三位一体なる神

イザヤ書6章1~8節(旧1069頁) コリントの信徒への手紙二13章13節(新341頁) 前置き 先週の主日は、ペンテコステ(聖霊降臨節)でした。キリスト教会にはクリスマス、イースター、ペンテコステなど、多くの記念主日があります。ところで、教会は、どんな基準で、その記念主日を決めるのでしょうか? それらは「日本キリスト教会」が、自分で決定した記念主日ではなく「教会暦」という、古くからの教会の伝統に由来するものです。教会暦とは古代のカトリック教会時代からイエス·キリストの生涯を中心にして作られた教会のカレンダーのようなものでした。それが、宗教改革後に、プロテスタント教会にも伝わり、プロテスタント的に変更され、現在の教会も使っているのです。教会暦においての一年の始まりは、各教派ごとにやや違いはありますが、一般的に1月1日ではなく、クリスマスを迎える「アドベント」の初日から始まります。ですので、今年の教会歴は去年のアドベントの初日だった、2023年12月3日からだと言えます。今日、説教の始めから教会暦の話を持ちかけた理由は、教会暦上、ペンテコステの翌週の主日が「三位一体主日」であるからです。つまり、今日は教会暦上、三位一体主日なのです。私たちはよく三位一体の神を口にしますが、その意味についてはあまり詳細でないかもしれません。今日も、一部ではあると思いますが、少しでも三位一体について語り、私たちにとって三位一体とは、どういう意味を持つのか考えてみたいと思います。 1. 誰が我々に代わって行くだろうか。 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」(イザヤ6:8) 今日の旧約本文は、主なる神と預言者イザヤとの出会いが記されている、イザヤ書で特に意味深い箇所です。ここで、私たちは神がご自身のことを「我々」と呼ばれることが分かります。現代神学では、神のこの「我々」という複数表現が、三位一体を意味するのではなく、神の偉大さを強調する表現だと主張する人もいますが、教会は歴史的に「我々」という表現が、御父、御子、御霊の三位一体を意味するものだと信じてきました。今日の本文を含め、旧約聖書には神がご自身のことを「我々」と呼ばれる箇所が、いくつか出てきていますが、このような理由で、教会は神が「我々」という形で存在しておられる方だと思いました。おひとりですが、おひとりではない方だと理解したわけです。そういうわけで、近現代に入っては、三位一体への色々な解釈が出てきました。「三葉のクローバーのように根本は同じだが、父、子、霊に分かれる存在」あるいは「父、母、子のように相互別人だが、結局は一つの家族」という解釈など、いろいろな解釈がはびこりました。しかし、三位一体の存在の仕方は、人間の知性では理解できない神秘なので、上記のように無理な解釈は控えるべきだと思います。 ただ、私たちは聖書が証するように、神は「御父、御子、御霊」として存在しておられるが、一つの存在であるという理解で考えを止めるべきです。「三つにいまして、一つなる。」という讃美歌の歌詞を憶えましょう。旧約聖書のあちこちで、万物の父である神について語ります。また、詩編などでは子なる神について語ります。そして預言書などでは神の霊である聖霊について語ります。新約では、今日の新約本文のように「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(第二コリント13:13)と三位一体なる神を直接示します。私たちが信じる神はおひとりの神です。しかし、聖書はその方が三つの位格として存在されると証します。この三位一体なる神はお互いに協力し合い、ご自分の御業を成し遂げていかれます。世界の創造も、罪人の救いも、教会と世への導きも、三位一体なる神は、一位格が独断的に主導されず、お互いに謙虚に愛しあい、仕えあい、すべてを協力しあって治めていかれるのです。今日の本文は、この三位一体なる神が、預言者イザヤを召され、罪を赦され、主の預言者として働く栄光を与えてくださる場面です。そのイザヤへの神の召しのように、神は主の教会を一つの位格が独断的に召されたわけではありません。父なる神の計画、御子キリストの救い、聖霊なる神の導き、三位一体がお互いに協力しあって教会を召され、主の民として生きる機会を与えてくださったのです。 