主イエスの祈り(2)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 祈りは、キリスト教において、最も重要な信仰の行為の 1 つです。しかし「信仰」より「行為」のほうに集中したあまり、立派な文章の祈りをしなければならないという強迫観念にとらわれやすいと思います。しかし、イエスは言われました。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」祈りは人に見せるための行為ではなく「神と私」という両者の対話なのです。静かに祈っても、奥まった部屋で声をあげて祈っても、歩きながら祈っても、体調不良の時は横になって祈っても、どんな形で祈っても大丈夫です。形式ではなく、祈る時の真心が大事です。祈りは明確かつ人格的にする必要があります。祈りは呪文でも、お経でもありません。祈りは神との対話です。神に「率直、淡白、明確」に祈り、聖書や説教を通じて、主の御心が何かを注意深考え、お答えを求めるべきです。「人の真心の祈りと聖書と説教による神のお答え。」それが祈りによって神と対話する祈り方です。以上が前回の説教で皆さんと分かち合った内容でした。今日は、その祈りの最も完璧な見本である主の祈りについて考えてみましょう。 1. 天におられる私の父よ。 主の祈りは「天におられる私の父よ」という文章から始まります。神は天におられる方です。しかし、天は空を意味する言葉ではありません。聖書にも空ではなく、天と記されています。聖書での天は人間が生きる、この世をはるかに越える絶対的な神の権能を意味する場合が多いです。つまり、天の神は人間が近づくことのできない権能を持っておられる絶対的な存在という意味です。ところで、主の祈りは、すぐその後に「私の父よ」と語ります。人間が絶対に近づくことのできない絶対的な存在が、誰でもない「私たちの父である」ということです。皆さん。父なる神は、私たちのお父さんです。イエスはヨハネによる福音書20章17節でこのように言われました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」私たちを救ってくださったイエス·キリストがご自分で、主イエスの父なる神が、すなわち主の民の父でもあると言われたわけです。私たちがイエス·キリストを私たちの救い主と呼ぶことが出来る理由は、罪によって父と呼ぶことが出来ないイエス·キリストの父なる神を、キリストの救いによって「私の父よ」と呼べるようになったからです。 祈りは「父なる神」にするものです。時々、私たちはイエスや聖霊、あるいは神という言葉で区別なしに祈ったりします。しかし、基本的に祈りは「父なる神」にするものです。私たちの「素直、淡白、明確」な祈りを「聖霊なる神のお導きに従って、イエス·キリストの御名によって、父なる神に」するのです。この世の創造を計画し、御子と聖霊と共に創造を成し遂げられた父なる神にするのです。罪人の救いを計画し、御子の十字架の贖いと聖霊のお導きを通して御救いを成し遂げられた父なる神にするのです。すべてを計画される方に神とこの世を執りなしてくださる御子イエス·キリストの御名のみによって、聖霊のお助けによってするということです。もちろん、イエスや聖霊に祈っても問題はないでしょう。まとめて神に祈っても良いでしょう。そのような祈りも父なる神が聞いてくださるでしょう。しかし、イエスは父なる神に祈りなさいと言われました。三位一体のどの位格に祈っても、父なる神への祈りが基本である事実は覚えて祈りましょう。私たちは全能の神を父と呼ぶ存在です。私たちは一人ぼっちではなく、偉大な神の子供として生きているのです。だから、堂々と父なる神に祈りながらこの世を生きることができるのです。 2. 御名が崇められますように。 聖書の背景となる古代中東世界において「名前」は現代人が考える以上の重い意味を持っていました。もちろん、現代の私たちの名前も両親や家族が大事な意味を込めて付けてくれたでしょう。しかし、昔の新旧約時代の名前はそれ以上の意味を持っていたと言われます。その中でも、神の御名は、さらに特別で、律法学者たちは旧約聖書を書き写す時、その御名を一字一字記録する度に体をきれいに洗ったり、その名前を呼ぶことを控え、音なく口だけぱくぱくしたりしたと言われます。神の御名を呼ぶことを大きな失礼だと思い「アドナイ(私の主、ヘブライ語)」という別の表現を使ったりもしました。神の御名は神の存在そのものとされていたからです。したがって、神の御名が崇められるということは、ひとえに神だけがこの世のすべての上におられ、最も神聖な存在として確実に聖別されることを望むということです。私たちの祈りにおいて、自分の願いを求める前に、神をほめたたえ、礼拝し、特別に聖別して、神に栄光を帰すことを先に祈るべきということです。 この世界は、三位一体なる神によって創造されました。しかし、この世界は神を尊重することも、尊敬することも、信じることもしていません。もともと「神」という表現は、この世を創造された三位一体なる神にのみ使えるべき聖別された名称ですが、どこの文化圏に行っても「神」と呼ばれる偶像は存在しています。そして、多くの人はその偽物の神を本物の神として拝んで生きています。あるいは、他のどんな存在でもなく、自分自身が神のようになって自己中心的に生きる人もいます。したがって、この世は「イスラエルの神、三位一体なる神、真の神」を無視し、冒涜し、神を認めないつつあるのです。キリスト者は、このような世にあって「真の神」を憶え、その方の御名だけを聖別し、讃美と礼拝をささげることを求めて祈らなければなりません。神を自分より優先にし、自分の必要はその後にして、私たちの祈りの優先順位が「自分の欲望」ではなく「神の栄光」になるように、祈る時、気をつけるべきです。御名が崇められるよう祈るということは、神を最優先する信仰を表すものです。私たちの祈りはどうなっているでしょうか。神の御名が先に崇めれらる信仰であるように祈ります。 締め括り イエスは主の祈りを通して、まずは、神の栄光のために祈られました。今、自分の状況がどうであれ、まず神の栄光のために祈るべきであると教えてくださったのです。私たちは、祈りを神に何かを頼んだり求めたりするものだと思いがちです。だから「何かをしてください」というふうに言ってしまいます。もちろん、私たちは神の子供なので、真の父である神に必要なことを求めるのが当たり前だと思います。しかし、時には神に「感謝と讃美と栄光を帰す祈り」もささげたいと思います。両親に「お菓子買ってくれ、買ってくれないと泣いちゃうよ」と甘えばかりしていた子供が立派に育ち「お母さん、お父さん、いつも元気でいてくれ。幸せに生きてくれ。私頑張るから」と言うと、両親はどれほど大喜びで幸せになるでしょうか? 神にも「主なる神の栄光のために、御心が成し遂げられるように、御国が到来するように」と、立派に成長した信仰者としての祈りを捧げることができればどれほど神に喜ばれるでしょうか?毎週唱える主の祈りの時に、その意味を深く考えて私たちの祈りの見本として祈っていくことを願います。