主イエスの祈り。(3)
マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 私たちは前回の説教で、主の祈りの最初の部分について取り上げて話しました。まず、私たちは父なる神が天におられる方であり、その天とは被造物が近づくことのできない神の権能を意味するものであると学びました。さらに感謝すべきことは、被造物が近づくことのできない、天におられる権能の神が、イエス·キリストによって私たちの真の父になってくださったということでした。また、私たちはその神の御名を聖別して崇めるべきであるとも学びました。聖書において「名前」とは、ある存在そのものをあらわす大事なものです。神の御名が崇められるということは、神が聖別された存在で、尊敬と尊重をささげられるべき方であるということを意味します。私たちは全能と権能の神を父としている主なる神の民です。私たちはこの世がしない、また、できない神への尊敬と尊重を通して神の民にふさわしく生きなければなりません。イエスは主の祈りを通して、私たちの欲望と願いだけを望むわけではなく、そのすべてのことに先立って神に栄光を帰すことを優先的にすることを教えてくださいました。主の祈りを通じて教えていただいたイエスの祈り方によって、私たちの祈りにも良い変化がありますように祈ります。 1. 御国を来たらせたまえ。 その次、イエスは「御国」が到来することを祈ります。「御国(神の国)」私たちは天国や楽園を考えがちです。実際、御国には天国や楽園の意味も含まれています。しかし、より明確に言えば、「御国」とは、神のご支配が完全に成し遂げられるすべての状況と場所を意味します。前の説教で「御国すなわち神の国」は場所ではなく概念であると申し上げたことを覚えています。どこかに行ったら「御国」があるということではなく「神の御心が成し遂げられるすべての状況と場所」がすなわち神の国、御国になるのです。しかし、何度も申し上げましたように、この世は、主なる神に逆らい、神を無視するところです。全人類が神を知り、神を信じ、互いに愛しあい、協力しあい、助け合い、いつも喜び、絶えず祈り、すべてにおいて感謝して生きることが神の御心に含まれている人のあり方ですが、この世は反対に神を冒涜し、人間互いに憎み合い、争い合い、破壊しあい、悲しみと苦しみを作り上げていく、感謝のないところです。この世は神の国(御国)と全く逆の方向に向かっているのです。 このような世が神によって変わり、神の御心にふさわしい場所になっていくことが神の民、教会の祈りの課題にならなければなりません。そして、その神の御心を完璧には出来ないが、何とか役に立つようにと努力して生きる教会の生き方が、御国の到来を願う私たちのあり方ではないかと考えるようになります。まことに御国が来ることを願います。みんなが喜び、悩みもなく、悲しみもなく、幸いと幸せに満ちた、そのような世になることを祈ります。すべての人々が神を知り、信じ、頼って生きる主なる神の王国になることを祈ります。しかし、現実はそうでないため、私たちは御国が一日も早く到来するように神に祈り求めて生きなければならないでしょう。まことの神の国はイエス·キリストが再び来られる再臨の日に完成すると言われます。しかし、私たちは、その時がいつなのか分かりません。聖書には、ただ「父だけがご存じである。」と書いてあるだけです。しかし、その日は盗人のように不意にやってくるでしょう。その日が来れば、私たち皆が真の平安と幸せを享受することが出来るでしょう。その日を待ち望みつつ祈り、現在を生きていきたいと思います。 2. 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。 イエスは、その次に神の御心が天において成し遂げられたように、地においても成し遂げられることを祈られます。「御心が天において成し遂げられる。」とは、どういう意味でしょうか? ここでの「天」は、先ほどと違って御国を意味する表現です。(しかし、同じく神の権能と関りがある。)「御国」と「御心」は非常に密接な関りを結んでいます。私は神の国がある特定を場所を意味するのではなく「神のご支配が成し遂げられるすべての状況と場所である」と話しました。「神のご支配が成し遂げられる」とは、言い換えれば「神の御心が成し遂げられる」になるのです。したがって「御国」は神の御心の成就を意味します。神の御心が何か、私たちは明らかにはわかりませんが、少なくともすべてが神のご計画通りに成し遂げられることであるのは分かります。