2. 三位一体が教会に与える有益。 三位一体なる神の「お互いに協力しあって創造し、救い、導いておられる姿」は教会に教訓と有益を与えます。イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音13:34)イエスは弟子たちが互いに愛しあうことを命じられました。この世は、愛するより憎みやすい所です。人と人が、地域と地域が、国と国が、民族と民族が憎み合いやすいです。他人が自分に大きくやさしくしてくれたことよりは、自分に小さく誤ったことを赦さず返そうとするのが普通です。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」(ルカ福音6:32-35) このような憎しみに満ちた世界で、それにもかかわらず、イエスはご自分によって父なる神に赦されたキリスト者たちが、愛して生きることを命じておられるのです。それでは、そのイエスの愛は、どこに由来するものなのでしょうか? それは、三位一体なる神のお互いの愛からです。イエスが洗礼者ヨハネに洗礼を受けられた時、父なる神はこのように言われました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ福音3:17) 御父は御子を愛し、また御子は御父を愛しておられます。神の霊である聖霊も父と子を愛し、父と子も聖霊を愛しておられます。だから、聖書はこう語ります。「神は愛です。」(第一ヨハネ4:16) そのような三位一体の愛によって、イエスは主の民である教会にも愛を与えてくださいます。そのような三位一体の愛にならって、教会も愛を分かち合い、それを通して教会の肢である兄弟姉妹がお互いに愛しあうようになるのです。父なる神が三位一体の頭になり、共に三位一体を成される御子と御霊が愛の中で一つになられたように、イエス·キリストが頭となる神の教会も、この三位一体の愛にならって、互いに愛しあいながら生きるのです。ここに三位一体が持つ有益があります。 愛するのは決して簡単なことではありません。愛についての説教を頻繁に続けてきた私でさえ、正直、兄弟姉妹や隣人を自分自身のように愛することができない現実を痛感します。時々、人間は愛よりも憎しみの方が気楽な存在ではないかと思われるほどです。けれども、私たちが憎しみやすい存在であっても、私たちの主、三位一体なる神は、お互いに愛し合っておられるという事実が、憎みやすい私たち自身を振り返らせる理由になると思います。「私たちは完全な愛ができないかもしれないが、私たちが崇める三位一体なる神は、お互いに完全な愛をされ、また、その愛をこの世に与えてくださった。だから、私たちも三位一体なる神にならって愛を追い求めなければならない。」このように三位一体の存在は、私たちをその方の愛に招き、また私たちも他人を愛しながら生きるようにするのです。もう一つ重要なことは、この愛の中で三位一体の神がお互いに協力し合われるということです。これは教会にも見習うべき大事なあり方になります。愛するからこそ、お互いに協力し合うことができるのです。志免教会もお互いに愛しあい、お互いに感謝しあう心で、協力しつつ生きていきたいと思います。御父、御子、御霊が協力しあってこの世を造られ、罪人を救われ、教会を導かれるように、私たちも愛の中で互いに協力しあって教会を成し、仕え、立てていきたいと思います。 締め括り 三位一体は、人間の認識では、簡単に理解できない、難しくて神秘な神の存在し方です。しかし、聖書は明らかに神が三位一体として存在しておられると語っています。難解で神秘なので、理解するのは難しいかもしれませんが、少なくとも私たちは神がそのように存在しておられるという聖書の証を認め、信じるべきではないかと思います。何よりも大事なのは、三位一体という神の形より、その三位一体なる神が、お互いに愛しておられること、そして、愛によって協力しておられることなのです。この三位一体主日を通して、三位一体なる神について学び、三位一体に倣って互いに愛し協力しながら生きる志免教会であることを祈ります。

聖霊なる神によって。

