幸いである。(4)
イザヤ書32章17節 (旧1112頁) マタイによる福音書5章3~12節(新6頁) 前置き 今日は「幸いである。」の最後の説教を話してみましょう。 私たちはここ 4 週間「幸い」について学んでいます。日本語の聖書には「幸い」と書いてありますが、中国語や韓国語の聖書を見ると、この幸いが「福」と書いてあります。原文に近い表現は「幸い」より「福」のほうが正しいと思います。私たちは、この「福」という漢字語を見ながら、どんなイメージが思い浮かんでくるでしょうか? 幸福、祝福など「幸せ」としての意味が真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか。しかし、前の3回の説教を通して神がくださる福は、単純にこの世での幸せだけを意味するものではないということが分かりました。私は山上の垂訓でイエスが語られた幸いが「神が私たちを離れならないで永遠に共におられ、私たちを導いてくださること」だとお話ししました。神の幸いは、世の幸いとは異なります。この世だけでなく、来るべき新しい世(天の国、再臨の日)でも、神が私たちの主になってくださり、私たちと共におられ、守ってくださるのです。財力でも、権力でも、死でも切ることのできない、神と私たちの永遠の関係、イエス·キリストが語られた幸いとは、私たちがいつどこにいても私たちに与えられる、主なる神との永遠な付き合いと歩みの幸いであるのです。 1. 平和を実現する者は幸いである 七つ目の幸いは、平和を実現する者に与えられる幸いです。私たちは戦争と破壊、葛藤と対立の世界を生きています。日本も約80年前は戦争をしていました。戦争と破壊は依然として私たちの近場にあり、大勢の人々が苦しんでいます。このような世の中で私たちは真の平和を念願するようになります。ところで、平和とは何でしょうか? 明らかなことは、平和とは、単純に戦争と破壊、葛藤と対立がない状態だけを意味するものではないということです。ヘブライ語で平和を意味する「シャローム」は「安全である。満ちている。完全である」などを意味する『サラーム』に由来した言葉です。私はそれらの中で最も大事な言葉が「完全である」だと思います。完全な時にはじめて、安全になり、満たされることができるからです。それでは、完全さとは何でしょうか。私は、その原型を、神の創造から見つけたいと思います。真の完全さ「シャローム」は、神の創造世界が、まだ人間の罪によって汚されていない創造直後の姿に現れます。しかし、人間の罪が世の中に入ってき、それによって神の創造の世界に戦争と破壊、葛藤と対立とが生まれました。 神が世界の創造を終えられた時、この世をご覧になって「極めて良かった」(創1:31)と喜ばれました。すべてが完全であり、苦しみも悲しみも戦いも嘆きもない、この上ない完全な世界だったのです。神はその完全な世界を治めさせるために人間を造られました。人間は創造の世界で、神との平和(シャローム)の内に生きるだけで結構だったのです。しかし、人間はその平和に満足せず、神の玉座を貪ってしまいました。結局、人間は神の命令に逆らって、自ら神になろうとしました。その背反が人間の罪となり、その罪によって、完全な創造の世界に罪が入ってくるようになりました。そうして始まった人間の罪は葛藤と対立をもたらし、それによってこの世には戦争と破壊が満ち溢れるようになったのです。誰も戦わず、憎まず、殺さなくても、みんなが幸せに生きられるはずの神の創造の世界は、人間の罪によって平和が消え去り、阿鼻叫喚の世界になってしまったのです。真の平和とは、単に戦わずに仲良く過ごすことだけを意味するものではありません。神が創造を終えられた、その時の神による完全さ、恵みに満ちている状態、神のみ言葉通りにすべてが成し遂げられる状態こそが、真の平和の状態なのです。そんな状態では、戦争、苦しみ、悲しみがありえないからです。 平和を実現する者とは、神の創造の摂理がありのままに成し遂げられることを望む人を意味します。神が創世記で「極めて良かった」と言われた堕落していない人間の姿のように、罪を拒否し、神と隣人を愛し、神の御言葉に従い、神の御心が成し遂げられることを望みつつ生きる生き方から、私たち平和は始まるのです。主イエスが敵をも愛しなさいと言われたように、自分の嫌いな人でさえ、愛し、主が互いに助けあいなさいと言われたように、互に力になりあって生き、主が忍耐しなさいと言われたように、怒らず忍耐し、相手を理解しようとする生き方から、私たちの小さな平和は始まるのです。キリスト者一人一人の小さい平和の実践から、世界が変わっていくのです。聖書は、イエスこそ平和であると語っています。なぜなら、イエスは神の御言葉に反抗せず、完全に聞き従い、神の御心が成し遂げられることを願い、ご自分のすべてを捧げたからです。そのイエスの犠牲により、互いに赦しあわせる聖霊の導きがもたらされたからです。そのような主イエスの生き方にならおうとする時に、私たちにも小さな平和が生まれてくるでしょう。今日の本文は、平和を実現する者が、神の子と呼ばれるだろうと語っています。