悔い改めの実を結ぶ。

ルカによる福音書3章1~20節(新105頁) 前置き 私たちは今、イエス·キリストの苦難と復活を記念するレント(四旬節)の期間を過ごしています。レントはイエス・キリストの苦難を記憶するために「灰」(イスラエルの文化で、灰は涙と悔い改めのイメージを持っている。)を額に塗って祈る「灰の水曜日」(2月14日)からイエスの復活を記念する「復活節(イースター)」(3月31日)までの約40日間を意味します。この期間は大昔から代々の教会がイエスの苦難と復活とを失念しないで、記念するために守ってきたキリスト教の長い歴史の伝統であります。もちろん、聖書に記録された、神の命令ではありませんが、代々の信仰者たちは主の苦難と復活を黙想し、自分を顧みる機会として守ってきた大切な伝統なのです。今日は「主イエスの祈り」の連続説教を休んで、レント期間にふさわしい説教によって聖書の言葉を話してみたいと思います。私たちの罪を振り返り、信仰を堅くするレントになることを祈ります。 1。希望のない時代にも主の御言葉は与えられる。 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(ルカ3:1-2) 今日の本文は、当時のイスラエルが、どのような状況であったのかを詳しく説明しています。ティベリウスはローマの第2代の皇帝です。ローマ帝国が地中海地域を掌握し、他の国々を植民地にしている時代でした。イスラエル地域には、総督のローマ人「ポンティオ・ピラト」が派遣されており、他民族出身のヘロデ家の人々がイスラエルを分けて支配していました。ヘロデ家はイスラエル人の王女と結婚したエドム民族(アブラハムの息子イサクの長男エサウの子孫) 出身者の子孫だったので、イスラエル人はヘロデ家の支配に抵抗がありました。例えば、もし、日本がアメリカの植民地に転落して滅び、他国出身の乱暴な王が天皇家の女性と結婚してアメリカの許可を受け、日本を厳しく支配するとしたら、日本人の心はどうなるでしょうか? それが当時のイスラエル人の心だったのです。 だけでなく、イスラエル人を代表する「大祭司」はローマの権力にこびついて、権力を振るい、律法もまともに守っていませんでした。政治、経済、宗教的にイスラエルは完全に抑圧下にあったわけです。何の希望も、力もない状況です。イスラエルの民衆は何もできず、指導者はイスラエル民族の味方でなかったのです。しかし、そのような暗黒時期にも主なる神は御言葉をくださいました。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」阿鼻叫喚のような残念ばかりの状況でも、主は御言葉をくださったのです。幸いなことに、現代を生きる私たちには、主の御言葉が記されている聖書があります。悲しみと苦しみにより、嘆きばかりしては変わることが何一つありません。困った状況の時こそ、主の御言葉を黙想しつつ祈るべきです。私たちの最も困難な時が、主の御言葉から最も大きな恵みを受ける機会であるかもしれません。神は洗礼者ヨハネを通して、主の御言葉をくださり、最終的には「神の御言が肉となった。」と言われるイエス·キリストを遣わしてくださいました。 2.悔い改めの実を結ぶ。 「そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだなどという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:7-9) ところで、その主の御言葉はやさしいものではありませんでした。「蝮の子らよ。」この言葉は、当時のイスラエル地域にあって、最も厳しい毒舌だったと言われます。しかも、受洗のために来ている信仰者たちへの毒舌です。新約聖書のヘブライ人への手紙には、次のような言葉があります。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12) 神は決して慰めだけの方ではありません。 時には、間違っている子供を厳しく戒める父親です。良い父親は無条件に慰め、子供の過ちを見過ごすものではありません。小遣いだけたくさんあげて、子供がどうなっても何の干渉もない無関心な存在でもありません。是非を問うて、正しい道に進むように助けることこそが本当に良い父親のあり方です。 神は罪を犯した子供が自分の罪に気づいて告白し、悔い改めることを望んでおられます。悔い改めしないからといって、愛していないわけではありません。神は私たち人間という存在自体を愛しておられます。「悔い改めをしたから愛し、悔い改めしなかったから愛していない。」のような条件的な方ではありません。しかし、罪を悔い改めない存在は神の恵みに入ることができません。自らの罪を悔い改める時に、より大きな神の恵みに入るようになるのです。