ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)

創世記22章1~14節 (旧31頁) ヘブライ人への手紙9章23~28節(新411頁) 前置き 主なる神は、他者の助けを必要とされない方です。神は、三位一体の権能のみで世界を創造し、導き、罪と悪とを裁き、ご自分の民を救ってくださる方です。私たちは「他者の助けを必要とせずに」神はお働きになるということを絶対に忘れてはなりません。それでは、なぜ、神はご自分の民を呼び寄せ、主の教会を打ち立てらせ、教会を用いられ、世界を導いていかれるのでしょうか? それは、神がご自分の民にくださる賜物なのです。私たちは神を助けるために集まり、礼拝と讃美をささげ、伝道するわけではありません。神はいつも他者の助けなしにご自分で働き、すべてを成し遂げていかれる方です。神がご自分の民を用いられる理由は、助けが必要だからではなく、主によって救われた民に神の栄光のために生きる機会を賜物としてくださるためです。ですから、私たちは神を助ける者ではありません。むしろ、私たちが神に助けられて生きるのです。「ヤーウェ・イルエ」は「主は備えてくださる」という意味のヘブライ語です。私たちは信仰生活を「神のために何かを備える」として理解してはなりません。信仰生活は徹底的に神が備えてくださる恵みと愛とをいただいて生きることであり、その一環として主なる神は私たちに地上での礼拝を許してくださったのです。 1. 主なる神がアブラハムを試された。 今日の旧約本文は、神がアブラハムを試される出来事から始まります。「神はアブラハムを試された。神が、アブラハムよと呼びかけ、彼が、はいと答えると、神は命じられた。あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22:1-2)前回の説教で、私たちは「神は人を誘惑されない。」という言葉を学びました。「誘惑に遭うとき、だれも、神に誘惑されていると言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」(ヤコブ1:13) 前回の説教で聖書に出てくる「誘惑」と「試練(試み、試し)」は同じ原文を使うと話しました。文脈によって「誘惑」か「試練」に分かれるということでした。神は「試し(試練)」は与えられますが、決して「誘惑」される方ではありません。悪事をさせる誘惑は、完全な善でおられる神にありえない概念です。神は誘惑としての「試し」ではなく、信仰の成長のためのテストとしての「試し」だけを与えられる方です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13) 主なる神からの試練は、悪事を引き起こす「誘惑」とは違います。神からの試練は、ご自分の民を鍛えさせる訓練であり、民を倒すためではなく、むしろより健全で堅い信仰を養う養分になります。もし、自分が、神からの試練の中にいると思われたら、それは神が自分に害を及ぼそうとする意図ではなく、自分の信仰を大切にしておられるという証として受け止めたらと思います。神からの試練は、敵への刑罰ではなく、子供への戒めのようなものだからです。そして何よりも、神は試練の真ん中に共におられ、ご自分の民の苦難を知らないふりされない方です。むしろ、神は民に逃れる道を備えてくださる方です。ある日、アブラハムは神の御声をいただきました。「あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」すなわち「私のためにあなたの息子を殺せ。」という命令でした。アブラハムにとって、イサクはどんな息子だったでしょうか。アブラハムと本妻であるサラの間には、一生、子供がいませんでした。神は必ず息子をくださり、彼によって多くの子孫を与えると約束されましたが、アブラハム自身も妻のサラも、すでに白髪の年寄になっていました。子供をもうけるには、常識的にありえない状態だったのです。 しかし、神は2人の肉体的な限界と常識的な限界を跳び越え、結局アブラハムが100歳、サラが90歳になった時、息子「イサク」を与えてくださいました。人間の常識では、ありえない、かけがえのない貴い息子が、このイサクだったのです。なのに、今日、神はその貴い息子「イサク」を神への献げ物としてささげなさいと言われたわけです。子どものいない私には、子どもの死ということの意味がまったく分かりません。にもかかわらず、もし息子がいて、アブラハムのような命令を聞いたとしたら、神に逆らって信仰をあきらめるかもしれません。口先では簡単に何でも捧げますと言えるかもしれませんが、実際に、そんな命令があれば、絶対にそうはいかないと反発したでしょう。しかし、アブラハムは、私よりはるかに高いレベルの信仰を持っていたようです。神の御言葉に聞き従い、自分の大切な息子イサクを連れて神に言われたところに赴いたからです。神がこのような命令をされないと信じていますが、このような試練をうける時、私たちはどのように反応すれば良いでしょうか? 私はこの言葉を頼りにしたいと思います。