ヨエル書3章1~2節(旧1425頁) ヨハネによる福音書15章26~27節(新199頁) 前置き 今日は、聖霊なる神の降臨を記念する「聖霊降臨節」です。日本の教会では「ペンテコステ」とよく呼ばれていますが、その意味は数字の「50」です。初代教会の聖霊降臨の背景となる時期である、「ユダヤ教の過越祭後の初日から7週目になる日」(七週祭)、つまり過越祭から50日目となる日だったので、ギリシャ語の50を意味する「ペンテコステ」と呼んでいるのです。ちなみに、この「ペンテコステ」はイエスの復活から50日目になる日でもあります。ところで、教会は、なぜ聖霊の降臨を記念するのでしょうか? 聖霊の降臨が持つ意味は何でしょうか? 今日は、聖霊降臨の意味について話し、聖霊降臨節、つまりペンテコステを記念する理由について考えてみたいと思います。 1.聖霊降臨の約束。 「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1-2) 今日の旧約本文は「その後」という言葉から始まり、主なる神が主のしもべたちに主の霊(聖霊)を注いでくださると書いてあります。ここで「その後」とはどういう意味でしょうか。何の後に聖霊をくださるということでしょうか? その内容はヨエル書2章で確かめることができます。ヨエル書2章1節には「主の日が来る」と記してありますが、その日は主なる神の「裁き」の日であり、誰も主の裁きから自由ではないことを警告しています。ヨエル書は「主の日」が来る時に主の民が主なる神の御前で悔い改め、赦されることを呼びかけています。民が悔い改め、神が赦してくださるその日、主の民は真の喜びをいただき、二度と恥を受けないと預言しています。新約時代を生きる私たちは、この「主の日」をどのように解釈すべきでしょうか? 神は主イエスを救い主として遣わしてくださり、世のすべての人々に主イエスによる悔い改めの機会を与えてくださいました。いつか主なる神は必ずこの世を裁かれ、主に逆らうすべての者は、その裁きを受けることになるでしょう。神はその日のために主イエスという救い主を遣わされ、その方によって悔い改める者たちに主の裁きを避ける救いの道を与えてくださいました。 したがって、ヨエル書が語る「主の日」は「主の裁きの日」でありながら「主の救いの日」でもあります。キリストを知らない者にとって「主の日」は滅びの日となりますが、キリストを知る者にとって「主の日」は救いの日になるということでしょう。だから、今日の本文の「その後」という表現は、イエス·キリストによる救いの日の後のことでしょう。私たちはイエス·キリストが人類の罪を赦してくださるために十字架にかかられ、犠牲になったことを知っています。また、三日目に復活され、罪人への真の救いを完成してくださったことも知っています。また、私たちはキリストが、私たちにすでにご自分の恵みによる救いを与えてくださったことをも知っています。したがって、私たちはイエス·キリストによってすでに「救いの日」を経験し、その救いの中で生きている存在です。この救いの日を生きている私たちに、神は「聖霊を注いでくださる」と約束されたのです。ですので、聖霊降臨は主イエスによって救われた者たちなら、必ず与えられるに決まっている神の恵みです。この世に希望がなく、悲しみと苦しみが多くても、主が約束された聖霊は、私たちと一緒におられ、必ず私たちの人生を導いてくださるでしょう。それが神の約束だからです。 2. 聖霊はキリストを証する。 それなら、私たちは、すでに聖霊を受けた者として、ここに集っていると結論を下すことができます。しかし、神に聖霊を遣わしていただいたと自負できる人は少ないでしょう。聖霊が自分に来られた記憶がないからです。聖霊降臨というのはどういう意味でしょうか? まず知っておくべきことは、聖霊は遣り取りする物ではないということです。聖霊は三位一体の一位格の神です。「注ぐ」という表現のため、まるで聖霊がオリーブ油やぶどう酒のような旧約聖書に出てくる液体と感じられますが、「聖霊を注ぐ」という表現は比喩として理解すべきです。旧約時代には、主なる神が、王、預言者、祭司を選ばれる時、彼らの頭に香油を注げと命じられました。油が注がれる時、神の霊が彼らに臨まれ、主の御心通りに導かれました。「聖霊を注ぐ」という表現は、ここに由来したのです。したがって、聖霊は生ける神なのです。