和な日でした。私は、その時に育った者として、今でもクリスマスといえば平和という言葉が一番先に思い浮かびます。クリスマスと平和、何の係わりがあるのでしょうか?今日は、このクリスマスとは何なのか?そして、クリスマスの真の平和とは何なのか、皆さんと話してみたいと思います。 1.クリスマスとは? 皆さん、クリスマスとは何の日でしょうか?数年前、日本の、あるキリスト者が作った日本宣教関連動画を見て、だいぶ、驚いた経験があります。動画に出てくるレポーターがクリスマスイブの夜に東京新宿で通行人たちにインタビューをする場面でした。 「クリスマスが何を記念する日なのか知っています?」「西洋からのパーティーデーじゃないですか?」「よくわかりません。」「ケーキを食べる日です。」などなど、多くの回答がありましたが、衝撃的なことは動画上ではクリスマスをイエスの誕生日として理解している人が、誰もいなかったということでした。恐らく、クリスマスを知らない人を中心に編集したと思ってはいますが、他国に比べてクリスマスをきちんと理解している人が少ないとの内容でした。最後にリポーターはこう話して、動画を終わりました。「日本ではキリスト教が、そんなに盛んではありません。西洋の邪教だと誤解する人も少なからずいます。日本の人々が、救い主イエスと、その誕生日であるクリスマスを正しく知るようになることを願います。」日本でキリスト教は、全人口のわずか0.4%にしか至らないマイナー宗教です。それだけにクリスマスへの人々の認識も薄いと思います。クリスマスはパーティーする日でも、ケーキを食べる日でもありません。クリスマスは私たちが信じているイエス・キリストの到来を記念する日です。 クリスマスは、イエスを意味するギリシャ語「キリスト」に、礼拝を意味するラテン語「マス」が付いた合成語です。カトリック教会で「ミサが執り行われる。」という話をよく話したりしますが、そのミサの語源が、この「マス」です。つまり、クリスマスとは、この地に来られたイエスを礼拝する日という意味です。また、この「マス」には、別の意味をもあります。皆さん「ミッション」という映画をご存知でしょうか?ハリウッドの名俳優ジェレミーアイアンズが「ネッラファンタジア」という名曲をオーボエで吹きながら、南米の原住民と出会う名場面で有名な映画です。映画のタイトルであるミッションという言葉は、宣教という意味の英語ですが、その語源が、この「マス」というラテン語なのです。つまり、クリスマスはイエス様が、この地に宣教をするために来られた日という意味でもあるのです。したがって、クリスマスを日本語で説き明かすと、「この地に来られたイエスに礼拝をささげる日。」或いは「イエス様がこの地に神の愛を伝えに来られた日。」と解釈することができます。このように、クリスマスはイエスで始まり、イエスで終わる、イエスの、イエスによる、イエスのための日なのです。だからイエスを落として、単にパーティー、フェスティバル、気分の良い日などとしてクリスマスを見做すには、このクリスマスに隠れた意味があまりにも多いと言えるでしょう。 日本においてクリスマスは祝日ではありません。殆どの欧米の国々、また韓国で、クリスマスはキリスト教の非常に重要な日です。国家的にも祝日と指定された、1年の中で最も盛大に守るキリスト教の記念日です。韓国では、キリスト教の教勢が大きい方なので、教会に通っていない未信者たちも、その意味をかすかにでも知り、その意味の中でクリスマスを楽しみます。しかし、日本では祝日ではなく、ただの平日であり、イエスの誕生日であるという事実を知らない人も、他国に比べて多くいると言われ、とても残念に思います。神様が日本にキリスト教会の復興をくださり、多くの人々がイエスを知り、教会を肯定的に考えて、良い影響を多く受けることができる共同体になることを願います。クリスマスはイエス・キリストの日です。イエス様が礼拝される日であり、イエスが人間を愛するために来られた日なのです。このクリスマスにイエスの恵みが、豊かにあることを、また、イエスの愛が、日本の地に満ち溢れることを切に望みます。 2.イエス・キリストによる平和を願う日。 ローマの平和(Pax Romana)という言葉があります。古代ローマ帝国は、軍事力で地中海世界を掌握、支配し、周辺のヨーロッパと中東とアフリカ北部を征服した強力な国家でした。ローマの平和とは、ローマが帝国の征服戦争にけりを付け、地中海を完全に掌握した西暦1世紀前後、ローマ帝国による秩序と支配で、世界が平和であるという意味で使用された言葉でした。しかし、我々は、この平和という言葉について、よく考えてみる必要があります。ローマの平和とは、すべての人が平等に平和になるという意味ではありませんでした。