兄弟姉妹の助け合い

詩編133編1~3節(旧975頁) エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) 前置き ソウル文化村教会からの兄弟姉妹の皆さんを歓迎します。志免教会は皆さんの訪問をお許しくださった主なる神に心から感謝申し上げます。一緒にささげる礼拝による聖霊のみもとでの美しい交わりを喜びます。今日一緒に守る、この礼拝を通して、二つの教会のアイデンティティを確認し、主にあってお互いに助け合い、愛し合う関係であることを憶える時間になることを願います。両教会の上に主なる神の限りない祝福と恵みとが与えられますよう祈ります。 1. キリストにおいて兄弟姉妹となる。 教会用語の中で、最も美しい言葉の一つは「主において兄弟姉妹となる」ではないかと思います。国が異なり、言葉と文化が違っても、主の民はイエス·キリストというおひとりを中心として一つとなった存在ですから、それらの相違の超える同じアイデンティティを持っているのです。この世の政治も、いかなる価値観も、主が結び付けてくださった「主において兄弟姉妹となる」という私たちのアイデンティティより先立つことはできません。志免教会は日本人だけでなく、韓国人、中国人、ニュージーランド人が一緒に集い、主イエスにおいて、同じ神を礼拝し、同じ聖書の言葉で主の福音を学んできました。そして、今日は韓国ソウルからの兄弟姉妹たちとも一緒に同じ主に礼拝しています。聖書は語ります。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」(エフェソ2章中) 父なる神は、罪によって主を離れてしまったご自分の民を召し出してくださるためにイエス·キリストという救い主を、この地に遣わされました。主イエスは、主の民を救ってくださるために、この地上に来られ、彼らと共に過ごしながら、癒し、教え、福音を伝えてくださいました。以後、主イエスは罪人の贖いと救いを成し遂げるために十字架にかけられ死に、三日後に復活されました。復活されたイエスは、ご自分の血潮という身代金によって罪人を償い、神と人を遮る壁を崩し、主なる神の子供に召してくださいました。その時、私たちひとり一人を遮る壁をも共に崩してくださったのです。私たちがお互いに兄弟姉妹と呼ぶのが出来る理由は、そのような主イエスの恵みに基づきます。私たち自身が、自分の意志で兄弟姉妹と呼ぼうとしても、この世の価値観と自分の利益を考えるなら、口先では兄弟姉妹だと言っても心では違う考えを持ちやすいです。しかし、主イエスの贖いと救いによって、主において一つとなった私たちは、主イエスのかけがえのない恵み(主イエスというおひとりの主を崇める一つの存在となる)を根拠として、お互いを兄弟よ、姉妹よと呼べるようになったのです。 したがって、主イエスが永遠の方であれば、私たちの兄弟姉妹という関係も永遠であるのです。たとえ民族と言葉と文化が違うとしても、私たちにはイエス·キリストという永遠に移り変わりのない、たったお一人の主がおられるからです。 2. 日韓長老教会の歴史 私たちは、こうして主において一つとなり、兄弟姉妹の関係を結んでいます。それでは、お互いの関係について、歴史を通して考えてみたいと思います。日本と韓国という他国の教会どうしなので、遠くの人々、言葉も通じなく、考え方も違う相手と思われがちですが、日本と韓国の長老教会は意外と近い間柄です。日本キリスト教会と大韓イエス教長老会(合同派)は、いずれも長老派の教会です。日本の長老教会は、1859年、医療宣教師として来日したジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)が、横浜港に入国することから始まります。彼はアメリカの北長老教会の派遣により、医療宣教とともにヘボン塾(現明治学院大学の前身)などを通して、近代日本の教育にも影響を及ぼしました。彼の活躍により、日本の三大キリスト教バンド(横浜、熊本、札幌を中心に形成されたプロテスタント教勢)の一つである横浜バンドが基盤を固め、その中心に日本キリスト教会の前身である日本キリスト公会がありました。韓国の長老教会は、1889年、朝鮮に入国したホレイス・グラント・アンダーウッド(Horace Grant Underwood)です。彼も日本のヘボン宣教師のようにアメリカの北長老教会の宣教師です。彼は朝鮮の広恵院という韓国最初の西洋式病院で物理学と化学を教え、その後、キリスト教系の学校を設立して教育活動を繰り広げました。彼の活動で韓国でのプロテスタント教会の影響力が広がっていき、韓国の長老教会も基盤を固めるようになりました。 