旧約において油を注ぐということは、聖霊なる神のご臨在を意味するものです。したがって、私たちは「聖霊なる神」を御父や御子より劣る存在だと考えてはなりません。キリストの御救いによって、私たちに聖霊が注がれたということは、旧約時代に香油を注ぎ、イスラエルの王、預言者、祭司を任命したように、新約時代には、主キリストによって、聖霊なる神が直接私たちに臨まれたということを意味します。そのような意味として、私たちにすでに聖霊が臨んだこの時代には、私たちは旧約の王、預言者、祭司のような特別な存在として召されているのです。 私たちは聖霊の降臨という表現を誤解しがちだと思います。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1-4)、このような使徒言行録の言葉のため、聖霊は私たちの日常に画期的な変化を引き起こすだろうと誤解しやすいです。もちろん、主の御心に応じて、このような目立つ大きな変化が起こる可能性もあります。しかし、すべての人に、そのような出来事があるとは言えません。聖霊の降臨を経験した人の最大の特徴は次の言葉から覗き見ることが出来ます。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ福音15:26) 聖霊降臨の最も大きな特徴はイエス·キリストを証しすることです。聖霊が人に臨まれると、イエスを主と告白しなかった人が、イエスが主だと告白するようになります。神の御心に興味がなかった人が、神の御心とは何か、知りたくなります。聖霊の最も重要なお働きは、激しい風や炎のような舌みたいな、特別な霊的現象ではなく、イエス·キリストという方を信じさせ、証しさせることです。 締め括り だから、その聖霊なる神が、私たちに臨まれると、私たちも自然にイエス・キリストを知り、証しするようになります。私たちは皆、生まれつき、イエスを知らない状態に生まれます。しかし、キリストが私たちを選び、救ってくださる時、私たちに聖霊が臨まれ、イエスを主と告白し、信じることになります。そして、イエスの御言葉を、「私たちに与えられた主の御心」として認め、聖書の御言葉を大切にするようになります。したがって、今日も聖書と説教を通じて、感謝して主の御言葉にあずかり、そのために礼拝に出席した私たちは、聖霊のともに生きる存在であるのです。特別な奇跡を経験しなくても大丈夫です。絶対的な霊的体験がなくても問題ありません。その影響はそんなに長く続かないからです。最も大事な聖霊臨在の経験は、イエスへの信仰が生まれたことだと言っても過言ではありません。私たちに主イエスへの信仰があり、主を自分の救い主と認め、その方と共に歩もうとするならば、私たちには、すでに聖霊が臨んでおられると信じても良いです。聖霊降臨節の主日、このペンテコステに私たちが必ず憶えなければならないことは、このイエス·キリストを証しする聖霊が私たちに臨んでおられるということです。そして、その聖霊の御心に従ってイエス·キリストを憶え、その方の御言葉に従順に聞き従いつつ生きようと努力することが、聖霊が私たちに臨まれた、第一の証拠であると信じます。聖霊と一緒に生きる志免教会の兄弟姉妹であるように祈ります。

神の言葉は生きている。

イザヤ書55章6~8節(旧1152頁) ヘブライ人への手紙4章12節(新405頁) 前置き なぜ、私たちは主日ごとに教会に出席して説教を聞いているのでしょうか? それは聖書に記された主なる神の御言葉を説教を通じて聞くためです。説教は説教者個人の知識を自慢する手立てでも、説教者の思想を広める手立てでもありません。説教は新旧約聖書に記された神の御言葉を(説教する当時の)聞き手が聞き取れる言葉で宣べ伝え、数千年前に記録された主の御心を、現代の言葉に教えるための大事な道具です。したがって、説教者も聞き手も、個人が追い求める欲望、思想、必要によって主の言葉を歪曲しないように格別に気を付けなければなりません。それにもかかわらず、不完全な人間が説教し、説教を聞きながら神の言葉が歪曲される可能性があり、心配です。しかし、聖書は語ります。聖霊なる神が、聖書の解釈者になって説教者の口と聞き手の耳を導いてくださると。つまり、聖書に記録された御言葉は、聖霊によって生命を得て、今も生き生きと働き、御言葉によって主の御心が伝えられるように生きているのです。