この平和は、ローマ皇帝を中心としたローマ市民だけの平和でした。ローマ帝国に属する植民地の人々は、ローマ市民として認められませんでした。彼らがローマ市民になるためには、ローマの市民社会で大きく認められたり、あるいは植民地の指導層が自国を裏切ってローマ帝国の側に立ったり、ローマの軍隊に入り、多くの戦いの補償として得ることができるものでした。つまり、この平和は、皆のための平和ではなかったということです。誰かがローマの平和を享受するためには、他の誰かが死ぬか、奴隷にならなければなりませんでした。ローマの平和とは、あくまでも、権力ある者のための、彼らだけの平和でした。ローマの平和は暴力と殺人の他の名前だったわけです。 そのローマの平和が唱えられた時期、ローマ帝国の辺境の、小さくて力のない植民地、イスラエルでは、ユダヤ民族から、真の王が生まれるという噂がありました。大きくて輝かしい星が現れ、イスラエル地方に、王たちの上に君臨する、真の王が生まれるという噂でした。これはユダヤ人の予言に基づいた話で、聖書はその王が、まさに主イエス・キリストであると明らかにしています。 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(11-12)今日の本文では、この王たちの王が生まれるという良い知らせを、地上の人々に伝える天使の話が出てきます。彼はイスラエルの歴代最高の王ダビデの町で、彼の子孫である、新しい王が生まれると話しています。ところで、ここで使用された単語が気になります。聖書は、単に王という言葉の代わりに「救い主、主」という言葉を使っています。この言葉は、単に偉大な人を高めるための表現ではありませんでした。この言葉は非常に政治的で、社会的な言葉です。ローマ帝国で「救い主、主」という言葉を聞くことができる唯一の存在は、皇帝一人だけだったからです。 つまり、ユダヤ地域で生まれた主イエス・キリストという名前は、単にイスラエルと呼ばれる小さな民族の指導者としての意味ではなく、ローマという大帝国の皇帝までも脅かす強力な存在としての名称だったのです。イエス・キリストが生まれた理由は、単に小さな一つの民族だけに限らず、ローマ帝国を超える巨大な世界を治めるためでした。神は帝国を超えて全世界を支配する本当の王が来ることを天使を通して教えてくださったのです。しかし、イエスの治め方は、ローマ帝国のそれとは、全く違いました。 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(14)天使は王や皇帝を訪れて主の到来を知らせたわけではありません。彼はイスラエルで最も低い階層である羊飼いたちに行き、主のご降臨を知らせたのです。そして、彼らに平和の王が臨むことを教えてくれました。主イエスの誕生は、ローマ帝国の皇帝が求めていた自分たちだけの平和ではなく、イエスを通して全世界のすべての人々が、共に享受することができる、真の平和をもたらす出来事です。主のご誕生の知らせは、ローマによる権力者のための暴力に染まった平和ではなく、キリストを通して最も低い階層も味わえる、真の平和の到来のお知らせ、つまり福音でした。 締め括り 人間の赤ん坊に生まれたイエス・キリストは、神ご自身でいらっしゃいます。神と人との間には、人とアリの違いよりも、はるかに大きな、埋まらない隔たりがあります。しかし、人間を愛された神は、自らを低くなさり、人になってくださいました。また、みすぼらしい飼い葉桶に生まれ、誰にも尊重されない羊飼いたちさえも、会うことができる低い所に来られたのです。イエスは権力、財産、強い人だけでなく、疎外される弱い人にも、喜んでお出でになる、本当の偉大な王です。誰でも主を求めれば、訪れてくださる真の平和と愛の王でいらっしゃいます。私たちが生きていく、この世は弱い者に世知辛いところです。目に見えない壁と隔たりがあり、支配層と一般の人々の人生が違う場所です。しかし、主イエスは、そのような壁と隔たりを突き崩して、すべての人に公平に神の愛と恵みをお伝えになる方です。この主が、弱くて罪深い人類のために地上に来られ、人間の罪を赦してくださるために、ご自分の命を掛けて救ってくださいました。私たちを支配しようとする王、我々に仕える王、私たちにとって真の王は果たしてどっちでしょうか?主は仕えて、守ってくださる平和の王として、今日、私たちの間におられます。クリスマスを迎えて、この主イエス・キリストを覚えたいと思います。平和の王イエスは今日もあなたを愛しておられます。

権威ある新しい教え。