このように日本と韓国の長老教会はアメリカの北長老教会という同じルーツから福音を受け入れ、改革教会という同じ神学と信仰を共有する関係です。日本と韓国という他民族、言語、文化の違いにもかかわらず、同じ教会から派遣された宣教師たちによって、そのすべての乗り越えるイエス·キリストの同じ福音が伝わってきたのです。この福音を伝えるために、ヘボンとアンダーウッドといった宣教師たちが自分の若さを主に捧げました。ですから、今日、私たちはお互いに初めて会いますが、遠くにいる関係ではありません。言語の違いは、言語が通じる人の通訳によって解決できます。それよりさらに重要なことは、同じ信仰と心を持った主イエスの同じ民であるということです。私たちは、キリストという同じ頭を中心に一つとなったキリストの肢です。ですから、志免教会の皆さん、今日、訪問してくださった韓国の青年たちをこれからも憶えてください。彼らの一生のために祈ってください。文化村教会の青年の皆さんも、ここにいる信仰の先輩たちを憶え、祈ってください。文化村教会の青年たちは、信仰が冷やかされる時代に自分の信仰を守りながら生きています。志免教会の先輩たちもキリスト教の教勢が弱い日本で、長年、信仰を守ってきました。 お互いを憶え合い、住む所は違うが、一心で助け合う私たちであることを望みます。 3. 価値観と政治観を飛び越て 私たちが、日本キリスト教会に加入するために来福したのは、2018年の秋でした。そして、2019年4月、志免教会の協力宣教師として赴任することになりました。ところが、ちょうどその頃から日本と韓国の関係が悪化するようになりました。いわゆる「ノージャパン運動」とも呼ばれる日韓対立の出来事だったのです。当時、私と妻はすごいストレスを受けました。まだ、志免教会の皆さんと十分に親しくなってもおらず、出掛ける時は妻となるべく会話を控えました。韓国語が聞こえると見つめる人たちがいたからです。やはり政治が問題でした。日本の安倍元首相は韓国が嫌いで、韓国の文元大統領は日本が嫌いでした。 互いに自分が正しいと主張しました。しかし、彼らは相手の国に住む自国民の心を配慮しませんでした。指導者どうしの政治的な異見により、日本の韓国人と韓国の日本人が苦しむようになりました。日本と韓国は歴史的な遺憾が山ほど積もっている隣国です。そういうわけで、「一番近いが、一番遠い国」という言葉もあります。人間の世界はそうです。対立と憎しみが根底にあるからです。 しかし、その時、私たちを支え、慰めてくれた人は志免教会の兄弟姉妹たちでした。一度も政治的な話題で、私たちを冷たく扱わず、むしろノージャパン時代とコロナ時代を経て、日本人、韓国人という違いよりもクリスチャンとしての同じさを、さらに大切に思ってくださいました。価値観と政治観がキリスト者というアイデンティティを損ねることが出来なかったのです。そのすべてが、同じ主であるイエス·キリストの肢であるという信仰で乗り越えた結果なのです。今日の旧約本文はこう述べています。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のようにシオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された祝福と、とこしえの命を。」(詩篇113編) 兄弟が「共に座っている」という言葉は一心を持って一緒に助け合いつつ生きることを意味します。古代の遊牧民族は、一族全員が一つの群れとして生きたと言われます。それを原文で「共に座る」と表現したようです。主なる神のみもとに、兄弟姉妹が共に座ることは正しいことであり、主が喜ばれる生き方ということでしょう。そのように共に座る人生の道のりで、憎しみと対立は消えて行くからです。そこに主の祝福ととこしえの命があると聖書は証しています。 締め括り 今日、私たちは初めて会いました。しかし、すでにキリストにおいて、一緒に座っており、神の国で再会するべきとこしえの教会姉妹です。 もちろん、その前にまた会う機会があるかもしれません。私たちは、お互いに外国人だと思わず、それよりもっと大事なキリストによる家族という信仰で助け合い、愛し合うべき関係です。この世での人生は短いです。100年を超えて生きる人は珍しいです。しかし、神の国での私たちは、主と共に永遠に生きるでしょう。100年にもならない時間の中で憎しみと対立を造らず、永遠な主の国での「共に座る」存在として仲良く過ごしていきたいと思います。 主なる神が、私たちの交わりを喜ばれ、祝福をしてくださるよう祈り願います。