主はアルファであり、オメガである。

イザヤ書 44章6-8節 (旧1133頁) / ヨハネの黙示録 1章3-8節(新452頁) 今日は2019年の最後の聖日礼拝です。2019年には色々な出来事がありました。そのたびに私達は心配の中で生きなければなりませんでした。それにもかかわらず、すべての教会員がお互いに愛し合い、謙虚に教会に仕えました。確かに恐ろしいことも沢山ありましたが、それでも、喜びの中で今年の終わりを迎えています。今まで私たちを守ってくださり、共に歩んでくださった神様に感謝と賛美をお捧げいたします。このすべての恵みが神から来たことを信じます。 1.苦難の中でも、神の御言葉が共にあります。 ヨハネの黙示録は確かに解釈が難しい聖書の一つです。殆どの言葉が象徴的に記されており、それが何を意味するのかは牧師にも難しいほどです。しかし、黙示録の中心的な内容はとても簡単です。『この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。』(黙示録1:3)神の言葉を知ろうとする者、その言葉を守ろうとする者は、幸いな者、つまり神に祝福を受けるという意味です。ここでの祝福とは、お金持ちになったり、名誉を得たりすることとは、違う祝福です。これは、神様に選ばれ、神のお守りと愛を受けて生きていく霊的な祝福を意味します。神の民が主の言葉に聞き従い、その御言葉通り生きるとき、神はその民を守ってくださるのです。 ヨハネの黙示録が記録された時期は、西暦.95年頃です。当時、ローマの皇帝はドミティアヌスでした。彼は有名な独裁者でした。暴政をしきながら、自分を主であり、神であると呼ばせた者です。ただイエス・キリストだけを主と、また神として認め、仕えたキリスト者たちを残虐に殺した者です。その時、苦難を受けたキリスト者に慰めと希望を与えるために使徒ヨハネを通してくださった言葉が、まさにこの黙示録であります。イエス・キリストが復活され、父なる神様の右に座し、助け主、聖霊もキリスト者と共におられましたが、キリスト者は依然として迫害と軽蔑から自由ではありませんでした。むしろ神を深く信じれば信じるほどキリスト者は、さらに苦しくて辛い生活をしなければなりませんでした。大勢の人々が信仰を告白したため、円形闘技場で剣闘士や獅子に引き裂かれ死ななければなりませんでした。しかし、キリスト者は、主の御言葉に頼り、そのような世に立ち向かって生きました。主の御言葉は死と恐怖を圧倒する力を持っていたからです。 私たちがこの世に生まれ、生きていく間、肉体を持っている間、苦難はいつも私たちと共にあります。時々大きな罪を犯さなかったにも拘わらず、神の呪いのような苦難を経験したり、真面目に生きて来たにも拘わらず、大きな事故に遭ったりすることもあります。時には他の人を苦しめて、自分自身だけのために生きる人々が、より豊かに生きることもあります。理不尽なことが盛んであり、世の中に不法が蔓延っています。しかし、今日、聖書を通して主は言われました。 『記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。』現在の状況と、世の理不尽への心配と不安に挫折するより、それにも拘わらず、変わらない神の言葉を守り、主を信頼する者は幸いです。永遠にあるような不条理の終わりには、神様の恐ろしい裁きがあるからです。その時は、すぐ到来します。終わりの日、悪は裁かれますが、キリスト者は生の中で感じたすべての苦難と辛さを、神様に報いていただくでしょう。私たちは、その日が来るまで、信仰を守って生きていくでしょう。神の言葉が私たちの中にあり、常に力と勇気と希望を与えるからです。 2.恵みと平安の神が私たちを導いてくださいます。 新しい一年を考えると、期待されると共に恐れが生じることもあります。来年の今ごろ、私はどのように生きているか?果たして来年の今頃、私はこの地上にいるか?韓国では、こんな言葉があります。 『来る順番はあるけれど、行く順番はない。』 たぶん、日本にも類語があると思います。明日、何が起こるか、一週間の間に何が起こるか、到底分からない人生の漠然さを言う慣用語です。明日、急に神様が私たちを召されれば、私たちは、主の御前に行かなければなりません。私たちが、一日一日を生きていくことは、私たちの生命力が強いからではありません。神様が毎日毎日、私たちの命の延長を許してくださるからです。果たして来年のクリスマス、私はどのようになっているでしょうか?生きてはいるでしょうか?死を考えると、本当に怖いです。もちろん、神のみもとに行くという信仰はありますが、残された人々の悲しみがさらに恐ろしいからです。 12月15日、事故当時、私の車は10メートルくらい押され、車はだめになってしまいました。その日は、皆さんに心配かけないように冗談で『車が衝突する際に一番先に思い起こされたのが、修理費の心配でした。』と言いましたが、実際には『ああ、これが事故か?このまま死ぬのか?』という思いでした。もし私が神様に召されれば、どうなるでしょうか?志免教会は再び無牧教会に立ち戻り、昨年結婚した妻は、寡婦になり、両親は悲しみで一日一日を過ごすでしょう。皆さんも悲しい心でお過ごしになるでしょう。しかし、神様はまだ私を召されませんでした。幸いなことに、事故は膝の打撲傷で終わり、他には僅かな痛みは残っていますが、ほとんど治ってきているようです。当日は事故現場から教会まで歩いて戻り、冗談まで話すことが出来ましたので、神様にどれだけ感謝すべきでしょうか。私はまだ日本で果たすべき使命が残っているので、神様が私を生かしてくださったと思います。 神は主から頂いた使命を果たさせるために、ご自分の民を生かしてくださり、一日一日を導いてくださいます。ですので、私たちは一歩一歩を導かれる神の愛と恵みに感謝せざるを得ません。黙示録が記された時代、多くのキリスト者は死んで行きましたが、それにも拘わらず、主の教会は生き残って迫害と苦難とを逞しく乗り越えて福音を宣べ伝えました。神様は苦難の中でも恵みと平安を持って、主の教会を導いてくださったのです。