キリスト者の生活。

前置き 今まで、パウロはローマ書1-11章を通して、キリスト教の重要な教えについて、長い時間を割き、説明してきました。それを手短に整理してみると、『人間は皆、罪人として生まれた。人間は自力で罪を解決することが出来ない。神様は、その罪の解決のためにキリストを遣わしてくださったのだ。キリストは手ずから、その人間の罪の問題を解決してくださった。このキリストを信じる人は、彼のお蔭で罪から自由になり、神との和解が可能になる。』だと言えるでしょう。このような1-11章の内容を通して、我々はキリストの福音が持つ役割と恵みを悟ることが出来ます。それは救われる資格のない者が救いを得るために導いてくださる神様の愛のことです。今日の12章は、このような1-11章を通して、神の民となったキリスト者が、どのような生き方で生きるべきかということについて話すことから始まります。 1.神の憐れみによる生活。 『こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。』ローマ書は、凡そ、1-11章と12-16章に分けることが出来ます。この中で、1-11章は『罪とは何か?裁きとは何か?福音とは何か?キリストとは誰か?』などの教義的な説明で成されています。なので、その部分は理論的な言説が多かったです。しかし、12章の以下からは、その教義の実践に関する言説が主となっています。つまり、1章から11章にわたって出て来た数多くの教えに悟りを得、キリストの弟子となった者ならば、もうこれ以上、じっとしておらず、世の中に出て、その悟ったことを行いを通して実践していきなさいという意味でしょう。そのためなのか、12-16章には命令語が、頻繁に出て来ます。つまり、12章1節の『こういうわけで』という表現は、1-11章の内容をまとめて、その結果としての実践を促す、後半を開く表現なのです。『こういうわけで、皆さんが今まで、神の福音、御恵、キリストの愛と御救いについて、学んできたならば、そのような神の御心に相応しい者として、実践して生きていきなさい。』という意味でしょう。福音を聞くだけで終わらず、聞いた福音を積極的に行って生きなさいという意味です。 ところで、パウロは、その実践の根拠を人間の力ではなく、神様の御憐みから見つけようとしました。神様の憐みとは、1-11章に継続に出たように、人間の貢献ではなく、神の愛を通して人間を救ってくださったことを意味します。全ての人間は罪人であるゆえに、自らの罪を解決できない存在です。キリストに出会って罪の赦しを得ない限り、人は罪から自由になることが出来ません。そのような罪人をお選びくださり、主権的に、その罪を贖ってくださるのが、まさに神様の御憐みなのです。蟻を例に挙げて比喩してみましょう。蟻の社会では女王蟻がおり、兵隊蟻がおり、働き蟻がおります。蟻の社会では彼らは各々の地位と役割を持っています。しかし、人の目には、彼らは全て、虫に過ぎません。人間にとっては女王蟻にせよ、働き蟻にせよ、蟻は蟻に過ぎないでしょう。神様にとっても同じです。相手が罪人であるならば、東大出身にしろ、政治家にしろ、財閥にしろ、特別な扱いはありません。罪人は、ただ罪人に過ぎないのです。皆が不義によって、堕落した罪人であるだけです。神様にとって罪人は、人が蟻を見ることよりも、さらに小さくて弱い存在なのです。しかし、憐れみ深い神様は、そのような罪人らが、罪から抜け出し、救いを得ることをお望みになり、ご自分の慈悲を持って、救い主キリストをお送りくださいました。人間は自力で救いを得たわけではありません。ひたすら、神の御憐みを通して救われたのです。 我々の行いや実践も同様だと思います。パウロは12章からはじめ、数多くの行いと実践について語り続けていきます。しかし、この行いや実践は、かつてユダヤ人が追い求めていた『行為で救いを得る行い』とは異なります。神様の御憐れみによって、キリストを信じて救われた者らが、神のその憐れみに応じるために行わなければならない行為であり、実践であるのです。神の憐れみによる救いが前提とされなければ、私たちが、この世で行うキリスト者としての行いと実践は、如何なる意味もなくなるでしょう。つまり、私たちの行いと実践は神の御憐みへの答えであるとき、ようやく価値を持つことが出来るという意味です。神様が御憐みをもって、私を救ってくださったので、それに対する変化の証として、我らの行いと実践がもたらされるという意味です。だから、私たちはパウロが勧めている私たちの行いや実践が私たちから出る善行や力ではなく、ひとえに神からくる力によることであるということを確認するべきです。私たちはもっぱら、神の御慈悲への誠実な答えとして善行を行い、実践して信仰を貫くべきです。私たちの善行は結局、神様の御憐みに基づくものだからです。 2.聖なる生ける生け贄としての生活。 『自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。』神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして、自分の体を献げるということは、どんな意味なのでしょうか?先立って、パウロは神様の御慈悲に基づく生き方として、私たちの実践的な生活を勧めました。我らの善行の実践は、私たちを救ってくださった憐れみ深い神様の、その慈悲を私たちの生活を通して、代わりに現わす実践にならなければなりません。マタイ福音書には、これと似合う語句があります。『 あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。』(マタイ5:16)そのような生き方は、単純に『主を信じる。』と口だけで告白する形式的な信仰の生き方ではありません。この世での生の中で、自分の体を神様に捧げる生ける生け贄としての実践が伴う生き方であります。すなわち、この地上で神の御憐みを示すために、自身の『命をかけるほど、善を行って生きていくという覚悟』を意味するものです。我々はキリストが律法の目標になられたという言葉を学びました。律法の目標となったということは、キリストが自らの体を十字架の生け贄として捧げられ、過去、旧約時代に行われた全ての律法の祭祀を完成させたという意味です。私たちはキリストのような完全な献身は出来ないかも知れません。しかし、主がなさった、その献身の御意志を受け継いで、主イエスのように神と隣人への愛を実践する人生を生きていくために力を尽くすべきでしょう。 旧約のイスラエルの神殿では、毎日祭祀がありました。