主イエスの祈り(完)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 今日は、マタイによる福音書の山上の垂訓の中で、主イエスが教えてくださった祈りについての最後の説教をしたいと思います。私たちは、今までの説教を通して、他人に自分の信仰を見せつけるための祈りではなく、ひとえに「神と自分」という両者の真の対話として祈らなければならないということを学びました。つまり、主なる神に人格として接し「素直、淡白、明確」に祈ることが何よりも大事であるということでした。その後は主イエスが、ご自身で「主の祈り」を通して、どのような祈りが望ましいのかについて教えてくださいました。「神へのほめたたえと栄光を帰す祈り」「主の御心にあって私たちの必要を求める祈り」を通じて、キリスト者なら、神の御旨にかなう祈りを追い求めなければならないということが分かりました。今日は「主イエスの祈り」その最後の時間です。主イエスが教えてくださった祈りによって、私たちも主に倣って祈ることができれば幸いです。 1.こころみ(誘惑)にあわせず。 神へのほめたたえと栄光を帰す祈りの後、主イエスは「日用の糧をあたえたまえ」という、主の民の必要についての祈りも教えてくださいました。(前回の説教のあらすじ)しかし、その糧を求める祈りは極めて短かったです。「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という割と長い、讃美の祈りの後に「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」という、たった一言くらいの私たち自身の必要のための祈りが記されているだけです。もちろん、人には、この世を生きるための最低限の必要があります。そのために、人はお金を稼ぎ、それが度を越えて欲張るようになってしまいます。しかし、主はその必要というのを重く考えておられないようです。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(2ペトロ3:10)いつか、この世の富は、主の裁きによって全て意味を失ってしまうという終末的なキリスト教のことわりのためではないかと思います。ですから、イエスは物質的な必要より霊的な必要のほうが、さらに大事であると考えてくださったわけでしょう? そのため、体の必要を求める祈りのすぐ後に霊的な事柄である赦しについての祈りがおかれているかもしれません。 そういう意味として、今日学ぼうとしている「こころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」も「霊的な祈り」であると言えるでしょう。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:13前)、私たちの必要を求める祈りより、さらに長くて重要に書いてあるのが、前回の説教で学んだ「隣人への赦し」、そして今日の「こころみ(誘惑)と悪からの救い」です。今日の聖書の本文には「誘惑」と記してあり、志免教会が使う主の祈りには「こころみ」と書いてありますが、ギリシャ語の原文は同じ言葉を使っています。文脈によって意味が変わるからです。しかし、ヤコブの手紙1章13節は語ります。「誘惑に遭うとき、だれも、神に誘惑されていると言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」神は誰にも悪意を持って誘惑「こころみ」に遭わせる方ではありません。 もし、神がこころみられるならば、それは苦難の中で民の信仰を成長させるための「善意の試み」であるでしょう。ですから、主の祈りに記されているこの表現は今日の聖書のように「邪悪な存在の誘惑」と理解するのが正しいと思います。それでは、邪悪な存在とは誰でしょうか? 2. 悪より救い出したまえ。 聖書は、人間が創造されるも前から、神に逆らって裁かれた「邪悪な存在」があったかのように語っています。(ユダヤの黙示文学、カトリックのエノック書、外典、偽典など) その邪悪な存在は「アダムとエヴァ」が善悪を知る実を食べて堕落するようにした「蛇」。あるいは、ヨハネの黙示録で主なる神と教会に敵対する「竜」。 または、エフェソ書2章2節の「空中に勢力を持つ者」のことかもしれません。 私たちは、この「悪い者」を分別しやすいと考えるかもしれません。「バケモノ」や「鬼」のような不気味な存在が思い起こされるからです。しかし、聖書は語ります。「サタン(神に逆らう者、邪悪な存在、悪魔)でさえ光の天使を装うのです。」