『今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。』(黙示録1:4-5)この世は恐ろしい所です。しかし、私たちは使命を達成することが出来るように命を保たせてくださる主と共に輝かしい勝利を収めることが出来ます。永遠におられる父なる神様と、完全数、七つとして表現された完全な聖霊と、世の王たちを治めるイエス・キリストが私たちを見捨てられず、永遠に一緒に歩んでくださるからです。 3.神はアルファであり、オメガであるからです。 なぜ、キリスト者が苦難の中に、また死の中に生きていくときにも、神は私たちの命を守り、最後まで生き残らせ、使命を果たすことが出来るように導いてくださるでしょうか?それは、主がアルファであり、オメガであるからです。つまり、主は万物の始まりであり、すべてのものの最後であられるからです。 『神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。私はアルファであり、オメガである。』(黙示録1:8)ギリシャ語で『初め』という言葉、『アルケー』は『開始』という意味と同時に『起源、根本』という意味をも持っています。ですので、ギリシャ語に翻訳された旧約聖書の創世記1章1節では『初め』を『アルケー』と記しています。また、ギリシャ語で『終わり』という言葉は、『テロス』と言いますが、これは『終わり』という意味と同時に、『すべての目標を完成する。』という意味をも持っています。つまり、アルファとオメガという言葉は、創造から終末までを意味するものであり、創造と終末が持っている永遠さと無限さの主が神様であることを古代ギリシャ風に示したものです。 聖書はこれを旧約でも強調しています。 『イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。』(イザヤ44章6節)イザヤ書は1-39章、40-55章、56 -66章の三つの部分に分けられています。三つは記録された時期が、それぞれ異なります。特に40-55章の部分は偶像崇拝、悪行などにより神に捨てられ、バビロンに捕えられたイスラエル民族が、神様によって70年ぶりに解き放され、神様に再び機会を頂いた時、宣言された希望の託宣です。当時、バビロンは強い国でしたが、さらに強力なペルシャに滅ぼされました。しかし、あの強力なペルシャさえ、神の御手に操られました。 『ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。 』 (歴代誌下36:23) 天地万物の始まりと終わりである神は、どんな強力な存在でも逆らうことが出来ない偉大な方です。巨大なペルシャの皇帝キュロスさえも、神のご命令の前では、取るに足らない被造物に過ぎませんでした。神は王の中の王であり、神の中の神でいらっしゃるからです。ところで、この大いなる神は今日の御言葉で、イエス・キリストを通して小さくて力のない民を選ばれ、罪から解き放し、彼らを王として、父である神に仕える祭司として生きさせてくださると約束されました。これは大いなる神が小さな民をお選びくださり、彼らのアルファとオメガになられ、最後まで一緒におられるという意味です。キリスト者が出会う苦難と死は、キリスト者自らの力では勝つことの出来ない恐ろしい存在です。しかし、その苦難と死さえも、神の御手の中にあることを信じれば、我々はそれらをもう恐れる必要がないでしょう。むしろ私たちが苦難と死の間にいても、主はその苦難と死の道で、私たちと共におられるからです。 締め括り 今年の終わりが近づいています。今年、本当にたくさんの出来事がありました。しかし、私たちは無事に年末を迎えることが出来ました。このことについて考えてみると、神の恵みではなかったことが何かあっただろうかと、感謝せざるを得ません。我らの心配と不安の中で一緒にいてくださった主が私たちを助けてくださり、無事な終わりを許してくださいました。もちろん、まだ我々の中に未解決の苦難と心配が残っているかも知れません。しかし、アルファであり、オメガである主は、依然として皆さんの苦難と心配の中におられます。 『私は、あなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。』(ヨハネ14:18)イエスは明らかに私たちを孤児のようには捨てておかないと約束されました。この約束は、私たちが神に召される、その日まで続くものでしょう。今年の終わりを迎え、今まで私たちをお助けくださった神に感謝しましょう。そして、2020年、新しい年も、共にいてくださる主を喜びましょう。年越しも健康に過ごされ、来年も幸せな夢を抱いて、神様と一緒に歩いていきましょう。皆さんに父なる神、主イエス・キリスト、聖霊の愛と平安が常に共にあることを祈り願います。

天から地上へ、教会から隣人へ。

詩編73編23-25節 (旧908頁) / ヨハネによる福音書 6章37-40節(新175頁) メリークリスマス!主イエス・キリストの父なる神様を賛美します。今日は主イエスの御降誕を記念するクリスマス礼拝です。クリスマスを迎え、皆さまのご家庭と日々の生活の上に神様の深い愛と恵みが豊かに溢れますようにお祈りいたします。皆さん、クリスマスの意味とは何か?お考えになったことがありますか?クリスマス、おそらく、キリストと繋がりがあると感じられませんか?ひょっとして、そう思われたなら、正解です。ギリシャ語、キリストから出たクリスに、ラテン語のミサがマスとなり、一つになった表現がこのクリスマスなんです。私は特に、ミサの方が気になりました。ミサ、良く聴いたことのある言葉ではないでしょうか?ミサは、カトリック教会で、感謝の祭事、感謝の礼拝という意味として使われる言葉です。ミサには、もう一つの意味があります。言語学的な意味として、英語のミッション(宣教)と語源が同じです。両方ラテン語のミッシオから来ましたが。ミッシオとは英語のミッションと同じく、宣教という意味の言葉です。 これらを総合して考えれば、感謝と宣教がクリスマスの主な意味だと言えるでしょう。