司祭たちは、自分と民の罪を贖うために獣をとり、その血を神に捧げました。しかし、その生け贄の血だけでは、永遠の贖いをもたらすことが出来ませんでした。人間の内面に潜んでいる罪は、永遠に消えない罪であって、獣の生け贄で捧げる祭祀としては、限界があったからです。なので、皮肉なことに人々は、獣の生け贄を捧げる祭祀に尚更執着するようになりました。ですが、神様が望んでおられる祭祀は、そのような多くの生け贄ではありませんでした。祭祀は、ただの形式にすぎないものであっただけで、神様はその中身である精神を求めておられたのです。今日の旧約本文であるミカ書に、それと関わりのある話が出て来ます。預言者ミカは、このように問い掛けます。『何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか。幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を自分の罪のために胎の実をささげるべきか。』(ミカ6:6-7)ミカは、単純に神殿で 献げ物をさし上げることだけでは、神の喜びとされないということを悟り、このように自答しました。『 人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、隣人を愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。 』(ミカ6:8)神様が望んでおられる、真の献げ物は、華麗な礼拝ではありません。主が望んでおられる礼拝は、御言葉を通して学んだ悟りを、日常の中で実践し、正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むことなのです。だから、主日の礼拝と共に日常の生としての礼拝が相和される時に初めて、我々の生は、聖なる生ける生け贄の生き方になるのであり、それこそが、神に捧げる真のなすべき礼拝になるのでしょう。 イエスは、獣の生け贄で捧げた旧約の祭祀を、もうこれ以上、守らなくても構わないほど、完璧な生け贄として、ご自分の全てを神様にお捧げになりました。そのお蔭で、私たちが捧げるべき祭祀は主イエスを通して、既に完成されました。そういうわけで、私たちは獣の生け贄を捧げなくても良いのです。代わりに私たちは、私たち教会の頭なるキリストの肢体としてのアイデンティティを持って、キリストが神様にご自分を捧げられたように、彼の体なる私たちも、我らの人生を神様に捧げるべきです。それこそが私たちが神様に捧げる、私たちのなすべき礼拝なのです。私たちの真の祭祀、つまり礼拝は主日だけに守るものではなく、我らの生活の中で我ら自身を 献げ物として、神様に喜ばれる人生を生きることを意味します。真の礼拝は、決して容易なものではありません。我らを救ってくださった神の御慈悲と、神の慈悲そのものであるイエス・キリストの十字架での贖いに感謝を持って答える生き方。その神の恵みに答える私たちの献身的な生活こそが我らの真の礼拝になるのです。我々は自分の体、つまり、自分の生を神に捧げる時に真の礼拝をなすことが出来ます。自分の体を聖なる生ける生け贄として捧げるという言葉の意味は、キリストを模範として、この世での生活の中で神から頂いた福音の言葉を実践して生きる人生なのです。 3.キリスト者の生活。 それでは、前の内容を再び整理してみましょう。『①我らの善行と実践は、自分が正しい者であるから行うことではありません。それは神の御憐みへの答えとして行うものです。②自分の体を聖なる生ける生け贄として捧げるということは、神の御憐みへの答えとしての善行と実践を行いつつ、生きていくという意味です。そのような生き方がある時こそ、私たちの礼拝は、真のなすべき礼拝となるのでしょう。』使徒パウロは、このような1節が勧める生き方を基として、2節のように生きていくことを促しています。『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』(2) ここで、『この世に倣ってはなりません。』という言葉の意味は何でしょうか?人間は基本的に神様を憎む存在です。神様を自分の主と認めれば、自分が自身の主になれないからです。そのように自分が自分の神のようになりたがっているのが、人間の本能なのです。人間の歴史は、そのような本能の軌跡を書き残したものです。『この世を倣う。』という言葉は、このような人間の本能的な『神への反抗』を意味します。これはパウロの時代、あるいは2020年という一つの時点だけを意味するものではありません。人間が生きて来た全ての歴史と世代を意味するものです。代々に自らが神のようになろうとしている人間の本能を意味するものです。しかし、パウロは神様に自分を捧げる生き方を通して、それを乗り越えていくことを勧めています。 そのためには、心を新たにして神に自分を変えていただくように祈る必要があります。この変化は、たった一度で成し遂げられる変化ではないと思います。『この世』という表現が人間の歴史と共に長く繋がってきた、神に反抗する人間の姿を意味するように、心を新たにして変わることも、短時間で成し遂げられることではないという意味です。完全に新しくなる変化ではなく、繰り返して新たになる変化だからです。私たちはキリストに恵みを与えていただき、御言葉を学び、善行を実践して、絶えず悔い改めることを通して、日々新たになって行くべきです。毎日の生活の中で、世の誘惑と自分の欲望が追い迫ってくるのは決まっていることですが、キリストに依り頼み、休まず、戦って行くべきです。そのような生活の中で、我々は、キリストによる聖霊のお導きを通して、徐々に聖化していくのでしょう。そのように聖化していく生活の中で、我々は『何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになる』のでしょう。憐れみ深い神様は、そのような我らの人生にキリストによる悟りと力を与えてくださるでしょう。私たち人間は、この世に生きていく限り、その罪の本能のため、完全な義人になることは出来ません。今日の本文を通して聞いていただいた御言葉も、正直、完全に実践できないでしょう。しかし、神の御慈悲は、そのような弱い我らを、絶え間なく助けてくださるでしょう。だから、我々の出来る範囲で、行うべき善行を為していきましょう。我らの人生を聖なる生ける生け贄として、捧げるために頑張ってまいりましょう。そのような生き方を貫く際に、神は主の御心を弁えることができる知識を注いでくださると信じます。 