詩編74編9-17節 (旧909頁) マルコによる福音書1章21-28節(新62頁) 前置き マルコによる福音書は、ローマ帝国の激しい宗教弾圧で毎日毎日を恐れの中で生きてきた初期キリスト者を慰めるために記録された慰めの福音書でした。イエスは神である身分を捨てて、この地に来られ、人間と一緒にいてくださり、慰めてくださいました。イエスは神のメシアであるにもかかわらず、人間の側に立って、洗礼と試練とを体験してくださいました。これは、神でいらっしゃるイエス様が名目上だけ、人間の見た目をお取りになったわけではなく、自から人間の所まで低くなってくださり、人間の惨めさと弱さを直接体験してくださった愛の行為でした。さらに主は、この地上で神と罪人が和解できる方法を教えてくださり、人間を神のみもとに導くために、弱い弟子たちを召し寄せ、真理を教えてくださいました。イエスは、2000年が経った現代でも、変わることなく主の民と共におられ、わたしたちの進むべき道を導いてくださる真の救い主でいらっしゃいます。今日は、このイエスの権威とイエスに反抗する邪悪な霊について分かち合い、私たちへの愛をお止めにならない主について話してみたいと思います。 1.イエスの権威 今日は個人的な話で説教を始めたいと思います。小学校5年生ごろ、私の出身教会で、驚くべき出来事がありました。教会の近所に、ある悪霊に取り付かれた人がいましたが、その家族が彼を教会に連れてきたのでした。当時、主任牧師、伝道師、祈りに励む信徒たちは彼を囲んで切に祈りました。 「ナザレの人イエス・キリストの名によって命令する。悪霊は出て行け!」一緒にいた人たちは、長い時間、その人のために祈り、絶えずイエス・キリストの御名を宣言しつつ、邪悪な霊が立ち去ることを命じたのです。母によると、数時間後、悪霊は去っていき、その人は正気に返ったそうです。私の出身教会も日キや改革派教会のように、韓国の教派の中で、かなり静かで説教と聖礼典を中心とする教会だったので、その出来事は、いっそう衝撃的な経験として感じられました。ところで、それから30年近く経った今でも、私の脳裏に深く焼き付き、決して忘れられない言葉があります。それは「ナザレの人イエス・キリストの名によって命令する。悪霊は出て行け!」です。いったい、そのナザレのイエスという名前にどのような権威がある故に、悪霊という恐ろしい存在が追い出せたのでしょうか?私は、今日の本文で、その姿を再び、垣間見ることが出来ました。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人に痙攣を起こさせ、大声をあげて出て行った。」(23-26)洗礼、試練、福音の宣言、弟子たちへのお召しなど、地上での御業の準備を整えられた主は、人間の目に見える強力な最初のしるしとして、悪霊を追い出して権威を示してくださいました。悪霊は人間の力では、到底どうしようもない存在です。「(あなたがたは、以前は)この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に、今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:2)悪霊は人間の力の及ばないところから、世を支配し、人間を罪の道に導き、不従順な者となるように操る、超自然的な強力な存在です。しかし、イエスは彼らを一言だけで簡単に追い出してくださいました。主の権威は、強力な彼らさえも完全に圧倒するものでした。 2.悪霊とは? なぜ、主は悪霊を追い出すという出来事を、目に見える最初のしるしとして示してくださったのでしょうか?それを知るために、我々はまず、キリスト教で語られる悪霊という存在について探ってみる必要があります。過去のキリスト教の伝統には、悪霊と関わる多くの話がありました。ジョン・ミルトンという17世紀の英国の作家は、これらの話を用い、「失楽園」という古典を残しました。私たちは、その本の内容を通して、昔のキリスト者が考えた悪霊の起源を、ある程度、推し量ってみることができます。 以下は失楽園に出て来る悪霊についての粗筋です。「遥かに遠い昔、神の傍らで賛美を捧げる天使であったルシファーは、ある瞬間、自分の栄光に酔って自制心を失ったあげく、神の輝かしい栄光を嫉妬してしまいました。彼は野望と傲慢と、神を越えようとする邪悪な反抗心で、自らが神になることを企てて、手下の天使たちを煽り、戦争を引き起こしました。神の大天使ミカエルの軍隊とルシファーの手下たちは、長い間、戦争を続け、最終的にルシファーと手下たちは敗北して天から落ちることになってしまいました。ルシファーは天上で神の僕になるより、地獄で王になるのが増しだと思い、最後まで邪悪な姿勢を取りました。」