一つ目に、クリスマスとは主イエスへの感謝を捧げる日です。何のための感謝でしょうか?私達を救ってくださった主の宣教への感謝でしょう。そして、二つ目に、神様に頂いた宣教の使命、この世に遣わされた私達、教会が持っている宣教の使命への感謝でもあるでしょう。クリスマスは感謝の日です。救い主、主イエスと神様への感謝、救い主の手と足として、遣わされた我らの宣教の使命への感謝の日です。このクリスマスが主の宣教、我らの宣教を誓う素晴らしい一日になることを願います。今日は感謝の心を込め、主の宣教、そして我らの宣教について話してみたいと思います。 天から、地上へ。 主イエスは天から地に来られました。聖書に於ける天とは、粕屋郡の美しい青空を意味することもありますが、人の手が触れる事が出来ない無限と永遠との神の力を示す表現でもあります。人間が認識している全ての物事、時間、空間、宇宙すらも、神様の永遠に比べれば、たった一つの点に過ぎない、小さな被造物でしょう。永遠とは、私達が生きていく、この世を超越するものです。ところで、この永遠を造り、司る御方が、主イエスの父、神様であると聖書は証言しています。 一方、地というのは、今私達が踏んでいる福岡の地という意味もありますけれど、さらに深く考えると、喜び、微笑み、生、怒り、涙、争い、死など、人間の喜怒哀楽のあるすべての所だとも、言えるでしょう。人が永遠に生きることが出来ないように、この地というのも永遠な存在ではありません。この地は、時間、空間、宇宙のような被造物に属しているからです。永遠ではない地、いつか終わらざるを得ない地、この地は真冬のように寒くて冷たい所です。この地の果てには死が潜んでいるからです。さて、昔のある冬の日、永遠の神様が人間になって無限の天から、この寒い地に降って来られる奇跡が起きました。 なぜ、永遠の神様が、限りある人間となり、この喜怒哀楽の地にいらっしゃったのでしょうか?ヨハネによる福音書では、このように記されています。『主をお遣わしになった方の御心を行うためである。』。では、神様の御心とはいったい何でしょうか?これを人間の言葉に直すと、お願いに言い替える事が出来ると思います。では、全能の父なる神様にも、願いがあるという意味でしょうか?はい、神様にも願いがあります。それは、御子を見て、信じる者が、皆、永遠の命を得ることであり、主がその人を終わりの日に復活させることです。主イエス・キリストは終わりの日に御父から、与えられた人々をご自身が復活させると仰ったのです。主はその人々に永遠の命を与えられるお方であるからです。 それでは、永遠の命とは何でしょうか?死なず、限りなく生きること?はい、その通りです。ですが、もう一つの意味があります。それは永遠の神様と共に生きることです。ヘブライ人への手紙は、人は肉体的には一度死ぬことが決まっていると話しています。でも、主イエスによって、神様に選ばれた人は、この地上でも神様と共に生き、神様の愛を感じ、お助けと御恵みを頂きながら、過ごすことが出来ます。このような人は、死んでも神様が備えてくださった天の国で、永遠に生きる事が出来ます。 永遠の命を得るというのは、こういうことです。永遠の神が共におられる地上での生活。単に地上で、何とか辛うじて生き残り、死んでから、パラダイスに入り、幸せに生きることではありません。毎日の疲れ切った人生、いくら、友達がいても、結局一人ぼっちの寂しい人生、明日の悩みで、寝付かれない人生。このような悲劇に満ちた人生に永遠の神様から、遣わされた主イエスが、ほかの誰かでなく、あなたと私を探しにお出でになったということです。聖書は主イエスが共にいる所を神の国、天国であると言いました。クリスマスの主イエス・キリストは私達にこの神の国を与えてくださるために生まれたのです。なぜならば、主イエスの父なる神様が、主を通してあなたのことを愛し、あなたと共に、この世から永遠に歩んで行かれることを切に望んでおられるからです。 教会から隣人へ。 ですが、きっとある人は私達に、このように尋ねるかもしれません。神様が私のことを愛し、探しに来られたですって? 信じられない!ならば、今、神様はどこにいるの?全然、見えないよ。地上で神様と一緒に生きるなんて嘘でしょう?今の生活もヘトヘトで、体も心も疲れすぎているのに、神の国って、いったい、どこにあるっていうの? そうですね。神様は目に見えませんね。神の国というのは、いくら手を伸ばしてみても、触れられませんね。永遠の命が約束されたからと言って、死が無くなるはずもないですね。神様は見えないし、天の国も感じられないし、永遠の命は嘘みたいだし。もしかして、神様は嘘つきではないでしょうか? 『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』マタイによる福音書を読むと、イエス様は5000人の群衆に食べさせる前、弟子たちに『あなた達が食べ物を彼らに上げなさい』と仰いました。弟子達は、誰1人としてイエスの命令を果たせませんでした。彼らには、始めから、そんな力なんてありませんでした。しかし、彼らは少なくとも大麦のパン五つと2匹の魚だけを得ることは出来ました。しかも、それは幼い少年の物だったのです。このわずかな食べ物を通して、主イエスは男だけでも、5000人が満腹するほどまで、食べさせてくださいました。女性と子供まで、数えれば、凡そ2万をも上回る人数が食べたと予想が出来ます。聖書にはその後、食べた残りが12籠にいっぱいになったと記されています。その日は食べ物が途方もなく足りない状況でしたが、誰も思いつかなかった方法によって、主は偉大な奇跡を見せてくださったのです。 確かに神様は人の目に見えません。しかも、神の国を肌で感じる事も、 たやすくないです。ですが、この地上には、目に見える主イエスの身体、教会があります。この日本に日本キリスト教会が、九州に九州中会が、粕屋郡に志免教会があります。神様は目に見えませんが、主の教会は目にはっきり見えます。なぜ、今、私が何度も教会が目に見えると話しているのでしょうか?それは、目に見えない神様が、目に見える教会を通して、お働きになるからです。