締め括り キリスト者の生活とは、神の御憐みに答えて生きていく生であります。また、自分を聖なる生ける生け贄として神に捧げることを覚悟する生でもあります。そのような生の中で、神は日々私たちを新たにしてくださり、導いてくださるでしょう。そのように神様を仰いで生きていけば、我々は少しずつ、 何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを教えられていくでしょう。しかし、我々は弱い存在ですので、そのような生き方を、何の失敗もせず、保つことは出来ないと思います。神様も私たちの弱さを良く知っておられますが、それでも、神様は決して私たちを諦められないでしょう。キリストを通して私たちをご自分の者としてくださったからです。だから、私たちも、自分の弱さに負けず、諦めることなく、神の憐れみと愛を隣の人々に伝えて行きましょう。我らの出来るだけの善行を実践して行きましょう。憐れみ深い神様が、来る一週間も志免教会の歩みを御守り、御導きくださると信じます。主の豊かな恵みを祈り願います。

神が人をお造りになった。

創世記2章7-8節 (旧2頁) コロサイの信徒への手紙 1章15-17節(新368頁) 前置き 神は世界をお造りになりました。神は6日の間に、この世界を創られたのです。その期間が実際に144時間を意味する6日なのか、何千年を6日と表現した象徴的な意味なのか、現代に生きている私たちは理解することが出来ません。しかし、明らかなことは、6日と表現される、その間、神が手ずから世界を創造し、最後にその世界に御自分に象った人間を造られたということです。神は世界を創造され、それを『良し。』とされました。神は最も完全な姿で、この世の創造を成し遂げられたのです。ところで、神は人をお造りになった6日目の創造の後に、『極めて良かった。』と言われました。なぜなら、その日、人が創造されたからです。神は人を愛されました。神は御自分の愛しい子供のような存在として、人間を造られました。なので、その人間に神が満足して造られた、この世界を任せられたのです。神が人間を創造し、世界を託された理由は、人がすべての被造物を導いて神を礼拝するようになさるためでした。したがって、人間は、神の創造において最も中心になる重要な存在です。今日はこの人の創造について話してみたいと思います。 1.土の塵で造り、命の息を吹き入れる。 『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』(7)神は世界を御言葉でお造りになりました。神の御言葉は、単に耳に聞こえる音としての言葉を意味するものではなく、神の御意志、御心、御計画などを意味するものです。神は御自分の御心を完全に込めて、世界のすべての被造物を造られました。これにより、世界のすべての被造物は、自然に生まれたものではなく、地面の小石さえも、神の御心と御計画によって造られたということが分かります。ところで、特異なことに、人を造られた時は、御言葉だけでなく、被造物の中で一番価値のない、土の塵で人間を造られたということです。最も取るに足りない、塵を持ってお造りになりましたが、他の被造物との決定的な違いが一つあります。それは、神が塵で造られた人間に命の息を吹き入れてくださったということです。命の息を吹き入れるという行為は、他の被造物には許されない、非常に特別な創造の仕方でした。一番価値のない存在を、最も重要で輝く存在としてくださった、神の創造。神の支配下にある人間は、このような創造の秘密を通して、完全ではなくても、特別な存在として、神に愛されて生きていきます。 ここでの、塵の原文は『アパル』というヘブライ語です。アパルは塵、埃、灰などの何の価値のなく、地面に散らかっている土の塵を意味するものです。焼き物を作る泥や、レンガを作る赤土というより、なんの役にも立たない埃に近い存在です。そのような塵を集めて、体を造り、目を造り、人間をお造りになり、ほかの何にもお与えにならなかった、神から出てくる命の息を吹き込んでくださったのです。したがって、我々は一方では、塵のように無益な存在です。偉大な神の御前で何の価値もない弱い存在です。いつ命が奪われるのか、いつ消えてしまうのか、全く知らない有限な存在です。このように有限な存在にもかかわらず、永遠に生きるかのように、高慢と罪を抱いて生きる愚かな存在が、まさに人間なのです。しかし、他方では、人間は特別な存在です。特に、神の創造を信じるキリスト者は、自分の本質にしっかり気付いています。自分は塵のような者であり、埃のような存在であることを、確実に認識しています。そして、その塵のような自分をお選びくださり、愛と命をくださった方が、神であるということをも知っています。それを知る知恵があるから、特別なのです。したがって、私たちキリスト者は、謙虚に、そして感謝して生きるべきです。私に富と誉と力があっても、そのすべてのものが、神から来たものであることを謙虚に認め、生きていくべきです。偉大な神の御前で、私たち、人間はただの塵に過ぎない弱い存在だからです。 2.エデンの園 – 人間が当然に生きるべきところ。 『主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人を、そこに置かれた。』(8)歴史上、大勢の人々は、『エデンの園は実際に存在したのか?本物だったら、どこにあるのか?』みたいな好奇心のため、エデンの園への研究と探査に挑戦したりしました。しかし、今まで誰もエデンの園について、証明することは出来ませんでした。例えば、聖書には、エデンから4つの川が流れ出ていたと記されていますが、ピションとギホンとチグリとス、ユーフラテスとのことです。この中でチグリスとユーフラテス川は、実際に存在している川でありましたが、ピションとギホンは存在の有無が知られていない川です。また、ある人々はユーフラテス川流域にエデンと似ている地名のエディーヌという地域があり、そこがエデンの園だったかも知れないという仮説を立てたりしました。しかし、後にエディーヌとエデンは語源が異なるという研究結果が出て、その仮説の虛構も明らかになりました。つまり、それらのような、幾つかの理由から、エデンの園が実存した所なのか否か、善悪の知識の木の実があったかどうか、現代人は、その有無を知ることが出来ません。ひょっとしたら、このエデンの園は創造の6日が実際の6日なのか、それ以上のシンボルとしての表現なのか、分からないように、それと同じく実存していた場所である可能性もあり、神の楽園を象徴する、ただ象徴的な地名であったかも知れません。