今日は、主なる神の生きている御言葉について話してみたいと思います。 1. この世の言葉とは異なる神の言葉。 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55:6-8) 今日の旧約本文は、罪と偶像崇拝によって罰を受け、滅ぼされてしまったイスラエルの民を赦し、もう一度機会を与えようとされる神の心が書いてある箇所です。イスラエルは神の祭司の王国と呼ばれる聖別された民族でした。他の国々のように武力で他国を征服したり、富で他国を圧倒するのではなく、ひとえに神の御救いの言葉を伝えるために生まれた、祭司長のような国として神に選ばれた民族でした。しかし、彼らは他の国々のように武力と富を求めました。その結果、イスラエル民族は、真っ二つに分かれてしまい、その後、子孫の罪と偶像崇拝のため、主なる神に用いられたアッシリアとバビロンによって滅ぼされたのです。今日の旧約本文は、そのように滅びてしまったイスラエルへの主なる神のお赦しと回復を呼びかける言葉です。「主はあなたたちイスラエルの近くにおられる。今こそ帰るべき時である。主を尋ね求めよ。罪を捨てて主のもとに帰れ、主がお憐れみで待っておられる。」 主の民が失敗して、何をすれば良いか、どうすれば良いか、到底見当がつかない時に、主なる神は迷わずに主に帰ってくることを呼びかけておられます。聖書を通して主は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。」世の常識によれば、罪を犯した人は、赦されにくくなります。犯罪者が釈放後、再出発するのが難しい理由も、社会は一度の失敗を人を簡単に許さないからです。しかし、主なる神は、この世の常識とは異なる思いによって、罪人に接しておられるということを、今日の旧約本文は教えてくれます。主の御言葉(思い)は、この世の常識とは全く違います。失敗して到底二度と起きられないような絶望の中でも、主の御言葉は「新しく始めることが出来る」と語ります。この世は失敗した者を蔑視しても、主は世間の思いとは違って新しい始まりを語られます。私たちがこの世の言葉ではなく、主なる神の言葉に耳を傾けなければならない理由がここにあります。世の言葉は押さえつけて殺す言葉です。しかし、主の御言葉は立て直して生かす言葉です。世はもう終わりだと言っても、主の言葉はこれから始まりだと言います。孤独で厳しい現代社会を生きている私たちに神の御言葉が必要な理由です。 2. 神の言葉は生きている。 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12)以前にも説教の時に申し上げたことがありますが、「言葉」をギリシア語で言うと「ロゴス」になります。ところで「ロゴス」は言葉を意味するとともに「考え、思い、理屈、思想、意見、説明」などの意味も持ちます。つまり、主の言葉としてのロゴスは、主なる神の「思い、理屈」とも言えるでしょう。ですから、先ほどの説教で主の言葉を主の思いとも申し上げたのです。新約聖書ヨハネによる福音書は、このように語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) つまり、神の御言葉が肉体となって、私たちに来られた神の子イエス·キリストは、主なる神の思いと理屈を人間に完全に伝える主のロゴスとして私たちの間に一緒におられるのです。牧師の説教は、この主なる神の思いと理屈を完全に表されるイエス・キリストとその御言葉をありのままに伝えなければなりません。説教に通して宣べ伝えられる主の御言葉によって人間は御言葉どおりに望ましく変わることができるからです。 日頃、私たちは、主の御言葉の働きを力強く感じて生きるのが容易くありません。聖書を読んでもその意味が分かりにくく、毎日御言葉を黙想しても圧倒的な人生の変化を経験するのは難しいです。しかし、毎日少しずつの御言葉からの小さい学びによって、私たちの人生は少しずつ主の御心に気づいていき、その御心に従って生きるようになります。隣人を愛しなさいという繰り返しの主の御言葉は、私たちの生活にあって隣人を配慮しなければならないということを思い出させます。