主イエスはこの教会を今も変わらず、ご自身の体として守っておられます。神から遣わされ、貧しい人、病んでいる人、死んだ人を助けてくださった主イエスは、今、ご自分の教会が主イエスのように隣の人々を助けることを望んでおられます。 私達、教会はイエス様のように、偉大な奇跡を施す力はありません。けれども、弟子達が命令に従って何とか動いたように、私達も小さなことから試みる事は出来ます。隣の一人暮らしのお年寄りの方々の面倒を見ることから、正しくない政治家に抗議をすること、心の病んでいる人々を慰めること、理不尽な社会に小さな声であっても、警告することなどの行いは出来ます。私達、教会は主イエスの手足、口、体であるからです。主イエスが仰った通り、『私に与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること。』復活は、明らかにイエス・キリストに限ったお働きです。でも、人を失わないように働くことは主の体、教会に委ねられた役割です。その時、隣人は、私達を通して、主イエスを見、信じ、主のもとに来て、永遠の命を得ることが出来るでしょう! ルカによる福音書の17章21節に、こういう言葉があります。『ここにある、あそこにあると言える物ではない。実は神の国はあなた方の間にあるのだ。』聖書は神の国と同じ意味として、天の国という言葉を使っています。永遠の天の国はもう、私達の間にあります。主イエス・キリストが、2000年前、お出でになった時、天の国も共に来たからです。教会は既に天の国の中にあります。いや、教会こそが天の国の一部です。一部でなければなりません。傷付いて、倒れている弱い者、隣人を癒し、助ける天の国の民が、この主の教会、私達です。主イエスが、この地上にお出でになった結果は実に、私達教会員の手足の働きにあります。地上での神の国を実現していく主人公は、正に私達、教会員です。主から、救われた私達を通して、主イエスは、今日も人を生かしてくださいます。永遠の主、父なる神様の御心、神のお願いを主イエスの体である私達教会が成し遂げられるように仕えて行きましょう。そこに、この世への主イエスの救いと御父の神の国があります。 締め括り 今日の説教の前置きではクリスマスの意味について考えてみました。クリスマスは主への感謝の日であり、その感謝の理由は主が神の宣教のために生まれたということと、その主の宣教によって、選ばれた私達にも宣教の使命が与えられたということでした。クリスマスは、この世の救いのために父なる神様から、遣わされた主イエスの降臨を記念し、喜び、そして、私達が主に遣わされ、神様と隣人を愛し、仕える大事な意味を持つ日です。今の日本のクリスマス文化は如何ですか?世のクリスマスと、私達、教会のクリスマスは何が違うのか、考えてみることが出来れば幸いです。主イエスの手と足と口になり、遣わされる志免教会になりますようにお祈りいたします。今度のクリスマスは、主イエスの救いへの感謝と、主の宣教を受け継ぐ伝道のクリスマスになることを切に望みます。

あなたの神、主を愛しなさい。

李相珌(イサンピル) 牧師 申命記6章4-5、マルコによる福音書12章28-31 前置き 今日、わたしたちが読みました本文である申命記 6 章4節 5 節は非常によく知らされております御言葉であります。この御言葉は神様を信じるすべての人々にとって一番大事な御言葉の一つであります。この御言葉を通して神様に対する私たちの愛をもう一度点検して見たいと思います。 本論 申命記はモーセが荒野の生活をおえてカナアンに入っていこうとするイスラエルの民に与える神様の戒めの御言葉であります。その御言葉の中でも今日の本文が一番核心的な御 言葉であると言われるほど、イスラエル民族だけではなく、神様を信じるすべての人々が 深く黙想しなければならない御言葉であります。 本文は「聞け」と言う御言葉から始まります。これは聞いてくださいと言う言葉では ありません。「聞け」という命令であります。単純に聞こえる通りに聞くという意味では ないのであります。これは注意を集中して耳を傾けてきくという意味であります。そして 聞いた御言葉を心に刻むことであります。では、モーセがイスラエルの民に心に刻みなさ いといわれたこの御言葉はどんな内容でしょうか。 そこには核心的な内容が二つあります。一つは、神、主は唯一の主であるということで あります。もう一つは、神、主を愛しなさいということであります。私たちが信じる神様 は唯一の神様であります。唯一という意味はいくつの中の一つという相対的な意味ではあ りません。これは絶対的な唯一という意味であります。私たちの神様はいくつの神々の中 の神ではなく唯一無二の神様であります。人間たちはこの世の中に生きる時に自分のために多様な神々を作っていきます。たとえ ば自然から神々を作ることもあります。自分の前に広がる広大な自然を見た時、また、そ の力を経験した時にそれらに恐れを感じそれらを神にして仕えて行こうとします。つまり、それら作られたものに神性を与えて、それを神として崇めるのであります。 しかし、私たちの神様はそれらの神々とまったく違う神様であります。つまり、神々は 作られたものであるが、私たちが信じる神様はあってあるお方であります。存在そのもの であります。時間の概念と空間の概念がなかった時にも神様は存在していたのであります。その神様がこの世を創造されました。その創造はすでに存在していた物質からの創造では なく、無から有を創造されました。時間と空間も存在しなかったその時に神様はそこにお られ、この世を創造られました。その神様がまさに私たちの神様、主であられます。また、4節の御言葉に強調されているのは主であります。ヘブライ語でヤハウェ、英語 ではエホバであります。4節を元文からもうしますともっと明確にこうなっております。 「主は我らの神、主は唯一の神」つまり、主を 2 回連続で語ることによってそれを特別に 強調していることであります。では、なぜモ-セは主を強調しようとしたのでしょうか。 結論からもうしますと実はこの文章から言えるのは、強い主権的イメージの神様よりは 信実な主である神様が強調されているのであります。 