エデンの園は、果たしてどんなところだったのでしょう? 重要なのは、神は『エデンの園が持つ価値』を確かに実現なさるために、この世界を創造されたということです。それでは、エデンの園の価値とは、果たして何でしょうか?エデンはヘブライ語で『喜び』という意味の言葉です。神の支配の下で感じることが出来る、至高の喜びを含んでいる言葉だと考えても構わないでしょう。しかし、私はエデンに付いている『園』という言葉に関心を持って勉強してみました。私たちは常に、エデンの園を考える時、エデンのみを重んじて、園はただ修飾語くらいに見做したりする傾向があります。しかし、この園には、エデンに釣り合うほどの大事な意味が隠れています。園という言葉は、ヘブライ語の原文で『ガン』と言います。なので、エデンの園のヘブライ語の発音は、『ガン・エデン』なのです。『ガン』は、もともとヘブライ語ではなく、ペルシア語から借用した表現で、その意味は『水が湧き出る宮殿の庭』を意味します。日本は水の足りない国ではないので、どこでも河川が流れ、貯水池があり、田畑に水を供給することが難しくない国でしょう。だから、水の重要性を感じにくい国だと思います。しかし、聖書が記された中東地域は、いかがでしょうか?雨もあまり降らないし、降っても水が溜まらず、すぐに消えてしまいます。このような砂漠気候の中東で『水が湧き出る宮殿の庭』とは、命のような大きな祝福を意味するものでしょう。 エデンの園は砂漠の真ん中に建てられた、『爽やかな水が流れる喜びの庭』のような所です。つまり、神に創造された被造物が当たり前に追い求めるべき神の愛と支配が満ち溢れる場所を意味します。ここにエデンの園の真の価値があります。被造物が、そのような生の中にある時こそ、エデンの意味のように、喜びに満ちた生を享受できるからです。エデンの園は、神の最高の被造物である人が、当然追い求めるべき、神の支配を意味すると考えても、間違いではないでしょう。『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』(ヨハネ7:38)新約聖書でイエス様が言われたように、エデンの園は、主の恵みによって、生きた水の川が流れ出る、信徒が必ず守るべき居場所を意味するものではないでしょうか。私たちは、創世記のエデンの園の話を通して、『昔、本当に存在した所なのか?』という好奇心より、『今私はエデンの園のような神の豊かな恵みの中で生きているのか?』という質問に自問自答してみる必要があるのではないでしょうか。エデンの園での生活とは、創り主、神の支配下で生きていく理想的な生を意味します。神の律法に反応する生活、キリストの福音につき従う人生、律法と福音による恵みの中で生きていく人生、これが、まさに現代に生きている私たちが追求すべきエデンの園での生活ではないかと思います。私たちは、そのような律法と福音の下での生活を追求し、日々の生活がエデンの園に適う生き方なのか、常に悩んで生きていくべきでしょう。 3.男と女をお造りになった。 『主なる神は言われた。人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』(18)、神は人を創造する時、男だけをお造りにはなりませんでした。主は男性と女性を、共に造ってくださいました。私たちは、神の人間創造を考える際に、主が男と女という複数の存在を造られたことを忘れてはいけません。男と女、両方をまとめて人と呼ぶのでしょう。つまり、男性と女性は、どちらも一方的に優劣をつけることが出来ない平等な存在なのです。古今東西を問わず、世界各国では、男性を女性よりも優位に置く傾向があると思います。聖書でも『彼に合う助ける者』として女性が造られたと記されているので、男が先に造られ、後で彼のために女性が造られたという印象を与えたりします。最近、日本で『愛の不時着』という韓流ドラマが大人気だというニュースを見たことがあります。そこに出てきた女性の出演者が、『男主人公が女主人公のためにエプロンをして、そばを作ってくれるのを見て、とても新鮮で、優しく感じられた。』と話しました。日本や韓国では男は家の外で働き、女は家事労働をするという観念が残っているようです。なので家内、奥さんという言葉を使うのでしょう? しかし、聖書が意味するところは、それではないでしょう。中世ユダヤ教の有名なラビであるラシという人は、この語句について、男性と女性として、近づかず、人と人の協力と助力として解釈しました。彼はこのように話しました。 『』この世の中で関係を結ばなくても、構わない存在は、たった神様御独りだけである。神を除く、すべての被造物は共同体との関係を結んで生きなければならない。」つまり、創世記が語る『彼に合う助ける者』とは、男性が女性よりも優れた存在であるという意味ではなく、女性が男性に属しているという話でもなく、男性と女性の結婚だけを強調する意味でもありません。むしろ、人と人は均等に互いに関係しあって生きていくべきだということを意味する解釈でしょう。これはユダヤ教の教えですので、キリスト者が如何なる批判もせず、受け入れかねる部分はあると思いますが、その中に私たちが教えてもらうべき部分もあると思います。それでは、よりキリスト教的に話してみましょう。 正直、キリスト教では、神は独りではありません。もちろん、神という存在は御独りですが、父と子と聖霊との三位一体という特別な形で存在し、独りの中で多様性を持って、世界を支配しておられるからです。教会はいかがでしょうか?私たちは、キリストと呼ばれる教会の頭を中心として、一人一人が教会の肢体となる共同体です。世界で誰も1人で生きることが出来ず、1人では生活も出来ません。神は人と人が助け合いながら、主に中で協力して生きなさいという意味で、男性と女性を創造されたのです。そして、その両方を合わせて人の創造としてくださいました。したがって、我々は、この言葉を男女差別の根拠として用いてはいけません。むしろ、神が異なる存在が力を合わせて、神の御心のために協力し合う生を望んでおられるという意味で理解すべきなのでしょう。私たちは決して一人で生きることが出来ません。キリストを中心に教会共同体を成して、お互いに大事にし、愛して生きるべきでしょう。『互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。』(フィリピ2:3-4) 結論 今日、我々は人の創造について話しました。人は塵のように微々たる存在でしたが、神の命の息を受けて特別に生まれた存在です。したがって、私たち人間の本質には、塵のような虚しさもあり、神の命のような特別なものもあります。私たちの中にある特別なものは、自分からではなく、神から来たものであるということを覚え、高慢にならず、へりくだって神に仕えるべきでしょう。そして、私たちは神の支配の中で生きて行くべきです。キリストの福音に聞き従い、律法の言葉のように、神と隣人を愛して生きなければなりません。そのような人生こそが、私たちに許されたエデンの園での真の生き方ではないでしょうか。最後に人は、互いに助け合いつつ生きていくべきです。一人で特別になったり、一人で豊かになったりするのではなく、互いに分かち合って助け合い、愛して生きるべきです。神は神が創造された人間に、このような在り方を期待しておられるのではないでしょうか?神の特別な恵みによる創造に感謝し、神の言葉に従順にしたがい、神の喜びとなる志免教会になることを願います。主の祝福が来る一週間も豊かにありますように。

