聖霊なる神によって。

ヨエル書3章1~2節(旧1425頁) ヨハネによる福音書15章26~27節(新199頁) 前置き 今日は、聖霊なる神の降臨を記念する「聖霊降臨節」です。日本の教会では「ペンテコステ」とよく呼ばれていますが、その意味は数字の「50」です。初代教会の聖霊降臨の背景となる時期である、「ユダヤ教の過越祭後の初日から7週目になる日」(七週祭)、つまり過越祭から50日目となる日だったので、ギリシャ語の50を意味する「ペンテコステ」と呼んでいるのです。ちなみに、この「ペンテコステ」はイエスの復活から50日目になる日でもあります。ところで、教会は、なぜ聖霊の降臨を記念するのでしょうか? 聖霊の降臨が持つ意味は何でしょうか? 今日は、聖霊降臨の意味について話し、聖霊降臨節、つまりペンテコステを記念する理由について考えてみたいと思います。 1.聖霊降臨の約束。 「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1-2) 今日の旧約本文は「その後」という言葉から始まり、主なる神が主のしもべたちに主の霊(聖霊)を注いでくださると書いてあります。ここで「その後」とはどういう意味でしょうか。何の後に聖霊をくださるということでしょうか? その内容はヨエル書2章で確かめることができます。ヨエル書2章1節には「主の日が来る」と記してありますが、その日は主なる神の「裁き」の日であり、誰も主の裁きから自由ではないことを警告しています。ヨエル書は「主の日」が来る時に主の民が主なる神の御前で悔い改め、赦されることを呼びかけています。民が悔い改め、神が赦してくださるその日、主の民は真の喜びをいただき、二度と恥を受けないと預言しています。新約時代を生きる私たちは、この「主の日」をどのように解釈すべきでしょうか? 神は主イエスを救い主として遣わしてくださり、世のすべての人々に主イエスによる悔い改めの機会を与えてくださいました。いつか主なる神は必ずこの世を裁かれ、主に逆らうすべての者は、その裁きを受けることになるでしょう。神はその日のために主イエスという救い主を遣わされ、その方によって悔い改める者たちに主の裁きを避ける救いの道を与えてくださいました。 したがって、ヨエル書が語る「主の日」は「主の裁きの日」でありながら「主の救いの日」でもあります。キリストを知らない者にとって「主の日」は滅びの日となりますが、キリストを知る者にとって「主の日」は救いの日になるということでしょう。だから、今日の本文の「その後」という表現は、イエス·キリストによる救いの日の後のことでしょう。私たちはイエス·キリストが人類の罪を赦してくださるために十字架にかかられ、犠牲になったことを知っています。また、三日目に復活され、罪人への真の救いを完成してくださったことも知っています。また、私たちはキリストが、私たちにすでにご自分の恵みによる救いを与えてくださったことをも知っています。したがって、私たちはイエス·キリストによってすでに「救いの日」を経験し、その救いの中で生きている存在です。この救いの日を生きている私たちに、神は「聖霊を注いでくださる」と約束されたのです。ですので、聖霊降臨は主イエスによって救われた者たちなら、必ず与えられるに決まっている神の恵みです。この世に希望がなく、悲しみと苦しみが多くても、主が約束された聖霊は、私たちと一緒におられ、必ず私たちの人生を導いてくださるでしょう。それが神の約束だからです。 2. 聖霊はキリストを証する。 それなら、私たちは、すでに聖霊を受けた者として、ここに集っていると結論を下すことができます。しかし、神に聖霊を遣わしていただいたと自負できる人は少ないでしょう。聖霊が自分に来られた記憶がないからです。聖霊降臨というのはどういう意味でしょうか? まず知っておくべきことは、聖霊は遣り取りする物ではないということです。聖霊は三位一体の一位格の神です。「注ぐ」という表現のため、まるで聖霊がオリーブ油やぶどう酒のような旧約聖書に出てくる液体と感じられますが、「聖霊を注ぐ」という表現は比喩として理解すべきです。旧約時代には、主なる神が、王、預言者、祭司を選ばれる時、彼らの頭に香油を注げと命じられました。油が注がれる時、神の霊が彼らに臨まれ、主の御心通りに導かれました。「聖霊を注ぐ」という表現は、ここに由来したのです。したがって、聖霊は生ける神なのです。旧約において油を注ぐということは、聖霊なる神のご臨在を意味するものです。したがって、私たちは「聖霊なる神」を御父や御子より劣る存在だと考えてはなりません。キリストの御救いによって、私たちに聖霊が注がれたということは、旧約時代に香油を注ぎ、イスラエルの王、預言者、祭司を任命したように、新約時代には、主キリストによって、聖霊なる神が直接私たちに臨まれたということを意味します。そのような意味として、私たちにすでに聖霊が臨んだこの時代には、私たちは旧約の王、預言者、祭司のような特別な存在として召されているのです。 私たちは聖霊の降臨という表現を誤解しがちだと思います。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1-4)、このような使徒言行録の言葉のため、聖霊は私たちの日常に画期的な変化を引き起こすだろうと誤解しやすいです。もちろん、主の御心に応じて、このような目立つ大きな変化が起こる可能性もあります。しかし、すべての人に、そのような出来事があるとは言えません。聖霊の降臨を経験した人の最大の特徴は次の言葉から覗き見ることが出来ます。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ福音15:26) 聖霊降臨の最も大きな特徴はイエス·キリストを証しすることです。聖霊が人に臨まれると、イエスを主と告白しなかった人が、イエスが主だと告白するようになります。神の御心に興味がなかった人が、神の御心とは何か、知りたくなります。聖霊の最も重要なお働きは、激しい風や炎のような舌みたいな、特別な霊的現象ではなく、イエス·キリストという方を信じさせ、証しさせることです。 締め括り だから、その聖霊なる神が、私たちに臨まれると、私たちも自然にイエス・キリストを知り、証しするようになります。私たちは皆、生まれつき、イエスを知らない状態に生まれます。しかし、キリストが私たちを選び、救ってくださる時、私たちに聖霊が臨まれ、イエスを主と告白し、信じることになります。そして、イエスの御言葉を、「私たちに与えられた主の御心」として認め、聖書の御言葉を大切にするようになります。したがって、今日も聖書と説教を通じて、感謝して主の御言葉にあずかり、そのために礼拝に出席した私たちは、聖霊のともに生きる存在であるのです。特別な奇跡を経験しなくても大丈夫です。絶対的な霊的体験がなくても問題ありません。その影響はそんなに長く続かないからです。最も大事な聖霊臨在の経験は、イエスへの信仰が生まれたことだと言っても過言ではありません。私たちに主イエスへの信仰があり、主を自分の救い主と認め、その方と共に歩もうとするならば、私たちには、すでに聖霊が臨んでおられると信じても良いです。聖霊降臨節の主日、このペンテコステに私たちが必ず憶えなければならないことは、このイエス·キリストを証しする聖霊が私たちに臨んでおられるということです。そして、その聖霊の御心に従ってイエス·キリストを憶え、その方の御言葉に従順に聞き従いつつ生きようと努力することが、聖霊が私たちに臨まれた、第一の証拠であると信じます。聖霊と一緒に生きる志免教会の兄弟姉妹であるように祈ります。