主はイスラエルの民との契約のもとで、エジプトから導きだし、そして、40 年の荒野 を導いてこられました。その荒野の時代において、主は常に信実であられました。それを モ-セは身をもって経験したのであります。だから、モ-セが主と告白する時そこには信 実という意味が強調され含まれているのであります。さらに、主との契約は 進行中であ ります。その契約というものは一体何でしょうか。それはエジプトの圧制の中であった ヘブライ人をエジプトから導き出し、乳と蜜の流れるカナアンに導き入れるという契約で あります。だから、モーセは主とのその契約をすこしも疑わないことを強調しているので あります。さらに、モーセは唯一の主を強調しながら「あなたの神、主を愛しなさい」と 命じます。モーセが語ろうとしていた最も重要な核心はまさにここにあります。 人は誰でも 自分が愛しているものを 一番大事にします。それを すべての物事の 判断の基準にします。自分がやりたいことがあっても、愛する人に 少しでも不便を か…

大祭司の祈り。

民数記6章24-26節 (旧221頁) / ヨハネによる福音書 17章1-26節(新202頁) 前置き ヨハネによる福音書13章から16章までは、イエス・キリストが十字架で死ぬことを準備されながら、弟子たちにお別れの説教をされる部分です。イエスはお別れの説教を始める前に、弟子たちの足を洗ってくださり、晩餐を施してくださり、彼らを慰めてくださいました。そして、弟子たちが神様のものであることを力強く認めてくださいました。また、弟子たちを捨てて置かれず、助け主、聖霊を通して、この世の終わりまで共におられることを教えてくださいました。そして、そのお別れの説教を確証でもするかのように、17章では、父なる神様に切に祈ってくださいました。私たちは、過去数ヶ月間、ヨハネによる福音書の言葉を通して、弱い者を見守ってくださる主、死者を生き返らせる主、罪人のために代わりに死ぬことを予告されるイエス・キリストに会うことが出来ました。今、イエス・キリストは、そのような公生涯とお別れの説教を終え、それを父なる神に告白するお祈りを通して、その教えを実践すると誓っておられるのです。 多くの人々にヨハネによる福音書、第17章は大祭司の祈りと呼ばれます。祈っておられるイエス・キリストを通して、いと高き所におられる栄光の神様と、最も低いところの罪の中に生きている人間の間に立ち、人間を守り、神の怒りを静める祈りを通して、旧約の神と民の仲を和解させる大祭司の姿がオーバーラップされるからです。特に主は3つの部分に分かれている17章のお祈りを通して、1-5節イエスご自身のための祈り、6-19弟子たちのための祈り、20-26全人類のための祈りを神様に捧げておられます。今日は本文の言葉を通して、イエス・キリストが私たちを如何に愛しておられるのか、キリストが私たちにとって、どのような存在なのかを話してみたいと思います。 1.イエス・キリスト、ご自身のための祈り。 イエスは民と人類のために祈る前に、まずご自分のためにお祈りになりました。愛の主が、なぜ先に他人ではなく自分のために祈られたでしょうか?今日の本文では、イエスが神様に、ご自分に栄光を求める場面が出てきます。私たちは、ここでの栄光を誤解してはいけません。これは、自分の欲望を満たし、肉体の必要を求める意味としての栄光ではありません。ヨハネによる福音書に出てくる主の栄光とは、華やかな力や誉れではありません。イエス・キリストは、なぜ人間になって、この世に来られたのでしょう?それは、正に罪人のためにご自分の命を捧げるためでした。栄光を意味するギリシャ語のドケオーは『誰かが、本当に自分らしい状態』という意味です。罪人のためにご自分を犠牲にするために、生まれたイエス・キリストの栄光は、罪人のために犠牲になること、まさに十字架での死でした。栄光という言葉のイメージとは違って、あまりにも過酷で、屈辱的な苦難がキリストの栄光だったのです。 ところで、イエスは世界が造られる前に、すでにその栄光を持っておられたようです。『父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしが御もとで持っていた、あの栄光を。』(ヨハネ17:5)ここで、私たちは、御父が創造の前から民を罪から救うために、御子の犠牲を既に準備しておられたということが分かります。父なる神様が罪人のために御子イエスを死へと導かれたことが御父の栄光であり、御子イエスが十字架で罪人のために死ぬことが御子の栄光であるという意味です。したがって聖霊の栄光は、その御子イエスが死んで罪人を救えるように助けてくださることでした。結局、三位一体なる神の栄光というのは、自らを犠牲にする苦しみと悲しみの栄光であります。そのような神の苦痛を伴う栄光の結果は、罪人への赦しと死からの復活でした。旧約聖書での神は、ご自分の栄光を誰にも与えられない方でした。神が痛みを伴う栄光をキリストに許されたというのは、キリストこそが、神だという意味であり、神ご自身だけが罪人への赦しを施される方だという証拠です。 イエス・キリストは、今日、このような栄光という名の苦難に勝ち抜くために神に祈られたのです。 『あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。』(ヨハネ17:2)この苦難の終わりで、イエス・キリストは信じる者に与えられる永遠の命をくださるために、見える世界と見えない世界を治める真の王として復活されるでしょう。父なる神は、ご自分の死によって栄光を輝かせた、主イエスを復活させ、主イエスの栄光を完成されるでしょう。それにより、父なる神と聖霊も主イエスによって栄光を受けるものであり、最終的にこれは神を信じる、全ての民にも栄光となるでしょう。イエス・キリストのご自身のための祈りは、御父、御子、聖霊、そして神の民すべてに、輝かしい栄光を抱かせる十字架の死を誠実に行うためのイエス・キリストの切なる望みから始まるものでした。 2.