イスラエルをお捨てにならない神。

列王記上19章18節(旧566頁) ローマの信徒への手紙11章1-5節(新289頁) 前置き 前のローマ書の説教では、二つの義についてお話しました。神による義と人間が自ら得ようとする義についての話でした。多くの人々は、自分の努力と行いによって、義とされると考える傾向があると思います。これは、神の旧約の民であるイスラエルにも当たる話しでした。行いによって自らの義を成していくと、義とされるという思いは、イエスの時代のユダヤ人たちにもあまねく広がっていた義への観念でした。しかし、ローマ書によると、真の義とは、人間の行いからではなく、唯一の完全な神からのみ出るということが分かります。人間がいくら努力しても、自らが自分の行いを通しては、義とされることは出来ません。義とされる道はもっぱら、神が許してくださったキリストを信じることによってのみ、得ることが出来るのです。パウロは、イスラエルが神に捨てられたかのようになった理由が、神の義ではなく、自分の義を追い求めることにあったと主張しました。しかし、パウロは、今日の言葉によって、そのようなイスラエルも、実際は神に捨てられたのではなく、依然として、神の恵みの中にあることを話しています。人間の目には捨てられたかのようになった存在ですが、神の御心の中では、救いの計画の中にあるということでしょう。今日は、イスラエルをお見捨てにならず、彼らの救いを望んでおられる神について話してみましょう。 1.イスラエルは本当に、神に捨てられたのか。 歴史的にキリスト教徒は、ユダヤ人を敵視する場合が多かったようです。特に、中世ヨーロッパの十字軍はイスラム教徒との戦争を繰り広げながら、イスラム教徒だけでなく、多くのユダヤ人も殺しました。イエスを迫害したユダヤ人の子孫であるという名目で虐殺を犯したからです。歴史上、ヨーロッパのキリスト教徒は、過去のユダヤ人がイエスを迫害したということに加えて、ユダヤ人は神に呪われているという観念をも持っていました。あの有名な宗教改革者であるマーティン・ルーサーさえも、ユダヤ人は嘘つきだと非難し、以後、このようなルーサーの書は、ナチスに悪用され、ホロコーストを擁護する背景となったりしました。そのためか、私たちは、なんとなくユダヤ人は神に捨てられたと思いがちです。一体なぜ、我々はイスラエルが神に捨てられたという思いを持つようにされたのでしょうか?おそらく、福音書に現れるイエスへのユダヤ人の迫害と対立などの記録のためではないでしょうか? パウロはローマ書を通して、続けてユダヤ人の誤解と過ちについて告発しました。律法の行いを大事にする彼ら、イスラエルという選民思想に拘る彼ら、律法を完全に守ることが出来ると主張する彼らの過ちへの反論で一貫したのです。しかし、パウロは、決して彼らが神に捨てられたとは信じていませんでした。むしろ、イスラエルのためなら、自分が神から見捨てられた者となっても良いとさえ、思っているほど、イスラエルを愛し、彼らの救いを願ったのです。神はイザヤ書の言葉を通して、このように仰いました。『わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。』(イザヤ55:8)神は、いつも人の思いを超える、全く違う道を提示される場合が多いのです。神は決して、イスラエルを捨てられませんでした。むしろ神は、イスラエルが捨てられたような姿になるまでに、イスラエルを低められ、彼らが受け取るべき祝福を異邦人にも、分け与えてくださいました。そして、キリストを通して、必ず、イスラエルにも救いを与えてくださるでしょう。イスラエルの救いは、まだ現在進行中なのです。 2.神は反逆したイスラエルに7,000人を残して置かれた。 ローマ書10章21節では、イスラエルに対する神の御心を覗き見ることが出来ます。『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた。』イスラエルはどんな民族ですか?神はイスラエルを救われるために、当時の超大国であるエジプトを滅ぼすまで、巨大な奇跡を起こされました。以降、イスラエルを神の山に導き、十戒の石板で代表される律法をくださり、40年という長い間にわたって、彼らをカナンまで導かれました。その間、彼らの不従順と堕落を見過ごし、お赦しくださりながら、まともな国家として養ってくださいました。そればかりか、敵に襲われ、泣き叫ぶたびに、イスラエルを救ってくださいました。それにも拘わらず、イスラエルは変わりませんでした。継続して、神の御旨に聞き従わず、勝手に振舞いました。偶像崇拝と背反は民族代々の大きな罪でした。しかし、神は不従順と反抗に一貫するイスラエルの民を完全には滅ぼされませんでした。むしろ『一日中手を差し伸べ』、新たな機会を与えてくださいました。そのためか、神様は、いくら罪によって、暗くなった時代にも、義人を残してくださいました。今日のローマ書は、これについて『バアルに跪かなかった7000人を自分のために残しておいた。』と表現しています。 ここで、7,000人の話は、なぜ出てくるのでしょうか?これは列王記上17章-19章に登場する話のことです。イスラエルのアハブ王と女王イゼベルは偶像に仕える指導者でした。当時、神は偶像崇拝に満ち溢れていたイスラエルの罪を罰せられるために、預言者エリヤの口を通して『数年の間、露も降りず、雨も降らない。』と宣言なさいました。以降、イスラエルに酷い飢饉が生じました。飢饉のため、辛い3年が経った後、エリヤはアハブ王に足を運びました。しかし、アハブとイゼベルは、相変わらず悔い改めず、依然として罪を犯していました。