常に祈りなさいという御言葉は、心の中に「祈らないと」という聖なる負担感を与えます。主の御言葉に隠れている神の思いと理屈は、私たちの人生でいっぺんに大きな変化を起こすことはなくても、小さな変化が続く呼び水になることはできます。そして、その小さな変化が積もっていき、ある瞬間(あるいは神の時が来れば)、私たちの人生に大きな津波のように力強く働き始めます。神の言葉は生きており、力を発揮して働くからです。今すぐはかすかに感じられても、決定的な瞬間に私たちの人生に強く働いて著しい変化をもたらします。その時になれば、まるで両刃の剣のように、いや、それ以上鋭く、私たちの心と良心と思いを刺し通して、主の御前に悔い改めさせ、神の御心を推し量らせ、人生の変化にまでつながらせるようになるのです。 3。だからこそ、聞かなければならない。 そういうわけで、使徒パウロはこう語ったのではないでしょうか? 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17) 私たちは御言葉を聞かなければなりません。御言葉が聞き取れるか、聞き取れないかを問わず、私たちは常に御言葉に耳を傾けなければなりません。今日、聞いた御言葉が、すぐに私たちの人生にあって働くかもしれませんが、すぐに働かないと言っても、御言葉の小さな一片一片が集まって、自分の人生を変える津波になって戻ってくるということを常に心に留めて生きていきたいと思います。御言葉は喜びのない者と絶望に陥っている者に、主なる神の思いが世の思いと違うということを、諦めたい者に新しい道が開かれているということを知らせる希望の道具です。今すぐ変化がなくても、いつか神の時になれば、大きな変化を起こす、主なる神の大事な道具です。御言葉は生きています。聖霊なる神が御言葉を用いられ、私たちの人生を美しく導いていかれるからです。ですから、私たちは、毎日、主の御言葉を読み、その御言葉に聞き従い、主の思いを待ち望みながら生きていかなければなりません。生きている神の言葉は、今日も私たちと共にあり、私たちの人生を正しい道へと導きながら生きています。 締め括り 改革教会には非常に重要な二人の人物がいます。一人はアウグスティヌスであり、一人はマーティン・ルーサーであります。アウグスティヌスはプロテスタント教会、カトリック教会を問わない初期キリスト教会の教理を整理した尊敬される神学者です。マーティン·ルーサーは宗教改革の核心的な人物で、プロテスタント教会の歴史上、最も重要な人だと評価されます。この二人の共通点は偶然のきっかけでローマ書の言葉を読んだところにあります。二人とも、ローマ書の言葉によって人生が変わり、偉大な業を果たす勇気を得たのです。彼らのような偉大な人物でなくても、窓からの風で聖書が開き、そのページの偶然の言葉を読んで回心したり、信仰を持ったりしたとの証は数え切れないほど多いです。御言葉は聖書に記されており、動けない文字にすぎないと思われがちですが、神はその御言葉を通して、教会の歴史を導いてこられました。私たちも主なる神の御言葉を聖書の中の文字だけに思わず、自分の人生の中で力強く働けるように毎日毎日聖書を読み、学びつつ生きていきましょう。主なる神の御言葉は生きており、御言葉を大事にする私たちの人生にあって働いてくれるでしょう。

草は枯れ、花は散るが。

箴言16章9節(旧1011頁) ペトロの手紙一1章23~25節(新429頁) 前置き 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。中国南宋時代、胡寅(こいん)という儒学者が残した言葉で、「人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる」という意味です。南宋時代は西暦1098年~1156年頃ですが「人事を尽くして天命を待つ。」と似たような聖書の言葉がそれより数千年も前からありました。南宋時代は中国宣教が始まる数百年前ですので、聖書の影響で生まれた言葉ではないでしょうが、「人事を尽くして天命を待つ」という思想は古今東西を問わず、人々の一般的な認識だったようです。人事を尽くして天命を待つ。もしかしたら、とても聖書的な言葉であるかもしれません。今日は、箴言の言葉を通じて聖書的な「人事を尽くして天命を待つ」について考えてみたいと思います。 