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13) 2. 神がアブラハムの信仰を確認された。 この出来事について聖書はこう語ります。「この独り子については、イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれると言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」(ヘブライ11:18-19) 神はイサクを殺す意図でアブラハムに息子を捧げろと命じられたわけではありません。神はすでに何度もイサクという息子を通して、アブラハムの多くの子孫が出ると約束されたからです。それが前提になるためには、イサクは必ず生き残って、息子をもうけなければなりません。つまり、イサクが死ぬというのは、神の約束が成し遂げられないということです。アブラハムは主なる神の約束を信じ、イサクが死んでも神は必ずイサクを生き返らせ、約束を守ってくださると神を堅く信じたのです。最初から神の計画にはイサクの死などありませんでした。神は約束の結果であるイサクより、約束の源である神をより大切にするかどうか、アブラハムの信仰を確認することを望んでおられただけです。「アブラハム、アブラハムと呼びかけた。彼が、はいと答えると、御使いは言った。その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」(創世記22:11-12) 神は本当に息子を殺し、焼き尽くす献げ物としてささげようとするアブラハムをご覧になり、彼の信仰を確認されました。そして、イサクが死なないように急いでアブラハムの手を食い止められました。神とアブラハムの約束は、イサクの生まれで終わりではありません。イサクの生まれは、神の約束のごく一部に過ぎません。神はアブラハムの信仰を確認することによって、イサクの生まれから始まった真の約束の成就を本格的に進めていかれました。神はご自分の民の信仰を確認される方です。その信仰の確認のために、時には私たちの人生に試練(試み、試し)を与えられる時もあります。アブラハムは、息子でさえ惜しまない信仰によって神からの試練をパスしました。神は、信仰の確認のために、私たちにもアブラハムのような試練をくださるかもしれません。私たちに、信仰の確認のための試練が与えられたら、私たちはどのように対応していけばいいでしょうか。ある意味で、私たちに与えられる苦難は、今日のアブラハムに与えられた神からの試練のようなものであるかもしれません。 3. イエス·キリストの苦難と試練を憶えて。 レント期間の終わりが近づいています。来る金曜日はイエス·キリストの十字架の苦難を記念する受難節となります。主なる神は、ご自分の民だけに試練を与え、苦しめる方ではありません。ご自分の独り子、御子イエス·キリストに「あなたの命を捧げて、わたしの民を救いなさい。」という残酷な試練を先にお与えになりました。そして、イエス·キリストは残酷な苦難の中でご自分の命を捧げ、神からの試練を堂々とパスされました。その結果、主イエス·キリストは教会をはじめ、この世のすべてをご統治なさる真の王になられたのです。神からの試練があるということは、私たちが神のお憐れみと愛との中にいるという証です。神は、決して愛しない者に試練を与えられず、試練を経験しない者は未来に向かって進むことができません。今日の本文に、このような言葉があります。「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(創世記22:13) 神は雄羊一匹を送られ、イサクに取って代わる献げ物にしてくださいました。神はご自分の民の試練の前に、先にご自分の息子、子羊と呼ばれるイエスを試されることで、ご自分の民が試練を乗り越えるように逃れの道を開いてくださったのです。イサクの身代わりに雄羊をくださったように、私たちの身代わりにご自分の独り子を犠牲にしてくださったわけです。そして、その方は復活されました。したがって、苦難にあう私たちはキリストが先に試練を受け、乗り越えたことを憶え、主イエスに従って前を向いて進んでいかなければなりません。神が主イエスを備えてくださり、その方によって私たちの進むべき道を開いてくださったからです。 締め括り 先週の水曜日には、九州中会の定期中会がありました。志免教会だけでなく、各地の教会、伝道所にも多くの試練と苦難があることが分かりました。しかし、今日の説教を準備しながら神が九州中会を、いかに愛しておられるかが分かりました。苦難と試練があるということは、神が私たちをあきらめずに愛しておられるという良い兆しだと思います。主なる神は、イエス・キリストによる恵みとして、私たちに苦難と試練を乗り越える勇気と力とを与えてくださるでしょう。レントの期間、そして受難節を過ごし、来週の復活節(イースター)を準備していきたいと思います。苦難と試練の末に復活されたイエス·キリストを憶え、私たち志免教会の兄弟姉妹たちも勇気を持って信仰生活を続けていかれたらと思います。主なる神の恵みが志免教会に連なる皆さんの上に豊かに注がれることを祈り願います。