そこで、エリヤは真のイスラエルの神は、誰なのかを証明するために、対決を申し込みました。アハブとイゼベルが仕えるバアルとアシェラの預言者850人と、真の神様に仕える預言者エリヤ1人の対決でした。各自が自分の神に祈り、雨を降らせる神が本物の神であるというのが対決の主な内容でした。バアルとアシェラの850人の預言者は、自らを傷つけながら長い時間、祈りました。ですが、空からは一滴の雨も降りませんでした。時間が経ち、エリヤの番になって、切に祈ると、空は雲に覆われ、すぐに雨が降り出しました。神様はエリヤの味方になってくださったのです。エリヤは、そこで850人の偶像崇拝者を打ち破り、イスラエルの神様だけが、真の神であることを証明しました。エリヤが勝利したので、その後、イスラエルは、神を畏れ、偶像崇拝から抜け出し、悔い改めて、すぐに神のみに仕えるように変わるはずでした。 しかし、世の中はちっとも変わりませんでした。かえって、アハブとイゼベルは激しく怒り、エリヤを殺そうとしました。巨大な神のしるしがあったにも拘わらず、全く変わらないイスラエルを見て、エリヤは絶望してしまいました。エリヤは荒野に逃げ出し、変わらないイスラエルを見て、このように告白しました。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』(列王記上19:4)しかし、神は彼に食物と慰めを与え、彼を神の山に導き出されました。神の山に辿り着いたエリヤは3つの巨大なしるしを目撃することになりました。 『主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。』(列王記上19:11-12)風と地震と火との巨大なしるしに神はおられませんでした。むしろ、神は静かに囁く声におられ、エリヤにお声をかけられました。そして言われました。『わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。』(列王記上19:18) 神は巨大なしるしのように、華麗な姿では訪れませんでした。むしろ静かに囁く音のように来られたのです。『静かに囁く声』を意味するヘブライ語には『鑿で石を穿つ小さな音。』という意味もあるそうです。聖書で石を穿つ模様は、どの箇所で登場するのでしょうか?何ヶ所かあると思いますが、私はエリヤが風と地震と火とを目撃した、その場所と関わりがあるのではないかと思います。そこはどこでしょうか?まさに神の山です。出エジプト後、神の山で十戒石板をくださった神が、その十戒の石板をお造りになった、その時と関係のある表現ではないでしょうか?つまり、静かに囁く声とは、神様の偉大な御言葉を意味するものではないでしょうか?それらをまとめてみると、神は大きなしるし、激しい移り変わりではなく、神の小さな言葉としてエリヤに来られたのではないでしょうか。神は華麗で大きな移り変わりより、小さくても、忠実な神の御言葉をもって、世界を導いていかれる方です。大きな力を持っておられる神様が、あえて大きなしるしや、奇跡などの移り変わりに頼る必要はないからです。静かに囁く音のような小さな形であっても、神がおられるだけで歴史は成し遂げられていくのです。エリヤはイスラエルの変革は失敗だったと思ったかも知れませんが、むしろ、神は囁く声で、新しい歴史を始められました。そして、その歴史は、変わらず神のみに仕える、信者7,000人から始まりました。 3.決して諦めることのない神。 神はローマ書10章21節の言葉のように、依然としてイスラエルに向かって「一日中手を差し伸べておられる方」でいらっしゃいます。また、5節のように『現に今も、恵みによって選ばれた者』(5)を残して置かれる方です。神様はイスラエル民族の中にも、そのような選ばれた者らを残してくださるでしょう。なぜなら、神様の救いの選びは、ユダヤ人にしろ、異邦人にしろ、差別なく適用されるからです。実に、神の救いは、人種、国家、身分を問わず、すべての人類に同じように適用される、大きな恵みです。極めて堕落したイスラエルの中でもバアルとアシェラに屈せず、跪かなかった7000人の正しい者を残しておかれたように、神は如何なる民族も差別なく、キリストへの信仰をご覧になり、神の御心に従って救ってくださるでしょう。キリストが十字架の上で成し遂げられた恵みは、それほど深くて大きいものだからです。ローマ書11章では、イスラエルの民は神の『栽培されているオリーブの木』であり、異邦の民は『接ぎ木された野生のオリーブの木』であると表現しています。神様が、依然として大切に思われるイスラエルは、神にしばらく捨てられたかのように見えますが、いつか必ず救われるのでしょう。神は彼らを決して諦められないでしょう。 それでは、今日の言葉について、日本のキリスト者はどのように理解すべきでしょうか? 2000年前のイスラエル人の救いと現代に生きる私たちと、果たして何の関係があるのでしょうか?まずは、イスラエルを決して、諦められない神様が、私たちもまた、諦められないという信頼が得られると思います。『教会は霊的なイスラエル』という言葉のように、神は教会をも大切に思われるからです。また、イスラエルに罪が溢れた時代にも拘わらず、7,000人の信者を残して置かれたという言葉のように、小さな群れで成長も遅い日本の教会にも、神に選ばれた者たちが確かにいるということに希望を置きたいと思います。今日の言葉を通して、日本の教会の将来を守ってくださる神を期待することができます。最後にイスラエル民族の苦難がキリスト教会と呼ばれる新しい共同体が生まれる機会になったように、私たちの教会の苦難の中で、新しい命を造ってくださる神様に期待したいと思います。私たちの生活で起こる、すべてのことに、神の深い御心があることを信じ、神の御導きに付き従う我らになりましょう。 締め括り 今日の言葉は、見方によっては、私たちと時間も、空間も遠く離れている、イスラエルという民族の救いの話だと感じやすいと思います。実際に、今日の本文が持つ意味そのものも、イスラエルの救いについての内容を含んでいます。しかし、神の旧約の民であるイスラエルを見捨てられず、再び救うことを望んでおられる主の愛を見て、すでに自分の民として救ってくださった私たちに向かっての神の愛についても、もう一度考えてみる機会になれば幸いと思います。神はイスラエルを諦められなかったように、私たちを、諦められないでしょう。現在、私たちの世界に存在する理解できない理不尽や苦難、将来が全く見えない現状の中でも、神がそのすべてを知っておられ、私たちの間におられることを、もう一度覚えていく時間になることを願います。イスラエルの話を通して、私達が分かるのは、神は決して私たちを捨てられないということでしょう。私たちと永遠に共におられる神に期待し、喜びを持って一週間を過ごす志免教会になることを祈り願います。