したがって、悔い改めは神と民のお交わりのための最も基本的な段階です。だから悔い改めなければなりません。牧師は皆さんの幸せや良い気持ちだけのために、甘い説教をしてはいけません。時には聖書の御言葉に基づいて、皆さんがプレッシャーを感じられるほど、厳しい説教もしなければなりません。それにより、私と皆さんが悔い改めに進むことができるように、御言葉による正しい道を提示しなければなりません。私たちにまだ悔い改めていない罪があるかどうか考えてみましょう。そして、このレントの間、私たちの罪を赦し、父なる神との和解のために代わりに死んでくださったイエス・キリストの愛を憶えましょう。レントは罪を顧み、悔い改める時間です。ヨハネの手紙一の1章の言葉「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」を記憶しましょう。 ところで、洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言います。これはどういう意味なのでしょうか? 「そこで群衆は、では、わたしたちはどうすればよいのですかと尋ねた。ヨハネは、下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよと答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、先生、わたしたちはどうすればよいのですかと言った。ヨハネは、規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、このわたしたちはどうすればよいのですかと尋ねた。ヨハネは、だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよと言った。」(ルカ3:10-14) 悔い改めは反省や後悔とは違います。これまでしてきた間違いをやめ、より良い信仰の生き方に変わっていくことです。例えば、虚しい欲望ばかりだったら欲望を減らし、人を憎んでいたら憎しみを減らし、嫉妬が多かったら嫉妬を減らすことです。早速に変わることは難しいですが、引き続き、主の御言葉にふさわしく変わっていこうとの志を持って生きるのです。イエス·キリストはご自分を嫌い、憎み、殺そうとしている者たちを赦してくださいました。十字架上でも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのです。レントの期間を通して、このイエスの生き方に倣い、私たちも悔い改めつつ自分の間違いを減らしていくよう力を尽くしましょう。その中に悔い改めにふさわしい実は結ばれていくのではないでしょうか。 3.イエスだけが神から遣わされたメシア。 洗礼者ヨハネが悔い改めを宣言したとき、人々は彼が神から遣わされると記されたメシアではないかと思いました。しかし、洗礼者ヨハネは、さっそく彼らの心を見抜いてこう言いました。「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」(ルカ3:16)人々には絶対的な人に憧れる傾向があります。「自分はできないが彼はできる。」となりやすいです。それで、時には誰かを必要以上に憧れるようになりがちです。数多くの異端団体は、リーダーに憧れ、彼を神にしてしまった堕落の結果です。神がお許しになった真のメシアは「イエス·キリスト」おひとりだけです。誰もイエスに代わって神とか、主とか、御使いとかになることは決してできません。ですから、ある団体の代表、志免教会で言えば牧師にあまりあこがれたり、拠り所にしたりしないでください。宗教指導者はただ一介の人間に過ぎない存在です。いつでも失敗し、躓きやすいただの人間なのです。神はひとえに「イエス·キリスト」だけをメシアとして認めてくださいました。皆さんが頼れる唯一の存在は誰でもない、イエス·キリストだけです。 締め括り 3月が始まりました。3月31日がイースター礼拝の日ですが、それまでレント期間は続きます。レントだからといって、それにかかわる説教ばかりするつもりではありませんが、それでも、皆さんは、この3月がレントであることを憶え、私たちの罪を赦し救ってくださるために来られたイエス・キリストの苦難と復活を記念されることを願います。苦難が大きければ大きいほど、主の御言葉の力もさらに大きくなります。 主の御言葉を頼りにしましょう。悔い改めれば、悔い改めるほど、神の恵みは深まります。悔い改めの生活を見に付けましょう。イエス·キリストおひとりだけが私たちを救い、助けになってくださる唯一のメシアです。イエス·キリストだけを私たちの拠り所にしましょう。今年のレントの間、主なる神が志免教会の兄弟姉妹に豊かな恵みと愛とを与えてくださるように祈り願います。