1. 自分の思い通りにならない人生。 何日前、妻と会話する時、心に迫ってくることがありました。「最近のあなたは来日したばかりの頃より冷めているよね」でした。最初、協力宣教師として赴任した頃は、情熱的に宣教と伝道を考え、熱心に説教と祈祷会の準備をしたあまり、過労で倒れそうに見えたが、最近はそんなに熱くないということでした。考えてみれば、本当にそうかもと思いました。志免教会に来て1年あまりの頃、私の説教は50分に近いほど長く、水曜祈祷会を2時間した時もありました。まるで、明日はないかのように何でも熱心だったと思います。しかし、時間の経ちにつれ、教会の人数は増えず、特にコロナ時代を経て、明確な変化なしに高齢化は進み、何人かの新しい方々は落ち着かず遠ざかってしまい、いろんな状況にがっかりするようになり、その結果、情熱も以前より冷めているかもしれないと思いました。最初の期待とトキメキが消えていきつつ、毎週の説教作りと皆さんとの最小限の交わり、中会の仕事だけで満足する消極的な自分になっているのではないか顧みることになりました。 なぜ、そうなってしまっただろうか、じっくり考えてみたら、「時間の経ちにつれて人は増えるだろう。目に見える結果があるだろう。」という自分の願いが叶わなかったのが原因ではないかと思います。いつも、教会は神の御心による共同体だと説教し、私自身もそう考えていましたが、結局、私は自分自身の願いが早く叶わないことで、知らず知らずに疲れてしまったかもしれません。私だけでなく、多くのキリスト者が自分の思い通りにならない現実のため、疲れてしまうかもしれません。長い間の祈りに神の答えは聞こえず、大きな変化もない人生に両手上げする人もいるかもしれません。長年、信仰生活をしてこられた、皆さんにもそのような経験がおありかもしれないと控えめに考えてみます。本当に私たちの人生は最初の計画や考えと違う結果につながる場合が多いです。そのような状況の中で、私たちは主なる神が本当に自分の祈りを聞いておられるのか、さらには神という存在が本当にいるのかと、信仰的な懐疑に陥るようになるかもしれません。しかし、人々のこういう悩みが、すでに遠い昔にもあったかのように、箴言はこう語っています。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9) 2. 人間の計画と神の計画。 以上の言葉は、「人間が自分の道を計画すれば、神がその道を備えてくださる」のふうに読まれるかもしれません。しかし、原語のニュアンスはそれとは異なります。「人の心は積極的に自分の道を計画する。しかし、結局その道は主の御心にかかっている。」のほうが原文により近い意味だと思います。つまり、人が自分の心に立派な計画を立てても、結局そのすべては神の御心によって定められるということです。だから、私たちが計画を立てても、その計画通りにならないのは当然であるかもしれません。自分は100歳まで生きると決めても、今夜主に召されるかもしれないのが私たちの命です。幼い頃は皆に自分の夢があるでしょうが、すべての人がその夢を叶えるわけではありません。2019年に協力宣教師として赴任した私は、志免教会に新しい信者が増え、子供たちも来ると信じて祈りました。しかし、私が計画した通りにうまく行かなかったのです。そのため、がっかりしなかったとは言えないのが事実です。そして、だれにでもそんな経験があるかもしれません。 しかし、箴言は、すでにそのようなことについて語っています。もしかしたら、私たちの計画と考えが、思い通りにならないのはすごく自然なことであるかもしれません。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」(箴言20:24)人の計画には成し遂げられない可能性があり、私たちの人生は不確実性の中にあるということです。今日の旧約本文もそのような観点から理解する必要があります。私たちの計画は神の御心を超えることができません。神の御心とは何か、私たち自身は神ではないのではっきりは分かりません。しかし、神の御心が、すなわち神のご計画であるのは分かります。つまり、私たちの計画は神の計画のもとにあるとき、完全になります。