神の創造2-世界の存在理由

前置き 創世記は、この世界の始まりとともに、信者の信仰の始まりについても教える書です。つまり、初めに、この世界が偶然に作られたものではなく、神と言われる絶対的な存在の計画によって、作られたことを教えてくれると同時に、また、その神への信者の信仰というのも偶然に生まれたものではなく、神様によって与えられたということを思い起こさせてくれる書なのです。神は世界をお造りになるために、そして、信者に信仰をくださるために、何も存在しない、混沌と無秩序の世界に生命と秩序をくださった方であります。神の創造は、無から有を造り、無秩序に秩序をくださり、無信仰に信仰をくださる、何から何まで、すべてのところにおいて、神の導きと計画によって、行われた神の偉大な御業です。今日は、神が、その創造をどのようになさったのか、その創造が持つ究極的な意味とは何かについて、分かち合いたいと思います。世界をお造りになり、信者をお呼びくださり、信仰を創ってくださって、礼拝に臨ませてくださる神について一緒に聞きましょう。 1.6日間の創造。 聖書によると、世界は6日間に創造されたといいます。 6日間に造られたという言葉に基づいて、一部の人々は、実際に6日、144時間の間に創造されたと主張したり、一部の人々は、一日が数千年だったかもしれないと主張したりします。また、一部の人々は、これは、ただの比喩に過ぎず、神はビッグバンのような科学的な手立てで、世界を創造されたかもしれないと言ったりします。その違いが、どうであれ、重要なのは、そのすべてが、神によって、この世界が創造されたということを前提とするということです。私たちは、世界の創造が本当に6日間なのか、何千年なのか、何億年でなのか、その詳しい期間は予測できません。しかし、明らかなことは、神が6日間と表現される、その間に綿密な御計画を持って、創造に取り組まれたということです。このような神の創造の計画は、聖書では、どのように示されているのでしょうか?これからの説明をよく聞いてくだされば、創世記は、神の創造について、繰り返して対称的な表現を使うことによって、神の創造が持つ釣り合いと調和を表現していることがお分かりになると思います。これにより、私たちは、神の創造が持つ綿密さと安定性、そして秩序を強調する創世記と出会えるでしょう。 創世記1章をよく読んでみると、神の創造に法則があるということが分かります。たとえば、初めの3日間は、世界の大きな枠組みを作り、後の3日間は、その枠内に生きる被造物を創られる方式です。神は1日目は、光、昼、夜をお造りになりました。2日目は、天と水をお造りになりました。3日目は、地と海、草、果樹などをお造りになりました。4日目は、太陽、月、星のような光る物をお造りになりました。ある注釈書によれば、それらの天体が造られたというのは、季節、時間の創造とも関係があるそうです。5日目は、空の鳥と水の生き物をお造りになりました。最後の6日目は、地の獣、家畜、土を這うものをお造りになりました。ここで、重要なことは、1日 – 4日、2日 – 5日、3日 – 6日が、互いに関連を持っているということです。1日目に、光、昼と夜を造られた主は、4日日に、その昼と夜を司る光る物である太陽と月と星を造り、2日目に、天と水を造られた神は、5日目に、天の鳥と水の生き物を造り。3日目に、地と、その地上の生き物が食う植物を造り、6日目に、その地に生きる動物を造ってくださいました。そして、最終的、総合的に、そのすべてを支配する人間を造られたのです。創世記は、これらの秩序のある手順を通して、神は決して偶発的に創造をなさらなかったということを示そうとしています。 私たちは、この創造の過程を見ながら、続けて繰り返される言葉をよく探ってみる必要があります。 『神は言われた。』『‐あれ。』『そのようになった。』『神はこれを見て、良しとされた。』以上の4つの語句です。ヨハネによる1章には、『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』と記されています。 『神は言われた。』という言葉を通して、私たちは、神が、その御言葉で世界を造られたということが分かります。創造の神は、ただ、父なる神のみを意味するものではありません。父は御独りではなく、御言葉である子と、御霊との三位一体として世界を造られました。『‐あれ。』という言葉を通しては、主権的に命じられる神様を見ることが出来ます。その御命令の結果は、『そのようになった。』です。神の創造の命令は、すべての被造物が聞き従うしかない全能の命令でした。誰も侵害できない、神の絶対的な力から、された創造なのです。そして、最後に、神は、その創造をご覧になり、『神はこれを見て、良しとされた。』です。神は、ご自分の創造を満足されたということでしょう。それから、私たちは神の創造が完璧だったことが分かります。神の創造は本当に完璧なものでした。創造は、このように仕上がりました。 2.神はこれを見て、良しとされた。 私は、その4つの語句の中で、一番意味深いものは、『神はこれを見て、良しとされた。』と思っています。皆さんが、ご覧になっておられる、この世界はいかがですか?本当に『見て良しとする価値のある世界』ですか?たぶん、そう思っておられないと思います。今の世界は全地が罪によって堕落し、神の御前でも、人の目にも決して、お見事な状態ではないと思います。人間の不義による、多くの犯罪、偶像崇拝、戦争、憎しみ、嫌悪に満ちた世界になっているのではないでしょうか。なぜ、神はこの世界を創造して、良しとされたのでしょうか?それは罪によって世界が歪められる前の世界の美しさをご覧になったからです。初めに神が人を造らたとき、神は人を意志のない人形のように、造られませんでした。人が、自分の意思で神の御心に従うことを望んでおられたからです。他のすべての被造物は意志なく、本能的に従っても、人間だけは、自らの意志を持って聞き従うことを望まれたのです。なぜなら、人は神の単なる被造物ではなく、愛しい子供だったからです。したがって、神は人には本能ではなく、理性を持って生きることが出来るように自由な意志を与えてくださいました。しかし、人間は神に与えられた、その自由意志を、神に従うことより、自分の欲望を満たすために間違って使ってしまいました。