そんな意味として、キリストが遣わされ、この世のすべての罪の問題を解決し、「救い主」になった時、神の御心はすでおおかた成し遂げられたと言えるでしょう。というわけで、イエスは十字架の上で「成し遂げられた。」と言われたわけでしょう。(ヨハネ福音19:30)イエスは罪人の過去、現在、未来のすべての罪を解決し、罪と死の権勢に永遠に勝利することで、神の御心を成し遂げられました。これを「御心が天において成し遂げられた。」と表現することが出来るでしょう。 ただし、神のご計画によって、まだ私たちが生きている、この世では神の御心が成し遂げられていないように見える時もあります。まだ戦争があり、憎しみがあり、悲しみがあります。しかし、それらすべては神のコントロールのもとにあります。神はすでに罪と死の権勢に勝利されました。また、神は、ご計画に従ってイエス·キリストを通して、この世から悪を処断し、神の完全なご支配を完成していかれるでしょう。御国と御心はすでに成し遂げられていますが、私たちが生きているこの世では、まだ、その姿を完全に現わしていないだけです。天において成し遂げられた主の御心は、いつか、私たちが生きる地においても必ず成し遂げられるでしょう。したがって、私たちは「すでに」と「まだ」の間に生きている存在です。神はこの地にあって、すでに成し遂げられた御国と御心を、その民である教会が現わして生きることを望んでおられます。神がこの世を愛されたように、教会もこの世の回復のために仕え、神がこの世を憐れんでおられるように、教会もこの世に支えて生きるべきなのです。イエスは神が天において、すでに成し遂げられた御心を、主の民である教会によって、地(この世)においても、成し遂げられることを望んでおられるのです。ですので、教会は神の御心を大事にし、祈りと実践によって生きるべきであります。 3.教会は御国と御心の成就を待ち望む共同体。 先週の水曜日、私たちの大事な姉妹が精神的、肉体的な痛みを訴えて入院することになりました。姉妹が信仰によって成長することを願い、熟慮して会計の奉仕をお願いしたのですが、むしろ、それが姉妹に大きなストレスになってしまったようです。姉妹の状態にあらかじめ気づいていなかったこと、配慮しなかったことに大きな責任を感じます。姉妹にとって、志免教会が御国と御心を伝える共同体になれなかったと思わされ、すごく心が痛いです。しかし、私たちはそれにもかかわらず、主なる神が志免教会と姉妹の人生を憐れんでくださり、今までと同じように、これからも見守ってくださることを信じます。 そして、いつか主によって姉妹が回復し、笑顔でまた再会することを信じます。今はたとえ挫折し、絶望しようとも、変わらず神が主の御心を成し遂げ、御国を来たらせてくださると信じます。それが志免教会の唯一の希望だと思います。だから、私たちは今日も主イエスのように祈らなければなりません。「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」その信仰によって祈る時、御国と御心の成就を待ち望んで生きる時、神は主イエス•キリストによって私たちに答えてくださると信じます。 締め括り 先週の説教と今日の説教に取り上げた主の祈りの部分をもう一度読んでみます。「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」このように主イエスの祈りは神への讃美と栄光を帰す言葉から始まります。その後はじめて「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」と私たちのための祈りを始めるのです。私たちは普段「ご在天の父なる神様、主の御名を讃美します。」のような、慣用句的な表現を語り、すぐに自分の願いを言い出す場合が多いです。私たちはただ主の栄光だけを思って、長く祈ったことがありますでしょうか? 私自身も会心して、神のもとに戻ってきた時以外はほとんど、そのような祈りはしていないような気がします。私たちの祈りの半分を神への讃美と感謝だけで祈ることができる信仰を願います。もちろん教会での公の祈りの時は無理かもしれませんが、少なくとも一人で祈る時は、時々そのような祈り方が出来たら幸いです。それが私たちの主イエス・キリストの祈り方だったからです。主の祈りの方法を見習って神への讃美と感謝と栄光を帰す祈りをしていく志免教会の兄弟姉妹であることを祈り願います。