私たちが本当に神の子と呼ばれる存在なら、私たちは、まず神の御言葉に従うことで、私たちの中にキリスト・イエスによってよみがえった創造の完全さが生き生きと動いていることを証明すべきです。 2. 義のために迫害される者は幸いである。 「幸いである」の2回目の説教で、私はすでに6節の「義に飢え渇く者は幸いである」について話しました。その時、私は聖書が語る「義、正しさ」について、このように定義しました。「神が約束されたことを忠実に成し遂げてくださること。」つまり、聖書が語る義とは「神の約束どおりにご自分の御心を成し遂げていかれること」を意味します。聖書が語る義は、神という主語によって生まれるものです。神の義でなければ、この世に本当の「義」はないということです。今日の本文の言葉は、このように言い換えることができると思います。「神がご自分の約束どおりに主の御心を成し遂げられることのために迫害を受ける者は幸いである。」神はアブラハムの子孫を通して、この世に救いをくださると約束されました。そして、私たちはその子孫がイエス・キリストであると信じています。この世は罪に満ちており、神に逆らう人々が大多数の状態です。そんな世界であるにも関わらず、聖書に記録された主の言葉(約束)が、主の御心のままに成し遂げられることを願って、主イエスを愛し、主イエスだけに仕えながら生きて迫害を受けようとする者たちは幸いであるということです。朝鮮が日本帝国の植民地だった時代、韓国には「チュ·ギチョル」という牧師がいました。彼は朝鮮長老派の牧師で、日本帝国の弾圧にも屈せず、最後まで神社参拝に反対し、イエス・キリストへの信仰を堅く守ることで、投獄され、殉教しました。 彼は、神の約束の実現である「救い主イエス」だけが自分の王であると告白し、絶対に神社参拝をしませんでした。神の約束を信じたため、迫害の中でも自分の信仰を捨てなかったわけです。そして、その結果は、獄中の殉教でした。残念なことは、その時代に日本と朝鮮に神社参拝に加担して主を裏切った牧師たちがあまりにも多かったということです。ところが、その当時の牧師たちが悪かったと悪口する必要はありません。彼らではなく、私たち自身を顧みるべきです。そんな時代を生きていたら、自分自身は神社参拝に反対して殉教することが出来るだろうかと考えてみましょう。正直に言って、私は簡単に自信があるとは言えません。皆さんはいかがでしょうか? 神との約束の実現、イエス·キリストへの信仰のために、皆さんは自分の命をあきらめることができますでしょうか? 私たちに与えられた最も大事な「義」とは、まさにイエス·キリストを自分の主として何があっても信じることです。そして、私たちに求められる迫害への対応は、イエスのために自分自身の生命をも惜しまないことです。世の人々がローマ皇帝を、天皇を王としても、私たちだけは主への信仰により「私の唯一の王はただおひとりイエス·キリストだけだ。」と死ななければならないのなら、死ぬ覚悟で主に従うのです。それが義のために迫害を受ける者のあり方なのです。 私たちの信仰が銃と剣に屈して、倒れやすい砂の上に建てられた家のようなものでないことを願います。キリスト・イエスという岩の上に建てられた家のように、神への信仰を堅く守っていくことを願います。今日の本文は、そのような人が「天の国を所有する」と語っています。そして、天の国とは、前の説教でも申し上げたように、私たちがどこにいようとも、主が私たちと永遠に歩んでくださり、私たちを助けて導いてくださることです。(場所ではなく、状態)私たちは果たして義のために迫害を受ける人生を生きているでしょうか? 近所の人の目が気になって、キリスト者であることを隠したり、家族の顔色をうかがって消極的に信仰生活をしているのではないでしょうか? もちろん、伝道を強いることは控えた方が良いと思います。しかし、自分の信仰を恥じ、隠すことは望ましくありません。神もそんな者を喜ばれないからです。志免教会の兄弟姉妹が、主イエス·キリストへの恥じのない信仰により、義のために受ける迫害を恐れない方々であることを願います。そのような者たちが幸いな者であり、天の国を所有する者であると本文は教えています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(11-12) 締め括り 今日は、八つの幸いの中の最後の二つの幸い、平和を実現する者、義のために迫害を受ける者の幸いについて、お話しました。平和と義は非常に密接な関係です。イザヤ書にこんな言葉があります。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。」(イザヤ32:17) 神の義が守られなければ、真の平和も到来しないとのことです。平和と義が八つの幸いの最後に一緒に書いてある理由は、平和と義との密接な関係を表すためだと思います。神の義でおられるイエス·キリストを堅く信じる時、真の平和が私たちにもたらされることを信じて生きることを願います。今日で八つの幸いの説教は終わりです。ご帰宅なさって、お時間のよろしい時に、八つの幸いの言葉をお一人で静かに読んでいただければ幸いです。 キリストにならい、神に幸いをいただく志免教会であることを祈り願います。