それは人間を信頼した、神への裏切りでした。その出来事によって、生まれたのが、まさにこの罪なのです。 罪は、その人間本人だけを台無しにしただけでなく、その人間が支配していた、すべての被造物にも悪い影響を及ぼしました。そのため、『神の御目に良しとされた世界』は、人間の罪のゆえに、もはや、『良くない状態』になってしまいました。しかし、そのように罪のために汚れた世界であるにも拘わらず、その創造の本質、『見て良しとする価値のある世界』であることは変わりません。人間の罪が、どんなに厳重なものであっても、その罪の影響が、全能なる神の創造の偉大さを完全に覆うことは出来ないからです。罪の力が、どんなに強くても、神の絶対性は損なわれません。なので、パウロは、ローマの信徒への手紙を通して、このように語ったのです。『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。』(ローマ1:20)また、被造物は、依然として、その罪からの解放を待ち望んでいます。 『被造物は虚無に服していますが、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。』(ローマ8:20-21)人間の罪が、どんなに汚くて強くても、決して神の創造の力と美しさ、そして、神の摂理を消滅させることは出来ません。そこに我らの希望があるのでしょう。 神に命と秩序をいただいて、造られた、この被造物の世界は、今は罪のゆえに苦しんでいますが、その罪から解放されれば、初めの善さと美しさを再び回復することになるでしょう。神が造られた、この世界の本質は相変わらず『良しとする価値のある世界』です。罪に汚されて、その初めの善さは覆われてしまいましたが、キリストが再び来られる、その再臨の日、この世界は、罪から完全に解放されて、最初の『神に良しとされる。』その状態を回復するでしょう。その時まで、完全には成れないと思いますが、少なくとも、この世界で、その良さと美しさを保たせるために、神は教会を立てられたのです。したがって、キリストによって、罪から解放された私たち教会は、主の力にあずかり、毎日毎日、世界に残っている、初めの善さを保つために生きていくべきだと思います。不義による犯罪、偶像崇拝、戦争、憎しみ、嫌悪を拒否し、私たちに委ねられた被造物を守り、神が望んでおられる良い世界のために力を尽くして生きていくべきです。これがキリストによって罪から自由になったキリスト者が、一生の間に追い求めるべき、キリスト者の在り方ではないでしょうか?キリストが再び来られる、その日、この世界は神に完全に良しとされた、その本質を回復するでしょう。キリスト者は、そのような良い世界を作っていくために、苦闘して生きていく義務を持っています。 3.創造の理由 – 礼拝 ある本で、このような内容を読んだことがあります。だいぶ、前に読みましたので、著者と本のタイトルは忘れてしまいましたが、かなり印象深い内容でした。神が創造された、この世界のまことの意味についての内容でした。要約すると『天は神の玉座、地は神の足台である。世界は神に礼拝をささげるための場所であり、人間はその場所で神に礼拝を主管する祭司、すなわち礼拝者である。』との内容でした。神が世界を創造し、最後に特別な存在である人間を造られた理由、神があれほど、世界を神の御目に良く造られた理由。そのすべての理由は、神が被造物を通して礼拝を捧げられるためです。特に、その中でも一番最後に造られた存在である人間は、自由な意志を持って、他の被造物を導き、神に礼拝を捧げる祭司の役割を持って生まれた存在です。なので、罪によって、その本当の姿から離れた人間を、赦してくださり、祭司として回復させてくださるイエス・キリストの役割は、特に重要なことでしょう。 したがって、人が神ではなく、その神が造られた他の被造物を拝むことは、神の創造の摂理を無視する不敬なことであり、神への礼拝を妨げ、冒瀆する行為なのです。私たちは、今も志免町と須恵町のあちこちで石の地蔵尊や宗教的な構造物を見ることが出来ます。太陽を神格化した天照大神の話を日本神話という名目で聴く時もあります。知らず知らずに太陽をお天道さまという尊称で呼んだりします。まだ、日本での生活が長くありませんので、私の知らない偶像が、たくさんあるかと思います。これらには、日本特有の文化としての意味をも持っているだろうと思い、盲目的に偶像崇拝だと言うのは難しいかもしれないと思う時もあります。私も時々、太宰府天満宮の庭で散歩を楽しんだりします。しかし、過去から受け継がれてきた、その文化の中に隠れている宗教的な、偶像崇拝的な意味に対しては、常に注意する必要があると思います。神は太陽、石、木、自然などのすべてのものを、ひとえに神への礼拝のための被造物として造られました。しかし、罪によって堕落した人間は、本当の礼拝の対象である神に向かわず、被造物を神格化して崇めてきたのです。世界が創造された理由は、神が被造物を通して、礼拝されるためでした。そして、人間は、その被造物の代表として、祭司の役割を尽くすために、神に仕えるために造られた存在です。私たちは、決して、それを忘れてはならないでしょう。 締め括り 2回の説教を通して、神の創造について探ってみました。神に愛された旧約のダビデ王は詩篇8篇で、このような美しい詩を残しました。 『主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ。主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。』(詩篇8篇中)神は、この世界を創造、神様の威光を照らしてくださいました。その栄光は依然として、この世界に満ちています。なお、その中で、特に人を選んでくださり、被造物の栄光になるようにしてくださいました。私たちは、そのような存在として、神が造られた、この世界で生きています。私たちは、何の理由もなく、この世に来ていません。神の生命と秩序をいただき、神に礼拝する礼拝者の使命を持って、この地に生まれました。したがって、当然に礼拝を受けるにふさわしい神のみを礼拝し、当然に守るべき私たちの礼拝者としての在り方を守りつつ、この被造物の世界に生きていくべきでしょう。創造の神は礼拝を受けるにふさわしい方です。その創造の法則に合致するキリスト者としての生活を生きていきましょう。そのような生き方こそ、私たちの主キリストが夢見ておられる生であり、私たちに求めておられる美しい生ではないでしょうか?