(2コリント11:14) 悪は私たちの全く分からない方法で私たちを欺き、誘惑して、私たちが罪を犯すよう世を操っていきます。私たち教会は、その「悪」が支配する裁かれるべき世の中で、主の民として生きている存在です。私たちは自力で悪に勝つことも、そのしわざを見抜くこともできません。だから、私たちは、自分も知らないうちに悪の「誘惑」のもとにおかれてしまうのです。主イエスは、私たちの弱さがすでにお分かりで、主なる神が私たちを憐れんでくださり、助けてくださるように祈りなさいと教えてくださったのです。私たちは悪が支配する世に生きる神の民です。私たちは自力では、彼らを知ることも勝つこともできません。だから、私たちは主なる神の助けを求め、主によりかかって生きるべき存在なのです。 しかし、私たちは「悪」という存在、「邪悪な者」という存在が悪いからといって、彼らだけのせいにして、私には責任がないと言うべきではありません。前も何度もお話ししましたが、悪の誘惑を受け入れるかいなかは、他の誰でもない私たち次第だからです。悪魔は自分の手で悪を行うより、人間を誘惑して自分の支配下におき、操るのを好んでいるからです。その誘惑を受け入れることも、断ることも私たち自身にかかっています。しかし、その誘惑はあまりにも強烈なものです。他人を愛するより憎むのが容易く、他人のために自分が損するより、自分のために他人が損するのが良いと考えるのが人間の一般的な思いです。そのような誘惑の世だから、主イエスは悪の誘惑に陥らないように主なる神の助けを求め、その悪から自分を救ってくださることを祈りなさいと命じられたのです。聖書に記してある、主の御言葉を通じて、私たちはこの世が悪に支配されており、私たち自身もその悪の誘惑に負けやすいということが分かります。だから私たちは、毎日主なる神に祈らなければなりません。「罪を犯させる悪の誘惑から私たちを守り、自力で悪に勝てない私たちを救ってください。」祈りによって助けを求め、御言葉によって私たち自身を顧み、信仰によって悪の誘惑に抵抗する力を得て生きる私たちであることを祈ります。 3.国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 最後にイエスはもう一度、神をほめたたえ、栄光を帰す祈りによって、主の祈りを終わらせられます。つまり、主イエスの祈りは始まりも、終わりも、主なる神をほめたたえ、栄光を帰す姿勢を保っているということです。私たちの祈りが、短くて慣用句的な「ご在天の父なる神さま、主の御名を讃美します。」のような一言で始まり、「あれもしてください、これもしてください。 主の名前によって祈ります。」で終わるのとは非常に違います。もう一度申し上げたいですが、祈りは神と自分、両者の対話なのです。夫婦、親子、恋人が「あれしてくれ、これしてくれ」ばかりで対話することはありません。時には励まし、愛すると言い、口げんかもし、日常の話もするように、私たちも神との対話である祈りの時に、神に愛を告白し、苦しみと辛さで嘆き、感謝もし、極めて平凡な話しもしながら、神を人格として接するべきです。 それにより深い関係を結んでいくのが望ましい祈り方ではないかと思います。それに加えて、成熟したキリスト者ならば、それらのすべての上に神をほめたたえ、栄光を帰す祈りで祈りの始まりと終わりを作っていくべきだと思います。この世が悪の支配のもとにあると言ったのですが、しかし、それは神の許可のもとにある事柄です。つまり、悪の支配にはいつか終わりがあるということです。彼らの権勢は限界があるということです。真の権勢は神のものだからです。そして、終わりの日、主はすべての悪を裁かれ、主の栄光の中にご自分の民を導かれるでしょう。国と力と栄光は唯一の主なる神のものだからです。私たちは、その国と力と栄光の主の民だから、主なる神に、何の差支えもなく祈ることが出来るのです。 締め括り 以上、5週間、マタイによる福音書の主イエスの祈りについて考えてみました。主の祈りを通じて、決まり文句みたいな私たちの祈りを改善し、神とのより深い対話としての祈りに発展させていきたいです。最近、我が教会には祈るべき課題がたくさんあります。肉的、心的に弱まっている方々が多く、主なる神への願いも多くなってきています。しかし、このような時こそ、主イエスの祈りにならって、より一層主をほめたたえ、栄光を帰し、主のお導きを信じて、信頼を持って祈っていきたいと思います。主なる神が志免教会のすべてを、一番御旨にかなう方向に導いてくださることを願います。私たちの祈りの中に働いておられる神に信頼します。