弟子たちのための祈り 日本語辞書で弟子という言葉を引いてみると、『先生に教えを受ける人。』と記載されていました。教えを受けるということは、教育を意味します。教育とは、心と体の知識を得るための、すなわち知るために行う行為です。弟子はまさに『知るために。』先生に従う人です。また、聖書に戻りましょう。それでは、イエスの弟子は果たして何を知るべきでしょうか? 『永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』(ヨハネ17:3)使徒ヨハネは真の神とイエス・キリストを知るべきだと語っています。ところで、その知ることを通して何を得ることが出来るでしょうか?まさに永遠の命を得ることが出来ます。イエス・キリストの御教えを受けた者は、神様とは何方なのか?イエス・キリストとは誰なのかを、確実に分かるようになります。そして、それを知ることの結果は、永遠の命を得るということです。これはキリストの弟子たちだけが得ることが出来る神の恵みです。だから、真剣に神とイエスを知りたがっている人は、使徒ペトロやヨハネのような当時の弟子ではなくても、誰もがキリストの弟子になることが出来ます。したがって、今、志免教会で神を知っている私達、知ろうとしている私たちは皆、既にイエスの弟子です。 ヨハネ17:3での『知ること』というのは、単純な知識のことではありません。この『知ること』という言葉は、聖書の中では、夫婦関係に使われる言葉です。夫婦が他人は、絶対知らない深いところまでお互いに知り、それによって信頼するように、イエス・キリストを通して密接に神との関係を結び、信頼するのが、まさに神を知るということです。そのような神を知る知識、すなわち神とキリストとの関係を通して神を知るようになり、信頼するようになることによって、弟子たちは、神様が与えてくださる永遠の命に進むことが出来るのです。したがって、『神を知ること』とは、すなわち『神を信頼する。神を信じている。』という言葉に言い換えることが出来ます。永遠の命とは、唯一の真の神であられる神様と、神のお遣わしになった者、イエス・キリストを信じることです。 そういうわけで、イエス様は2番目に弟子たちが神を知ること、すなわち彼らの信仰のために祈られたのです。『わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。』(ヨハネ17:8)主は、キリストに御言葉を教えて頂き神様とイエス・キリストが誰なのかを知り、信じるようになった弟子たちを、神様が最後まで守ってくださることを祈り願われたのです。『わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。』(ヨハネ17:11)イエス・キリストを通して神を信じるようになった弟子たちを守ってくださることと、三位一体なる神様が一つになるように、弟子たちもお互いに一つになって、真の神とイエスへの信仰をしっかり守っていくことが出来るように、主イエスは弟子たちのために祈ってくださったのです。 3.全人類のための祈り。 また、主は、単に今、神の中にいる人々だけのためではなく、すべての人類のためにも祈ってくださいました。『父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。』(ヨハネ17:21)イエスは、排他的な御方ではありません。主を信じていない人は、皆、地獄に投げられ、主を信じる人だけに哀れみを施される方ではありません。この世界のすべての人々が主を知り、神を信じることが、主の夢だといっても過言ではないほど、イエス・キリストは主を信じていない人たちをも愛しておられます。『神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。』(テモテ一2:4) なぜなら、世界のすべての人々は、イエスを信じることが出来る潜在性を持つ存在だからです。神がここに座っている私たちをお選びくださらなかったら、我々のうちの誰がキリスト者になることが出来たでしょうか?神様が私たちに信仰を与えてくださったため、私たちがイエスを信じるようになり、そのイエスを信じることによって、三位一体の神を知ることが出来るようになったことを忘れてはならないでしょう。主は、世界のすべての人々がイエスを信じることを願っておられます。そして、イエス・キリストの中で、お互いに愛し合い、神の御前に来ることを懇願しておられます。神の御心は信者と未信者を問わず、イエス・キリストを通して全ての人々に開かれています。主は今日も彼らのために教会の頭となり、教会を通して伝えられた福音を聞いて、彼らが主に立ち返ることを望んでおられます。主はこのように十字架を目の前に置いて、ご自分の犠牲のために、弟子たちの信仰のために、人類が福音によって神に出てくることのために祈ってくださいました。罪人に生まれた人間には、到底出来ない祈りを大祭司であるイエス・キリストご自身がしてくださったのです。 締め括り 今日の旧約本文には大祭司アロンが神様の代わりに神の祝福をイスラエルの民に伝える場面が出てきます。 『主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。』(民数記6:24 26)大祭司イエスは、私たちに代わって神様にお祈りを捧げられました。神と人間の両方の間を執り成す大祭司は、神の祝福を民に伝え、民の祈りを神に伝える非常に重要な存在であります。神様はアーロンを用いられたように、イエス・キリストを通して私たちに祝福をくださり、私たちを守られ、私たちに恵みを与えられ、私たちに平安を賜ることを望んでおられます。そのような神の御心をイエス・キリストが、予め見抜かれ、神様の御心が成し遂げられるように祈られたのです。また、民からの願いや祈りも主イエスを通して、神様に捧げられるでしょう。 イエス・キリストのご降臨を記念するアドベントの期間です。イエスが何のために来られたのか、今日の言葉を通して、もう一度考え、神と民を繋げてくださる大祭司イエス・キリストの愛を覚えて過ごしましょう。私たちが、キリストを通して神と一つになる時、キリストを通して神を正しく知り、信じる時、神様の祝福と恵みは、さらに明るく輝くでしょう。イエス・キリストのお祈りが、今日も大祭司の祈りとして、私たちの中にあることを信じて行きましょう。今日も主は、私たちの大祭司になって、今日のお祈りのように、私たちを守ってくださるでしょう。神の栄光が輝くアドベントの期間、私たちのために、全人類のために祈ってくださる主を覚えつつ、この主イエスを私たちの隣人や家族に伝えて生きていきましょう。主の愛に満ちる一週間になることを祈り願います。