もちろん、これはあくまでも失楽園という作品の一部なので、聖書のような真理として受け入れるべきではない物語です。しかし、少なくとも、聖書に出てくる悪霊が、人が死んで化ける怨霊や、幽霊ではなく、堕落した天使に由来するというヒントを得ることは出来ると思います。 聖書が教えてくれる悪霊とは、神の権威を奪おうとする、邪悪な存在を意味するものです。神を賛美し、礼拝するために造られた、この被造世界で、神への賛美と礼拝を捧げられないようにする、神に不従順にさせる存在なのです。彼らは創世記のアダムとエバ、カイン、カインの子孫、バベルの塔の罪人たちのように、「自ら神になろうとする人」を誘惑する存在として描かれています。また、彼らは、そのような思想を貫くことによって、この世を支配している存在です。過去、世界を支配しようとしていた帝国の皇帝は、自らを神だと名乗り、神の座に上がろうとしました。古代エジプト、ペルシャ、ローマの皇帝、旧日本帝国には現人神という概念があり、現代の中国と北朝鮮では共産党が、その位置を占めています。これらすべての「人が神の座を奪おうとする行為」は、聖書が語る悪霊の仕業に似ています。つまり、聖書に登場する悪霊は「自ら神になろうとする全ての行為」の起原のように使用される表現です。したがって、我々は、この悪霊という表現を実際に存在する邪悪な霊的存在として理解しつつ、同時に神に反抗して聞き従わない、すべての邪悪な意図と心根であるとも理解できるでしょう。 創世記3章には、蛇の姿で人を不従順へと誘惑した存在がいましたが、キリスト教では、この蛇を悪霊の化身であると信じています。また、イエスの試練の時、イエスを誘惑した存在が、まさにこの悪霊という存在だったと信じているのです。このように悪霊は、人に傲慢さを与え、神を裏切るように誘惑する邪悪な存在なのです。私たち人間には自らを高めようとする意志があります。神は人に意志をくださり、その意志で神を賛美し、世界を美しく治めることをお望みになりましたが、罪によって汚された人間は、その意志を間違ったことに用いて、自分を高め、自分が崇拝されるものとなろうとする傾向を持つようになりました。神ではなく、自分を高め、神への礼拝のためではなく、自分の欲望を満たすために意志を誤用したわけです。聖書は、このすべてが悪霊の誘惑によるものだと言います。だからといって悪霊にすべての責任を負わせることはできません。誘惑は悪霊の仕業だとしても、その誘惑を受け入れる者は、まさに私たち自身であるからです。したがって、悪霊という存在は、実在する悪い霊であることと同時に、私たちの心の中に潜んでいる、自身を高め、神に不従順にさせる、自分の中にある邪悪な罪の性質であることを心に留めておくべきでしょう。 3.悪霊を追い出す権威ある新しい教え。 イエス様が一番最初に悪霊を追い出すというしるしを示してくださった理由は、イエスの到来と共に、今後、邪悪な霊の支配に終焉を告げるという意味を持つからです。 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)、「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。 イエスは言われた。わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」(ルカ10:17-19)イエスが悪霊を追い出されたその日、すでに神の国は、この地に実現しました。悪霊が支配していた、この地はイエスの到来の故に、神の本格的な支配の中に入るようになったのです。イエスの存在により、この地で悪霊の支配が崩れ、神の国が臨むようになったのです。イエスの権威によって主の体なる教会は、悪霊の力から逃れる権威を得る存在となりました。イエスを知らなかった時の私たちは、邪悪な霊に支配され、罪の性質を持って他人を憎み、自分の欲望だけに従って生きていましたが、今や、私たちは、イエス・キリストの存在により、そのような支配から脱した存在となりました。今日の本文のイエスは、実際に人に取りついた悪霊を追い出されましたが、今、私たちの間におられるイエスは、私たちが、邪悪な霊の誘惑と支配から逃れる道を開いてくださるのです。 悪霊を追い出す権威ある新しい教えとは、そういうことです。私たちを、もうこれ以上、悪の存在の手に振り回させず、キリストを通して神の御心に聞き従わせる主の御言葉なのです。私たちは、もはや自分を中心にし、自分自身だけのために生きる存在ではなく、イエスの御言葉を中心にし、主のように神と隣人を愛して生きるようになった者です。 「人々は皆驚いて、論じ合った。これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」(マルコ1:27-28)主は口先だけで神について語る方ではありませんでした。御言葉に伴って、それに相応しいしるし、つまり、悪霊を追い出すことによって、ご自分の絶対的な権威を示してくださいました。そして、その結果、イエスの御名が世の中に伝わりました。私たちがイエスのように完全な存在になることは有り得ません。しかし、私たちは少なくとも、イエス・キリストが、すでに悪霊の支配する世に勝利なさったことを悟りました。御言葉と権威はイエス様にあります。今や私たちは、その御言葉と権威に依り頼み、主を宣べ伝え、主に喜ばれる生活を営むべきです。なぜなら、私たちは、この世を恐れず、堂々と進んで行ける資格を与えられたからです。また、私たちの頭であるイエス・キリストが悪霊をも滅ぼされる御言葉の権威で、私たちの中に一緒におられるからです。 締め括り 「しかし神よ、古よりのわたしの王よ、この地に救いの御業を果たされる方よ。あなたは、御力をもって海を分け、大水の上で竜の頭を砕かれました。レビヤタンの頭を打ち砕き、それを砂漠の民の食糧とされたのもあなたです。あなたは、泉や川を開かれましたが、絶えることのない大河の水を涸らされました。」(詩篇74:12-15)詩編74編に出てくる竜とレビヤタンはイスラエルを支配していた強い国を意味するもので、多くの学者たちに世界を支配した悪の存在の力として解釈されました。主はこのような邪悪な存在さえ、御裁きになる全能な方なのです。イエスが悪霊を追い出されたのも、このような視点から、解釈することが出来ます。神はイエス・キリストの到来を通して、世に新しい希望を与えてくださいました。アドベントの期間を過ごしている今、神に与えられた権威をもって世界を治めておられるイエス・キリストを覚えたいと思います。私たちの中に、如何なる困難と障害と挫折があっても、真の勝利者イエス・キリストを覚えて生きていきましょう。主イエスがカペナウムの悪霊に取り付かれた者を救ってくださったように、神様が帝国の邪悪な支配からイスラエルを救ってくださったように、私たちにも同じ救いと平和を与えてくださると信じます。クリスマスを迎えて、来たるべきイエス・キリストを記念しつつ、私たちに勝利と救いをくださる主を賛美する1週間になることを祈ります。

バベルの塔

創世記11章1-9節 (旧13頁)使徒言行録2章1-4節(新214頁) 前置き 創世記6章で、神様は、初めの人間の罪を御覧になり、彼らの世界を罪と一緒に地上から拭い去ろうと計画なさいました。そのため、人間が治めていた世界のすべての被造物も、神の裁きの下で、共に滅ぼされる危機に置かれてしまいました。しかし、神はその中から一人の正しい人、ノアのために、この世に再び機会を与えようとなさいました。神はノアに箱舟をくださり、ノアの家族と一部の被造物を生き残らせてくださいました。そして洪水で綺麗になった地上で、再び正しい世界を作る機会を与えてくださいました。しかし、残念なことに、ノアの次男であったハムの罪のため、世界はまた罪に満ちてしまいました。私たちは、この物語を通して、神は正しい人に機会を与える方でいらっしゃいますが、いくら正しい者だといっても、罪から完全に自由になりえないことが分かります。私たちは、聖書を読むたびに、常に人間の罪と向かい合うことになります。聖書は、過度に感じられるほど、人間の罪について指摘しています。しかし、それが人間の弱点であることは、まぎれもない事実なのです。そのような人間の罪が巨大に形象化されて、創世記11章で頂点をとりますが、それが、まさにバベルの塔でした。今日はバベルの塔の物語を通じ、人間の罪と神の恵みについて話してみたいと思います。 1.バベルとは何か? 私たちは、聖書を読みながら、バベルという言葉をよく聞きます。創世記のバベルの塔、イスラエル民族を滅亡させたバビロン、ローマ帝国の首都であったローマを比喩的にバベルと呼び、黙示録は神に逆らう、悪の勢力と、その支配を比喩的にバビロンだと称しました。 (バビロンとバベルは語源が同じ。)バベルは、古代アッカド語で「神々の家」という意味です。おそらく神々の家という意味のように、古代人は、強力な神々の加護の下で繁栄することを願い、バベルという言葉を好んで使用していたのかもしれません。ところで、このバベルという言葉はヘブライ語では「神々の家」ではなく「混沌」を意味します。バベル、全く極端な2つの意味を持つ名前です。さて、アッカド語では「神々の家」という意味のバベルは、なぜ、ヘブライ語では「混沌」という意味に移り変わったのでしょうか?私たちは、今日の本文を通じ、その理由について覗き見ることができます。 