私たちの思いでは、教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるのが正しいかもしれません。しかし、神の計画ではすぐに教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるよりは、小さな群れ、見えない未来の中でも、主なる神の民として、自分のあり方を守りつつ生きるのがより神の御心、ご計画に近いのであるかもしれません。したがって、私たちは自分の計画が成し遂げられないんだとがっかりする前に、神の計画は何であり、主が私たちに本当に望んでおられることは何であるかをまず考えならなければならないと思います。 3. 草は枯れ、花は散るが、主の言葉は永遠に変わらない。 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(1ベドロ1:23-25) 今日の新約本文ペトロの手紙1は、今のトルコ地域に住んでいた初代教会のキリスト者たちへのペトロの教えです。当時、その地域のキリスト者たちはローマ帝国やユダヤ人たちの迫害によって辛い時を過ごしていました。誰かは教会と家族の平和のために祈り、誰かは自分の信仰を守るために祈ったでしょう。しかし、状況はそう簡単に改善されませんでした。一緒に礼拝していた兄弟姉妹の中で、背教して礼拝をやめる人も生じ、苦しい迫害に気がくじけて信仰を捨ててしまう者もいました。ペトロはそのように迫害される者たちにこう語ったのです。「あなたたちがイエス·キリストによっていただいた信仰は朽ちるものではなく、朽ちないものである。なぜなら、その信仰は主の御言葉によって与えられたものだから。すべての肉体は草のようで、その華やかさも花のようで、すべては枯れていくだろう。しかし、主の御言葉は永遠に変わることなく、あなたたちと共にあるだろう。」 人生を生きながら、自分の思い通りにならない現実と向き合う時がきっと迫ってくるでしょう。長年、信仰を続けてこられた皆さんは、何度も経験された、すでに知っておられる事実であるもしれません。しかし、聖書は語ります。「自分の思い通りにならないことにがっかりせず、それにもかかわらず、私たちのためのご計画を備えておられる主に信頼しなさい。」私たちの目に良くないのが、実は、主の御目には良いものであるかもしれず、また私たちの目に正しいのが神の御目には正しくないものであるかもしれません。良いことと悪いこと、正しいことと正しくないことの判断は、主なる神の事柄です。箴言16章25節は、このように述べています。「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。」私たちは自分の目と考えを盲信してはなりません。主が何を望んでおられるのか、どんな計画を立てておられるのか、弱い私たち人間は絶対に分からないでしょう。しかし、少なくとも私たちの考えと計画が草と花のように枯れ散っても、私たちを助ける、主の御言葉は永遠にあり、私たちの道を導くことを信じて生きたいと思います。神は永遠に私たちを見捨てられず、御言葉通りに導いてくださるでしょう。その主なる神への信頼によって、決して順調でないこの世を生き抜いて進みたいと思います。 締め括り また、最初の話しに戻って、キリスト者にとって「人事を尽くして天命を待つ。」という言葉はどういう意味なのでしょうか。キリスト者に与えられた、全うすべき人事とは、神に出会い、神を知り、神を信じ、その方と共に生きることです。私たちは自分の願いを叶えるために神を信じているわけではありません。それは付随的なことであって、信仰の真の理由は「神と共に生きること」にあります。ですから、神を信じるからといって、私たちのすべての願いが叶い、すべての状況がうまくいくとは限りません。主なる神に出会って(肉体的に)うまくいく人もいれば、神に出会ってもうまく行かない人もいます。重要なのは自分に託された人生を全うして神と共に生き、その結果は一生の間、私たちと共におられる神に任せるものです。私たちは草と花のように弱い存在で、枯れ散っていきます。けれども、主の御言葉は永遠にあって私たちの道を導き、終わりには必ず豊かな祝福で報いてくれるでしょう。それを信じる人生の旅路が、真の意味の信仰の道ではないでしょうか。