主は既に世に勝っておられる。

民数記14章9節 (旧235頁) ヨハネによる福音書 16章25-33節(新201頁) 前置き 今日はアドベントの1番目の主日です。今から約3週間後は神の子イエスが天の玉座を捨てられ、この地上に来られて、人の子としてお生まれになるクリスマスです。イエスはなぜ、この世に来られたのでしょうか?まさにこの罪深い世に生きているご自分の民、すなわちイエスを信じる者を救ってくださるためです。そのために主は私たちの代わりに死んでくださり、我々はイエス・キリストを通して救われました。アドベントは私たちのために喜んで死に、復活された主イエスのご生誕を記念する期間です。この期間を通して、私たちは主のご生誕と死について深く感謝し、思い入れるべきでしょう。 人々は、自分の死後に備えて、残される者たちに遺言を残します。遺言を通して、残された者たちが自分の遺志を受け継いで、この世に自分がもはや居なくなっても、代わりに自分の人生を引き継いでくれると願うからです。今日の本文は、民に与えてくださる、イエス様のご遺言です。「私はあなたがたから離れる。しかし、私は永遠にあなたがたと一緒にいる。私によって私の父があなたがたの父となる。私を通して私がいなくても、助け主、聖霊が、あなたがたの内におられる。」という遺言を通して、主を信じる者たちに平和と勇気を与えてくださいます。今日の御言葉は、今、この時代に生きていく私たちにも有効な言葉です。今、主イエスは、私たちの目に見える形ではおられません。しかし、主はご遺言のように、御父と聖霊を通して今日も私たちと一緒におられます。 1.神様を完全に信じることが出来ない人間の弱い信仰。 哲学では、生まれたばかりの人を自然人と言います。自然人とは、如何なる思想、文化にも影響を受けない、自然そのままの人のことです。自然人は割と良い語感を持っていると思いますが、信仰的には物足りない状態だと思います。まだ、神を知らない状態であるからです。誰も生まれる前から信仰を持つことは出来ません。今、キリストを信じている私たちも、初めは自然人でした。神様がそのような私たちをお選びくださり、信仰を与えてくださったのです。つまり、たとえ、今私達がキリスト者だと言っても、我々は元々自然人でした。そして、今も私たちの本能の中には自然人としての性質が残っています。私たちが神を信じ始めて、その信仰が深まるまで、多くの疑いや挫折を経験したことにはそのような理由があったのです。自然人として生まれた人間は本能的に、神を信じない存在です。神を知らずに生まれたからです。たとえ、信じると言っても100%信じることは不可能に近いと思います。自然人としての本能が残っているからです。本能的に神を100%信じることが出来ない人間。ですから、人間は生まれつき罪人なのです。 今日、イエス様はご自分を通して主の民が御父に愛され、助け主である聖霊も、民の生の中で常に共におられることを教えてくださいました。主イエスを通して人間が天の御父の赦しを得るものであり、その神の聖霊が人間を永遠に守ってくださることを教えてくださったのです。なぜ主はこのような遺言を残されたのでしょうか?イエス様が十字架で死に、復活され、昇天された後、地上に残される人々に自然人が持つ恐れと不信仰を乗り越える勇気と平和をくださるためでした。自然人として生まれ、ユダヤ人として生きて、キリストを通して信仰を得るようになった弟子たちが現実に屈せず、大胆にキリスト者として生きていくことが出来るように助けてくださるためでした。イエス・キリストによって、三位一体なる神が弟子たちと共に歩んでくださることを教えてくださるためだったのです。 しかし、残念ながら、イエス様が苦しみを受けるとき、主の弟子たちは恐怖によって、みんな逃げてしまいました。彼らの信仰があまりにも弱かったからです。もともと自然人として生まれた人間は、ある事実の証拠が目の前で消えると、その事実への信念を撤回したりします。人間は目に見えるまま、信じて生きようとする傾向が強いからです。民数記の10人の偵察者たちも、同じでした。神様がエジプトを滅ぼされ、エジプトの荒れ野を通過させ、カナンの入口まで無事に自分たちを連れて来られたことにも拘わらず、目に見えない神、触れることが出来ない神を信頼しませんでした。むしろ彼らは目に見えるカナンの先住民をそれ以上に恐れていたのです。結局、イスラエルの民は、神への不信仰によって罰せられ、40年という長い間を荒れ野で過ごすことになりました。このような人間の本能のような弱さのため、人間は神様への完全無欠な信仰を守りがたい存在です。多分私たちもそうかも知れません。表面的には、イエスを信じていますが、迫害と苦難が来たとき、信仰を諦めるかも知れません。人間は、このような弱い信仰を持って生きていく存在であるからです。 2.民の弱い信仰を守ってくださる神。 しかし、絶対変わらない事実があります。そのような人間の弱さと神との間には何ら関係がないということです。人間の弱さは、人間の弱さであるだけで、私たちが信じる神様の弱さではないということです。民数記の民がカナンの先住民を恐れていたとき、主はヨシュアとカレブの口を通して、今日の言葉をくださいました。 『主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。』(民数記14:9)いくら人間が畏れに震えていても、神にとって、カナンの先住民は、ただイスラエルの餌食のような存在でした。