「この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創11:9)バベルが混沌と呼ばれるようになった理由は、神様がバベルでの人間の罪を御覧になり、彼らの集まりと言葉を混沌とさせ、処断し散らされたからです。 遥かな昔、イスラエルの先祖アブラハムが生まれる前に、中東の諸国には、神々に仕えるための神殿がありました。彼らはその神殿を中心に町を築き、国家を作りました。彼らは神様の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という御命令を無視し、神殿を中心に集まり、自分たちだけの世界を作ろうとしました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という言葉は、ただの人間の繁栄だけを意味するものではありません。世界中に広がって、神の御心に従って生きなさいという意味だったのです。しかし彼らは、むしろ一所に集まって、神様に背き、自分たちが中心となり、他人を支配する巨大な帝国を作ろうとしたのです。彼らはバベルという名前のように、神の家という意味の神殿に、異邦の神々を閉じ込めて置き、自分たちの必要に応じて、神々を利用することを望んでいたのです。神々を利用するために神殿を作った彼らは、存在もしていない神々を拝み、偶像崇拝を自然に行いました。また、それを通して自らが神のような存在になることを企んでいたのです。つまり、バベルとは、神様から積極的に離れて、自らが神のようになろうとする、過去のアダムとエバのように、神に反逆する人間の本性を意味するものです。結局、神は今日の本文のように、彼らに混沌を下され、彼らをバラバラに散らされました。このようにバベルは、今でも神に逆らう代名詞、神の反対側にある悪の代名詞として聖書で使われています。 2.なぜ、塔なのか? バベルの塔のバベルは、その塔の名前ではなく、バベルという町に建てられていた、ある塔を意味するものです。多くの人がこれを古代の建築物の一つであるジッグラトと推定しています。ジッグラトとは、先にお話しました、神々の家、すなわち神殿で古代中東人の文化の中心であるものでした。彼らはなぜ神殿という美名の下に、高い塔を築こうとしたのでしょうか? 「彼らは、さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしようと言った。」(創11:4)彼らは、高い塔を築き、その塔を天に届くようにして、自分たちの名前を高めるために、レンガを積みました。創世記4章を見ると、このような言葉があります。 「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創4:26)アダムの息子セトが、息子を儲けた時はじめて、人々は主の御名を呼び始めました。覚えていらっしゃると思いますが、私は創世記4章の説教で、神の名を呼ぶということが、「神に礼拝を捧げる。」という意味だと話しました。この言葉から推し量ってみると、今日の本文で「有名になる」ということは、自分たちも礼拝される存在になることを望んでいたとの意味であることが分かります。つまり、バベルの人々は、互いに力を合わせ、塔を作って、自分たちも神のように崇拝される、神のような存在になることを望んでいたということです。彼らは神を仕えるべき対象と考えず、ただ、自分らが礼拝の対象として、神のようになることを望んでいたのです。 それでは、神のようになるということと、塔を築くということの間には、どのような係わりがあるでしょうか?古代人は、この世界を、マリのような円形だと思いました。丸い世界の中間地帯に人間が住んでいる地上の世界があり、地下には死者が行くシェオルがあり(日本語、陰府)、空には太陽、月、星などがあり、その上に神々の世界である天があると信じていました。人々が高い塔を建てて、天に至ろうとしていた理由には、自分たちが、その天に上って行き、世界の外の神々の国に入ろうとした願いが隠れています。自分たちも神の世界に入り、神の支配から逃れ、神のように世界を支配する存在となることを望んでいたわけです。結局、私たちが、このバベルの出来事を通して分かることは、人間は神のように高くなることを願っており、これらの罪は善悪の実を貪ったアダムとエバの時から、全く変わっていないということです。人間には他人の上に君臨しようとする邪悪な性質があります。金持ちは貧しい者を、権力者は弱い者を、強い国は弱い国を力で抑圧し、支配しようとする本性を持っています。私たちの心には、そのような姿はないのでしょうか?自分より弱くて、力のない者らを貶めて、自分よりも強い者には何の抵抗もしない姿が、もしかしたら私たちの心にあるかもしれません。今日の本文は、このような人間の罪に満ちた本性を示してくれます。高い塔を築くということは、自分自身を極めて高め、他人は自分の足下に踏みつけ、支配しようとする、人間の傲慢な罪の性質を余すところなく示すものなのです。 3.バベルの塔の結果 – 散らされる。 神は人間が全世界に広がり、神を伝え、仕えて生きることをお望みになりました。神様が初めのアダムと洪水後のノアに、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と命じられた理由は、全世界に神の御名を伝え、神を礼拝する存在として生きなさいとの意味だったからです。私たちは、この命令の根拠を、新約聖書で見つけることができます。 「イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)十字架での死と墓からの復活の後、父なる神に世界を支配する権限を与えられたイエスは、弟子たちに全世界に進んで、神を伝えることを命じられました。過去の人間が罪によって成し遂げられなかった、全世界に広がって神を伝える生を、イエスご自身が「いつも一緒に歩んでくださる」ということを約束してくださることによって、はじめて成し遂げることができたのです。その結果、世界的に福音が宣べ伝えられ、今ここで日本人、ニュージーランド人、中国人と韓国人を問わず、みんなで集まり、民族や文化を乗り越えて一緒に神を礼拝することが出来るようになったわけです。しかし、バベルにいた人間たちは、広く、神を宣べ伝えるどころか、自分たちが神の座を奪おうとしていただけです。これは如何に大きな罪だったことでしょうか? 神を伝えるために全世界に広がっていくべきであったバベルの人々は、結局、神によって言葉が混乱させられ、民族が分かれさせられる呪いを受けて、散らされてしまいました。 「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:7-8)神に逆らい背く者は神によって散らされてしまいます。人間がいくら巨大な国を打ち立て、他の民族を踏みつけ、自分を高めようとしても、神を仰ぎ見ず、自分を神のようにしようとする者たちは、遅かれ早かれ滅ぼされてしまいます。周辺国を踏み躙り、支配した古代のエジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国も、今では文化財として残っているだけです。私たちが生きていく、この世も古代の帝国と大きな違いはありません。強い者は弱い者を、強い国は弱い国を苦しめます。自分たちはさらに高め、他人は低くするためです。しかし、神は常に天から地のことを見下ろしておられます。自らを高めようと自己中心的に塔のレンガを積んでいる者は、過去のバベルの罪人のように崩れ、散らされてしまうでしょう。したがって、我々は自分を高めるエゴという塔を建てるより、神を高め、伝えるために地に広がり、謙遜に生きていくべきです。そのような生き方を主は祝福してくださるでしょう。 締め括り 低いところに臨まれたイエスを思い起こします。主は神そのものでいらっしゃいましたが、地の弱い者たちのために降り、神と隣人に仕えられました。聖書は、その結果をイエスの勝利として結論づけています。 (フィリピ2:6-11)バベルの罪人たちは塔を建て、天を貪った反面、神であるキリストは、むしろ地に降り、人々の間に来られました。主は自ら御自分のことを低め、誰よりも低いところから愛してくださいました。その結果は、最も高い王として神に認められることになったのです。また、使徒言行録では、このイエスが成し遂げられた、もう一つの恵みが記されています。 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:2,4)自分を高めたバベルの人々は、言葉の混雑を経験したのとは反対に、自分たちを高めるためでなく、もっぱら神を高めるために集まった弟子たちは、キリストを通して聖霊を受け、それぞれ別の言語で、一つの福音を宣言する真の言語の一致を経験したわけです。バベルの塔は人間の高くなりたがる性質を示すものです。しかし、主イエスは御自分の犠牲を通して、神と隣人を高め、自らを低くする際にはじめて、神に高められるということを教えてくださいました。クリスマスを待ち望むアドベントの期間です。私たちの心の中に、傲慢なバベルの性質はないか、自分のことを顧みて、神の御前に謙虚に生きる民になることを望みます。主と隣人を高め、自分自身を低くする、謙虚な志免教会になることを祈り願います。