そして主はいつまでも民と共におられると約束されました。神の民が、どんなに弱くても、神は民の弱さに影響を受けない方です。むしろ民が神の強さに影響を受けるだけです。 なぜなら、神はいつも変わらず、どんなことがあっても揺れたり屈したりしない方だからです。今日の新約の本文でも、イエス様は言われました。『あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。』(ヨハネ16:32)イエス様は、人間は弱いので、主を捨てることを既に知っておられました。むしろ、イエス様は、ただ、変わらない神様だけを信じられました。人は変わっても、神は変わらない方であるからです。人は弱くても、神は強い方であるからです。イエス・キリストは、その神を信じ、苦難を克服し、ご自分のお務めを果たされました。神はこのイエス・キリストを通して主を信じる民にも揺るがない信仰を許してくださいます。私たちが信じる神様はこのように強くて、変わらない方です。 したがって、私たちの信仰が弱くなり、底を打つようなときも、私たちの信仰を守ってくださる神様だけは、絶対に変わらないことを信じましょう。どんなに私たちの信仰が弱まってきても、神だけはその信仰をしっかりと掴んでおられることを信じていましょう。私たちの信仰の状態とは関係なく、神様が私たちの信仰を守っておられるからです。私たちの信仰の弱さとは関係なく、私たちの信仰を守ってくださる、強い神を信頼することこそ、私たちの真の信仰なのです。人間は神を信じているにも拘わらず、時々失敗を経験します。意外と主の言葉に従って過ごしていない時が少なくないのです。しかし、たとえ、そのような失敗があっても、私たちの信仰を掴んでおられる主を信頼し、主の言葉に聞き従って、生きていきましょう。主が絶対変わらない神様として、私たちの内におられ、私たちの信仰を守ってくださるからです。主が世に勝っておられると仰った理由は、まさにこのためです。人間は弱く、世に屈し、信仰が弱まるかも知れませんが、神であるイエス・キリストは父なる神と聖霊を通して変わらず、堅固な信仰の保護者となり、民の信仰を守り、保たせてくださるからです。 3.すでに世に勝っておられる主。 したがって、私たちは、自分の信仰で世に勝つのではありません。この世の圧力や変化にも、変わらない神だけがこの世に勝つことが出来ます。私たちは、ひたすら神様の御守りのもとでのみ、世に勝つことが出来るのです。私たちが失敗して、世に屈する際にも、神様はその世に常に勝利しておられます。勝利者、神様は弱い私たちを助け起こしてくださいます。『わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。』(ヨハネ16:28)イエス・キリストは、このように世から何の影響も受けない神様だけを信じておられたのです。それによって、主イエスは、世からの恐怖を乗り越え、御父から与えられた使命を果たすことが出来ました。空中の勢力を持つ者、悪い霊に治められている、この世がいくら吠え哮る獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回り、身悶えしていても、神様はただ嘲られるだけで、何の影響も受けられないのです。世はただ、神の手のひらの上で蠢いている小さな虫のような存在です。 このように世に勝たれた主の中で生きていく私たちは、この世を恐れる必要がありません。もちろん、この世に生きていく時、迫害を受け、殺され、嫌われることは覚悟しなければならないでしょう。この世が神を憎み、神に属している私たちは、依然として弱いからです。しかし、聖書は強く語っています。『体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』(マタイ10:28)この世は、確かに恐ろしい存在でしょう。しかし、我々の最後を決める方は、この世ではなく、神様なんです。この世は、私たちの肉体は殺すことが出来るかも知れませんが、私たちの魂まで殺すことは出来ません。肉体も魂も裁かれる方は、神お一人だけだからです。世に勝たれた神は、世が犯せない、高い所におられる方です。 イエス・キリストはこのように遥かに高い所にいる神の玉座を私たちに引き下ろしてくださる方です。世があえて触れることが出来ない勝利の神様を私たちの内に招かれる方です。『今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。』(ヨハネ16:24)神様から来られたイエス・キリストは、ご自分の御名をかけて、神と人との間に繋がりを結んでくださいました。それを通して自然人として生まれ、罪の中に彷徨っている弱い民が御父の子供として覚醒し、自分の信仰を持つことが出来るようにしてくださいました。自分の力だけでは信仰が守れない弱い民のために、助け主、聖霊という信仰の先生をも遣わしてくださいました。それによって、イエス・キリストはご自分の勝利を民も享受出来るようにしてくださいました。強力な主の勝利を弱い民も分かち合えるように導いてくださったのです。 締め括り 復活して昇天されたイエスは、ご自分の民を孤児と寡婦のように見捨てられず、最後まで責任を負ってくださる方です。そしてこの世から勝ち取った勝利をその民にも分けてくださいます。この世は、主を憎んでいます。そして、神を信じる民も嫌っています。世はいつも神の民を脅かしています。しかし、世に勝たれたイエスは変わらず、自分の民を愛しておられます。また、民にもご自分の中で、世に勝って行けるように平和と勇気とを与えてくださいます。今日の言葉は、今の時代を生きていく私たちにも有効な主の遺言です。今、主イエスは、私たちの目に見えません。しかし、主は今日も私たちと一緒におられます。ご自分の御名を通して、神の子どもと呼ばれるアイデンティティと助け主、聖霊による力を与えておられます。私たちは、このイエス・キリストを通した三位一体の神と繋がり、今後も世に勝利するでしょう。イエス・キリストが私たちを守り、父なる神様が私たちを愛し、聖霊なる神様が私たちを導いてくださるからです。